なぜ、ネットでひとは「キャラ化」するのか?
「場所」論―ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム (叢書コムニス08)
(2008/12/22)
丸田 一
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インターネットが今後、どのように進化していくのかについての関心は高まり続けている。
そうした中で重要なのは、ハイデッガーが述べたように、情報をただ曖昧に受け止めて、垂れ流していくことではない。
「滞在喪失しないこと」である。
そのためには、近未来的な予測を立てつつ、やはりウェブ社会の一員として生きていかねばならない。
本書、『「場所」論』は、ウェブを「新しい場所」として提示し、示唆深い考えを進めている。
以下に、現段階で私がまとめたことを記録しておく。
1 「速度的存在」
これまでの主体の有り方は、存在論的に「現―有」としてあったわけだが、サイバーパンクの古典『ニューロマンサー』の実現化が現実のものになり始めている現代においては、むしろヴィリリオがいった、「速度的存在(速度―有)」として考えねばならないという。
和田伸一郎の『存在論的メディア論』などでも、こうした「
速度
」と「
存在
」をめぐるテーマが考察されている、ということを筆者は特筆している。
これは既にハイデッガーが『ブレーメン講演』で述べていたことだが、要約的にいえば、「距離」が全てバーチャルリアリティによって「遠さ」を奪取されるがゆえに、「存在」それ自体が隠蔽されていく、ということである。
我々は、グーグルアースでニューヨークの知らない街路の朝陽を目にできるけれど、画面では現前していつつ、実際には離れている。
しかし「技術」が、視覚を代理してしまうので、「遠さ」はやはり失われているというわけだ。
こうした、虚構的な「近さ」の台頭を可能にしているのが、技術における「速度」の著しい高速化であり、それは最早、存在論的な自己の有り方の変革をも迫っている、というのである。
2 「場所化する自己」
ネットの「匿名性」が誘発するデメリットとしては、日本でも高いアクセス数を誇る「2ch」などに見られる巨大掲示板群の「メディアリテラシー」の低下が指摘されている、ということは誰もが知っている。
しかし、根本的に、何故「2ch」のリテラシーが低下するのか、という現象の究明に認識論的に迫った研究者はそういない。
本書では、その解決とまではいわないにせよ、間違いなく「展望」を提示しているので、特に私は注目した。
それを考える上で、重要になってくるのが、世界各地に共通して見受けられる文化的慣習である「名付け」の問題である。
我々は、自分の名前を両親に決めてもらい、生涯それを名乗る。
自己が、成長と共に自分の個性を持ち始めるが、名前はけして変わらない。
この時の構図を、「自己」=「個性(個人、あるいはキャラクター)」として著者は記している。
これが心理学的に「自分」として認められる、「自我同一性」の基礎である。
しかし、ネット空間では、この構図が変化する。
「自己」=「個性A」
=「個性B」
=「個性C」……
ネットでは、「擬似的名付け」に近い、「
ハンドルネーム
」がある。
自己は様々なサイトで、複数のハンドルネームを用いることが可能であり、これは「自己」による、「キャラクター」の「使い分け、あるいは遷移(すなわちキャラ化)」に近い。
より大きな現実社会における公共空間のレヴェルにまで拡大すると、これはつまり、「それぞれの社会的な場所」に、そのつど「
応じた個性
」を、「
使い分ける
」ということである。
当然、「場所」の数だけ、「自己」は多くの「キャラクター」を持つ。
これを著者は、「
自己=個人
」から、「
自己=場所
」への、新しい主体性の変化として認識している。
実は、この「キャラクターを使い分ける自己」という主体性は、日本では1997年に東浩紀が論文「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(『インターコミュニケーション』誌)でもテーマにしている。
そこでは、こうした新しい主体性が、「インターフェース的主体」という言葉で語られている。
例えば、山口絵梨という女性がいるとしよう。
彼女は大学生であり、レストランで仕事をしている。
大学で授業を受けている時の「個性」と、レストランでウェイトレスとして働いている時の「個性」は無論、異なる。
それは、「自己」が、その「場所」にそれぞれ適応して、新しい「個性」を演じている証左に他ならない。
彼女はネットでは、「魔女エリー」という「ハンドルネーム(個性)」を持っている。
この「魔女エリー」も、やはり山口絵梨の「場所化した個性の一つ」であり、彼女の自己を構成している、というわけだ。
こういった「新しい主体性」についてのモデルは、平野啓一郎の『ドーン』でも紹介されている。
私が思うに、2chの倫理性の低下は、「匿名性」であることにある。
匿名性によって、「
責任
」能力が不特定多数のユーザーへと分散、分有されることによって、過激な発言や中傷を容認してしまう、負の構造が再生産されていく。
それは要するに、現実世界では常識人としての「個性」をもっいている人間の、ストレス発散の場として、2chが「悪口を言いやすい個性」を、その主体に与えている、用意している、ということに他ならない。
2chには無論、有益な情報が存在している。
今、私が考えるのは、ネット空間においても、自分自身に「変わらないハンドルネーム」、いわば「
ベースのキャラ
」を与える、ということである。
そうすることで、複数のハンドルを使って、「自分を見失う」というような状態は回避される。
ネット空間も、現実世界と同じく「公共圏」であり、そうである以上は、「キャラ化」を容認しつつ、その「キャラ」に、「
高いメディアリテラシー
」を与えること、持たせることも重要な課題だと私は主張する。
この辺りの考えは、著者に見受けられなかったが、今後、「自分を喪失せずに」、ネットを利用する上で、「
ネット市民としての個性
」を持つ、ということは当然のことながら重要になってくる。
3 「アウラの喪失」
これは宗教的な、あるいはスピリチュアルなテーマともリンクするが、ベンヤミンは「複製技術の発達によって、
アウラ(aura/礼拝的価値を持つ一回性の神秘性)
が喪われ始めた、と述べている。
ウェブ空間では、平易に「コピーペースト」されてしまうので、そして貴重な情報といえども「即座に」手に入ってしまうので、いわば「神秘的な一回性の価値」が、大切なものとして感じにくくなっているのである。
こうしたことを、「アウラの喪失」とベンヤミンは述べていたが、著者は、最早そうしたことが喪失されている現象すら知らない、忘れている、という状況であるので、「
アウラの喪失の喪失
」に等しい、と述べている。
アウラの喪失を代替するかのように発生するのは、「擬似アウラ」の産出である。
その一つの経験的な一例が、私が高校時代にしたことのあるゲーム『SILENT HILL3』である。
このゲームをプレイしていた時、私はゲーム内部の仮想的な音楽ショップに入ったときの「リアリティー」を未だに覚えている。
当時の私にとって、それは一つの神秘ですらあった。
プレイヤーを通じて、私がこの世界に実際に「存在している」のような感覚を与えられたのである。
これこそが、「擬似アウラ」の本質である。
つまり、我々が普段何気なく行っているリアルの空間も、ひとたび技術によって代理的な表象を受けると、奇妙にもスリルを感じるのだ。
それは、リアリティーを持っているが、実際には平面的な画像に過ぎない。
しかし我々はここにおいて、何らかの面白みを確かに感じているのであり、いわば「アウラ」が、「擬似アウラ」を通して、急迫していると見ることも可能なのである。
4 「ヘテロトピアを生き抜く新しい主体の時代」
現代のインターネットの特徴は、存在論的にいえば以下の三つである。
・インターフェース的存在者(ハンドルネームによるキャラ化した主体)
・複製容易化された技術(コピー&ペーストによる思考の麻痺化)
・同位性(そこに、今、存在しているという感覚。換言すれば、アウラの創造によるリアリティーの実現)
この三つである。
こうした状況は、ウェブ2・0である現代から150年後の未来になっても、より深化された状態で問題視されていると私は考える。
「場所」論の作者は、ここでもうひとつの特質をあげている。
それは、本書のテーマでもあるが、「存在論的不安」の核心としての、「atopia(アトピア)」である。
アトピアとは、故郷を喪失することを意味する。
インターネットの中ですら、自分らしい居場所を見出せない主体の時代が現代である。
これは、都市及びウェブが、共にヘテロトピア(混在郷)化しているという現象から考えられている。
ヘテロトピア化した社会の中で、我々は帰るべき真の故郷を失った状態と化しているのだ。
「自己=場所」へとシフトした現代にとって、この「居場所の不在」は問題的である。
著者は、ここで「記憶としての故郷」の重要性を述べている。
たとえ、幼年時代に遊んだ公園や川べりが壊され、埋め立てられてしまっても、そこの「記憶」は残っている。
「記憶とは、常に<場所>の記憶である」というのは、筆者の強いメッセージである。
インターネットの中には数知れないサイトが存在し、我々はそこで居場所を見出そうとして同じ趣味を持つひとを探すが、「真の居場所」にはなりえない。
それはウェブがヘテロトピアとして、上述の三つの特質を具現化しているためである。
重要なのは、「基調的な個人」を持つことと、それを使ってネット社会をツールとして応用することである。
「記憶としての故郷」とは、「仮想化しきれない残余」であり、「自己=場所」の時代における、故郷なのだ。
来るべきアトピアの時代の課題は、リアル、ネット、その双方で、それぞれの「居場所」を見つけ出し、相互に交通していくことなのかもしれない。