1 資本主義の起源は、カルヴァン派のプロテスタンティズムである(ヴェーバー)
資本主義は、宗教から完全に独立しているのだろうか。
マックス・ヴェーバーによれば、資本主義の原型は、カルヴァン派の予定説であり、プロテスタンティズムである。
我々は、宗教と資本主義が、何か別物であるかのように感じていたのではないだろうか。
しかし、実は資本主義は、キリスト教が「世俗化」した形式だと社会学的には考えられている。
世俗化とは、すなわちカントが登場して神学を解体してから起き始めた「近代化」のプロセスと一致する。
キリスト教の世俗化=近代化によって、資本主義が到来したのだ。
宗教は、社会の中の、一部のひとだけが信じている閉鎖的な世界ではない。
タルコット・パーソンズによれば、「社会それ自体が宗教現象である」。
日本を代表する現代の社会学者である大澤真幸によれば、現在起きている世俗的な「スピリチュアリズム」は、精神分析学でいうところの「抑圧されたものの回帰」(フロイト)として把握されており、「脱世俗化」の時代に属すると位置付けられている。
9・11のようなイスラム教原理主義、オウム真理教による破壊的な事件も、この「抑圧されたものの回帰」として捉えることができるという。
前近代的な宗教的な結束も、現代では差別的な目で見られることも多い。
そういう反動が、現代に破壊的な出来事として生起していると見ることもできる。
スピリチュアリズムや、プチ・カルト的な「キャラクター崇拝」なども、宗教現象として見れば、近代以前に遡行していると捉えることができる。
技術の進歩とは別に、現代人の心性は依然として「聖なるもの」を欲しているのだ。
この記録は、大澤氏の卓越した社会学的な宗教論『現代宗教意識論』についての読書記録である。
彼はその中の注釈で、カール・シュミットの「近代国家論の全ての概念は、神学概念である」という言葉を引用している。
シュミットによれば、「政治」というのは全て、「神学」に由来する。
これは、ヴェーバーが資本主義の原形態をカルヴァン派の予定説に認めた点と類比的に考えるべきテーマである。
そもそも、以前私が読んだジョン・ロックの『統治論』は、政治学の古典として名高いが、使われている言葉のほとんどが、「アダム」や「キリスト」などの、聖書のキータームなのである。
現代の政治は、それが資本主義モデルの場合、キリスト教の組織論や救済論を原型として持っている、と考えることができる。
実際、選挙演説における「国民の皆様のために~」という一連のよくあるフレーズは、「全ての迷える子羊のために~」という司祭の説教の政治的次元での再現前化であるとみなすこともできよう。
2 宗教の原体験としての、超越的他者との「性愛」
大澤の「宗教」の定義は、簡潔かつ的を射ている。
「一連の諸行為が、超越的他者の存在を前提にしていると見なし得るとき、そこには、宗教がある」
この定義は、これまで私が読んできた全ての宗教概念の中で、最も判り易い。
大澤は、本書『現代宗教意識論』の最初の基礎的な章のところで、極めて興味深いテーマを幾つも取り上げている。
それら全てが重要な考察の機会を孕んでおり、示唆深い。
例えば、大澤は「性愛」が「宗教」の原型としてあったのではないか、という仮説を提示する。
これは実はバタイユが『エロティシズム』の中で語った、「エロスは聖なるものから迸る」といったコンテキストに見られる考えと通低しているように見える。
例えば、「キス」を例にすると、判り易い。
今、ある男性が女性とキスする時、彼には彼女が何を感じているのか完全には判らない。
眼差しや頬の紅潮などで、気分の高まりを感じることはできるが、それでも彼女はあくまで「他者」である。
この他者、それも性別も考え方も民族も年齢も宗教も異なる「他者」の場合、主体との差異は大きく感じられる。
大澤は、他者の身体を、「私とは異なる独自の宇宙に属する身体」と定義した上で、「超越」とは、「他者」が「聖化」されたものであるという。
これが、宗教のプロトタイプだというのだ。
ナグ・ハマディ文書の『シェームの釈義』によれば、世界創造は男神と女神のセックスというプロセスを通じて形成される。
創造論は、神話的なコードに還元すると、不可避的にエロティシズムに達するのだ。
大澤が注目しているのは、創世記に見られる有名な「ヤコブと天使の戦い」である。
ヤコブは周知のとおり、暗闇で正体不明の男と格闘したが、戦った後で、彼から祝福を受け、自分が神と格闘していた事実を知る。
その時、ヤコブは神の「顔」を見たのに死ななかったことを感謝し、その土地の街を「ペニエル(神の顔)」と名付けた。
この挿話はそれ自体でユニークであるが、重要なのは、ヤコブが神という超越的な「他者」と、触れ合っている点だ。
ここには、まぎれもなく、「他者」という超越の急迫が描かれている。
格闘であれ、性愛であれ、「他者」は「自己」に急迫してくる。
このような経験の聖化された形式が、「神」だとされる。
すなわち、神とは、「他者の転態した帰結である」といわれるのである。
このように、宗教の原体験には、主体による強烈な「他者体験」が由来していると考えられる。
ヤコブの信仰は、神と肌を重ねることから生起しているのである。
こうして、キリスト教が「神」という超越を、ただ「自己の外部」に設定したものであるだけでなく、実は「自己の内部」の意識の働きによって出会いうるものであるという側面も湧出してくる。
私はこれまで、仏教が「内在性の宗教」で、キリスト教が「外在性の宗教」だと認識していた。
そして、これは確かに一面では正しかったようである。
しかし、実際にはキリスト教神秘主義の流れ、及びウィリアム・ジェイムズが述べていたような「敬虔主義的ヒューマニズム」に属するカトリック、及びプロテスタントには、「個人的な宗教」という側面が強い。
キリスト教は、「外在性」だけでなく、「内在性」においても、「神」に達することができるような宗教だというわけだ。
3 「宗教法人」というRPGに存在する「教祖」というキャラクターについて
大澤の射程圏域は広い。
彼は、ピンクハウスのファッションに見られるモードと「信仰」の形態についても考察している。
ピンクハウスは、周知のとおり、やや漫画的なシンデレラを誇張的にスタイル化したきらいのあるファッションブランドである。
このブランドのファンを、ピンキーというそうだ。
ピンキーは娘にもピンクハウスの服を着せることがあるという。
ピンキーは、自分がその服に似合うかどうかになど関心が無い。
彼女たちは、ピンクハウスがひたすら好きで、愛しているのである。
だから、「似合う、似合わない」のではなく、「信仰があるか、ないか」なのだ。
彼女たちは、自分という主体を、「ピンクハウス化」させ、いうなれば「キャラ化」させた自己を愉しんでいるのである。
これは、大澤がいうには、コスプレによる「キャラ化」と類比的に考えられる現象だという。
ピンキーの衣装へのありかたには、宗教的な拘束力が働いているような気配を感じる。
ここでテーマとして浮かぶのは、「キャラ化」という、『「場所」論』の著者が指摘していた現代社会を知るキーワードの三つのうちの、一つである。
キャラ化とは、「場所」によって、複数の「個性」を使い分けるウェブ2・0に属する現代に特徴的な現象である。
キャラは、「場」から生まれてくる。
ピンキーも無論、「キャラ化」であり、彼女たちは実社会で働いている時にも、ピンキーなわけではない。
やはり、「場」によって使い分けるのである。
大澤のユニークな点は、宗教法人に存在する「教祖」の存在と、こうした「キャラ化」を並行して論じられるマクロな視点である。
宗教法人には、往々にして「教祖」が存在する。
彼、ないし彼女は、何らかの「啓示」や「悟り」に達している、とされている。
例にあがっているオウム真理教の教祖である麻原も、自分を「シヴァ神の化身」であり、「最終解脱者」と確信していた。
そして、事件後に彼の「悟り」がメディアから批判された。
だが、実はこれは信徒にとっては、何の問題にもならない。
というのは、信徒は常に「悟ったキャラ」を欲しているからだ。
宗教法人という特有のコミュニティの中で、誰かが「教祖」の役柄を演じなければ、「超越的他者=神」との媒介が果たせない。
「悟っているか否か」は、実は関係ないという逆説がここに存在しているのだ。
「教祖」とは、やはりその「場」における「個性」の一つであり、彼らは往々にして、「自分は~の化身である、生まれ変わりである、~のチャネリングをした、~の声を聴いた」などと主張する。
どれも説得力に著しく欠けるが、実はここで真に問題なのは、「説得的か否か」なのではない。
彼らが自分を「教祖」という「キャラ」に仕立て上げているか、というその深度が重要なのである。
信徒は、ただ「悟ったキャラ」を通して、メッセージを得て、信仰を深めていく。
信徒にとっては、「教祖」は「悟り」に達している「個性」としてあらねばならないのだ。
要するに、「教祖」というのは、実は「宗教法人」という名のRPGにおける、一種の「祭司」の役割を果たす「キャラクター」なのだ。
これについて、大澤はナチスの指導者であったヒトラーが、第一次世界大戦で戦死した英雄たちの声を具現化したことを付記する。
ヒトラーは、「英霊の声」を具体化していく、「生ける死者」というキャラクターを担うのである。
実際、ヒトラーはゲルマン神話を再演したとされているし、神話によって「政治」を虚構化したのがナチズムの本質であると考えられている。(ラクーラバルト)
カリスマと認識される人間には、実はこうした主体の「キャラ化」が、その「場」に即して演出されている、ということがいえるのである。
それは一種の、「俳優」なのだ。
昨今よく耳にする、「カリスマ美容師」や、「カリスマ主婦」といった表現も、一種のスピリチュアルな文脈で考えると興味深い。
大澤によれば、「カリスマ」とは、本来的に聖なるものであり、高い「キャラ化」を遂げた人物であるが、後続する「主婦」とか、「美容師」は、いわば世俗的な職業である。
「カリスマ」は、このような世俗的なものと結合することで、広くメディアに効果的な演出がなされるというわけだ。