中世ヨーロッパの精神的基層

P・ルーセの学説に拠れば、中世人の情動性は、近現代人よりも激し易かったといわれている。
いつまでも子供期を脱していない動物的な人間集団としての、中世人。
私はここから、中世世界をひとつの「動物の国」として規定する。

ここで重要なのは、古代末期よりfigura diaboli(悪魔の形象)として忌み嫌われてきた「猿」のイメージである。
中世の一般的キリスト教徒にとって、「猿」は「情欲」の象徴的動物であった。
猿は、luxuria(色欲)のイメージ化なのである。

ここで我々が想起したいのは、ボスの絵画である。
ボスは頻繁に人間を「動物化」して描いている。
それは悪魔の形象であるが、頭部に鳥を有し、身体は人間であるような滑稽かつユニークな存在者も描かれている。
私は、ボスが中世の人間のイメージとして、ルーセが把捉したように「動物化」という概念を無意識裡で表出していたのではないか、と推測している。

中世人は、現代人よりもおそらく多くの悪夢に魘された。
自然に対する無知、科学の停滞感が生み出す深刻な不安から、幾多の「悪魔」「悪霊」が姿を現し始める。
中世人の「夢」解釈を知る上で重要な、4世紀に記されたマクロビウスの『スキピオの夢注解』によれば、夢には少なくとも5つの種類が存在する。
これは中世キリスト教神学における「夢」の解釈と考えて良いだろう。

ソムニウム・・・曖昧な予言としての夢
ウィシオ・・・明らかな予言の意味を持った夢
インソムニウム・・・悪夢
ウィスム・・・単なる幻覚、あるいは夢遊病の類
オラクルム・・・神御自身が夢の中に介入する



これらのパターンを読んで我々が理解するのは、この解釈それ自体が「不安」の表れだということである。
我々現代人は、夢をいちいち解釈したりしない。
夢日記を綴っていた経験なら誰もが持つだろうが、それを人生を左右する一大事として決定的に定義するなどというのは稀である。
しかし、「オラクルム」として解釈される夢が存在したように、「夢」は中世の動物的存在者にとって、いわば「未来のお告げ」そのものであった。
彼らは、現実世界を生き、夜に眠りにつくと、そこで「神」と対峙していたのである。
神は、隣人の神秘的な行為や、夜の森の不気味な光などといった「啓示」として到来し、個人の人生の未来的意味を付与する。
これも、中世の人間の本質的な「童子性」「動物性」として規定できる。

中世人は、いたるところに「神」の存在を見て取った。
例えば、「数」である。
以下の数字の象徴的意味は、中世人のあいだで広く流布されていた解釈である。

30・・・既婚女性
60・・・寡婦
100・・・処女



これは、ヴルガータ聖書の作者として名高い聖ヒエロニムスが数に与えた神学的意味であり、数が増すほど良いとされた。

「数」に神学的意味を付与するのは神秘的な所業であるが、この大家としては、我々はやはりフィオーレのヨアキムを引用せねばならない。
この現代も多大な関心を持たれ、賛否両論激しい修道院長は、以下のような数の概念を聖書から抽出したことでも知られている。

・・・神、一者、父
・・・父と子
・・・聖三位一体
・・・五感、五官、ペテロの五つの教会
・・・黙示録における七教会、七つの封印、世界創造期間
12・・・族長の数、使徒の数
150・・・詩篇の数



「数」だけではなく、「身体」、とりわけ「指」にも神学的な意味が与えられたことはユニークである。
シトー会士モリモンのユード(12世紀)は、その著作『数の分析』の中で、手の指に以下のような意味を付与している。

親指・・・聖性
人差し指・・・論証的理性
中指・・・慈愛
薬指・・・改悛
小指・・・信仰、意志



この指の意味を見ると、我々が指を少し蝶のように波立たせるだけで、キリスト教が始まり、そして終わるかのようだ。

ルクレールの規定によれば、12世紀には大きく分けて二種類のキリスト教神学者が存在した。
一方は神学校で学問的に「神学」を学習し、問題を解き、答えを記憶し、知識を蓄えていく現在の教授職に近いタイプで、これを「ペトルス・ロンバルドゥス」タイプという。
他方は、修道院の中で、祈りを優先し、神を希求し、実際に労働しながら神を体験しようとする「クレルヴォーのベルナルドゥス」タイプである。
前者は中世における「スコラ学」の創始であり、後者は「修道院神学」の創始である。

この二大巨星から、中世キリスト教は開始されるのである。

これは、しかし中世のみならず、現代人のキリスト教に対するアプローチとも関連している。
前者タイプの人間は、主として書物や理論、ないし哲学からキリスト教に関心を持ち、結果的に洗礼を受けるというものである。
後者のタイプは、むしろ実生活における内面的な希求が強く、書物からというよりも実質的な生の意志から呼ばれるようなタイプである。
どちらもキリスト教に対するアプローチとしては美しいと我々は考える。
とりわけ、日本のようにキリスト教の土壌が育っていない国家においては、圧倒的にペトルス・ロンバルドゥス的なキリスト者か、その折衷型が多いのではないか。

我々が中世人の聖書の読み方と、現代人のそれを比較する時に覚える愕きがある。
ルクレールは以下のように記している。

「古代と同じく中世においては、人々は現代のように主として目で読むのではなく、見たものを唇で発音しながら語り、発音された語に耳を傾けながら、voces paginarum(書物の声)を聞いたのである」



このテクストは、三度再読する必要がある。
何故なら、実はこれは、デリダの『グラマトロジーについて』の核心と密接に関与しているからだ。
デリダはルソー、イェルムスレウ、レヴィ=ストロースら「音声ロゴス中心主義」を批判して、書記素と音素が実質的には交叉配列状になっているということに想いを馳せていた。
これは、ヴィーコの言語論の帰結と一致している。
デリダは、本書の中のある注釈で、ヴィーコのテクストを引用して、彼が“文字と声はその本質において同じであり、双生児である”という考えを持っていたことを紹介している。
人類は文字を持たない文明を忘れ去り、書かれたもののみに真理が宿ると考えてきた、だからこそ「音声」には起源的な真理が隠されている、というこのパロールの優位に対して、デリダはエクリチュールを復権させようと計画していた。
しかし、ルクレールのこのテクストを読むと、中世人にとっては、例えば詩篇は「朗読」されるにおいて、「声」で発音されると同時に、「文字」で読まれてもいたのである。
それらが同時、すなわち双生児的だったのだ。

この問題は極めて重要である。
例えば、ある中世の修道士が詩篇を朗読する。
何度も何度も朗読するうちに、彼はそれを暗記してくる。
すると、彼が何か書く時に、詩篇の言葉が引用符抜きで引用されるという事態が往々にして生起するであろう。
これこそが、典拠の不確実性である。
つまり、朗読する場合、起源が「声」か「文字」かといった差異は抹消されるのだ。
文字で書かれたものが声として再現前化し、逆に貴重な声が文字に書きとめられる。
すなわち、エクリチュールとパロールはDNAの二重螺旋構造のように、交叉配列的な形状をしていると我々は考えるし、デリダの『グラマトロジー』でも、それを暗示させている。
したがって、現代思想がヴィーコを再評価し始めているのにも、それなりの理由があるということなのだ。

通勤電車の忙しい中、少しでも時間を有効利用するために、我々現代人は「読書」する。
しかし、この時に中世人のように、clara lectio(明瞭に聞き取れる読書)をするわけにはいかない。
我々はたいてい、legere in silentio(沈黙のうちに読む)ことしかしないのである。
沈黙したまま読む時、我々はパロールとエクリチュールの「差異」を意識し易いのではないか。
仮に朗読していた場合、音素と書記素は同時的に把捉されるので、それらは婚姻関係にある。
しかし、沈黙した読書の場合は、声は抑圧されているがゆえに、「文字」が優越してしまっているように感じられるのだ。
これこそが「音声中心主義」化というミステークを生み出した原因だったのではないか。
中世人が、「legere(読むこと)」=「audire(きくこと)」を一致させた朗読としての読書を日常のものとしていたことを鑑みれば、我々は自然とヴィーコの「双生児」の概念にまで到達するように想われるのである。

ルクレールは、エクリチュールについて以下のように考えていたようだ。

「神へと近付き、神から受け取ったものを表現するためには、文字が必要だ」



つまり、このテクストで、世界中で中世論の権威の一人として目されているルクレールは、自身がロンバルドゥス的な読みから神に接近したことを告白しているのである。
しかし、我々はここで、もう一人の重要な中世史家ジャック・ル・ゴフの「聖ドミニコと本」についてのエピソードを紹介せねばならない。
ル・ゴフの挿入したこのエピソードによると、聖ドミニコが本を読みながら橋の上を歩いていると、誤って本を落としてしまった。
三日後拾い上げると、その本は水に濡れてさえおらず、おまけに傷一つなかったという。
このエピソードは、「本」が中世人にとって「財宝」のように高価で価値あるものとして扱われていたことを物語っている。
聖フランチェスコにおいては、「本」は「清貧」に反するとされた。

さて、ルクレールの言説に戻ろう。
彼は、「神に接近するためには文字が必要だ」と断言している。
しかし、これは不十分である。
正確にいえば、「神に接近するためには、他者とのコミュニケーションが必要だ」というべきである。
「文字中心主義」化した神への接近は、一面的である。
だからといって、他者との声による「対話」が「文字」よりも神への接近にとって有効的だというわけではない。
ただ、我々はルクレールの断定的表現を回避するのである。
目と耳が不自由な東京大学の教授福島章氏によると、最も重要なのは身体言語も含めた「他者とのコミュニケーション」である。
したがって、デリダが「声」か「文字」かとあくせくしているのは、彼から見れば滑稽なのでもある。

晩年のボルヘスは視力をほとんど失い、大好きな読書すら不可能になった。
しかし、彼の晩年の講演を映像記録としてみてみると、彼の隣に妻マリア・コダーマが存在していることがわかる。
彼の一歩先の暗闇は、彼女が照らすのである。
彼女という照明は、ボルヘスの歩行を可能にする。
つまり、彼女とボルヘスの「手を繋ぐ」行為こそが、一つの「声」と「文字」に代理可能な「身体言語」なのである。

中世は「暗黒の中世」ばかりが特化され過ぎているきらいがある。
しかし、中世こそは、現代世界の急ぎ足に、どこか落ち着いてノスタルジックなcall boxを用意させるものなのである。
夜の街灯に照らされた、寂しい公衆電話は、中世の動物化された人間たちのマテリアルな心象風景でもあるのだ。