白い蝙蝠

 


 僕がネットの小説投稿サイトで出会った《白い蝙蝠》と、東京で出会ってから4日目、僕は彼女に「協調性の虚しさ」について特殊な教唆を受けもした。彼女の住む街から、わずか二駅ほどの地点にあるビジネスホテル(それは彼女が紹介した)で滞在する為の残金が少ないことを危惧しながらも、僕は文学的討論という名目を借りて「協調性の虚しさ」を厳しく教えられる。

これから僕が綴るのは、彼女が小説投稿サイトに投稿した最後の作品である『落夏』の、いわば迷宮的な構造を添加された裏返し=鏡像である。僕は、今となっては手紙もプレゼントの類も全て燃やし尽くした彼女に、「もう俺はおまえに何も謝罪しないのだ!」と意識の襞ひだをブワッと開闢しつつ、絶叫してみたいと思う。この恐らくはそれ程長くもないショートを、彼女が読みながら、僕に今更のように「吐き気」を憶えることさえ願って。

 《白い蝙蝠》は、『アナルな姉妹の快姦私生活・・・。出前の男たちを引き込んで酒宴大乱交!日課は近親相姦レズフィスト!!』というタイトルを持つ、そのアダルトビデオのパッケージの裏を眺めながら、沈鬱な表情をしている。彼女と僕は今、東京のある街の、ひっそりと人気のない小径に面した黄色の屋根のアダルトビデオ・DVD販売店の内部に存在しているのだ。

一日目、彼女が半ば華美で、女の子らしい可愛さを感じもする服装で身を纏って来たことを、僕は四日目の彼女の平凡で、どこか冷酷な姿とのギャップに、厭になっている。そのビデオは、二人の女が、四人の男とサンドイッチ状態で交接をしているまさにその瞬間の画像を、しっかりとパッケージ裏で宣伝している。泡塗れになりながら、シャワールームで、乳首と乳首を擦り合わせて、かすかに笑っている女たちの隣の画像は、騎乗位の体勢で、下から男に胸を鷲掴みされている、おそらくこの二人の内のどちらかの、険しい眼を細めた般若のような顔だ。

僕が今、まさに手にしている『女子高生ザーメン奴隷2』のパッケージ裏は、中央に制服のまま精液を放たれた少女の、ほとんど顔は半分しか映っていない写真が貼り付けられており、表は両手首を赤い縄で括られた椅子に座る女子高生である。この女子高生は、しかめっ面をし、明らかにカメラの方へ淡い敵意を放っているが、全体的に顔が脂ぎっているようで、ウィンナーの焼き上がった表面の脂を、僕に想起せしめる。

《白い蝙蝠》は、いつしか『近親相姦 息子の淫らな妄想に支配されていく母親』というビデオを両手でしげしげと覗き込んでいて、僕にその素早い手捌きを驚かせた。僕は彼女と同じようにして、『女性の嘔吐 THE LADY'S GERO』を手に取る。パッケージの裏には、おそらくは二度目に飲んだであろう自身の吐瀉物を更に吐いている女性の、風邪気味の小さい苦しみのようなそれなりに苦痛を刻んだ表情が貼付されている。この女は半裸で男に喉の奥を刺激されながら、ひたすら嘔吐を続けているようだ。全60分と記されているが、きっともっと長時間に及ぶものもあるのだろう。

次に手にした『女の子のツバが飲みたい!』というビデオの裏には、全裸になった皺くちゃの老人が、女子高生二人に口腔から唾液を汁のように落としてもらっている写真が、合計四つの視点から撮影されていた。

今、《白い蝙蝠》は『ぐそみるく』というビデオの裏を、やはり亡霊のような眼差しで見つめている。そこには、三人の男に肛門を向けられ、彼等の尻の下で彼等の肛門から出ている黄土色の糞便を舌の上に乗せながら、満面の笑みを浮かべている茶髪の若い女性が映っていた。彼女は活力と希望に満ち溢れたように耀かしく瞳を潤ませ、そのすぐ下の写真では純白のドレスに自らの糞を塗りたくって笑っている。美容液じみて、顔面に糞便を塗り、それを舌先でも舐め取る彼女の、あまりにも幼児的な、元気に溢れた表情に僕は首筋に小さい鳥肌が立つのを感じる。

僕は『大観衆が見つめる中で初めての公開生うんち』の裏を眺めながら、今まさにスパゲッティを食べてきたばかりの、己の胃や腸の内臓的な具合について、多少の気味悪さを憶えもするのだ。
 僕は《白い蝙蝠》にさりげなく、囁いた。
――大江健三郎にはラブレー受け売りのスカトロジィ気質があったけど、こういう店で何かイメェジを掴む訓練をしているのかな。
 彼女は僕の方を振り向きながら、溜息を吐いた。僕は、彼女に嫌われ始めていることを知っていた。それは、二日目くらいから、彼女の死んだ視線を見ていると読み取ることができた。
――さあね。でも、独特だわ。
 僕は彼女が少し微笑を洩らしたので、半ば安心して僕自身、歪な微笑を洩らした。
――この店に置かれたビデオに収められてる、ありとある糞や精液やゲロの類の総量は、きっとあの店長の百倍の容積があるなあ。
 僕は無意味にそういって、自分ひとりで卑屈に笑った。店内には、素晴らしいほど夥しいアダルトビデオたちが、蜂の巣の一つ一つの小さい孔に詰まりこんだ幼虫のように敷き詰められている。それらの総体、純粋に性的な、あるいはまた倒錯的な、結局は購買者の自涜へ変わるであろう、この無機質なフィルムたちの洪水、と僕は心の底でクツクツ摩滅音を立てながら笑うことをする。 

僕らが自殺にまで走れないのは、文学があるからである。僕らは読む前にまず書き、書く前にまず読むことで、自殺や、狂気や、恋愛といった不必要な観念を排除する。僕が彼女に惹かれた最大の由縁は、彼女が「人は狂人を名乗るときその外部に位置する」ことを承知していたからである。僕の何の効力も無い定義に基けば、この世界には狂人は確かに存在しているのだが、それは自分を天使と信じ込める選ばれた天才を指し、残りの大半の努力家たちは、ひたすら病室で何かを演じ続けているのである。死を見つめる瞬間、決定的に我々が死の外部に位置することと同じことが、狂気についてもいえるのだと、僕は心療内科に定期的な通院を繰り返す《白い蝙蝠》の、おそらく僕より強度であろう狂気のレヴェルに嫉妬しつつ思う。
――もうそろそろ出ないか?ここは臭い。
 僕はそういって、鼻腔の粘膜にへばりつく饐えたような、葉っぱみたいなかすかな臭いを入店した当初から意識していた己を再発見した。
――買わないの? ここに置いてあるこれら。
 僕は今にも萎れた枯木になって床に倒れ臥しそうな彼女を、多少なりとも気遣いはしつつ、首を縦に振った。
――買っても一度観たら、捨てたくなる。

《白い蝙蝠》は「ああ」と大きな音を喉から立てつつ笑った。商品棚の隙間から、店長の貧相な長細い、しかし顕著に自涜経験が豊富であると解る猿みたいな顔が見え、僕は彼が僕らをずっと観察していたことを知った。

きっと、あの店長は《白い蝙蝠》の細い指先を見て、その爪の中に垢が溜まっていないかを見る。もしも少しでも溜まっているならば、膨大な数のビデオを見飽きた彼の中で、爪の垢を強制的に喰わされるような、そういう変態的な妄想が、生まれもするのだろう、と僕は自分のことのように夢想して、小さく声を立てて笑う。

僕はその時、不意に、ここが図書館の空気に近しいことを直感した。ここは、並べられた物がビデオであるだけで、後はもうそのものが図書館の静謐さを孕んでいる、と僕は断言してみせてもいい。ここで数千数万のポルノを眼にする生活をすることと、今の僕らのように、ひたすら文学的な高みを目指して受験生じみて本を読み、赤線を引き、小説を書くことと、いかなる相違があろうか? と、僕は自問自答してしまう。僕は、自問自答の末に、やはりいつもの混濁した蜃気楼のような塔、その漏斗状化した地下の螺旋階段で蹲る。

起床してすぐに聖書を読み、ご飯中は『ぐそみるく』を流し続け、ひたすら便座の上でも本を読み、太陽が沈むや否や錯乱を気取って狂的に書き殴る……、僕はそのような生活に憧憬を抱くほど、思春期的な呪縛を備えてはいない。

僕は《白い蝙蝠》を愛していないし、好きでもなく、きっと嫌いでもないのだろう。彼女は、あまりに僕だ。三日目に彼女自身が口にした言葉を、僕は胸の裡で反復しながら、近親憎悪という言葉を穏やかに思い起こす。何故対面したのか? もう少し、ゆっくりと擬似恋愛に耽溺していれば良かったのに、と歯軋りしながら。
――最後の風景がここなんて、あなたらしいわね?

《白い蝙蝠》は侮蔑でも嘲笑でもない、圧倒的な他者に向けるべき無関心な微笑みを浮かべながら僕にそういった。意味も無く、僕は涙で眼を潤ませた。「ばいばい」、「また会おうね」、「さようなら」、「大嫌い」、「さようなら」、「ばいばい」、「また会おうね」、僕はもうこれ以上、何を語る必要があるだろう? 一つだけいえることは、僕と彼女には四日目など存在しなかったということだ。僕が《白い蝙蝠》を白い閨へと送り返し、掴み掛けた一握りの幸福を自ら棄て去ったのだ。一度も手を繋ぎ合わず、一度も愛という言葉を使わず、あれだけ口にした電話越しの擬似恋愛を焼却しながら。やがて、数年もすれば日記から《白い蝙蝠》の名は消失するだろう。

僕にとっての初恋は、線香花火で白く焼かれた石の上で踊り狂う蚯蚓の、石の表面と癒着して引き剥がされた一枚の薄皮以下のものに過ぎなかったのだ。いわれた通り、僕は彼女の写真も縫い包みも「大好き」と記された手紙も全て燃やして僅かばかりの煤にしたのだった。これを書き綴ったことで、僕は逆説的に彼女の封印に成功したと悦ぶ。

今、僕に見えている風景は、大江健三郎の情熱的で、内向的な核シェルターでも、アダルトビデオ販売店の無数に陳列されたポルノの山でもない。ボルヘス、彼の名が僕の新しく浮上した暗闇に光の陥穽を開ける剣となっている。願わくば、《白い蝙蝠》よ、君は幻想に逃れず、現実と対峙しながら、この僕を超克せよ! 図書館に根を下ろしたまえ! 宿命的に敵対せざるを得ない我々にとって、今立ち向かうべきこととは、幻想ではなく現実を疾走することである。 

僕は三日前、面接を受けた。君は、何としてでも卒業証書を手にせねばならない。僕に今でも苦痛と慈愛の双方を与え続ける君と、文学的な高みに存在する「海辺の街」へ向かうことを強靭に願って。