僕はこれから、東京で三日間を共に過ごした君に、一つの長い手紙を綴る決意をしたのだ。君よ、僕は8月の末には二十歳になり、いよいよ苦悩の青年期へ差し掛かることだろう。僕は今、自分のpc画面に、小さな椅子の上で膝を立てながら、脅えるようにしてこれを書くことをしている。作家志望者である君よ、やはり君も電子空間の何処かに、名前を変えて作品を投稿しているのかい?僕は筆名を以前と同じにしているから、若しかすると君は、僕と君が電話で決別したあの日以後、僕の作品を電子空間の何処かで発見したのかもしれない。だが僕と限りなく血縁を持った君よ、僕は君の作品である『一陣の夏の風に』を、今まさにあの投稿サイトの画面から開くことをしているのだ。僕にとって、君の最後の作品となったこの作品の批評を、僕は君と僕二人の為の掲示板で展開した。
「薄っすらと苔の生えた小石を蹴ると、それはカランコロンと数メートル転がって景色に溶けた。」
そう、冒頭はこの一文だった。僕にとって、この作品は夢幻的だったが、君はそれを半ば否定するように、構造の三層を指摘した僕には悦びを得たようだった。君よ、僕は今でも君に憎まれていることを識っていて、尚も書くことしているのは、君のことが忘れられないからなのだ。君は夢野久作の全集を、僕との「本屋の国」の散歩に於いて、購入したが、やはり君よ、この作品にも、その影響が顕れているのかい?しかし君よ、僕は君が語彙を深める為に努力をし、それを自作に於いて実践したことをも承知しているのだ。例えば、君よ、次の一文に、君はきっと赤面するのだろうが、僕は敢えて君のテクストを、君が僕になら引用することを認可してくれるだろうと信じ、抽出するのだ。
「一定数を超えた集団というのは、しばしば各々の意思とは聯関ないベクトルに進むことがある。キャパシティを超えた意志は、それ自体で加速し、止まらなくなるのだろう。この紋白蝶の固まりは、丁度そんな風であった。」
君よ、僕は今思わず微笑が溢れ出したのだ。この表現は、エンジニアを父に持ち、幼少期からpcが傍にあった君らしい表現だろう。君よ、僕は君と皇居前広場を歩き、否、その前に日比谷公園のベンチで朝早く座り合っていた風景を想起する。あの時も、君は僕に智的な印象を与え続け、半ば僕に気だるい眩暈さえ呼び醒ましたのだ。僕は終始緊張していたが、君よ、僕は不安だったのだ。本当に現実でも君を愛せるのか、そういった最も核に存在する感情が、なんとも曖昧な蜃気楼に包まれていたのだ。ところで君よ、僕は以前、『かつては過ぎ去りし墓の上に』という作品を、書いた。憶えているかい?精神病院で、隣同士の病室になった少年少女が恋をし、退院した少女の自殺を知った少年が、ニーチェの詩に励ましを得ながら、工場の面接を受けるところで、幕を閉じた、そう、あの短過ぎる、そして端的に衒学的過ぎた短編だ。そして君よ、君は僕のあの作品に「呼応」する作品として、『落夏』を書いたのだ。僕らが電話でこの蜃気楼に包まれた恋愛劇に終止符を打とうとした時も、君よ、僕は君の口から「《白い蝙蝠》は私だったのよ」という手痛い台詞を浴びせられもした。尤も、僕はその意味を理解するのに、脳内の神経回路の数量が不足していて、「どういう意味?」という、なんとも滑稽な返答をしたのであるが。
君よ、僕はあれからも、絶えず読み、且つ、書く行為をしているのだ。しかし、孤独に引き篭もって、一日中そのような生活をしていると、君よ、僕は発狂しそうになる己を感じるのだ。ルドンの絵に、『陰鬱な風景の中の狂人』という表題の絵(確か、この名だった筈だ)があるが、君よ、あれこそ僕の肖像画なのだ。あの老人は一本足だが、君よ、僕には今果たして脚が存在するのであろうか?如何なるものが、僕を歩かしめ、地を踏み鳴らしめているのであろうか?しかし、おお君よ、僕は君の愛情を受けたことを回想することで、哀しみを取り除こうともしているのだ。君よ、君はあのモナ・リザの笑う娯楽映画を僕と観賞していた間も、マーブルチョコトレートを僕に数個手渡してくれたのだ。僕は多少糖分過渡になっているのを意識していたので、4個目ほどから拒んだが、君よ、あれは君の女の子らしい「丸く柔かい魂」ではなかったか。僕は、君と心理的に別離した後も、やはり日記の内部で君には謝罪していたのだ。君は「8割は、さと君が悪い」といったが、おお君よ、その言葉の意味、即ち、円グラフに占める僕の君に対して行った罪悪について、憤慨したいところの燃える意志を僕は持つのだ。僕らは、君の母上がおっしゃったように、やはり急速に言葉を通して愛を爆発させ、その後やはり言葉を通して愛を破滅させることを密かに願っていたのではなかろうか?あの晩餐会に於いて、僕は君の母上が、確かに難色を示している表情を見て取り、小さな哀しみを浮上させたのだが。しかし君よ、大阪に住む僕と、東京で暮らす君が、小説を通して出会い、遂には現実でコンタクトを取った、そのことは、現代的であり、けして羞恥をこびりつかせるところの、虚しく幻影的な時間ではなかったのだ。僕らが電子的な擬似恋愛のまま、交信を終えていたならば、なるほど、それはヴァーチャルであろう。しかし、少なくとも、君よ、僕は君に刹那に触れてしまった、あの君の白く柔かい太股の温もりを憶えているのだ。その君の体温に、僕は強い性的な力を与えられつつ、今でも君と文学的共同体を築き、肩を組み合っているようにさえ感じるのだ。
さて、君よ、僕は現在、コギーの『同時代ゲーム』を解読しているのだ。今でも哄笑してしまう小話だが、僕があの時、ジャンケンでチョキかグーを出さなければ、現在僕の本棚には文庫版の方があったはずなのだが。君よ、僕は『同時代ゲーム』を、徒歩2分の距離にある市立図書館で、現在も借りて解読を進めている。そして君よ、今さら言うまでも無いであろうが、コギーとは、長江古義人、即ちあの巨人作家の作中での名前なのだ。君よ、僕は壊す人の落書きを、『ピンチランナー調書』に挟み込んだ数知れない紙片の一枚に書き込んでいる。そして、君よ、もう読んだかね?僕が途中まで読む中で、最も強い励ましを与えられた人物とは、他でもない、「シリメ」なのだ。あの路上の馬鹿、尻を丸出しにして蠅の大群を群がらした気狂いにこそ、僕らは魂の救済を感じはしないかね?さて君よ、僕は最近、部屋で鬱屈して読書するのに絶えられず、淀川河川公園の一角にある小さなベンチで、野犬三匹と共に読書をする、というスタイルを見出し始めたのだ。これを、僕は「青空教室」と命名し、まさに初夏の、蒼穹の下で、野原の息吹を感じつつ、『同時代ゲーム』を解体する。文化人類学から、そのままトレースしたに過ぎない、と柄谷行人氏などからは批判されもしていたこの作品、しかし、どうだろう、これ程面白い文学が存在し、その作家が現在も逞しく日本に生きているということは、我々次の世代を担う作家志望者に、力強い希望を与えはしないかね?もう一冊、僕はやはり「青空教室」の中で、鼻息の荒い黒、白、その混色の三匹の野犬たちと読んだ書物、それはエリアス・カネッティの『眩暈』なのだ。君よ、僕はこれをやはり図書館で借りたが、時折他者のメモさえ発見できる公共物の方が、期限が定まっているだけに、集中講義じみて読解できるのだ。一つ、考えてみて欲しいのだ、何故なら、君は図書室を「閉鎖的」の名の下に、巧く利用できていないようだから。僕は当初、図書館の利用方法について、真剣に懊悩した時期を持った。その模索を経て、ようやく僕は「読書感想ノォト」なるものを作成すべきである、という逞しい結論に達したのだ。君よ、今からそのやり方を、あくまで鈴村智一郎、という一人の作家志望者を通して、説明してみせようではないか。
――いいかい?まず、ノォトを用意したまえ。そして、図書室から、書物を借りるのだ。しかし、書物といっても、己の魂と何らかの呼応を示した書物でなければならない。君の場合は、幻想文学の書棚に、多くの宝物が眠っているのであろう。ここでまず注意して欲しいのだが、愚にも付かない俗物娯楽小説などに、手を出してはならない。それらは感性を麻痺せしめ、我々の書く行為に泥を塗る。君よ、我々は書物に接するに於いては、王族でなければならない。次に、借りた本を、例えば、トマス・アクィナスの『神学大全』であったとしよう。今、僕がそれを借りたことを想定したいのだ。この一冊を、取り敢えずは部屋の机に置く。現在、真っ白のノォトと、トマスの主著がある。しかし、この本は、どうしてこれ程分厚いのであろう!諸篇も含めると、更に分厚くなるというが、限られた期限で読むのは、しかし険しい谷間を越えるようではないか。だが君よ、安心したまえ。自分の興味のある篇から読むことをすればいいのだ。例えば、僕は「神の永遠について」の篇に興味を持った。この時、赤ペンや、色鉛筆を用意し、解り易く整理しながら、ノォトにメモする行為を続ける。引用があれば、引用元の人物なども枠外にメモし、とりわけ重要ではなさそうだが、己の意識に雷撃を放ったものには、色鉛筆で下線を引き足し、囲むことをする。そして、君よ、これは僕もよくすることだが、図形的に論理を整理すると、半ば読み飛ばしできるセンテンスと、そうではない重要なセンテンスの取捨選択が出来るようになってくるだろう。例えば、実際に僕はこの本を借りてノォトしたので、今それを膝の上に載せながら、ボードを打っているのだが、少なくとも「持続の形式」には、三種類あると、トマスはいっているのだ。神の場合、それは「永遠」だが、天使の場合は「永劫」であり、我々になると、物質も含めて「時間」となる。君よ、単純なモデル図になるかもしれないが、このような事柄でも、一度でも絵にしておくと、後から読み返した時、それは自在に応用可能な計り知れない智識となるだろう。トマスの術語は小説のテクストに有機的に吸収できるように、やはり原語でもメモしておくべきだろう。例えば、トマスによれば、「天使は神に従うか、背くか、自由に決めることができる」というが、これは「選択の転換性transmu tabilitas secundum electionem」という専門語によって包括して記憶すべきだろう。僕のような、大學という知的スペェスを拒んだ人間は、少なくとも読書する行為を勉学として位置づけ、独学者となり、脳内にボルヘスを凌駕するほどの図書館を構築せねばならない。さて、このようにして、トマスからメモすべきことを終えたノォトを、今ひとたび眺めると、これは『神学大全』とは異質な、しかしそのノォトの頁の内部では確かにトマスの欠片が息衝いている生きた平面と化していることに気付くのだ。僕の手書きであるという事実が、トマスと僕の境界に、ある一つの美しい鉄塔を聳え立たせているようだ。こうして、トマスについて一定の智識を得ると、次にはまたトマスから派生してノォトする人材を探す旅へ向かおう。君よ、あくまでトマスとは、僕が例示した人物の一人なのだ。そして君よ、気付き始めたかね?やがて、このノォト自体から、トマスや、ボルヘスや、スウェデンボルグ…といった名前が消え始めることを。それは、作者が消尽され、僕一人の生きた智慧となった瞬間なのだ。その時に、最早僕は、「トマスから引用すれば~」などという前置きを付ける必要があろうか?
さて、君よ、僕はこのようにして、繰り返しノォトを増やしてきたのだった。それは、僕にとっての学業であり、けして辛いものではないのだ。何故なら、教授を選ぶのは、全て我々なのだから。だが君よ、気をつけたまえ。象牙の塔を築き過ぎて、自論を喪ってはならない。塔を破壊する瞬間、君よ、我々はある一つの作品を結晶化させるのではないかね?本来、学問は大勢で行うものだというが、君よ、我々はおそらく孤独者に位置するのであろう。だからこそ、象牙の塔に汚染され、暗闇に落ち込んではならないのだ。しかし君よ、僕は君と離れているが、架空の巨大図書館では、二人で司書をしているのではなかったかね?我々は書物に逃避している、などと愚かな人間たちから笑いのめされようが、なに、気にすることはない。彼らも結局、一冊の本を書き始めるのだ。それは書物の形態をしていないかもしれないが、おお君よ、人間一人一人に、一冊の本が内在している、という言葉を識っているかね?これは最早、僕の血肉になっている言葉だが、原型はコギーも青年期によく読み耽ったミラーという放蕩作家にあるのだ。そして、おそらくこの言葉を、僕はノォトしなかったのだ。
君よ、僕は無駄なことを話したかね?そうだわ!と君なら返答するかもしれないが、おお君よ、僕は君が学校に通い始める日を希求している。君よ、僕はやはり、君が高校を卒業すべきだと、強く思うのだ。それは、おそらく君の未来を想う、愛情故なのだが。おお君よ、僕は何度学校を欠席したことだろう。あの地獄のようなカトリック系男子校は、僕をちっぽけな劣等生として位置づけ続けたのだ。時折、校門をくぐり、裏庭に佇む聖母マリア像を眺める日のみが、僕の唯一の魂の救済だったと、僕はいってみたい。君よ、しかし卒業とは、良い言葉ではないかね?君は既に文学的には多くの智識を備えているが、しかし君は16歳の女子高生として、不登校のまま退学してはならない。君は、僕の言葉のみに、一度耳を傾けてくれたまえ。いいかい、君は、卒業するのだ。学校生活は確かに辛いこともあり、傷つけられることもあるが、君には読み、且つ、書く行為を至福とする天賦の才があるではないか。否、書く行為は寧ろ、辛い旅路のようなものよ!と君は涙ぐましく囁くかもしれないが、無論、その主張には賛同するところのものを感じる。僕は卒業以後、絶えず毎日1万文字以上は書いてきたと自負するが、その時、僕は愉悦よりも、寧ろ苦痛を核にして書く行為に疾っていたのだ。おお君よ、書くことは苦しい、しかし、我々は書かねばならない、なぜなら、それが我々の生き方であるのだから。君よ、僕を許してくれるかね?僕は君に、確かに酷いことをいったが、しかし君もやはり僕にそのように接しざるを得ないところの不安に満ちた態度を取っていたのだ。
――どうせすぐ君のことなど忘れるさ。
僕は今、この言葉を乗り越えて、書くことをしているのだ。君よ、ここまで読んでくれて、君は何を感じたかね?ホワイト・アスパラガスの森を彷徨う物語は、君の手によって幕を閉じたのかね?君よ、僕が電子空間に夥しい作品群を投稿し続けていることを、どう思うかね?しかし、我々はやはり、どこかで惹かれ合っていたのだ。僕は君に接吻したかったが、君はそれを婉曲して退けたのだった。しかしね、僕が君の書棚にもあるであろう『同時代ゲーム』を読み終えた日、僕は君と接吻するような気さえするのだ。君よ、我々の記憶は滅びない。神が不滅であるように、永遠であるように、僕の生まれ変わりと、君の生まれ変わりも、やはり未来のある特定の時間軸において、急速に芸術的な親近感を寄せ合い、そして哀しきかな、別離するのだ。おそらく、過去に、僕と君は一度出会っているのだろう。もしかすると、君のほうから、僕に接吻を申し込んだのかもしれないが。そのような愉快な空想は、しかし僕の信ずる永劫回帰に繋がってもいるのだ。おお君よ、僕が君に励ましを贈るつもりで綴った、この書簡体小説を、君はどこかで見ることがあるだろうか?あるとしても、それは電子空間なのだろう。だが、言葉は書物と同じく、電子空間でも呼吸しているのだ。君よ、僕はまだ君に手紙を書いていたいが、君から貰った手紙は、君のいったとおり、ベランダで燃やしたのだ。それは黒い歪なハート型の火傷を、ベランダの床に刻み付けた。君よ、我々の心臓は、おそらく漆黒であり、そして他の誰よりも歪なハート型をしているのではないかね。さて、僕は今、先刻図書館で借りてきたコローの画集の、ある一枚の絵を眺めているのだ。それは、おお君よ、僕と君が襲われ易い、あの怖ろしい力を持ったものを描いた絵画なのだ。表題は『突風』という。君よ、この荒涼とした大地に吹き荒ぶ、強く厳しい突風に、我々は裸体で立ち向かうべきだろう。このコローには異質でもあるという、暗く、不吉な絵画にこそ、僕と君は、生への熱い希望を呼び醒ます。最後に、僕はコローの言葉を、君に贈ろう。それは、僕自身の内的な咆哮でもある言葉として。「私は好きなように自分の絵を描く。私のやり方を誰にも押し付けはしない。もし私が、間違ったとしても、自分以外のものは何も巻き添えにしない。他の者は自分の好きな道を自由に行くがいい」
L・Yへ
2006年 大阪