謐かな海辺の窓際で

 

 陽彦は順子が座っている安楽椅子にまで温かい珈琲を運んだ。彼はゆっくりとトレーを丸い年代物の小さなテーブルに置き、皿の上にカップとスプーンが乗った昼下がりのセットを彼女に渡した。順子は柔かい微笑を浮かべると、皿に手を伸ばし、それを落ち着いた動作で黒いスカートの膝元に乗せた。そして、小さな湯気が薄らと見えるカップを手に取ると、静かに珈琲を口に含んだ。彼女はうっとりしたような、慎ましい悦びを顔中に広げると、陽彦が立っている窓辺のエメラルド色をしたカーテンを見つめながら静かに語り始めた。
――これから貴方の生活は忙しくなるわ。家庭教師をするのは初めてでしょう?もっとも、貴方の場合、小学校三年生の娘の算数と、三十六歳の母親の対話相手になるだけだから、案外楽かもしれないわね。早速だけれど、陽彦君?それじゃあ対話を始めても良いかしら?録音の準備はできている?一度口にしたことは、明日になれば別の言葉に変わってしまうでしょう?だから、できるだけ忠実にテープで再生できるように貴方とのダイアローグを記録させておきたいの。いいわね?それじゃあ録音ボタンを押しなさい…。
 陽彦は「はい」と丁寧に頷いて、片手に携えていた小さなテープレコーダーの録音ボタンを押した。微風を孕んで部屋の空気を撫でるカーテンの向こうには、真っ白な砂浜と、静寂な海が広がっていた。陽彦は一歩前に歩み出て、順子が腰掛けているのと同じ、古い安楽椅子にゆっくりと腰掛けた。陽彦は順子の、冷徹なほどに研ぎ澄まされた知的な瞳を見つめていた。その瞳が、彼の若い心を先刻から掻き乱していた。いかにして、あの輝きを情熱の色彩へ変えるか…。
――十七世紀のコレージュ・ド・フランスの教授だったガッサンディによれば、彼は魂について、「肉体と共に滅びる植物的・感覚的魂の上位に、自覚と自由をもつ非物体的な実体としての魂が存在する」ことを認めたわ。一方、彼と同時代だったフランドルの神智学者フランシスクス・メルクリウス・ファン・ヘルモントは「霊魂の輪廻」を信じていたの。当時のケンブリッジ・プラトニストの一人だったヘンリー・モアは『魂の不死性』という著書の中で、「魂は自己浸透するものであり、それゆえに真に濃密化したり希薄化したりすることができ、物質に浸透することによって生命を与える」と主張したわ。彼もやはり「魂」が存在するという仮説は、他のいかなる仮説よりも理性に適っていると考えていたの。ところが、その著作の大半が草稿段階のままだったゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツはヘルモントを否定して、「霊肉の分離」は存在しないと主張したわ。霊のみであるのは「神」だけだとね。彼は輪廻、つまりメタンプシコースと呼ばれた魂の循環を信じなかった。ところが、彼は「人間の魂は、人間以外の魂と異なっているばかりでなく、人間同士でも互いに異なっている」として、「魂」と呼ばれる実体的事物の存在を認めていたの。陽彦君?私が今日から貴方と議論してみたいことは、たった一つだけなの。つまり、「魂の輪廻」とは何か…。
 陽彦は順子の澄んだ瞳を見つめながら、静かに頷いた。録音装置の内部で、テープはゆっくりと回転を始めたのだった。彼は緊張で肩を強張らせていた。だが、この一人の女性の関心を自分に持続させるために、彼は青い思考を必死で回転させて、彼女に愛される恋人になることを密かに願っていたのだった。
――僕は順子さんのおっしゃる「魂の輪廻」について、それを神秘的というよりは詩的な世界のように感じることがあります。ただ、一つ疑問なのは、もしも魂が循環しているのならば、この世界に今まさに存在している全ての人間が、かつて死んだ人間たちの魂を何らかの形で宿していることになると思いますから、そうであるならば魂の数は過去も未来も変化していない、ということになるかと思われます。順子さんの魂は過去に、別の男性か、女性か、或いは動物か、植物かに宿る形式で存在していたのだと思いますし、だとしたらこの窓辺のミニチュア・ローズも、もしかしたら以前は一人の少年だったのかもしれません…。このようなことを考える時、僕は感覚的にはポエティックだと思うんですが…。
 順子は美しい微笑を浮かべながら、頬に若い娘のような笑窪を覗かせた。彼女は珈琲のカップを上品に唇まで持っていくと、先刻と同じようにゆっくり音を立てずに啜った。定刻に鳴るオルゴールの自動機械が、玩具箱を引っくり返したような軽快なメロディーを流し始めた。二人が座る海辺の洋間の壁には、フランシス・ベイコンが一九四六年に制作した『絵画』の複製が、禍々しい衝迫力を空間全域に渡って放射していた。
――まず、「魂」とは何かをソクラテスに質問してみましょうか。彼はシミアスにこう答えたわ。「魂は人間の形の中に入る前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知力を持っていたのだ」魂は生の原理だから、死を許容しないとされるの。魂は魂である限り、死なない。つまり、不死であり、不滅だとされているものなの。ソクラテスはホメロスの考えた霊魂論と同じく、「死とは魂と肉体の分離である」と思っていたの。ところが、私と一緒でベジタリアンだったピタゴラスは、幾世代にも渡る輪廻転生の記憶を保持したことで、超人的な知識を所有していたとされているわ。エンペドクレスもかつて自分は乙女であり、魚であったという意識の連続性を信じていたの。オルフィズム、ピタゴラス派は「我々はこの世では異邦人であり、天上の世界から肉体という墓穴の中へ墜落した存在である」として、「我々はできるだけ早くこの輪廻の世界を脱出して天上の世界へ帰らなければならないが、そのためには魂を清めなければならない」といったわ。その清めのことをムーシケーと呼ぶんだけれど、これはムーサの女神たちの技術という意味なの。ムーサの女神たちが司っていたのはダンスとかメロディーとか詩であったから、陽彦君が輪廻をポエティックと考えるのにも一理あるわけね。ところで、先程君がいった人間がバラの花に転生することがあるのか、ということについて、三つの考え方があると思うわ。一つは、種に帰属した輪廻ね。つまり、人間は人間同士においてのみ、魂を循環させ、植物は植物同士、より厳密にいえばバラはバラの種においてのみ、循環するという見解。二つ目は、プロクロスのようなネオ・プラトニストが考えた魂の三層構造に基く考え方で、人間の魂は知性、つまりヌースを受容することで「神的な魂」に上昇するという発想よ。神、つまり超越者、絶対者、及び「一者」に接近している魂ほど、その数は少ないとされているわ。「神的な魂」に到達した人間の魂は、輪廻を越えて、「一者」の神的な知性そのものに帰属される。つまり、知性から生じる魂が、再び知性に帰還するという帰郷の形式ね。三つ目は、類に、或いはより大きな母集合に帰属した輪廻なの。ウィリアム・ブレイクの「虎」や荘子の「蝶」の夢、或いは先程もいったエンペドクレスの「魚」のように、生命の樹形図を縦横無尽に往復する形式を備えた輪廻転生説。魂に線形的な数量の価値を持たせるべきではないと私は思うわ。輪廻の形式は私たちの想像を絶する錯雑とした、極めて難解な数式のようなものよ。尤も、そこにはきっちりと秩序、つまり解放のコードが潜んでいるけれど…。
 順子の声色は陽彦をけして疲弊させない、清楚で穏やかなものだった。彼は時折、彼女が右手の指を蝶の翅の開閉のように、ゆっくりと動かす神秘的な仕草を見つめていた。窓辺のカーテンから、砂浜を撫でる波音が流れてくる。この海辺の静かな街においては、時間は完全に停止しているように陽彦には感じられた。
――順子さんは今までに、前世に関わる間接的な暗示を受けたことがあるのでしょうか?例えば、夢の中や、どこかの野原や花畑におけるデジャヴュの形式において…。
 陽彦がそう質問を投げ掛けてみると、順子はゆっくりと瞼を閉じて、胸から提げられた銀のラテン十字架をそっと撫でた。彼女は薄らと瞼を開いたまま、飲み終えた午後の珈琲セットを丸い小さなテーブルの上に置いた。「ごちそうさま、とても美味しかったです」と順子は聖母マリアのように優しげな眼差しで陽彦に微笑んだのだった。
――私には幼少時代から、常に固定した一つの夢の世界に誘われることがあったわ。砂漠の景色よ、一面が砂丘、熱砂、遠景は蜃気楼で揺らめいている…。でも、明らかに私の身長の数十倍、或いは数百倍の高さから、砂漠一帯を俯瞰しているという固定された視界で、絶えずその夢は顕現されるの。おそらく、大木か、宙に静止した砂漠の鳥、そのいずれかだったのかもしれないわ。奇妙なことだけれど、私はこの夢を見終えた後に、必ずといっていいほど、胸が高鳴って、それで結局数十分間も涙を流し続けなければならない羽目になるの。もしかしたら、私の木の根元には、一人の疲れ果てた乙女が眠っているのかもしれないわね…。
 順子はそう囁くと、夢心地のように薄らと開いた眼差しで、窓の奥に広がる静謐な海を眺めた。陽彦は口を閉ざし、しばらく自分も順子と同じように海辺の砂浜や、波の柔かい運動を見つめていた。不意に、黄色の嘴に純白の羽毛を備えた美しい海鳥が窓辺に降り立った。陽彦は一驚したが、順子は毎日の見なれた来客を持て成すようにして、淑女的な微笑を洩らした。海鳥は声を出すこともなく、陽彦を数秒間見つめた後、小さな丸く黒い眼で、じっと端麗な順子の姿を眺めていた。陽彦は順子と海鳥の姿に、レダと白鳥のイメェジを重ね合わせたのだった。
――大乗仏教の理論的大成者である竜樹は、「人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つ時がニルヴァーナである」といっていたわね。生きることと、死ぬこと、その太古より繰り返される相依的な呪縛を解き放って、輪廻からニルヴァーナへ向かう…。でも、彼は同時にニルヴァーナに憧憬を抱くこと自体が迷いだとしたわ。だからこそ、彼は輪廻を否定したし、涅槃をも否定して、矛盾律を超克した輪廻=涅槃の一切肯定の論理を展開した。これをニーチェは「ディオニュソス的肯定」と呼んだけれど、ドゥルーズは彼の永劫回帰説を絶え間ない「変身」と規定していたわね。尤も、「差異は反復に内包される」ことを、ボルヘスは「類似性」という言葉で表現してしまっていたけれど…。 
――魂は前世と来世において、異なるものへ変身している、と順子さんは考えているのですね?
――柱廊学派の宇宙発生論には「周期的円環構造説」が含まれていたわ。全面的反復、つまり完全な反復としての「アポカタスタシス」と呼ばれるものだけれど、これは死に絶えた反復だわ。輪廻転生というのは正確には「差異を含む魂の反復」、絶え間ない「変身を伴う循環」なのよ。だから、「生まれ変わり」という一般的な言葉は正しくは「変身」、或いは「基体としての魂の型を等しくしたアレンジメント」と呼称すべきね。重要なのは、いいかしら?永劫回帰という車輪において、それらの車輪を構成する歯車は、一回転目と二回転目では差異を持つということなの。西田陽彦の魂は次の形式において、多くの記憶を消尽させるのだけれど、その記憶が次に貴方と同じ「魂の基体」を宿す人間の意識に、フッと湧出する瞬間がある。それは夢を見ている時に生起することが多いのだけれど、既視感といわれているわ。
――順子さんに教えて貰いたいと思っていることがあるのですが、「魂の基体」というのはどういった概念なのでしょうか?僕の想像では、魂には何らかのモデルがあって、そのモデルが時間の矢の流れに沿って変身する機能を持つ、というようなものなのですが、以下のような考えで正しいのでしょうか?
――例に出しましょう。この世界には数知れないバラの花があるわよね?シンデレラだったり、ルイ十四世であったり、プレイ・ボーイであったり…。でも、我々が「バラ」といわれて想像する一定のモデル、その型となるべき「バラ」というのは、実際にはシェーマと呼ばれるものなの。これはウィトゲンシュタインが後期哲学で用いた特有の言語だけれども、そういった魂のモデル、すなわち「魂のシェーマ」、「魂の基本的原型体(基体)」が変身する上での裸体を表現しているの。陽彦君は今、衣服を着ているけれど、それは勿論その雪色のタキシードを意味しているのではなく、魂の衣服を表現しているわ。本質的に魂は裸体であるけれど、そこに記憶が書き込まれて、衣服を形成する。ライプニッツは魂が白板、つまりタブラ・ラサであることを否定して、生得的観念の存在を認めたわね。私が今いっている裸体というのは、タブラ・ラサを意味してはいないの。例えば、今陽彦君が手にしているそのショウペンハウエルの『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』を、貴方の次の魂の憑依者が読まないとしましょう。すると、ここに認識の量的な水準において差が生じるわ。これが魂の衣服を生み出す。そして、変身させる。だから、かつて存在した人間の魂が、全く同じ形式において再現出することは輪廻転生の原理上不可能なの。一般的に「私はキリストである」といっている人の聴衆は、ナザレのイエスの声色を耳にしている必要がある。つまり、イエス・キリストはこの世界に二人存在することが可能ではない、これが同一性の哲学を学んだ人なら誰もが認識すべき「不可弁別者同一の原則」といわれるものよ。
――つまり…「私はキリストの転生である」という命題は成立しない、ということでしょうか?僕は以前、プラトンの亡霊としての声を耳にしながら、それを口述筆記した詩人の作品を読んだことがありますが…。
――ニーチェかしらね?それとも、イェイツかしら?前者の場合は遠近主義的エクリチュールという彼の哲学の核心を念頭に入れる必要があるわ。「私はキリストの転生である」と信じていた人は歴史上に偉人、狂人を含めおそらく多数存在するだろうけれど、「キリストの魂の基体」を憑依させることは可能なの。ただし、断言して「キリストの魂」そのもの、つまり彼が身につけていた「衣服」をも身につけることのできる人間は一人しかいないの。それが誰か、わかるかしら?
――今の思考を延長させると、それはイエス・キリストその人ですね?キリストの教えを再現出することで「キリストのシェーマ」になることはできるけれど、キリストが幼少時代に体験した一つ一つの事象、順子さんがいっておられた「魂の衣服」までをも着ることはできないのですね?ということは、順子さんのおっしゃる輪廻転生、先程貴女が使用された言葉を引用すると、メタンプシコースと呼ばれるものは、正確には「魂の裸体の反復」であり、「魂の衣服の反復」ではありえない…。衣服とは各々の人間たちの記憶を指し、これが肉体との分離、つまり死という魂の乖離によって消尽される、ただしそれがわずかに残存している場合、次の形式において「衣服」が湧出する、これをデジャヴュという…。以下で宜しいのでしょうか?
 順子は窓辺の慎ましい海鳥に優しい母親のような目線を配りながら、ゆっくりと頷いた。そして、どこか物憂げに右手の人差し指と中指を、ルイ十四世のような深紅の薔薇色に染められた薄い唇に乗せて、陽彦を見つめた。
――陽彦君?私の提示した「変身としての輪廻転生説」は万物を動かす「不動の第一動者」、これはトマス・アクィナスの言語だけれど、つまり神によって司られている一つの霊魂的なネットワークなの。神は宇宙樹や球体のイメェジに投影されることもあるわ。トマスは「神は悪が生じることを意志しないが、悪が生じないことをも意志せず、悪が生ずるのを許すことを意志する。そして、これは善である」といったけれど、人間の魂、つまりanima humanaは本質的に「善」なの。オリゲネスの説によれば、「全ての霊的被造物はまったく等しい状態で創造されたが、自らの意志によって果たした功罪に応じ、その報いとして、それぞれの段階である天使、人間、動物、物体の地位に固定された」としているわね。でも、「魂の基体」そのものが悪に染まることはないわ。anima humanaを構成している原理は「善」「知性」「永劫」の三つだけれど、この「永劫」という概念は「永遠」ではないの。「主は永遠に治め、更に永遠をも超えて治め給うであろう」これは『出エジプト記』の一節ね。ここでは「永遠」が世紀としての意味で使用されているわ。神は永遠性そのものよ。そして、人間の魂は持続の形式としては天使における「永劫」に属しているわ。双方の差異は、「永遠」が「始めも終わりもない」ことであるのに対して、「永劫」が「始めがあるが終わりがない」ということ。尤も、これはアレクサンドル・ハレンシスの『神学大全』に典拠を持つけれどね。神は善を生み出すものではなく、善性そのものであるということに関しては、トマスの『神学大全』の第十九問「神の意志について」の第一項に記されていたわね。神の第九の属性は「全知」であるから、神と人間の魂はちょうど父と子の関係にあるの。ところで、陽彦君。そろそろあの子が小学校から帰ってくる時刻じゃないかしらね?準備はできている?
――その前に、どうしても順子さんに質問してみたいことがあります。いわゆる「神の証明」に関するテーゼなのですが、順子さんは人から「貴女は神を信じていますか?」と質問された場合、どのように返答するのですか?是非僕に聞かせて下さい…。
 順子はしばらく陽彦の目を澄んだ瞳でじっと見つめていた。彼は頬を朱色に染め、下を向いてしまった。
――ベネディクトゥス・デ・スピノザと一緒に例証してみましょうか?彼によれば、「存在することを妨げる何の理由も原因もない物は必然的に存在することになる。だからもし神の存在することを妨げたり神の存在を排除したりする何の理由も原因もあり得ないのだとすれば、我々は神が必然的に存在することを絶対的に結論しなければならぬ」としているわね。これは『エチカ』の白眉である神論の定理十一からの証明だけれど…そうね、陽彦君はもっと刺激的な証明方法がお好きかしら?一つ、Argumentum ornithologicumと呼ばれているもの、つまり「鳥類学的推論」で神の存在を証明してみましょうかしら。ちょうど、海鳥が窓辺に訪ねてきてくれたことですし…。それじゃあ陽彦君?瞼を閉じなさい。そして、海辺の砂浜を舞う海鳥、数知れない海鳥を思い浮かべてごらんなさい?
 陽彦は順子のいうとおり、ゆっくりと瞼を閉じてみた。そして、すぐ傍にある海辺の砂浜を舞う海鳥を、今窓辺に止まっている一匹の海鳥から無限に増加させていった。
――イメェジが浮かんできます。今、僕が想像している海辺では、沢山の綺麗な海鳥たちが明るい声を出しながら舞っています。
――質問しましょう。海鳥の数は何匹かしら?瞼を閉じたまま数えてごらんなさい?
 雅信は愕いて、頭の中で滑空したり砂浜の上に舞い降りたりしている海鳥たちの数を数え始めた。しかし、彼が数えだすと、別のよく似た海鳥たちがいつの間にかどこからともなく舞い降りたり、今数えている海鳥たちに紛れ込み、或いは飛び去ったりし、数えさせることを阻止するのだった。
――順子さん…、僕の映像はとても断続的なようです…。海鳥たちはうまく僕に何羽いるかを教えようとしないのです…。
 順子は陽彦の瞼を閉じて困惑している顔を見て、優しいマリアのような微笑を浮かべた。
――陽彦君、貴方は今神の存在を証明したのよ?この「鳥類学的推論」という証明は、瞼を閉じるだけで神の存在を我々に教えるものなの。神が存在するとすれば、海鳥の数は「限定されたもの」といえるわね。何故なら、神は貴方が何羽の海鳥を見たのかを御存知のはずだから。神が存在しないとすれば、海鳥の数は「限定されたものではない」わね。誰もそれを数えることはできなかったのだから。この場合、貴方が見たのが一羽以上、十羽以下の海鳥であると仮定しても、それは九羽、八羽、七羽、六羽、五羽、四羽、三羽、或いは二羽だったことを意味しはしないわ。貴方が見たのは、あくまで十と一の中間の数であって、九、八、七、六、五……のいずれでもなかったのだから。問題の整数の推測は不可能なのよ。
 陽彦はようやく瞼を開きながら、驚愕した面持ちで声を震わせた。
――つまり、神は存在している…。
 順子は穏やかな面持ちでゆっくり頷いた。そして、亡き夫との記憶を掬い上げるような、どこか哀しげな眼差しで、いつの間にか飛び去ってしまった海鳥が残した窓辺の羽毛の輝きを、見つめるのだった。
――未だかつて、あのニーチェほど完璧な有神論者が歴史上に存在したかしらね?陽彦君、どんなに辛いことがあっても、神による救済をただ待っていてはいけないの。神は眠っておられるのか、死んでおられるか、或いは始めから存在しなかったのか、そのいずれかだと私は信じています。誰も助けてくれない、冷酷な世界、神の不在の世界、それが人間の世界なのよ。だから、どんなに哀しいことがあっても、自分の力だけを信じなさい…。私はそうやって生きてきたのだから……。
 やがて順子の一人娘である蛍子がハーモニカの音色を奏でながら帰ってきた。その日、陽彦は幼い少女の学校の宿題に熱心な家庭教師として付き合った。順子の話では、蛍子は今日、終業式だったので、明日から長い夏休みが始まるのだという。蛍子は早速クラスメイトの少年少女たちと夏休み限定の秘密基地冒険団を結成したらしく、明日は午前中から近隣の山へピクニックに出かけるらしい。陽彦は順子に付き添いを頼まれたのだった。その夜、彼は広々とした清潔な個室のベッドで横になっていた。彼は不意に、少年の頃に事故死した両親の、大学生時代の明るい写真を想起した。それは陽彦の夢に入りかけた意識に、唐突に小さな、しかし確実な威力を持つ喪失感を与えた。彼はこれまで養父母に育てられ、実の父親も母親もいない生活を常として生きてきたのだった。彼の中で描き出される母親のイメェジは、あの笑顔で木漏れ日を受けている自分によく似た母親ではなく、いつしか順子の面影を宿し始めているのだった。
 翌日、ピクニックは夕陽が沈む前までに幕を下ろした。付き添いには、陽彦以外に、クラスメイトの母親が二人同伴していた。彼は青年紳士的に二人の女性たちに挨拶をし、昨日この海辺の街に到着したばかりであることを告げた。母親たちは新しい訪問者に関心を示し、何よりこの青年が持つ凛とした、そして穏やかで優しげな端麗さに魅了された。一人の女性は街で喫茶店を営んでいるらしく、陽彦が出向いてくれるように促した。もう一人も、娘の付き添いというよりは、若く美しい青年とのおしゃべりを愉しみに来た暇を持て余す母親のようにして振舞った。彼はそんな二人に、あくまで蛍子専属の若き家庭教師として、礼節を重んじて丁寧に言葉を選んだ。陽彦はこの街の自然、そして人間の温かい気遣いに触れ、すっかり昨夜ベッドの上で抱いていたような名状し難い不安を浄化していた。陽彦の心は何億年も光に与っていなかった砂漠の草木が、突如出現した溢れんばかりの栄養豊富な水に満ち、長い夜が終わって遂に太陽が昇り、瞬く間に砂漠を果樹園に変えたような、穏やかで清々しいものになっていくのだった。
 夜、陽彦は順子との毎日の対話を気掛かりにしながらも、ピクニックでの肉体的な疲労によって、いつの間にか腰掛けた安楽椅子でうとうとと眠り込んでしまっていた。彼はそこで順子がシャワーを浴びてやって来るのを待っているつもりだったのだが、どうしても揺り籠のように微かに揺れる安楽椅子は、彼に眠りを誘うのだった。やがて順子は白桃色のネグリジェに身を包んで陽彦のいる洋間に足を運んだ。そこで彼女はすやすやと少年のように愛らしい寝顔を向けて安楽椅子に沈み込んでいる陽彦を見出し、柔かい微笑を浮かべた。彼女は寝室へ向かい、再び洋間に戻ると、持ってきた夏用の清潔な毛布を陽彦にそっと乗せた。しばらく彼女は陽彦の隣の安楽椅子に腰掛けて、窓辺で月光を浴びて神聖な輝きを発するミニチュア・ローズのシンデレラを見つめていた。海辺の砂浜からは、絶え間なく優しい波音が流れ、彼女の意識に安らぎを与えた。順子はこの青年、西田陽彦と出会った最初の日を想起していた。ナポレオンの妃ジョゼフィーヌが建造したマルメゾン宮殿、そこに広がっていた当時世界最大級のバラ園に因んで、彼が店員として働くそのバラ専門店は、マルメゾンと呼ばれていた。陽彦は地元のカトリック系男子高校を卒業してから、ずっとそこで働いていた。順子がマルメゾンで花嫁という名の清楚な淡いピンクのバラを買った時、その花言葉を教えてくれながら、丁寧に袋に包んでくれたのが西田陽彦だった。
――ピンク色のバラの花言葉は「満足」なんです。でも、これは桃色が少ないから、もしかしたら白色のバラの花言葉が持つ「純潔」に相応しいのかもしれませんね。
――素敵な店で働いているのね。ところで、ここには青バラは並んでいるのかしら?
――いいえ、奥様。残念ですが、バラ界では現代科学においてしても未だ青いバラだけが作出不可能なんです。多くの研究者が青バラの誕生を待ち侘びているのですが…。ああ、そうだ、奥様はマダム・ヴィオレなどはお好きでしょうか?これは切花界に金字塔を立てた名花で、吸い込まれるように美しい紫色をしています。
――ええ、私もちょうどその品種を合わせて買おうと思っていたところよ。そうね…、それじゃあこの花嫁の他に、そちらのシャリファ・アスマと、こちらのグリーン・ダイヤモンドもお願いできるかしら?
 それが、坂東順子と西田陽彦の出会いだった。順子は大学で文献学の教鞭を取る傍ら、翻訳者としても活躍していた。多忙な二人が顔を合わせる日は一月に限られていたが、それでも順子はゆっくり、自分のことを晴彦が好いてくれていることに気づき始めていた。母親の存在を知らずに、ハイティーンの頃は裏庭で聖母像を見つめてきた陽彦にとって、順子はまさにマリアのように感じられた。やがて二人は休日に美術館の画廊を歩くようになり、二人の間には娘の蛍子も加わった。順子は夏を利用して、海辺の別荘に陽彦を誘うことに決めた。そこで彼女は、陽彦が告白してくれることを密かに待っていたのだった。
 翌日、彼は昼下がりまで蛍子の学習に付き添った後、あの安楽椅子が二つ置かれた静かな洋間で順子と対話の続きを始めた。彼はテープレコーダーで一度始めから二日前の対話を流し、それを順子に聴かせてやった。彼女はそれを最後まで耳にして、あの日自分が何について議論していたのかを想起した。これらのことは、順子が患っている記憶の病に全ての原因があった。
――ありがとう、陽彦君。一昨日は「魂の輪廻」について、私は貴方に様々な引用を交えながら、見解を述べたのね…。今日、貴方と考えたいことは、三つあるの。欲張りかしら?でも、どれも私たちがこの世界を生き抜く上で、きっと大切なものよ。一つは、「人間とマリオネット」の関係について。二つは、「幸福の喪失と、嫉妬」について。最後は、「ghost」について…。
 陽彦はテープで順子の新しい語りかけの録音を開始していた。壁に掛けられた古い柱時計の長針の音が、ゆっくりと二人の間に思索的な空気を宿し始めた。
――どれも興味深い議題だと思います。特に、三つ目に関しては、是非順子さんの意見をお尋ねしたいと思います。というのは、僕はghostに関しては、今までそれを根拠のない空論として見過してきてしまったので…。それでは、対話を始めましょう。
 順子は慎ましい微笑を浮かべながら、陽彦の明るい声色に親しみを示した。彼女は頷き、そして何かを想起するように、瞼をゆっくりと閉じた。
――糸で操られる傀儡は、人間そのものの特質を表す言葉であると私は考えるの。マリオネットには、常にマリオネットを操る「人形使い」が存在しているわね?「人形使い」は思想であったり、国家であったり、特定の集団であったり、個人であったりする。そして、無機質なマネキン人形である私たちは、常にそういった、自分よりも大きなものに操縦されながら生きている。私たちは被操作者であるわけだけれど、ここで重要なのは、一体何が我々人間を操作しているのかが、限りなく見えにくくなっている、ということなの。毎日を生きていく上で、私たちは何かに導かれたり、逆に分岐した道における進むべき地図を与えられたりするのだけれど、それは人間の意志に基いているといえるかしら?啓示的存在者、という言葉を私は使用したいのだけれど、常に人間はより大きな「人形使い」に命令を受けて、それを意志と錯覚しながら生きているのではないかしら?
――啓示的存在者としての人間には、各々に「人形使い」が存在している、ということなのでしょうか?例えば、ある学生がプラトンを読もうと決意したその日に、別の学生がアリストテレスを読もうと決意したのだとすると、双方にはそれぞれ別々の啓示、つまり異なる「人形使い」の操作が働いたということになると思われますから、そうすれば全ての人間が内なる世界に超越的な神を宿しているということに帰結するかと思われます。しかし、前の議論から引用すれば、神とは一者であって、けして人間の数と同じだけ存在しているわけではないでしょう。というのは、神は無限を本質に持つと考えられていますし、人類の数と同じだけの神が存在するのならば、それは有限であって、神の本質と矛盾してしまうからです。
――「神は無限であり、完全である」としたのはトマス・アクィナスだったわね。トマスが規定する無限には二種類あって、一つは「ある観点のもとにおいて限界を欠くもの」、例えば、同種の樹木における、樹皮の形の数知れないアレンジメントね。もう一つは、「絶対的無限」。話を戻すと、「人形使い」は単数であり、一者であり、同時に無限の糸をマリオネットの上に垂らしている。私たちが自由意志に基いて行動していることを、「人形使い」は知っているけれど、その意志の背後には、常に彼の操作が存在しているわ。つまり、私たちは拘束され、統制され、管理され、監視されているのだけれど、その監視者の姿を見出すことができないという形式において、存在しているの。一人の人間の生涯を舞台上の演劇として考えてみると、常にそこには偶然性に基いた台本によって、自由に演技ができる俳優が存在していない。ミシェル・フーコーは社会を「君主権社会」と「規律訓練的社会」に二大別したわね?それに対し、ジル・ドゥルーズは情報に統制された「コントロール社会」を主張していた。人生という名の舞台には、絶えず既に書き込まれた緻密な台本が俳優を規制していて、この限りにおいて俳優はマリオネットであると定義できるわ。こういった状況を生み出しているのは、情報の洪水よ。垂れ流し状態の情報の海で生きている人間における、「魂」の状態は、常に慾動に支配されているの。「魂」は複雑よりも簡潔さを、迷宮よりも一本道を希求しているものよ。私たちが「人形使い」の糸に気付き、台本に自由意志を取り戻すこと、それはつまり「人形使い」の書き込んだ台本の言葉を取捨選別するということを意味しているの。知識は限界を知らない、という言葉は一義的なものでしかないわ。知識が限界のなさに根を持たせる時、その担い手は己が慾動に支配されていることに無知であるか、或いは盲目を演じているということなの。必要なのは、「人形使い」という一人の役者の存在に我々人間が気付き、その呪縛からの解放を志向するということ。「魂」という言葉も、本来定義されるものではなく、老子の「道」の概念のように、無名無形の論理に貫かれているものなの。「人形使い」は「魂」までも操作する権力を持たない…。
――一つ、質問したいことがあります。フィンセント・ファン・ゴッホは「代償的創造」を行った画家であるとされていますが、彼が自らを精神病院に閉じ込めたり、絵具を飲んだり、片耳を切断したりすることは、彼の「魂」が求めていたことなのでしょうか?それとも、彼は彼の信じていた「人形使い」に導かれ、その役柄を果たした一人の道化だったのでしょうか?
――ゴッホの生きていた時代に、そのような考え方が芸術家のみならず思想家の間でも浸透していたのは事実ね。ニーチェはある感覚の欠如が、別の感覚の異常なまでの鋭敏化に繋がることを示していたし、それを天才と呼んでいた。例えば、ゴヤは聴覚を失ってから、それまでの絵とは一線を画したデモーニッシュな世界の一面を暴き出したけれど、芸術において、自ら耳を切り取ろうとする一例が示すように、「代償的創造」による表現の飛躍、衝撃性が発動されるということはあるわ。ゴッホの「魂」と「人形使い」の関係については、私たちのそれと何一つ変わらないといえるでしょう。つまり、彼も統制され、監禁され、幽閉されていたのだけれど、むしろ芸術活動においては、自らを危難に曝すことでその活動が瑞々しく炸裂することを本能的に察知していた。フォーブは野獣を意味するけれど、ゴッホの嗅覚は「魂」と絵画の関連について、深淵にまでその臭いを嗅ぐことができるほどに動物的だったと思うわ。ただ、「代償的創造」をせずに、暴力の時代のインパクトを示したフランシス・ベイコンに、私は感覚の美しい論理を感じるのだけれど…。
 陽彦はしばらく沈黙した後、どこか言葉にし辛そうな面持ちを浮かべながら、あくまで青年紳士的に口を開いた。
――順子さん?貴女はもしかすると、「神」という言葉を使用するのを忌避するために、あえて「人形使い」という言葉を用いているのではないでしょうか?その証拠に、貴女は先刻、「人形使い」に「神」の特質を認めましたが…。
――一者、すなわちト・ヘンという言葉を用いたプロティノスによれば、存在には三つの階層が存在するわ。彼はネオ・プラトニストであったけれど、プラトンのいう「世界制作者」は二層目の「英知」、つまりヌースに属すると規定していたの。まず魂、プシューケーが存在し、その上に英知であるヌースが、そして「魂たちは地上にまで進出したが、彼らの頭は天井高く掲げられている」といわれるとおり、英知の上に最高原理である「一者」、ト・ヘンを置いた。尤も、この発想はプロティノスの前にも既にヌゥメニオスが考えていて、『エネアデス』にも彼の本が混在しているとされているけれどね。ところで、陽彦君は『アッシャー家の崩壊』はお好き?ポーは神について、ビイルフェルド男爵の言葉を引用して、次のようにいったわ。「神の性質ないし本質については、我々は全く何事も知らない――彼の何ものたるかを知るためには、我々自身が神とならねばならぬ」ト・ヘンは神を規定する言葉だけれど、「始原的なる単一」といえば、それはけして神を表す言葉ではないわ。ポーは全一性、ワンネスという言葉で物質的宇宙の原理を述べたり、或いは単一、つまりユニティという言葉を使用していたわね。彼にとって神は「物質に非ざる霊」であったけれど、私は「人形使い」が「神」であるとは考えていないの。ただ、輪廻転生という一連の変身を基軸とした循環システムの中心に佇む存在を、我々は「神」と呼称することに否定すべきであると考えるわ。それは「人形使い」であり、けしてト・ヘンや世界制作者や世界霊魂ではないと思うの。確かに個別的な魂が循環を繰り返す、その全体的な概念として「人形使い」は世界霊魂という母集合的な存在ではあるけれどもね。重要なのは、「人形使い」でさえ、世界劇場の一人の俳優に過ぎないということを、我々が知るということなの。
――つまり、僕たちが「人形使い」の役柄を演じることもできる…、とお考えなのですか?
 順子はゆっくりと古いアンティークの仏蘭西人形が並べられた棚に目線を移した。そして、壁側に飾られているベイコンの『世界』を見て、小さく嘆息したのだった。
――陽彦君はカトリックスクールを母校に持つ生徒だものね、一昨日の対話で貴方に無神論を強いたことを今ここで詫びたいと思います。ただ、私はニーチェが神の死を宣告するよりずっと以前から既に神は消尽されていると考えているの。この世界の統率者は冷酷奇怪な「人形使い」、そしてそれに操作されているマリオネットこそ、私たち人間の姿ではないかしら?
 陽彦は不意に、名状し難い哀しみの樹液に沈みこんでしまったような意識を浮上させた。そして、静かに胸に手を当てると、彼女のどこか潤んだ、臆病な栗鼠にも近い瞳を見つめた。
――議題を進行させましょう。次は「幸福の喪失と、嫉妬」についてでしたね?それとも、一度海辺の砂浜を散歩しましょうか?僕はそちらの方が今の順子さんには相応しいように感じられるけれど…。
 順子は淡い木漏れ日のような天使的な微笑を浮かべた。そして、白い雪色の膚をした右手を、ゆっくり軽やかな動作で陽彦に差し伸べた。その姿は、数知れない国家の危難を克服してきた、賢母のような若き高貴な女帝を彷彿とさせた。陽彦は頬に笑窪を覗かせて、明るい弾んだ調子で順子の手を握った。二人は海辺へ散歩に出たのだった。
 砂浜の上では、海鳥たちが円環を描きながら静かに舞っていた。大空には明確な輪郭を持つ雲が疎らに存在していたが、どれも互いに結び付き合うのを嫌っているのか、そこかしこで散り散りになっていた。波はあくまで優しく、波打際を濡らしていた。数年前に突如姿を現した大きな流木の剥げ上がった表面の上で、小さな二匹の蟹がじっと陽彦と順子を観察していた。
――順子さん、本当に気分は大丈夫でしょうか?僕は…、こんなことをいうと貴女に失礼だけれど、順子さんがずっと何か懊悩を抱えて、それを僕に隠しているような気がします。どんな些細なことでも、告白して下さい。僕は貴女の相談なら、何週間でも付き添いをするつもりですが…。
 順子は陽彦の手をギュッと握り締めながら、どこか弱々しい微笑を浮かべた。陽彦は順子の横顔、その端正で彫刻的な美貌、美しく長い黒髪が微風を孕んで棚引く姿に青年的な情熱を揺すぶられていた。いつまでも若い乙女の悲哀を湛えたような、陰影の深い瞼が、陽彦の心を掴んで離さなかった。彼は十六歳も年上の順子と、このような貴重な思索を深められることに感謝していたし、心の中では既に抑え切れない順子への愛慕が募っていたのだった。だが、少年のような内気さと臆病さをも含み持っていた陽彦は、なかなか順子に己の想いを告げられずにいた。
――陽彦君、本当に優しくしてくれてありがとう…。堅苦しくて、可愛げのないつまらない女でしょう?私は怖いの…。いつか、きっと「神」は私が生まれてから今までの期間に記憶してきた全ての知識を奪い去るはず…。病が毎日進行しているって、はっきり感じるもの…。きっと、いつか自分が誰であるのかも、人間の魂がどうしてこれほど涙ぐましく輝いているのかも、陽彦君が私にとってどういう存在であるのかも、忘れ去ってしまうのでしょうね…。私は赤子のような言葉で、貴女に迷惑をかけて……。
 陽彦は順子の手を、彼女が先刻そうしたよりも強くしっかりと握り締めた。彼は、彼女が何よりも大切にしていた書庫の膨大な書物を、彼女自身が数週間前に全て灰にしたことを知っていた。その頃の順子は、奇妙にも明朗に見えたのだった。そして、海辺の別荘に隠遁してから、陽彦は彼女がまるで迫り来る忘却に必死で抗うかのように、彼に何もかも見聞きしたことを明け渡そうとしているのを感じ始めたのだった。それはまだ若い陽彦にも、残忍で無慈悲な「神」への抵抗として、痛切に伝わっていたのだった。
――たとえ貴女が揺り籠の中でしか僕の手を握れなくなったとしても、僕にとって順子さんはずっと順子さんのままです。僕がマルメゾンの店長になって、貴女と蛍ちゃんを守っていくつもりです。
 彼にはそう彼女の心を慰めることしかできなかった。そして、陽彦は彼女に、幸福の喪失と、それに対する嫉妬ではなく、二人で噛み締め合えるささやかな、小さい、けれども溢れるような悦びの泉に満ちた幸福の追求を話し合いたかった。
――哲学的な領域で逸早く、「不安」を主題化したマルブランシュによれば、「善一般への傾向性は、我々の意志の不安の原理である」とされているわ。私たちは幸福を喪失し、不在にさせているからこそ、幸福が何かを知ろうとする。不安が私たちを学習に赴かせ、それを絶え間なく継続させる。ショウペンハウエルは幸福と文学の関係について、「いかなる文学も、幸福を得ようとする格闘が描かれるだけで、永続的な幸福それ自体を描けない」と述べていたわ。そして、「いずれの人の一生も、全体から一つ特徴を抜き出すと、それは常に悲劇である」としていたわね。デ・キリコのマネキン人形が宿す独特な不安や悲哀、孤独、それが人間存在の核であると私は思うわ。ハイデガーは「不安がおさまって、〈もともと何でもなかったのだ〉という時、これはそれが何であったのかを存在的にいい当てている」といっていたわね。つまり、幸福が喪失されているということ、幸福に嫉妬するということ、それが人間の意識の本質であり、ハイデガーは不安の対象を「無」と規定し、「どこにもない」としたわ。そして、この「どこにもない」という宙吊りの状態によって、人間は世界に逆説的に直面しているとしていたの。ところが、「愛する?だが、だれを?いっときのものなら、労する価値はないし、とわに愛するのは不可能だ……」神と人類に奉仕する求道者トルストイはそう自問自答しつつ、「個我の幸福を否定して、個我を生命と認めるのをやめること――これこそ、統一に立ち戻るために、そしてまた、それへの志向が生命となっている幸福を、手に入れるものとするために、人間がやりとげねばならぬことなのだ」といったわ。そして、ドゥルーズはまるで少年のようにこう讃歌していたわね?「《ひと》、それは何と素晴らしいものであろうか」エクスクラメーションマークを付けるべきかしら?「《ひと》、それは何と幸福に欲深いものであろうか!」……私は最近、あの子にさえ嫉妬するの。陽彦君と、今後ずっと一緒に暮らせるのかと思うと……。世界は醜い、世界は醜い、世界は醜い、何度暗誦しても足りないのよ…。ねえ、私が今何を考えているのかわかる?私……貴方とベッドで抱き合うことばかり……抱き合った後に、もうこの世界から消え去ってしまいたいと思っていたのよ…。罪深い女でしょう?私は貴方の聖母マリアになんて、到底なれないのよ…。貴方を道連れにして、私はもう死んでしまいたいのよ………。
 陽彦は立ち止まり、順子の涙に濡れた頬を見つめると、ゆっくりと近付いて、指先で優しく拭った。そして彼は、最早いかなる書物にも見離された、一人の孤独な美しい乙女を癒してやるようにして、強く、誰よりも強く順子を抱き締めた。二人は、まるで少年少女の頃の美しい日々に帰還したかのように、無垢で熱情的な接吻をし合った。やがて陽彦は順子の紅潮した頬に冷たい手の甲を軽やかに乗せて、優しげな微笑を浮かべた。
――僕と順子さんは二人で一輪のバラの花になるべきなんだ…。
 海辺で夕陽が熱情の光を海面に放っている頃、最早砂浜の上で抱き締め合う二人の姿はなかった。広い、清潔なバスルームの湯船の上では、「雪のワルツ」を意味するバラ、シュネーバルツァーが数知れない山となって浮かんでいた。純白の浴室は甘美なまでに白バラに溢れ、朦朧とした視界の中で、湯船に浸かっている一人の青年と一人の女性の姿があった。順子は讃美歌に包まれたような強靭な幸福感を噛み締めながら、ようやく陽彦への想いが通じ合えたことに、ひたすら涙を流していた。陽彦は燃え滾るほどに熱い湯の中で、二人が出会うきっかけとなった清楚な淡い桃色を孕んだバラ、花嫁の花茎を咥え、唇から深紅の血の滴を湯面に落としていた。順子は花嫁の花弁の一枚、一枚を唇に挟んでそれを湯船に静かに落としていた。やがて彼女は若い恋人の唇がバラの棘で傷ついていることに気付き、喉元まで垂れた血の小川に舌を這わせた。彼らの心臓は活火山のように情熱の火で沸き上がり、一輪のバラの花を口で挟み付け合いながら、互いの肉体をほとんど本能に任せて欲し合った。二人の癒合された意識の世界には、最早バスルームの壁や、浴槽などは存在していなかった。彼らは清楚にして無垢であり続けるという掟を破ったケルビムに守護されし男女のように、温かい果樹園の深奥に広がる情熱の泉で互いの魂を一つにするのだった。陽彦の伸ばした繊細な指先が順子の胸の上で溶け合い、互いに魂の法悦を引き摺り上げる動作を探り合った。陽彦は順子の濡れて頬にまで下りた髪を優しく、少年のように澄んだ眼差しで払い上げながら、最も愛情を注ぐべき女性のために用意していた最大の悦びに溢れた接吻を贈った。
――嬉しいわ…。陽彦君、私たち、まるで天使になったみたいね…。
 順子が陽彦の唇の傷を気遣う眼差しで、けれども未だかつて味わったことのない肉体の悦びで一切の哀しみが浄化されたような笑顔を浮かばせながらそういった。陽彦は青年らしい瑞々しく筋肉の引き締まった頑丈な両肩に力を宿して、我を忘れたように順子を更に強く抱き締めるのだった。
――貴女の存在が僕の全てです……。
 泉の水面が立てる波の運動はいよいよ激しく、焔を放たれた果樹園は一つの狂熱を宿した大地のようにして犇めき合い、燃え上がった。やがて蛍子が母親を呼ぶ声で、二人は急速に現実感を回復したが、しかし花冠を崩し合って水面で舞踏する数知れない白バラの運動が、彼らに新しい熱情の火を放ったのだった。順子は蛍子が「ママー、どこにいるの?ママー?」と呼ぶ大きな声に返答することなく、ひたすら目の前にいる一人の誘惑的な王子との聖なる儀式に溺れた。二人は必死で互いの擦れた声が唇の奥から溢れ上がるのを押さえ込みながら、湯船で踊り狂う白バラたちに更に強大な運動を与え続けるのだった。
 その日の夜、順子は蛍子を連れて、陽彦と外食することにしたのだった。海辺の静かな夜の街を、親子のように三人で歩くことは初めてだった。順子の黄色の屋根をした別荘は街外れの波打際に建っていたので、海の幸をベースにして都会にまで名を轟かせた西洋料理店までの道は徒歩で三十分間ほどもかかるのだった。旧港には数知れない漁船や玩具を大きくしたような白いヨットが、次の出発を月明かりに照らされながら密かに待っていた。民家の窓からはどれも優しく淡い灯りが洩れ、路地裏にまで潮の臭いが広がっていた。途中、三人はこの街唯一の神社の前で足を止めた。雑木林に囲まれた大きな、暗い洞穴のような神社の入口の両脇には、知的な頭部を持つ老いた亀の石像が二つ置かれていた。順子は境内に入ることはせずに、隣に立っている陽彦と蛍子に温かく微笑みながら口を開いた。
――浦島伝説に初めて竜宮が登場するのは、藤原浜成の『天書』であるとされているわ。その書では、老人化した浦島子は亀と共に丹後国で浦島明神となったとされているの。この街は、言い伝えによると聖性を獲得した亀が一時の休息の地に選んだ土地で、それはここが最も竜宮に向かい易い海辺であったためだとされているのよ。浦島伝説自体は『風土記』や『万葉集』にも来歴を探ることができるけれど、中核に存在しているのは中国から伝来した神仙思想、つまり道教なの。
 順子が穏和な優しい口振りでそう丁寧に語ると、陽彦は関心を示して大きく頷いた。すると、仲間入りしようと焦燥を抱いたのか、二人の顔を低い場所から健気に見つめていた蛍子が活発な笑顔を覗かせた。
――ママ?浦島太郎はどうしてお爺ちゃんになっちゃったのかしら?
 娘のその何気ない愛らしい質問に、順子は膝を折って彼女の視線に合わせた。母親は娘の美しいショートカットの髪を落ち着いた仕草で撫でてやりながら、赤いスカートの先に付いていた木の葉の欠片を見出して、それを丁寧に払ってあげた。
――蛍ちゃん、もしもあなたが学校の先生から出された夏休みの宿題を怠けたらどうなるかしら?蛍ちゃんはきっと叱られて泣いてしまうでしょうね。私たちが知っている浦島太郎は、お姫様から玉手箱を貰う時に、それをただプレゼントされただけなのかしら?ママは何かきっと、約束事があったと思うわ。竜宮城で貰ったものは、人間の世界で使ってはならないというようなね。だから、蛍ちゃんもしっかり陽彦お兄さんの教えを聞いて、宿題を終わらせるのよ?いいわね、そして外でそれ以上に沢山遊びなさい。
 そういわれた蛍子は、叱られてしまったような気になったのか、急速に泣き顔になって、陽彦を小さな背丈で抱き締めた。
――蛍子しっかりやってるもん!ね?ハル兄?蛍子難しい算数にもがんばってるもんね!
 陽彦は優しい苦笑を浮かべながら、順子と同じように蛍子の視線にまでしゃがみ、この幼い無垢な少女の頭を撫でてあげた。白い大きなリボンを胸に乗せて必死に思いを告げようとする小さな蛍子は、陽彦に幼き日の愛らしい順子の姿を彷彿とさせた。
――ああ、もちろん蛍ちゃんは真面目にしっかり取り組んでるね。今度ママに因数分解を教えてあげなきゃね。もうできるもんね?蛍ちゃんは。
 実の兄以上に陽彦に親密感を寄せている蛍子は、尊敬する若き家庭教師からそうエールを送られて、急速に素晴らしい自信に溢れた笑顔を輝かせた。
――ほらあ!ハル兄だって蛍子のこと褒めてるよ!ハル兄の教え方はすっごい優しくて、わかりやすいんだから!まだ習ってない単元も、どんどん蛍子マスターしてるんだよ!円周率も……、えっと、二百三桁まで覚えた!
 頬をバラ色に染めて、愛する母親にそう懸命に学習の成果を告げようとする蛍子の姿に、順子は大きな、包み込まれていくような安心感を抱いた。陽彦はやや困惑した面持ちで、順子の顔を窺いながら明朗活発な蛍子に口を開いた。
――蛍ちゃん、あまり急いで難しいことばかり学ぼうとしなくてもいいんだよ?蛍ちゃんはママに似て賢い女の子だけど、苦しいようだったら、もっとスピードを落とすつもりなんだからね。それとも、学校に蛍ちゃんよりも成績の良い男の子がいるのかな?
 陽彦がそう優しい眼差しで小さな蛍子を覗き込むと、彼女はいよいよ頬を深紅に染め上げて、恥ずかしそうに順子の後ろ側から彼の顔を見上げるのだった。小さな乙女の瞳は潤み、順子が夕暮れに垣間見せた少女的な慎ましい輝きを陽彦に感じさせた。順子は突然背後に素早く擦り寄ってきた蛍子を訝しがりながらも、あくまで穏和で清楚な微笑を浮かべて彼女を見守っていた。
――ママ?蛍子ね、好きな人ができたよ!とっても偉くて、優しくて、かっこいい人!蛍子、その人と結婚するって決めたの!だからがんばって色んなこと勉強してるの!
 娘のその何気ない言葉を耳にした順子は、一瞬意識の奥深くで、自分の存在の核となる領野が根源的に揺さぶられたような名状し難い哀しみを浮上させたのだった。しかし母としての理性によって素早く感傷を遠ざけた順子は、温かい眼差しで娘の無邪気な顔色を見つめた。彼女は蛍子の透き通った頬に軽やかな仕草で指を乗せながら、ゆっくりと娘の意向を受け容れるようにして頷いた。涼しい秋の風が、潮の香りを孕んで三人が佇む神社の前にまで流れてきた。やがて彼らは西洋料理店に向けてゆっくりと歩み出した。到着した頃になって、蛍子が丸太に記されてスポットライトを浴びている玄関口のメニューを見つめながら、不意に小さく口を開いた。
――今日のハル兄はママのにおいがするね。
 翌日、陽彦と順子が憩う昼下がりの洋間の外では、優しい小雨が降っていた。二人の傍の窓辺にはオールド・ローズの藤色が麗しいミセス・ジョンレインと、このバラを存在しない青色へ変化させるかのような黄金色の黄鉄鉱を銀河的に散りばめた群青色のラピスラズリが隣り合って置かれていた。順子が穏やかな甘い眼差しで陽彦を見つめていた。彼女はバルザックの短編小説『オノリーヌ』に青バラに関する記述があることを想起していた。「じつは、僕、青いダリアと青いバラを作ってみたいと思っています。僕は青い花が大好きです。青こそは優れた魂の愛好する色ではないでしょうか」ギリシア神話において、ニンフの転生したバラにはアポロンが光を与え、ディオニュソスが香りを与えたが、死を暗示する青の色彩だけは与えられなかった。しかし、順子は青バラが「不可能」を、すなわち「不死」を意味するだけではないことを知っていた。マルドリュス版『千一夜物語』の第九九八夜から千一夜に描かれた「ジャスミン王子とアーモンド姫の優しい幸福」において、青バラは「夢見る恋人」を象徴している。陽彦は新しいディアレクティケーのために録音装置を慎重に準備していた。順子は健気に娘の世話を焼いてくれている紳士的な青年の逞しく整った背をうっとりして見つめていた。陽彦の引き締まった神話世界の王子のような肉体、半年前に一人旅したという南仏の散策を思わせる小麦色の膚、ずっと視線を注いでいると思わす接吻の誘惑に敗北してしまうような情熱的な唇…。
――順子さん?昼食後の珈琲セットを用意しましょうか?それとも、またいつものように海辺を二人で歩いてみませんか?勿論、この雨雲がすっかり晴れ上がってからですよ。
 陽彦は笑窪を浮かばせてそう優しくいった。順子はゆっくり頷き、やがて彼はキッチンの奥へと消えていった。しばらく彼女は胸の奥底で湧き上がる、理性ではけして抑制できないような肉体の渇きに襲われていた。昨夕の陽彦との浴槽での愛撫を思い浮かべると、彼女の魂は若い娘のように掻き乱された。「魂はもと、その全体にわたって、翼を持っていた」『パイドロス』によれば、人間の魂には本来翼が生えていたが、現在はその芽が固く閉ざされている。しかし、愛の情念、すなわちヒーメロスによって、翼の芽は溶かされ、魂は真の悦びを取り戻し、天高く魂の翼を広げるに到るのだという。順子の本来理性的であるはずの魂は、今青年と昼下がりにおいてさえも強く結ばれたいという本能的な欲求に苛まれていた。やがて陽彦が銀のトレイに二つの珈琲カップと角砂糖を乗せてゆっくりやって来た。彼はそれを二人の安楽椅子の中央に置かれた丸い小さな机に置き、「どうぞ、順子さん」と丁寧に微笑んだ。陽彦が安楽椅子に腰を沈めると、順子は指先を薄い深紅の唇に乗せて静かに口を開いた。
――ghostに関して見解を述べる前に紹介しましょう。漢代の異端思想の一つであった王充の『論衝』の「論死篇」にはこんなことが書かれているわ。私たち人間の中には、ghostと呼ばれ得る存在を目にすると主張する者がいる。仮に死者がghostになるのだとして、彼らがこの世界にも時折姿を現すのだとすれば、街路はきっと魑魅魍魎で交通渋滞してしまうでしょうね。何故なら、今生きている人間の数よりも、死者の数の方が圧倒的に勝っているから。それら全てのghostを見出すのならまだしも、ただ一つ二つのghostしか見出せないというのはよろしくない、こういったことを王充はおよそ二千年前に書いているのだけれど、結論として彼はこう述べるの。「人は死んでも鬼にならず、ものを知ることもなく、口もきけないとすれば、他人に害を加えることもできない」或いは、「人は物と同じで、死ねば精神は消え失せる。人は死ねば、精神もまた滅びる」したがって、ある人の死後に、彼、彼女の残留思念が具現化された形態を有し、ghostとしてこの世界の人間の前に突如として現れる、ということは起こり得ないというのが彼の見解ね。王充が異端思想家とされたのは、当時儒学の観念論化が流行していて、超越論的な存在とか、魔術的な説話が人々の間で信じられていたためなの。ところで、こういったghostに関する議論は時代と場所を変えてやはり存在しているの。十七世紀、スピノザの時代において、知識層を含め多くの人間たちがghostの存在を信じていた。彼との往復書簡でフーゴー・ボクセルは専らこのghostについてスピノザの絶対否定観に牙を剥いているわ。現代科学の視座からしてボクセルの見解はあまりに突飛なロマンティシズムのように見えるかもしれないけれど、彼はghostの存在を次の四つの理由から信じざるを得ないとしているわ。一つ、ghostの存在は宇宙の美と完全性のために必要であるから。二つ、世界の創造者がghostを創造したから。それらは物体的な被造物よりも創造者自身に似ている。三つ、霊魂のない物体があるように物体のない霊魂も存在するはずであるから。四つ、大気の上層には霊的な空間が存在し、ここはghostで横溢しているから。陽彦君?彼らはスピノザに「空想家」と一蹴されたけれど、証明方法に客観的で論理的な展開を見せられないという点で共通しているといえるわ。
――僕もスピノザや王充のように、ghostと呼称され得るような存在は空想に過ぎないと考えています。中学校時代のクラスメイトの女子に、ghostをこれまで少なくとも三体目にした、或いはその無気味な気配を感じた、という人がいましたが、仮に彼女の言い分を信じるとしても、証明するためには彼女固有の経験に来歴を持たざるを得なくなり、客観的な説得力に欠けてしまいます。しかし、ghostの存在を否定することは魂の存在を否定することに繋がり、順子さんが先日おっしゃっていた輪廻転生説をも完全に無効化し、突飛な空想と位置付けてしまうことになってしまうかと思われます。そういったことを踏まえて、僕は貴女がこの一見夢想的な問題についてどのような見解を述べられるのかに興味を持つのですが…。