聖アントニウス異伝

 

 あれはいつであったか、まだ私がアレクサンドリアで司教の座に就く三十年も前のことだ。当時、私は隠修士として荒野で厳しい苦行の身であった。私の師の名はアントニウスといい、中部エジプトの裕福な家庭に生まれたものの、若くして荒野で苦行する生活に入った者である。彼は枯れた薔薇を再び咲かせたり、盲者の眼に光を与えたりするなど、御存命であられた頃から既に聖人の誉れ高く、私も生涯に二度、彼の頭の上に白く輝いている天使の輪を見たことがある。彼は信に厚く、博識ではなかったが雄弁で筋骨にも優れ、異端のアリウス派が跋扈した時期にはその元凶であったエジプトの領主に嘆願書を送ってもいる。この領主は市井で多くの正統派のキリスト者を処刑したが、師アントニウスの忠告を聞かなかったためか、神の怖ろしい裁きを受けたのであった。
 師の偉大さに較べれば、私などは路傍の塵芥に過ぎないであろう。私は自伝を残すために筆を取ったのではない。これは、まだ私が師と荒野を彷徨っていた期間に体験した、ある秘密の記録書である。
 私たちの当時の服装は、乞食も同然であった。私たちは腹が減れば、荒野に散在する樹木から、僅かばかりの木の実を取って腹を満たした。持ち物は二人で共用の古びた聖書のみである。駱駝の毛皮を羽織り、草臥れた草履で歩く私たちの姿を見た旅人たちは、苦行に気遣って施し物を恵んでくれもしたのだった。
 ある夕暮れ、私は師から少し離れた岩山の上で瞑想に耽っていた。すると突然、死に者狂いで闘っている男の荒々しい声が耳に入った。私が近付くと、それは紛れもなき師アントニウスであった。彼は頑丈な両腕に血管を浮き上がらせて、今得体の知れない獣と取っ組み合いをしているのだった。その獣は、哀切を湛えた涙ぐましい子牛の頭部に、胴体は圧倒的な筋骨隆々たる巨漢でおり、背中からは神聖な白い鷲の翼を広げていた。更に奇怪なことに、子牛の額の白毛には、ギリシア語で時間を意味するκαιρόςという文字が、黄金色の刺繍のように焼印されていた。私は一目見て、荒野に悪魔が現れたと直観した。
 私は持ち前の、聖水で清めた悪魔祓い用の杖で助太刀しようとした。すると、師は自分の力に自信があると見えて、私の介入を視線で諌めた。私は立ち止まり、しばらく師と悪魔の激しい決闘を見物することにした。私には、これまで通り、師が全能なる御父から賜った正義の力を借りて、悪魔など容易く一掃するという確信があったのである。
 だが、夕陽が広漠たる大地に射す頃合になっても、悪魔は倒れなかった。師はまだまだ長期戦に持ち込む魂胆と見えたが、不意に放った悪魔の強靭な一撃を腹部に、まともにに受けてしまったのだった。師は奇妙な笑い声を血飛沫と共に発すると、そのまま悪魔に寄り添うように倒れてしまった。私は驚愕した。百、千の類を越す悪魔と対峙し、またこれらを全て殲滅してきた師アントニウスが、あのような悪魔としては実に弱々しい分際に敗北するわけがない。私が見たのは何かの夢幻、そう思ったのである。
 悪魔は師の、力を喪失した体躯を容易く持ち上げると、それを棒切れのように岩山へ投げ捨てた。私は悪魔向かって疾駆していた。杖を渾身の速度で悪魔の脳天に振り落とした。空振りである。悪魔は後方へ鳥類的な敏捷さで飛び去ると、翼を大きく広げた。私は悪魔の心臓目掛けて杖を真直ぐに投げた。羽ばたきながら杖の接近を目の当たりにした悪魔は、体躯を異様に縮めてかわそうとした。杖は代わりに悪魔の頭部に深々と刺さった。私には、荒野の夕暮れを背景にして、頭部を貫通された悪魔が中空で暴れ狂っている奇怪な影絵のようなものが見えたのである。
 悪魔はしばらく空を浮遊し、茂みへと墜落した。私が駆け寄ると、そこには黒い粘液質の血液が付着した私の杖のみがあった。悪魔の姿は雲散霧消していた。私は師から、あの手の悪魔の急所は心臓のみで、頭部を破壊しても新しい黄昏と共に再生すると聞かされていたのだった。止めを刺せなかったことと、師アントニウスが不意打ちで絶命したであろうことに、私は深甚な哀しみと動揺を覚えていた。やがて辺りが暗くなり、私は地に臥して天に跪いた。
 しばらく私は絶望的な気分で悲嘆に暮れていた。そして、ゆっくり暗い荒野で顔を上げたと思いきや、私は辺りの光景に愕然とした。そこは、先ほど私が瞑想していた、あの小高い岩山だったのである。太陽が地に沈んだはずが、荒野は未だ燦爛と夕陽に照らされている。私は背筋を冷たい手でひと撫でされたような気がした。
 次の瞬間、聞き覚えのある荒々しい男の声が聞こえてきた。疾駆して近付いてみると、そこには先刻と全く同じ悪魔と取っ組み合いをしている、師アントニウスがいたのである。気のせいか、悪魔の頭部は前よりも更に凶悪化した様相を呈しており、口は残忍な笑みで引き攣っていた。悪魔の体躯は以前に増して、肥大化しているようにも感じ取れた。
 「アントニウス様! すぐに助太刀致します!」
 私は問答無用で参戦するつもりであった。だが、師はほとんど悪魔としか表現できないほど奇怪な怖ろしい眼差しで、私を横目で睨みつけてこういったのであった。
 「要らぬわ! この悪魔にお前は打ち勝てない!」
 私は師のその言葉に激しい衝撃を受けた。彼が私に厳しく当たるのは、私が歩き疲れて不平をいった時と、聖書朗読の日課を怠った時だけだった。それも、彼は穏やかに私に接した。この時の師の口調と容貌は、まるで別人のように感じられたのである。
 闘いは私の予想通りになった。またしても師は悪魔に腹部を一撃されて、寄り添うように倒れ込んだのである。師の強く厳しい瞼が、絶命して眠りびとのように安らかになってしまっている様まで、同じだった。悪魔は師の亡骸を胸にしたまま、歓喜のあまり涎を垂らしながら絶叫した。その衝迫的な、気の狂ったような叫びは、荒野の全ての獣類を恐怖の底に叩き付けたことだろう。
 私は即座に杖を投げた。悪魔が飛び立つよりも早く、私の放った杖は悪魔の心臓を見事に貫いた。悪魔が老婆を何千人も集めて、一斉に火刑に処した時のような凄まじい断末魔を発した。大地が痙攣した。胸をしっかりと貫かれた悪魔は、急速に石化したのか全身を硬直させていた。そのまま、樹木のように奇妙にも、ゆったり倒れた。
 私は近付いて悪魔の死骸を眺めた。悲壮な子牛の顔をしている、極めて不気味な悪魔である。その目元には、幾つも黄土色の目脂が付着していた。目は地獄で何度も凄惨な拷問を繰り返してきた悪魔特有の、白濁して虚無的な、そしてその虚無を嘲笑うかのような眼差しを残していた。口からは、大きく彎曲した漆黒の太い舌を出していた。胴体は、山男のように胸毛に覆われており、今も黒い血を貫通した箇所から、間欠泉のように溢れ出させている。先ほどまで師と闘っていたことを物語る、腹部に溜まった脂汗の塊が、沈み行く夕陽を浴びて輝いていた。
 私は不意に眩暈を感じ、ウッと唸って両目を閉じた。そして、瞼を開いた。私がいる場所は、最初と同じあの瞑想していた岩山に戻っていたのだった。ここにまで及んで、私はあの悪魔が仕掛けた不可思議な魔術に気付いた。この岩山の周辺地帯では、そこを悪魔が塒としていたためか、時がウロボロスの蛇のように、互いに互いの尾を噛み合って循環している。ここは時の迷路なのだ。すなわち、試練を受けているのは師ではなく、私なのだ。悪魔が時間の直線的な流れを狂わせ、今、まさに私に怖ろしい試練を仕掛けているのだ。ここから抜け出さねば、私の肉体はおろか、精神までも朽ちるだろう。
 そこで、私は今度は日没が訪れるまで、同じ岩山で瞑想を続けることにした。やがて予期した通り、師の闘っている激しい声が聞こえてきた。刹那の沈黙が訪れた後、悪魔のけたたましい哄笑が私のいる岩山まで響き渡った。私は悪魔がこちらへやって来るのを待ち構えていた。瞼を閉じ、もう一度開いた。悪魔は音もなく、影もなくそこにぼんやりとこちらを眺めながら直立していた。
 「時の迷路を仕組んだのは汝か」
 私がそういうと、悪魔が私と同じ声色で以下のように冷静に返した。
 「時の迷路を仕組んだのは汝である」
 私は更に続けた。
 「この岩山でお前の亡骸を磔にすれば、その呪縛は解けるだろうか」
 すると、悪魔は先ほどと同じ調子で私にこう返した。
 「この岩山でお前の亡骸を磔にすれば、その呪縛は解けるであろう」
 悪魔にも階級は存在するが、この悪魔は人間の声を鸚鵡返しする能力しか持っていないようだった。同時に、それは解答を提示してもいるのだった。彼は私が疑問形で尋ねたのに対して、「解けるであろう」と推定して返している。それは彼が悪魔であると同時に、時間の迷宮を支配する存在であることを物語っていた。ギリシアの神話なら私も幼年時代から親しみを持ってきたが、直線的に進む時間であるクロノスに対して、悪魔の額にも刻まれていたカイオスとは、人間の心によって流れを変える時間を象徴していたからである。
 私は即座に立ち上がり、杖を勢いよく悪魔の心臓目掛けて投げ放った。それは素晴らしい速度で悪魔の心臓を貫いた。もう何度目かの、食傷気味な悪魔の煩わしい断末魔が響く。私はその死骸を抱えて、岩山まで引き摺った。続いて、腰布から縄を取り出し、悪魔の肉体を岩山に結び付けた。悪魔は、夕陽を浴びながら、ぐったりと動かなくなった舌を垂らしていた。
 夕陽が沈む頃合になって、私は悪魔の肉体の上に座った。そして、ゆっくり瞼を閉じて、瞑想を始めた。瞼の裏で、辺りが闇に包まれたことを知り、私は再び目を開いた。
 「ファビアヌス、どうした? 目を覚ませ」
 師アントニウスが心配そうにこちらを眺めている。私の足元からは、忽然と悪魔の姿が霧消していた。私は地面に降り立ち、師に跪いて彼の膝に寄り添い、時の迷宮からの解放を感謝した。私は師に、ほんのありふれた岩山で瞑想している隙に、悪魔の試練を受けたことを正直に告白した。私の真摯な語りを耳にしている間、師は我が子の愛らしい泣顔を見て慈愛に溢れた微笑を浮かべていた。すると、私がその悪魔の額に刻まれていたギリシア語の話を持ち出すに及び、師アントニウスは呵呵大笑した。しばらく何か意味深長な眼差しを覗かせつつ哄笑していたが、遂にその異様な光景に耐え切れずに私は師の身体を揺さぶった。
 「何か御存知でありましょうか?」
 「おお、無論知っておる。わしも以前、お前と同じ悪魔に遭遇した。その時、わしは一体何十回、お前が死ぬ光景を目にしたことか! あの悪魔の額にも、やはりカイオスという烙印が読めた。そうかそうか、お前にも遂に、あの頃のわしと同じ試練が到来したのだな。わしはそれが嬉しいぞ」
 師はそういうと、陽気に目指すべき荒野の果てへと歩き始めたのであった。私はしばし、呆気に取られていた。         時の迷宮、これは悪魔が用いる罠の中でも、最も戦慄すべき企てのように思われる。私は既に、淫らな女の体をした悪魔を超克し、御子キリストの神聖なる名を穢す偽預言者に化けた悪魔をも打倒した、と高を括っていた。だが、悪魔は思いもよらぬ方法で、突然私を試したのだった。
 これは師の口癖であり、老いた今でも私が弟子たちに話す言葉であるが、悪魔とは、それに遭遇する人間の心が、創り出す存在なのだ。だとすれば、時間の直線的な流れを、円環に変容させてしまう悪魔とは、一体私の心の中のどのような暗部の象徴だというのであろうか。それは、神が定めた時の流れの法則に逆らうということ、すなわち神の存在の必然に抗う、ということではないのか。このような信仰的な危機感を抱いた私は、地に臥して、両手を握り締めながら熱心に祈るしかなかった。私はしばらく、過去、現在、未来、そして永遠について想いを馳せた。
 もしかすると、時の循環とは、永遠の見せる一種の遊戯なのかもしれない。そんな直観が、何の根拠もないのは承知で、私の意識を掠めた。我々が常に流動する現在の直線的な流れから脱して、天上的な永遠との合一を希求するように、時の無限の反復とは、やはり現在からの超越の様態なのではないか。だとすると、時の反復も永遠も、本質は神を欲する信仰の輝きの内部に帰属されるはずである。そのような考えを抱きながら、私は懸命に祈っていた。
 やがて師が私のいるところまで戻ってきた。見上げると、彼は夕陽を浴びながらにこやかに微笑んでいた。その答えは師アントニウスにも判らないのかもしれない、と私は彼の笑顔を見上げながら感じていた。とにかく、私には尊敬すべき師がおり、今こうして彼の優しい慈愛に溢れた眼差しを受けている。そのことは現在であり、明白な実在の世界であり、そして私の意識が織り成している、一つの幻に過ぎないのだ。

 

(FIN)