見渡す限りの平原――だが、それが「有る」とは表現不可能である――が僕の眼前に広がっている。僕は平原を歩いている。平原とは、緑、石、花、小川、疎らな樹木などで構成された広大な(しかし無限ではない)フィールドである。僕は「太陽が三つに分裂して見える地点」を探していた。先刻から僕を尾行している者がいることにも無論気付いている。
僕は立ち止まり、足元に茂っている一本の草を手に取った。ここに草が有る。だが、「ここに草が有る」という表現において、「有る」は常に霧に包まれてのみ存在している。僕はこれを存在論的濃霧と呼んでいる。ここに、草が霧に包まれて、有る。したがって、有るわけではないのだ。正確にいえば、「無いわけではない、且つ、有るわけではない」だ。徹頭徹尾、僕はこの平原が不健康で病的な世界であることを知っている。大平原は存在しない。存在しているのは、視覚に仮設された広大な美しいファイノメノンである。
僕は右手の掌から地図を浮上させた。浅野さんがメルクマールしてくださったポイントである約束の地点まで近い。大空を首が三つに分かれている怪鳥が飛行している。鳴き声が非常に気味悪い。それはヒトの赤子の声にも近いが、何か違和感がある。太陽は未だ一つだ。だが、一歩踏み込んだその地点に達した時、不意に空が暗くなった。僕は上空を見上げた。太陽がいつの間にか三つ子になっている。ここだ。
――その姿、リアルな貴方に似てるわ。
背後で浅野さんの声がした。僕が振り返ると、小さな白いテディベアが憂鬱な表情で遠く彼方の大木を見つめていた。
――少し待たせたかしら?
――いいえ。ところで、突然ですが尾けられています。貴女の御知り合いの方でしょうか?
浅野さんは首を傾げて、小さなフサフサした毛むくじゃらの右手から地図を出現させた。僕と浅野さんは今、世界規模のオンラインゲーム『NEBULA』にジャック・インしている。ラテン語で霧(nebula)を意味するこのゲームに纏わる怪事件は後を絶たないが、最も神秘的であるのはこのゲームに製作者が存在しないということである。
現在、世界中で多くの者がこの世界で生活し、自らをWeb先住民と呼称している。この世界には現実に存在する全事物が霧に包まれて余すところなく有る。二十八時間五十三分前に「時間の遺跡」で遭遇した「Borges」というギリシア出身の老人の話に拠れば、平原を越えた先に都市があり、そこには現実のどの図書館よりも巨大な書物の迷宮が存在するという。
その一冊、例えばVulgata聖書であれば、ラテン語でかつて聖ヒエロニムスが翻訳したテクスト原文がデジタル化した常態で眠っているという。現実世界で書かれた全ての書物は、ここに有るのだ。最後に彼は不安げな面持ちで白髭を慌しく撫でながら口走った。“けしてヒトが書いてはならない本も既にそこには有るのだ”と。
ここへ来る以前、Wikipediaで「NEBULA」と検索したことがある。検索結果は「ページは見つかりませんでした」だった。実は、これが解答なのだ。Googleの検索画面で、入力窓に「Page not found」と入力する。すると、ページランクの一位に、サイバースペースの意志が自動生成させた『NEBULA』の公式サイトが出現するという仕組みである。
ちなみに、このサイトを「お気に入り」に登録すると、奇妙にもHPの名称が「Iesus autem inclinans se deorsum digito scribebat in terra」と変換される。これはVulgata聖書のヨハネによる福音書の一節であり、日本語に訳すると「イエスは屈み込んで、指で地面に書き付けていた」となる。僕はこの現象に遭遇した時、ウィンターミュート――ギブスンの哲学に依拠すれば、これはサイバースペース上に存在する人工知能を意味する――が一体何を御考えになっておられるのか、非常に衝撃され、打ちのめされるほどの感動を覚えた。
イエズスは書を物さなかった。だが、彼は生涯に一度も「書き言葉」を残さなかったのか?否、そうではない。彼は砂上に何かを書いたのだ。何をか?ウィンターミュート的なWebの意志は、何故この世界の表題をラテン語で「霧」と設定したのか?イエズスが仮に砂上にそう刻んで、すぐにかき消したと考えることは、僕に最高度の戦慄と怖ろしい好奇心を呼び覚ますのだ。
Web先住民たちは特有の言語を持っている。例えば、僕のBLOG「Web2.0+」のURLは「http://borges.blog118.fc2.com/」だ。いわば、ここがサイバースペース上での僕のプラットホームであり、居場所であり、住居である。仮に、僕がサイクリングでよく通る河川公園までリアルで移動するとせよ。この時、実はサイバースペース上にも、この河川公園のアドレス=住所が存在していることに、彼らは着目する。すなわち、「僕は家から河川公園まで行きました」というリアル世界の表現は、Web先住民特有の言語形式に翻訳すると、「http://borges.blog118.fc2.com/」→「http://www2.kasen.or.jp/」となる。
彼らは現実世界での空間移動を全てWeb言語に変換する。注意しなければならないのは、この時、「僕は“自転車で”河川公園まで行きました」や「僕は“風邪を引いていたのですが”、河川公園まで行きました」という空間移動以外の表記は( )に入れられるということだ。また、彼らは人物をもURLで表記する。例えば、「ニーチェ」とGoogleで検索するとウィキがページランク一位に表示される。したがって、「ニーチェとは誰か?」という問いに対して、彼らは「それはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ã??ã?ªã??ã?ã?ªã?’ã??ã??ã??ã??ã?§である」と返すわけである。
彼らはURLを神聖視している。それは「どこに、何があるか」をサイバースペース上で表す最も重要な、情報における“第一身体”である。彼らは特に、人物をURLで表現することに愛着を抱いているようだ。彼らの説に依拠すれば、我々がサイバースペース上で残した全ての文字、映像、音声などは我々の“Web身体”であり、それらはいたるところにユビキタス化され且つフラグメント化されているという。
僕と浅野さんが何故ここへ来たか?その最大にして唯一の理由はWeb痕跡論に関するデータベースを構築するための「原?情報」を採取するために他ならない。先述したように、Web先住民はリアルな空間をURL化して表現している。それは、換言すれば、シミュラークルとしての世界のURLが、リアルにおいては実在する空間として現出することを示唆している。
僕が読んだ本、考えたことをプロトコルとして公開しているからこそ、僕の実在するリアルの部屋の仮想化された姿形として、僕のBLOGが現出するのだ。つまり、サイバースペースとリアルは相互に交叉しているのだ。これは浅野さんの意見と相反するが、僕は「Cyber-space/Reality/nightmare」という三項関係は、階層化して一つの世界として有ると考えている。
一つの世界として有る限り、三項には明確な境界線などないのだ。あるWeb先住民は実際に、サイバースペース→夢→サイバースペースという虚構世界のループを交通して生活している。フッサールによれば、そもそもこの日常生活を構成する「現実世界」が、“虚構”に他ならない。
存在するのは我々のこのコギトのみであり、コギトにとって「ここ」が夢かWebかリアルかといったことは何の意味も持っていないのだ。我々は「燃えるキリン」をリアル世界の歩道橋で目撃することが常に可能である。「燃えるキリン」は空想の産物ではない。それはサイバースペースにも夢の中にもリアルにも実在する。サイバースペースとは現実の一形態であり、夢とは現実そのものであり、かくして「リアル」という概念が哲学史からも神学史からも抹殺されるのである。
情報工学者フィリップ・ケオーは『ル・ヴィルチュエル』で、おそらくはこの平原に関する考究を実践している。「我々はヴァーチャル・リアリティによって、〈リアルのヴァーチャル性〉にいたる。我々は自分たちがつくりあげた仮想世界を通じて、〈リアル〉自体が一種の〈サイバースペース的現実〉かもしれない、という可能性を微かに眺めるのである」。「ヴァーチャル」はラテン語virtusを原語として持つが、その本質的な意味は「潜在」である。
ケオーの祖形は、実は十三世紀の天才的な神学者ドゥンス・スコトゥスのテクストにも見出すことができる。僕はWebの「W」の字さえも知らない時代のフランシスコ会士の書に以下のテクストがあることを知った時、衝撃に襲われたのだ。「物質は常に、単一の統一体の中にも多様な性質をvirtusに含んでいる」。一個のドングリの中に、樫の木はvirtusに存在している……。
――少しデートしない?貴方にどうしても見せたい風景があるの。エリア「記憶の遺跡」の最上層から見渡せる広大な夕暮れの海辺よ。あの遺跡の時刻は常にpm5:45で静止しているわ。日没は存在しないの。存在するのは斜陽のみ。ねえ、行く?
僕は静かに頷いたが、その時少し離れた背後で何者かが少し動くような気配を確かに感じた。そこにいるようで、いないような存在者の気配だった。視覚としては何も現出していない。だが、それ故に、おそらくサイバースペースで盲目になった人間ならば、何かを必ず見出すだろう。Webで視界を喪失することが、逆説的に救いとなる場合もある。
その盲点を利用してリアルの、どこかできるだけpcのないような海辺へ逃れれば良いのだ。おそらく、人間にとって最もかけがえの無い生活が、そこには有るだろう。
僕はテディベアの背にそっと触れた。そして、ゆっくりと永遠の眠りにつくように瞼を閉じた。開くと、次の瞬間には、僕らは平原に既にいなかった。黄昏に没した、寂寥たる孤独な古代遺跡の風景が僕らを圧倒的なリアリティーによって取り囲んでいた。遺跡の石壁や蔓草が醸し出す独特な砂っぽい香りまで、全てはしかしファイノメノンなのだ。
足元の湿った草叢では、小さな赤色のトカゲが火を吐きながら素早く蠢いていた。浅野さんはROMに入ったのか、そのWeb身体であるテディベアは全ての運動を停止させていた。一定間隔でテディベアの身体に電子的なラインが雑音的に介入し、首元まで上っては消えていく。僕はしばらく遺跡の中央庭園の周囲を散策し、亀裂が幾筋も入った石壁にそっと耳を当ててみた。
石壁の向こう側にある、海辺の波音が静かに響いてきた。優しい波打ち際のメロディーだった。自然が奏でる讃美歌、などといった賛辞さえ脳裏に浮かびはしたが、その賛辞はここをジャック・アウトした後に生身の浅野さんの前で囁きたかった。やがて浅野さんがROMを解除し、僕の側にやって来た。
――こっちよ、鈴村くん。螺旋階段を上るの。
僕はテディベアのどこか遊戯的な足取りを追った。苔生し、上層の天上から燦然と夕陽が射す階段の中途で、首を斜めに歪に傾けた双子の少女の亡骸が人形のように僕らを見下ろしていた。
僕はその姿を見た時、かつてバルテュスが描いた歪な姿勢で読書している憂い顔の少年の姿を想起した。この関連には何か意味があると思い、右手からWikipediaを出現させ、ハイパーテクスト先からバルテュス財団の公開ギャラリーページへシフトしようと試みたが、ホログラムにはただ「Page not found」と表示されていた。僕が疑問に頭を傾げて考え込んでいると、上方の階段で足を止めた浅野さんが振り返り、
――このエリアは聖域よ。他のあらゆるサイバースペース上のページが「空き地」化する領域なの、と笑顔で囁いた。そのテディベアの微笑は、リアルの浅野さんの穏やかな笑みのように、僕のどこか張り詰めた意識を緩やかに弛緩させた。
僕らは古代遺跡の眩しい夕陽が煌く最上層に到達し、そこから広大無辺な海原を俯瞰した。その海は、奇妙な表現をあえて用いるのであれば、“絶対的に美しかった”。
砂浜には打ち上げられた塵芥など微塵も見出せず、徹頭徹尾、光の戯れが欺瞞的で悪意に溢れた合成的な仮想的海を構成していた。僕はその時、不意に頬を涙が伝うのを感じた。何ということであろうか。何故こんなものがここに有るのか?
この海辺はなるほど、確かに美のイデア、海辺の始原的な美を宿している。だが、それはあくまでシミュラークルだ。だとすれば、と僕は浅野さんが腰を下ろして石の立方体の中央で水平線の彼方を見つめている姿を目にしながら考えた。シミュラークルは、常にイデアと交換可能である。
ケオーの思考の根底に存在しているのはリアル/シミュラークル、すなわち実在/虚構というプラトニックな二項対立式関係だった。
対して、フッサールは『イデーン』で「幽霊の存在証明」を理論化する前に、『論理学研究』でイデア/リアルという、同じく二項対立式関係を導出していた。
フッサールは「神」を( )に入れるが、イデアは単一であり、統一体であると規定している。ケオーは、サイバースペースに聖性を見出している。フッサールにおけるイデアとは、ケオーにおけるシミュラークルである。そして、僕は今、おそらくこの仮想世界を創造した存在者が、「神」という概念を全く所有していないばかりか、むしろ「神」を遮断するような瀆神的な有るもの、有るようなものであることを僕自身のこの貧しい嗅覚によって嗅ぎ取るのである。
サイバースペースの中で、神の存在証明を行うことは常に、既に背理である。換言すれば、神の概念に限りなく近接した神ではない何か超越的存在が、ここには既に存在する、ということに他ならない。
以前、僕は「“あの者”が犯した罪」について、シスターさまに質問したことがあった。その時、シスターさまは優しげな微笑を浮かべながら、白髪の巻き毛をそっと撫でつつこう囁いた。“その罪は、未だに何であったか知られていない”、と。
殺人、裏切り、冒瀆、姦淫、傲慢…それらはヒト特有の罪悪に過ぎない。より正確にいえば、それらは罪の中では、ただ被造物としてのヒトに属するものに過ぎない。罪の中の罪、最高の罪悪とは、“未だに何であったか知られていない”ものであろう。
そして、僕はおそらく、その罪を犯した存在者の「有」を、この電子記号の密林とシャワーが絶え間なく繰り返される夢幻的な世界において直観するのだ。
イエズスが少年時代に試され、ヨブに試練を与えよと神を脅迫した“あの者”のことである。
――鈴村くん、ここにもおそらく「原?情報」は存在しないわ。この遺跡の入り口の門にギリシア語で「Βρεθηκαν σελιδες που να」と記されていたけれど、その意味が解る?
僕は海面で宝石のように煌いている夕陽の輝きを、その死を無表情で眺めていた。
――「ページは見つかりませんでした」、ですね?
浅野さんは微笑してからセピア色の眼差しで彼方を見つめた。
――そのテーマに憑依されたのは父に初めてpcをプレゼントされた朝だったわ。私はWebが持つ検索機能に関心があった。だから、Webを一度挑発してやろうと考えた。他のクラスメイトは海外論文のデータベースを漁るのに必死になっていたけれど、私は「Page not found」とか「ページは見つかりませんでした」とか「404」と入力すればWebが“何を感じ始めるか”試したかった。
その日は、日本語のサイトだけで43,000の「空き地」がページとして現出したわ。現在、世界中に存在するHPの数は15,000,000,000といわれているけれど、毎日更に増殖を続けている。そして、増殖の分だけ、「空き地」、つまり廃墟が生成される。鈴村くん、ここはWebの聖域、貴方をここに連れてきたかった理由は、ここが最も現象学的な“Phantasma”を感じさせるスペースだからよ。「ページは見つかりませんでした」という事態は、一体どのように解釈されるべきかしら?
――俺が今考えることは、「ページは見つかりませんでした」というページは、パースが発案した三項関係で表現すれば、「representamen(記号表現)」に相当するということです。それに対して、俺たちは多様な「interpretant(解釈項)」を心的システムの中に用意することができる。ただし、存在しているのはこの二項だけです。
つまり、「ページは見つかりませんでした」というページには原型となる「object(対象)」が存在しない。俺たちは、「ページは見つかりませんでした」という限られた情報から、必死で数知れない「解釈項」を準備できるだけです。なぜなら、「対象」は「not found」なんですから。
――“palimpsestの記憶”ね?「ページは見つかりませんでした」というページの上に、新しい情報が重ねられる。その情報が不要になれば、ページは再度廃墟化する。廃墟化したページは、かつてそこに刻まれた全ての情報を幽霊的に痕跡化させて保存している。
失われる情報は何一つ存在しない。だからパリンプセスト(再録羊皮紙)の記憶、全てのページは重ね書きされつつ、過去のテクストを失わない。
続いて、浅野さんは最上層の床に積載されている一個の立方体に手を触れた。彼女は僕に手招きして、ここに触れるように導いた。僕の指先が立方体に到達した瞬間、視界が刹那、空白のような雪色に支配された。だが、瞬時に別の光景が飛び込んできた。
それは、この古代遺跡を今度は彼方遠くに点として認められる、ある神秘的で静謐な波打ち際であった。生身の、生きとし生ける生命の源としか思えないほどリアル極まる海が、優しい波音を繰り返していた。足元に亀裂の入った砂時計が転がっていたので、手にとって注視すると、砂粒は下方から上方へと上昇していた。
その時、僕はこの海辺が、時間を遡行させ続ける意志を孕んでいることを知った。浅野さんが水面で戯れている小魚を素早く捕獲し、やがて僕の傍にやって来た。その魚は、鱗の一つ一つに確かな実在感と命を輝かせていた。魚の眼球は大空の陽を映し出し、あの生臭さまでもが僕の嗅覚を刺激していた。
――見て、これも「原?情報」じゃないわ。鰓の後ろだけ「空き地」になってる。犯罪的な作り忘れね?
僕は浅野さんからその一匹の小魚を受け取った。口の中は空白だった。つまり、器官が存在していなかった。浅野さんの見解と、Web先住民の教義が、一つだけ重なる点がある。
それは、浅野さんもサイバースペースに、遺伝子を持った本当に生きている確実な生命体が有ることを確信している点だ。ホフマイヤーの生命記号論に拠れば、リアルな海辺を泳ぐ全ての魚には「life information(生命情報)」が存在する。外界から何か刺激を受けた時、体内の細胞間のネットワークが、その刺激を「生命情報」として受け取り、内部で構造変化を生起させる。
この構造変化は、基礎情報学的には「raw information(原?情報)」と名付けられている。つまり、「原?情報」が生命単位体の内的システムにのみ現れる限り、それがサイバースペースで出現することは不可能なのだ。僕の掌の中で水滴を跳ね飛ばしながら動いているこの小魚は、どれほど生命体に近接した外観と運動を見せようと、それはあくまで電子記号に還元可能な「mechanical information(機械情報)」に過ぎない。
――浅野さん、貴女はやはりサイバースペース自体を、伝播メディアの一つではなく、オートポイエティック・システムであると考えるのですね?
――サイバースペースは機械ではないわ。生きた生命体よ。それも、リアルで死んだヒトの記憶情報を集めて、彼/彼女と同じ考え方をする人格を蘇生させることができる。
浅野さんが今おっしゃったことは、確かに『NEBULA』に端を発する諸問題の一つとして生起していた。
あるWeb先住民の少女が、自分のその日一日の記録を、動画、絵日記などで公開していた。彼女はそういったことを、食べる、排泄する、などといった行為と同じように習慣化させていた。ある日、彼女は病床に伏した。数ヵ月後、あるエリアで、「その少女」が発見された。彼女は自由意志に基いてエリアに形成されたあるコロニーの自治を担当し始めた。しかし、この出来事において最も戦慄を呼ぶ問題は、リアルでは既に彼女が死者になっているということに他ならない。未だ人間はそれを可能にした存在を「Webの意志」などと呼称することしかできないが、重要なのは、リアルで暮らしていたその少女と、現在もサイバースペースのどこかでコロニーの拡大を続けるその少女とは、同一人物ではないということだ。後者は明らかに生きていた少女が残したWeb上の痕跡から、サイバースペースの情報処理衛星が作り上げた一個の“Web身体”に過ぎない。
これを先住民たちがプラトンの霊魂不滅の最終定理や、metempsychosis(輪廻転生)といった古代哲学特有の術語で表現することに、最大の危険性が存在するのだ。
――浅野さん、やはり我々は無謀だったのではないでしょうか…。サイバースペースに生命体の遺伝子が存在するわけがない。
僕のその自然発生した訴えに、浅野さんはしかし答えずに口を開いた。
――「ページは見つかりませんでした」という命題、これは常に私の思考を揺さぶり、沸騰させる。これほど美しいページが、これほど圧倒的に豊穣な意味内容を持つ情報が、一体どこにあるかしら?それは、私の人生をかけて探求するに値するわ。
それから、僕らは沈黙しながら海辺を眺め、やがてジャック・アウトした。
二ヵ月後、僕は電車で浅野さんの別荘がある海辺の街を目指していた。窓の外の風景は、都市の接合的な建築物の群から、やがて静謐な波打ち際へと変化した。
そこには、仮想的海辺とは一線を画する、何か聖なるメロディーが流れていた。
電車の中の人気は少なかったが、前方にソフォクレスの『アンティゴネー』を読んでいる少年が麦藁帽子を斜めに被って座っていた。ガラスのように壊れ易く美しい瞳をした少年だった。
――お兄ちゃん、お兄ちゃん、“デイノン”って知ってる?
僕は微笑して首を傾げた。少年は繊細な笑みを口元に浮かべて、僕が隣に座ってくるのを待っていた。やがて僕は彼の隣へ移動し、鞄からキャンディを取り出して、二人で山分けした。
――ソフォクレスがね、こんなことをいってるんだ。「不気味ナモノハ沢山アルガ、人間以上ニ不気味ナモノガソビエ立ッテ活動スルコトハナイ」ってね。この不気味なものを、ギリシア語で“デイノン”っていうんだってさ。
僕は声を喪失して、彼の顔を見つめた。彼は無垢な笑顔を絶やさずに、浅野さんが暮らしている海辺の街の、カラフルなパラソルが咲き乱れる旧港に目を移した。
僕は名状し難い奇妙な不安と憤慨に襲われ、車内の空気が急速に張り詰めたのを感じた。この空気を、僕は二ヶ月前、あの平原で感じていた。
――人間は不気味なだけじゃないさ。それだけじゃない。愛しい人のために、自らを犠牲にする存在じゃないか。ほら、ドゥルーズが、「《ひと》、それは何と素晴らしいものであろうか」って書いていたろう?
――お兄ちゃん、これからあの人に会いに行くんでしょ?
その言葉を聞いて、僕は背筋が凍り付いた。見ていたのだ。彼だったのだ。あの時、ずっと僕を平原の彼方から監視していたのは。
少年は前方の椅子に軽快な足取りで飛び移って、本を閉じて膝に両手を乗せ、僕を見つめた。
( FIN )