「ささやかな死んだ町で
書物にもよく記されている
かずかずの教会とたくさんの廃墟がある。」
by H・ヘッセ「ラヴェンナ」
雅信は地下鉄の暗いプラットホームの片隅で、電子画面を見つめていた。Page will appear soonと表示されている。「すぐにページが表示されます」。だが、やがてPage Not Foundと表示された。
最近、Webの中でPage Not Foundと表示されることが増えている。「ページが見つかりませんでした」。例えば、宿泊先のビジネスホテルのHPが、或いは、観たい映画の予告情報が、或いは、探している貴重な書籍を在庫に持つ書店情報が…廃墟化しているのだ。
雅信は、どこか虚ろな気分になることが多々あった。意識的に楽観的になろうとしても、それが押さえ込まれるような何か外的な虚無の気配を感じるのである。
地下鉄にいる全ての人間は、マリオネット化したような表情をしていた。均質なのである。無論、笑顔を浮かべたり怒ったりしている人もいるのだが、彼らの顔の皮膚の薄皮一枚剥いだ奥では、電子的な人形のような顔が潜在しているような気がするのである。
雅信は、もうすぐ洗礼を受けるカトリックの求道者である。
洗礼名は、シスターさまと二人で決めた。バプテスマのヨハネである。だが、先日、「バプテスマのヨハネ」と検索しても、Page will appear soonの後に、Page Not Foundが表示された。憤慨してラテン語で「Ioannes Baptista」と検索さえしたが、結果は同じだった。
雅信は「神」で検索しようと思ったが、予感が悪い方に的中する気がして、行動を自省した。それからなのだ、彼が暗澹たる気持ちに支配され始めたのは。
市の情報センターの中央ホールでは、合計300台ほどのpcが常時無料で利用できる。ある者は仮想世界の中を現実だと完全に直観して、そこで別の人生を始めている。またある女性は、飼っていた子犬の写真をブログに大量に公開していたが、その写真や動画、文字情報から、Web上でもう一匹のリアルの犬によく似たファイノメノン(仮象)犬を創造した。
彼らは皆、疲れ果てていた。
志穂という女性と、雅信は利用するpcが隣同士だった。
二人は半年間、一言も会話せずに各自の行動に明け暮れていたが、ある日を境に、少しは会話するようになった。志穂がペンを落とし、それを雅信が拾った、という瑣末なことがきっかけである。雅信は、志穂に関心を抱いた。志穂が、Page Not Foundについて、愕くべき見識を携えていたからである。
志穂の説では、(これはドイツのGh=P・FischerというWeb現象学者の『Inquisitio(異端審問)』という哲学書の第三章に詳述されているというが)Page Not Foundには、神学的な意味があるという。紀元四世紀、コンスタンティノポリス公会議で、アリウス主義は根絶された。
その創始者アリウスの説によると、キリストは生誕したのであるが、神はそうではなく不生誕という概念に帰属されると位置付けられた。不生誕とは、世界創造者である神が、何者にも創造されていない、という意味で、agennetos(アゲネートス)といわれたという。対して、キリストはgennetos(ゲネートス)、つまり神なる御父から生誕されたものだとした。
この一見、見分けがつかないほどカトリック的な説は、厳密には神の下位にキリストを置く説であり、後の聖三位一体論と完全に背反する。これを当時の正統派カパドキア三教父は許さなかった。結果、アリウス主義は初期キリスト教神学において、すぐに化石化してしまった。
現代、Web2・0期も新しい波を見せようとしている21世紀において、志穂はフィッシャーが、「Webアリウス主義のルネサンス」が現象として生起していることを告げていると雅信に話した。
志穂は、『Inquisitio』のその箇所を実際に指で示しながら、雅信に説明しさえした。Page Not Foundは、情報が不生誕であることを意味している。
だが、それはある原型となるページが、今は廃墟化しているという点では、厳密にはアゲネートスではない。
誕生したにも関わらず、trace(痕跡)と化したのだ。
その点で、志穂は、フィッシャーの理論には致命的なミステークがあると指摘し、今はJ・デリダの憑在論[hantologie]からこれを考えるようにしているという。志穂に拠れば、Page Not Foundは、「悪魔祓い(conjurer)」されなければならないという。
Page Not Foundというページは、原型となるあるページの亡霊化した姿である。Page Not Foundには、「このページは何らかの理由によって削除されたか、現在は表示することができません…」という情報以外に、その“余白(パレルゴン)”に、既に常に、原型のページを密かに所有している、と志穂はそう熱心に語った。
雅信は、志穂が極めて危険な思考回路に陥っていることを察知して、「それは飛躍的で妄想的な発想としか思えない」と反論しもした。
――Page Not Foundというページには、原型のページが目には見えない形式で存在しているのよ。
志穂はそう言い張った。
志穂は、Page Not Foundとは、幽霊(phantome)であって、悪霊化する危険性を持つという。
だから、悪魔祓いしなければならないのだ。Web2・0期は、Page Not Foundという悪霊がWeb上で増殖を始めた戦慄すべき時期であり、いわば創世記「第11章直後」に値する、と彼女は平然と口走った。
彼女は、Page Not Foundが表示されることを、「出幻する(ca apparitionne)」と呼んだ。幻が出現する、という意味で、アパリシオンと呼ぶのである。志穂には、原型となるページは見えないが、その気配を感じられるのであり、これはしかも、一般的な霊感などではなくて、理性的に直観するある種の恐るべき概念だと語った。
残念ながら、雅信には志穂の異端思想に魅了されるような気持ちは全く無かった。
むしろ、彼は忌避した。彼は、虚無を紛らわせるために、志穂のような愚かしい考えに染まった女性は、いっそヤン・フスの火刑のように火炙りにされるがいい、と思った。
彼は心の中でそう薄笑いしたが、あくまで表面的には、志穂の考えを尊重するように演技していた。
だが、数日後、雅信は情報センターで、衝撃的な姿をした志穂を目撃することになった。
志穂が、雄羊の頭蓋骨を頭部に被って電子画面と対峙していたのである。雅信がいつも固定されたように座っていた椅子には、別の沢山の虚ろな瞳をした人間たちが押し寄せていた。志穂は、辱めの言葉を浴びせられ、係員の人から冷たい眼差しで眺められつつも、骨を離さなかった。志穂は涙を流しながら、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」、
「σελιδα για το Θεο δεν βρεθηκε(神に関するページが見つかりませんでした)」…というウィンドウを連続的に表示させ続けていた。
そして、最後に骨を脱ぎ取ると、涙を丁寧にハンカチで拭いとり、
――やっと解った…。「der letzte Gott(最後の神)」をWeb言語に変換する方法が…。
そう囁いて、以後、二度と情報センターに姿を現すことは無かった。
数ヵ月後、雅信が予期していたことが実際に生起した。
志穂が火炙りになったのである。
志穂がいつも座っていたpcの画面に、「この動画ファイルは、坂東志穂が火炙りにされる三時間前の映像です」や、「この動画ファイルは、坂東志穂が火炙りにされている期間の映像です」や、「この動画ファイルは、坂東志穂が火炙りにされて、焼死体になった姿の映像です」などといった各ファイルが、整然と一列に並んでデスクトップに置かれていたのだ。
雅信はファイル1を開いて、背筋に未だかつてない激震のような恐怖が走って、15秒も経過しない内にその動画を閉じた。
雅信は、深刻な危機に急襲された。
志穂の死の責任は、俺にある、と確信した。だが、彼は自分が醜い先入観で、志穂の説を内心では悪罵していたことを知っていた。
彼が、つまり、“何らかのOrthodox(正統派)”が、志穂を本当に異端審問にかけて、火刑に処したのだ。雅信は震え上がり、動画の中の少女が志穂ではないと信じ込もうとした。だが、誰が見ても、彼女は坂東志穂だった。つまり、志穂は、奇妙な死に方をした、ということになる。
実に奇妙な死に方である。Webの中で火炙りにされること……Chasse aux sorcières(魔女狩り)ではない。それは、実に奇妙な死としか表現できない、思考不可能な死である。
雅信は、かくして志穂の死に急襲された。雅信は、落ち度を落ち度と認めれば認めるほど、志穂の、あの寂しげな表情が意識に蘇生して、罪の意識に押し潰されそうになった。否、彼は、いっそ罪に圧死したかった。
そして、その時初めて、雅信は、志穂が何か特別な説、つまり非常に今はクリプト化されてはいるが、確実に真であると規定せざるをえないような、魔術的な概念にまで到達していたことを悟った。
志穂は、魔女ではなかったのだ。志穂は、Page Not Foundを、「悪魔祓いする」といっていた。つまり、志穂は、火炙りにされる正反対の人物だったのだ。
志穂の死体は見出されないまま、葬儀が行われたという。
死体は、Webに散在され、ユーザーたちの手でもぎ取られたのだ。
志穂は、バベル化した。
雅信は、この件に関して、誰にも相談できなかった。彼は教会で、志穂の「命に関するページ」が、Page will appear soonになることを祈った。つまり、「志穂の命が、もうすぐ表示されます」。志穂が、Webで復活する。Webで死んだ限り、現実で死んだわけではない。
Webと現実は全く相互に別の世界である。志穂はそれらを回路として交通したのではないか?Webの死者を、もう一度現実世界に「投げ返す」ことは可能か?
志穂はWebで死者となった。だが、死者になったからといって、「有」まで喪失したわけではない。志穂は焼死体という物質情報として、未だWebの内部に「有る」のである。
その志穂のWeb内の焼死体を、現実世界に「投げ返す」。
この異常な考えしか、志穂の身に起きた悪魔的な事件の謎を解き放つ鍵は存在しない気がした。そして、雅信は、象徴的なことであるが、この発想を、ミサで祈っている時に発案した。
雅信は、これらに共通する悪夢論的なテクストを幾つも見出した。
例えば、荘子は自分が蝶になった夢を見たが、目覚めた時、果たして自分が蝶である夢を見た人間なのか、それとも自分が人間であると夢見ている蝶なのか分からなくなった、と告白している。
オーストリアの詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーデルヴァイデは『哀歌』の中で、“Ist es mein Leben getraumt oder ist es wahr?(私は人生を夢に見たのか、それともあれは現だったのか?)”と語り、かのシェイクスピアは、現実と悪夢、現実と仮想を区別する全ての人間たちに、このように宣告していた。すなわち、“We are such as dreams are mede on (我々は、夢と同じ材料で作られている)”。
彼は、シェイクスピアやフォーデルヴァイデが歌っていた「ナイトメア」を、21世紀初頭の現代世界においては、「Web」と読まねばならないと考えた。
志穂という事件を看取した上では、むしろ「我々は、Webと同じ材料で作られている」と換言した方が、糸口が見出せるかもしれない、と信じたのである。
だが、結局のところ、この異常で謎めいた思考不可能な事件に――つまり志穂がリアルでは消尽されたということだが、そもそも“リアル”とは何であったか?――雅信は敗北した。彼はどうすることもできなかったのだ、初めから。
解らないことは、それだけではなかった。
Page Not Foundとは、そもそも何なのか?それは何を意味しているのか?
或いは、そこに主体が意味を“担わせているだけ”だったのか?
だとしても、Web全土に、このような廃墟地帯が乱立し続けているのは何故なのか?志穂はどこへ行ったのか?
何故そこであのような事が可能なのか?
全ては思考不可能性に帰属されて、彼に新しい虚無を与えることになったのだ。
雅信は教会へ向った。
ミサが始まる前に、彼の後方で二人の少年が笑いながら何かを話していた。
雅信は得体の知れない動揺に慄きながら、ただ、十字架上のイエズスのみを見つめ続けていた。
――ねえ、『黄金伝説』の「聖アントニウス」の章にさ、こんなことが書かれてたよ。「また、あるとき、頭が天にとどくかと思われるほど大きな悪魔が、彼の前に現れたことがあった。アントニウスは“何者か”と尋ねた。すると、悪魔は、こう答えた。“わたしは×××という者である。なぜ修道士たちが私を眼の仇にし、キリスト教徒たちがわたしを呪うのか、そのわけをぜひ知りたいのです”」ってさ。
直後に、けたたましい笑い声が神聖であるべき教会の内に響いた。
雅信は意を決した。
つまり、彼は志穂を現実世界に押し出そうと考えたのである。彼は志穂に関するページを収集した。志穂が綴っていたブログ、投稿していた全ての画像、そして志穂が火刑に処される一部始終の映像…それらを雅信は一つに結合させようと決意した。彼は、それを一つのファイルに保管した。
そして、そこに、祈りの力を込めて、「Page will appear soon」と題した。それは、志穂の「命」に関するページが、「もうすぐ表示されますように」という願いの意味である。
彼は毎日、「Page will appear soon」のファイルのために、新約聖書を書くことを始めた。
彼は志穂のファイルの“中に”、ヨハネ六章三十五節「dixit autem eis Iesus ego sum panis vitae qui veniet ad me non esuriet et qui credit in me non sitiet umquam(わたしがその命のパンである。わたしのところに来る人は、けして飢えることがない。わたしを信じる人は、けして渇くことがない)」や、マタイ十九章十九節「honora patrem et matrem et diliges proximum tuum sicut te ipsum(そしてお前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう)」と、ワードプロセッサで個別に綴った。最後に彼は、マタイ二十一章二十二節から「et omnia quaecumque petieritis in oratione credentes accipietis(祈りの中で信じ求める一切のものを、あなたたちは受け取るであろう)」という主の御言葉を選び、それをファイルの題に変更した。
Page will appear soonは、かくしてイエズスの言葉として、雅信によって定められたのである。
雅信は毎朝、そして毎晩、志穂の「命」のページが見つかるように祈り続けた。
ある日、デスクトップにあった志穂のファイルが、凄まじい情報量になっているのを彼は見出した。彼はそれを開いた。電子画面はそこで消えてしまい、以後、二度とそのpcは作動しなかった。
しかし、祈りに勝るものはこの世界に存在しないのである。
翌日、雅信は、志穂が図書フロアの片隅で泣き続けているのを見出した。
志穂は、ひたすら泣いていた。
顔を上げると、彼女の顔には傷一つなく、おぞましい火刑の刻印などは見出されなかった。雅信は安堵して、その場で跪き、ロザリオを握り締めながら、彼女の手を取った。志穂は不思議にも、雅信が届けたあの主の御言葉を記憶しており、二人は声に出して、共に祈り合った。
志穂は雅信を廃墟に誘った。
そこは、広大な、かつてテーマパークと呼ばれた遊園地の廃墟化された空間であった。志穂の説に拠ると、廃墟は、翻訳である。Ruinae(廃墟)は、ここの場合、遊園地という「原書」が、時間に“読まれた”結果、誤訳されて出現した存在だという。
そして、志穂は回転木馬の夥しい亀裂が刻まれた一頭に寄り添いながら、こう囁いた。
――時間は“パレルゴン(余白)”まで読めるかしら?
Page Not Foundの余白には、私たちが読解不可能な、白い無限に広大な美しい海辺が有るのよ。 それをわたしは見た。
都市に最近、廃墟が増殖していることと、Web上でPage Not Foundが汚染して拡大していることにも、何か連関はあるのだ。
志穂は、雄羊について、何も語らなかった。
彼女は、全てを忘れたい、と告げた。志穂は、Page Not Foundも、Page will appear soonも、そして「神に関するページが見つかりません」という魔術的な命題も、全て、徹頭徹尾、「versio(翻訳)の問題」に過ぎなかった、と明言した。
大いなる忘却が二人を襲った。
翌朝、二人はこれらの事件に関する全ての記憶を喪失した。
(FIN)