出発の苦悩

 

 

はじめに



なぜ私は書くのだろうか。
なぜ人を殺してはいけないのだろうか。
なぜ自殺してはいけないのだろうか。
なぜ人を愛せないのだろうか。
なぜ人から愛されないのだろうか。
なぜ愛せた人には既に夫がいたのだろうか。
このままなぜ私は生きていくのだろうか。
孤独とは何であるか。
神とは何であるか。
イエズス・クリストは生涯に何粒の涙を流したのか。
ニーチェはなぜ神の死を宣告して以後も、教会に足を運んだのか。

この世界は謎で満ちている。




 
 時計の音が鳴っている。よく耳を澄ましていると、虫が肢を一秒おきに動かしているような気がしてくる。僕は今、自分の部屋にいて、「彼女に贈る小説」を書こうとしている。ここでいう、彼女というのは、幻影だということを始めに断言しておきたい。僕は今、大きな暗闇に見透かされているのを強く感じている。この暗闇の大きさが、すなわち彼女を虚構として構築するときの、僕の気狂いじみた肉付けの総量と等号で結ばれるだろう。だが、これを先に読者に述べておくことで、僕は幻影といつまでも対話せずにすむだろう。もう既にその必要性さえなくなった。僕は図書室に棲んでいる。部屋にいる以外の全ての時間、僕は図書室で本を読むか、ノートに言葉を書くかしている。このノートに記されていることは、限定された作家の言葉からの引用である。列挙して名を挙げても意味はないが、例えばボルヘスであるならば、彼の本の「読書記録」が乱雑に頁を埋め尽くしている具合。今、こうして書き始めた作品は、おそらく空間的には自室と図書室の境界に位置している。無限に広い自室と、有限な図書室の間に、ひどく蜃気楼に包まれた象牙の塔(とても小さい)が屹立する、これが僕の棲んでいる世界、僕の棲みたい世界、僕の棲めない世界だ。自室の窓から中学校が見える。この中学校には今から正確に七年前、「スナフキンの歯軋り」という名の奇妙な噂が存在した。教室で、いつも歯軋りをして周囲の生徒たちに多大なる不快感を与え続けていた孤独な少年、今、噂といったが、この少年に付けられた渾名がそれである。友達は誰一人いなかった。致命的なことに、彼はスナフキンさえ知らなかった。その頃、僕は図書室でヘッセの『青春は麗し』を読み、一滴の涙をこぼしたことを記憶している。今、僕は「僕」という言葉を使用した。だが、おそらく、否、断言して彼は僕ではないだろう。これには無論、理由がある。極端にそれを証明してみると、「時計の音が鳴っている」と冒頭で綴った僕は、既に「僕」であって僕ではない。ボルヘスは『異端審問』最終章「新時間否認論」の内部でヒュームの有名な言葉を引用している。「個人は想像もつかない速さで次々に継起する、様々な知覚の束もしくは集合体」であると。ボルヘスはこれを「瞬時的印象の世界」と規定し、更に引用の集積と等号で結ばれる論述を進めていく。僕は現在、象牙の塔の最上層でボルヘスについての「読書記録」を再読している。何故か?それが僕の魂を救済に導くからだ。ボルヘスは回転する車輪が地面に接することができるのは「現在」というただ一点のみであるという「ショーペンハウアーの車輪」などを引用しつつ、「互いに符合する二組の瞬間――これらは全く同じものではないのか?」と仄めかす。僕のノートにはボルヘスがバークレーやヒュームを引用している箇所の再引用の他に、稚拙な図が描かれている。西暦二〇〇六年と紀元前二〇〇六年の、それぞれ異なる場所において、二人の人間の意識が重なる、ということを示そうと試みた図である。二つの心電図のような波に赤点をそれぞれ描き、それら二点を直線で結ぶ。その上に「連結する=同時的」と書き込んでいる。これは『ブエノスアイレスの熱狂』の詩「見知らぬ街」の一節とも重なる。「われわれの何気ない歩みは/ゴルゴダの丘を踏んでいるのだと」、同じような概念をドゥルーズが『差異と反復』の内部で述べている。「〈未視〉は〈既視〉の反対物ではなく、両者はそろって同じものを意味し、互いに他方のうちで体験されるものである」と。僕はこの本は彼のボルヘスとの共著だと信じているが、その証拠は「差異と反復」がボルヘスの主題でもあるからだ。『ブエノスアイレスの熱狂』の詩の一節と、『差異と反復』のある一文において、二人の巨人は同一人物である。「反復」について、やはり『ヨブ記』にも見受けられる。神とサタンの対話、これは病に臥したヨブと、彼を訪れた三人の友と、若いブズ人バラクエルの子エリフが反復している。サタンはヨブを蝕む病魔としても顕現される。登場人物の声の内部に、神とサタンが顔を出す。ボルヘスはハーヴァード大学での講義において、以下のような発言をしてもいる。「実際、原文は必要がないと言えるかもしれない」、これは「翻訳」についての彼の見解だが、彼は「翻訳」自体には「原文」とは異なる美が宿り、それ自体で一つの別の作品であるという。翻訳は多なるもの、すなわち変奏である、と。そして、原文自体をその当時のありのままの感覚で読解できる者が存在しない以上、既に「原文」自体が一つの「翻訳」である、と。僕は先述して「象牙の塔」といった。これは無論、否定的な意味で使ったのではない。結婚してからバリリー塔に住んでいたイェイツ晩年の詩の表題には「黒い塔」がある。ジョイスの『ユリシーズ』において、スティーヴン・ディーダラスとマラカイ・マリガンの対話が開始するのはマーテロ塔である。福永武彦の処女短編『塔』には、次のような一文が記されている。「僕の記憶は塔とともに始まる」または、「しかし僕には塔がある」と。なぜ塔でなければならないのか?おそらくそれは絶え間ない孤独への上昇志向に来歴している。螺旋階段は円環的時間の象徴であり、おそらく塔の頂上には神が存在している。ここで僕は一つの訂正をしたい。僕の象牙の塔はあまりに脆弱で、僕がいるのは最下層に近いということだ。無論、幾つかの書物は壁に張り巡らされた本棚におさまっているが、博覧強記な読書家のたった一言で大きく揺れるような青さである。だが、これから僕は昇る。
 読者よ、西暦二〇〇六年八月十一日の「僕」の夢日記には次のように記されている。
《迷宮の中を歩いている夢をみた。今起きたばかりでこれを綴っているが、はっきりと憶えている。左はその断片地図(ノートの頁の左側に簡略な迷宮の断片的俯瞰図が描かれている。正方形の部屋、細い長方形の廊下による連結。三点A、B、Cはそれぞれ人物の場所を表す)である。古代遺跡のようだった。Cの廊下の地点に一人の探索者を残して、Aである僕と同胞のBは広大な森を眺めている。それは僕がいつかモン・サン・ミシェル教会から眺めた湿原の風景を完全に反復していた。奇妙だが、僕ら探索者はバッハの付けていたような白い鬘を被っていた。迷宮の床には過去の探索者たちの鬘が無数に散在している…》
 僕がこの一見ボルヘスを彷彿とさせるテクストを小説に有機的に吸収したのには無論訳がある。僕はこのようにボルヘスを「読む」ことに捧げてきたが、おそらく「読む」は字義的にミステークであろう。ボルヘスは「見る」ことしかできない。どこでか?無論、夢の中である。おそらく、ボルヘスという先行する作家を膨大に吸収したマシーンは、ある一定量の彼の著作に触れた後、読者の夢の内部に「地図」の作成を強いる。直に。この日の夢日記は長いが、最後にはこう書いた。
《夢の中の迷宮はボルヘスの「アステリオーンの家」のように、空間の無限分割と同義語である。迷宮内のそれぞれの部屋は、一日、一日に個人がみる夢の世界に相当する。昨日みた夢と、十年前に見た夢はそれぞれ独立した風景ではなく、連結された一つ、一つの部屋である。それらは多であり、包摂した一なる夢の迷宮が存在する》
 正直に白状するが、僕は実際にこの夢を見た。それは先述した「新時間否認論」を二日かけて読解し終えた夜だった。そして、ようやく僕は「僕はボルヘスを愛している」と自負できる端緒を掴んだ気がするのだ。この夢の衝迫力そのものによって。そして、僕は次のように述べることを読者に強いられる。すなわち、「この現実も部屋の一つに過ぎない」と。今日だけで、世界中で一体幾つの新しい「部屋」が発生したろうか?僕は果たしてボルヘスを引用しているだろうか?否、おそらく僕は「ボルヘス」という仮面を被った無数の先人たちから引用しているに過ぎないだろう。それは変奏である。僕はこれから変奏曲を僕自身の声によって歌いたい。読者よ、あなたは僕にこう鉄槌を下すだろう。「全てのテクストが引用の集積である以上、君は己の声帯を持たない」カネッティは『眩暈』の章名で「世界なき頭脳」「頭脳なき世界」という言葉を我々に提示したが、この言葉はおそらく僕自身を生涯に渡って苛むだろう。だが、「僕」は、そして、今この瞬間の僕は、双方の境界を目指す。小説を書く上で必要なのは、江藤淳がいったように「現在の時間を所有し、自己否定によって主体的に行動する」ことである。だが、「初めに言葉ありき。過去形《ありき》である。言葉の前に過去が伏在した」のではないか?ジョルジュ・キーンの末路を、「小説の文体」を書いた直後の江藤淳ならばどう解釈するのだろう。キーンはいう。「現在を疾走せしめよ!過ぎ果てたとき、すなわちその時、現在は無に等しい!」今、僕はあえて「!」を挿入した。これは僕自身の内的な叫びでもある。「現在をすみやかに過去と化せ」、この言葉はボルヘスの時間論とも符合する。過去も未来も存在しない、ただ現在という無限に連続する一点のみが存在する、という江藤淳――ドゥルーズ――ボルヘス――カネッティの四者を繋ぐ公理を僕は体内化して書かねばなるまい。
 読者よ、反芻するが僕は小説を書いている。それは乱雑な読書感想文でも日記の断片でもなく、語りの形式を架空の読者に絞った純粋極まる小説なのだ。スティーヴ・ライヒの音楽に「オーケストラのための三つの楽章」という曲が存在する。「単純なモティーフ〈音型〉を執拗に〈反復〉し、緩やかに変化していくのが特徴」これは、手持ちのSHARPの電子辞書で調べた「ミニマル・ミュージック」の項目から抜き出した一文である。おそらく、この曲でいう〈音型〉とは、ボルヘスでいう「物語の四つのコード」に相当する。彼はこれを『ブエノスアイレスの熱狂』の「四循環」という章で語るが、要点をまとめると以下のようになる。

① 勇敢な男たちが包囲、守備する強大な都市の物語
② 帰還の物語
③ 探求の物語(現代では、この種のタイプは全て挫折する運命にある)
④ 神が犠牲になる物語

① を読んだとき、僕はその具体性ゆえに小さく笑ったが、実はこれは一つの
物語で展開される「起承転結」に符号する気がしてならない。まず、第一章は①である。主人公は「勇敢な男たち」と肩を並べて都市を防衛している。この都市で何かが奪われる。そこで③に連結される。彼らは(主人公は或いは複数である)旅の果てに何かを奪還し、「帰還」する。④はおそらくこの三つのどれかの間に存在している。もっとも、これは順列組み合わせの一つに過ぎないが。

 僕は今から河川公園の電波塔へ向かう。この塔には約三十羽の烏が棲み付いている。「感電注意」という文字が大きく鉄柱に掲げられたその下に、コンクリートで固められた屋根のような場所がある。周囲は木々が生茂って梢がこのコンクリートにまで伸びているから、さながら野戦基地じみている。針金でつくった玩具のタワーの下層が樹木で覆われているのを想像して欲しい。ちょうど二階の高さが、いわゆる屋根である。もっとも、この屋根は烏の塒であり、昆虫の憩いの場でもあるが。物語はここから開始しよう。先述したのは僕が全身全霊をこめて書いた序章である。この物語の始まり方を飾る上ではおそらく白眉の出来であろう。それはこの先を読解すれば悟るはずだ。文学は不滅だ。僕がボルヘスが死んだ年に生誕した時点で、文学は新しい再創造に向かい始めている。文学は熱狂だ。この作品の主題の五十一%は熱狂が、後の四十九%は青臭さが占めるだろう。そして、海千山千のディレッタントは、実は一%が恋愛への飢餓で占められているのを悟るだろう。或いは、他の何かを嗅ぎ取るだろう。僕はだが、ただひたすら書くのみである。信条はただ一つ。「右手には本を、左手には刀を、胸には焔を」
 さて、目的地へ来た。(ここでいう「来た」というのは、小説の内部における空間移動ではなく、作者自身のそれを意味する。つまり、僕は序章も含めて綴った文章を一度印刷し、それをノートに挟んで、続きをこの電波塔で書きに来たわけである。要するに、小説の中の僕=書き手である)僕は早速、二階の屋根に上った。ちなみに、今は夕刻である。空は一面オレンジ色である。よく見ると、空の下方は少しドス黒い。だが、別にあのドス黒さは僕の心象風景を反映しているわけではない。ただ、ひたすら空の下方のみがオレンジではなく、ドス黒いわけである。僕はコンクリートの床に持参したミッキー・マウスのシートを敷いて、そこに座り込んだ。昆虫を踏み潰したわけではない。もしかすると、小さな虫らの数匹はあの世へ送ってしまったかもしれぬが、少なくとも僕は植物にあまり覆われていないコンクリートの床を選んだつもりである。すぐ隣の暗い木の枝に三匹烏が留まっている。こちらをじっと、厭らしく見つめている。阿呆!とも鳴かないのはなぜか?だが、おそらく彼らは僕の親友である。僕はこの秘密基地でこれまで何日も寝泊りしてきたが、やはり夕暮れにはこの三匹が常に僕を観察していた気がする。無論、三十羽の中の三匹は、日替わりで僕を見張っているのかもしれない。とにかく、僕は烏から憎まれている気はしない。たまに生肉を持ってきて枝にぶら下げてやるし、迷惑をかけないようにたいていは静かにしている。厄介なのは人間どもである。個人マラソンをしているおじさんや、犬の散歩をしているおばさんが、立ち止まって時々僕をギョッとした眼で見つめるのだ。立ち止まる、というのは、無論河川公園の広い散歩道においてである。少し川岸に接近すると、僕が隠れ潜んでいるこの電波塔の真下を通るわけであり、その時偶然二階の屋根で蠢いている僕を発見したりするわけだ。雑木林の中にあるので、本来そこまで視界を及ぼさないはずなのだが、やはり人間は人間同士の気配を感じるものらしい。アッ!などと大声で僕を指差して、直後に、降りて来なさい!何してんのよっ!アンタッ!などと吼えるわけである。僕はそこで地蔵のように硬くなる。あまりにも執拗な、粘着気質のお節介には、両手を広げ、気の狂った猿のような奇声を出して追い払うことにしている。だが、こういう人はむしろ少数で、大半は僕を発見しても、灰色の溜息を吐いて冷たい眼差しで去っていくのだ。おそらく彼らは電波塔に生息する現代の野生人を見て、こう思うのだろう。
《俺も棲みたいものだな。あんな気楽な生活ができる自由の塔に。だが、あいつはけっこう孤独そうじゃないか?俺は暗闇の影から一瞬しかあいつの顔を見なかったが、なんだ、あいつも俺もほとんど同じような顔じゃないか?どうせ孤独になるなら、俺はしっかり社会の歯車としての役割を果たして、そこからじっくり孤独とやらに立ち向かおうじゃないか。その時になって、俺はおそらくあいつよりももっともっと巨大な自由の塔を築くだろうな。まあ、あいつには無縁な話さ》
 僕は気狂いを演技しているわけでも、猿の魂に憑依されたわけでもない。さらにいうと、自分の居場所だとか、居心地の良い隠れ家だとか、そういうつもりでここに棲み付くようになったわけでもない。ただ、ここからなら何かが見えるような気がしたのだ。何か、それは僕自身わからない。ドス黒さとオレンジの溶け合った黄昏の空を拝みたかっただけかもしれない。そういえば、中学時代にハーネット・オズワルドというアメリカ人作家の『電波塔』という短編を読んだ。主人公はやはり電波塔に棲み付いて、さまざまな夢想に耽る。例えば、〈永劫回帰〉であったり、〈魂の構造〉であったり、〈宇宙樹〉であったり…。そして、市民の浄化運動で退避命令を受け、それを拒んで彼は電線で縊死する。主人公の名前はハーネット・オズワルドである。すなわち、『電波塔』は彼の処女作であり且つ、遺作である。無論、ただ夢想に耽って最後に自殺するだけの物語ではない。途中で、乞食と談笑したり、親切な娘がパンと牛乳を毎日運んでくれたり、と限られた範囲で交友関係が築かれていく。テクストはしかし、夢想と追憶と数知れない自己否定、極端な厭世主義に彩られた文明否定観に満ち満ちている。読者よ、僕は今この架空の作品をボルヘスの陋劣な亜流じみて提示したが、この作品の概略を示すことで、いわば僕自身、ハーネット・オズワルドと化す必要が消尽されたわけである。オズワルドの愛すべき『電波塔』は、世界中どこを血眼で捜しても、この僕の小説の内部にしか存在しない。ここで一つ、僕は入れ子を作ったわけだ。「どのような物語にも、生者、死者、可視の人、不可視の人をふくめると、主人公は無数にいるものだ」とボルヘスはいったが、少なくとも、眼に見える形でここに二人の主人公が同居したことに気付くだろう。僕が現在、こうやって夕陽を眺めている電波塔は、オズワルドが夕陽を眺めていた電波塔の反復である。それは完全な同一性に基く反復でなく、あくまで類似性に基いている。だが、あえて僕はこの瞬間、このように叫ぶことができるだろう。すなわち、
――俺はハーネット・オズワルドその人である、と。おそらく(僕は断言はしない)、この世界に二人として同じ人間は存在しない。観覧車から定刻に見える街の風景には、わずかな差異がある。〈永劫回帰〉について思考を続ける哲人たちは、きっと夜の遊園地を限りなく愛している。なぜか?少なくとも、二つの〈永劫回帰〉のモデルが存在しているから。すなわち、回転木馬と観覧車である。たとえソクラテスとケベスが同じ観覧車の小部屋に入っても、二人が同じ風景を眼にすることはできない。魂は原型の絶え間ない循環ではない。だとすれば、魂の数量は限定されてしまうだろう。魂はおそらく(反芻するが、断言できるのは哲学者のみである)、無限である。僕は今、巧妙な引用の隠蔽をしながら、これを導いた。いつになれば、僕は真の書き手の顔を覗くことができるのだろうか?僕の書いているこの小説も、別の巨大な書き手が引用して入れ子のように吸収しているに過ぎないのではなかろうか?僕の背後には、既に無数の書き手が存在し、前方にも、やはり無数の書き手が存在するのならば、僕が果たしてこれ以上書き綴る必要があるのであろうか?読者よ、一体あなたは今まで何を読んできたのか?そして、書き手よ、貴様は何がしたいのか?
 僕はノートを抱いて電波塔を下りた。その時、自転車を二人乗りしている若い恋人らが、僕を見てウワッ!と叫んだ。それはほぼ同時であった。夕暮れ、この卑小なる世界!と僕は内的に絶叫した。二人乗りの若い男女は散歩道の奥で小さく、小さく、小さくなっていった。僕は何気なく先刻まで座っていたシートの辺りを見上げた。そこには、僕ではない、しかし限りなく僕に近接した「僕」が確かにいた。彼は何やらノートに書き込んでいる。僕のノートとはまた別らしい。読者よ、あなたには僕の視覚を弾劾する権利がある。嘘をつけ!と。だが、読者よ(僕は今、奇妙にも震えているが)、ここで僕が仮に「シートの上にはもう誰もいない」と述べるのと、「シートの上にはまだ誰かがいる」と述べるのとでは、いかなる差異があるというのか?そこに人がいない、だが、先刻までは、確かに誰かが存在したのである。だとすれば、別に今、あのシートの上に「僕」を置き去りにしてきてもいいではないか?僕はこれを「分裂した」、という者を軽蔑する。なぜなら、この世界の全ての人間が、何らかの形式で「僕」なのだから。この時点で、僕はこの小説の人称を「僕」と固定すべきだろう。だが、僕は僕である。ここに僕の最大の欺瞞が、罪悪が、隠蔽が、秘匿が、悪戯が、自慰が、存在するだろう。僕は現在、「僕」は過去、そして読者よ、あなたは僕の車輪の軌跡しか踏むことはできないのだ。あなたが僕を所有する瞬間はこの世界が終点に到達するまで訪れない。読者よ、あなたに重大な秘密をこっそり教えよう。この街では夕暮れが無限に反復される。それは夕暮れのある一点において時間が停止したのではない。あくまで、無限に反復するのだ。この街には、夕陽の美しさから身を投げる者は一人もいない。その理由が、永遠にこの街に到達できないあなたに判るだろうか?
 僕は常に師を用意する。今、僕は河川公園を去って、市立図書館の片隅で錆びたパイプ椅子に腰掛けている。この夏の始めに読み始め、正確に三十日を費やして読み終えた大江健三郎の『同時代ゲーム』のある文章に、僕の師は存在する。
《五十日戦争において、村=国家=小宇宙の側から出た最初の戦死者は、「木から降りん人」と呼ばれていた老人であった。猿が樹木から降りたことにこそ、人類の大きな悲哀の源泉があるというかのように、この老人は樹木から樹木をつたわって歩き、樹木の枝の掛け小屋で寝起きする人物であった》
 僕が先刻電波塔で密かに意識していたのは、「木から降りん人」である。電波塔が木と等号で結ばれる、というのがその想像を助ける必要不可欠な因子であるが。「木から降りん人」の特性には次のようなものがある。
《「木から降りん人」はいかなる時も樹上生活に固執したが、やむなく地上に降り立たねばならなくなると、それでも足で地面を踏むことは避けて、逆立ちをしながらヒョイヒョイ跳ぶように移動した》
 この「木から降りん人」は、「路上の馬鹿、あるいは気狂い」であった神話的な存在「シリメ」の系譜を継ぐ者だろう。『同時代ゲーム』では、「木から降りん人」は当初「シリメ」と同じく共同体の周縁の象徴であるが、村人が「在」から原生林に疎開したことによって中心のシンボルへ変容する。この「木から降りん人」の記述に触れた時、僕は大きなシンパシーを寄せた。つまり、「木から降りん人」を僕の住む街にスライドさせた時、樹木は電波塔となり、この滑稽で涙ぐましい人物を僕自身が内部化できるのではないか、と思い立ったのである。それが成功したのかは定かではない。ただ、僕が現実の行動を読書経験に左右され易いのは事実であるらしい。
 立ち上がって、図書室を歩き始める。書棚、書棚、有限数の書棚。本と本の間から前方の書棚にいる人の姿が覗ける。そこに立っているのは中年の肥った男性であったり、若い着飾った女子大生であったり、僕と同じく恰好だけは貧相な若い男であったり。しゃがみこんで本を開いている時には、書棚の高さの中間あたりで小さい顔が揺れ動く。少年だ。小学校高学年くらいの丸眼鏡をかけた少年が熱心に哲学書棚で調べものをする。隣の国家神道関連の本がぎっしり詰まった書棚では、中学生くらいの少女が少年に劣らず頁を捲る。この図書館を訪れるのは二種類の人間しか存在しない。一つ、本を最後まで読む人間、二つ、本を最後まで読まない人間。絵本コーナーからは若い女性の声が聴こえる。おそらく、「朗読会」というやつだろう。数十人の子どもをカーペットに並べて、中央で語り部の人が絵本をゆっくり、ゆっくり過ぎるくらいの速度で語る。その声が、吹き抜けの一階の電子ピアノから流れてくるショパンと混じり合う。じれったがり屋の日焼した少年が、「もっと早く!」と挑発する。穏やかな眼をした少女らが、彼に「しっ」といって指を一本唇の前に乗せる。僕は歩く、歩く、有限数の書棚の前、後、右、左を。画集が収められた大きい本棚の前で、老人が老婆にキュビズムの魅力についてあつぼったく語っている。愛人だな?と僕は密かに思って微笑する。老婆は昔、宝塚にいたような端麗な面影を残している。老人は口髭も髪もすっかり雪化粧させて、背は高く、いかにも学者風である。係員がローラー付きの本棚を押して幾つかの本を書棚に直そうとしている。栗鼠みたいな眼をした三十路過ぎくらいの小さい女性で、信じられないほど素早く首を回転させる。僕は岩波文庫専用の書棚へ行く。『対訳 ジョン・ダン詩集』を手に取る。再度パイプ椅子へ向かう。椅子は横に二十ほど並べられている。壁は透明の硝子になっていて、下のホールが見下ろせる。

  Thou sun art half as happy as we,
  In that the world、s contracted thus;
  Thine age asks ease, and since thy duties be
  To warm the world, that、s done in warming us.
  Shine here to us, and thou art everywhere;
  This bed thy centre is, these walls, thy sphere.

 「唄とソネット」の中の「日の出」という詩だ。太陽を嘲笑している詩。「おお、荒れ狂う太陽神よ」などと叫ばずに、ダンは「Busy old fool, unruly Sun」などといって、こけおろす。「出しゃばり爺で、淫乱な太陽よ」と訳されている。僕が心に刻みたいと思ったのは、上述した「太陽よ、お前の幸は我々の半分」から始まる最後の部分だ。これは地球を宇宙の中心とするPtolemaic systemに従っているという。

  太陽よ、お前の幸は我々の半分、
  我々こそ、全宇宙の縮図なのだ。
  老いたお前は休むがよい。お前の義務は
  世界を暖めること、我々を温めればよい。
  我々を照らすならば、この世はあまねく明るくなる。
  この寝床こそお前の中心、この壁こそお前の軌道だ。

 僕は日本語と簡単な英語しか読めないので、訳文を先に読んだが、原文にはそれを活字として眺めているだけで独特な魔力がある。読めないからこそ、なのだろうが、どうにも呪文じみて見えてくるのだ。そして、この引用した部分は、夏の暑い太陽に対する宣戦布告として、極めて有効である気がする。この小説の中の季節は、夏である。この詩を白昼の蝉の合唱に包まれた街路で詠むと、体温が一度下がるのではないか?
 不意に、僕の左腕に何者かの手が置かれた。それは隣のパイプ椅子に座っていた背広姿の男性の手だった。異常なほど膚が白く、顔の皮膚には何か化粧水を塗ったのか、テカテカと光り輝いていた。彼は少年のような明るい笑顔で僕にこういった。
――すいませんね。私、全国の図書館利用者の年齢層や利用傾向について統計を集めている市民団体の者なのですが、少しだけお時間いただいてもかまいませんかね?
 彼は極めて紳士的だった。年齢はおそらく三十代前半くらいだろう。左眼の下と唇の左右に大きな黒子がある。雰囲気は会議を終えたばかりの知的な上役といった風であった。僕は緊張しながらも、頭を一つ下げて「ええ」と返した。
彼は隣の席に人がいないことを確認すると、傷一つない黒い頑丈そうな鞄から数枚の紙を取り出した。質問項目がずらりと並んでいて、右隣の欄に書き込めるようになっていた。もっとも、質問内容まで確認することはできない。彼は僕の横顔を見て、上気した微笑を浮かべているようだった。彼は僕の耳元にまで口を近づけた。
――まず始めに年齢と、月に何度くらい図書館を利用するか教えてもらえませんか?
 僕は彼が必要以上に口を耳の辺りまで近づけてくるのに不安を呼び覚まされていた。だが、あくまで街頭で市民の声を集めるのに参加する具合で、すぐに終わるだろうと予想していた。
――年は十九です。一週間でだいたい四日か、多くて毎日利用してます。
 僕がそういうと彼は一驚して妙な笑い声を発した。
――毎日、ですか。それは素晴らしいですね。すると、利用者の中で常連の顔も覚えてくるでしょうに。
 僕は彼が何かを躊躇っているような気がしてならなかった。彼の落ち着いた笑顔の奥に、僕は何か捉え難い怒りがまとわりついているのを直感した。
――次の質問なのですが、若年層で頻繁に図書館を利用している方ほど、非正規雇用の方、或いは働きになっておられない方が多いという統計があるのですが、あなたは?失礼な質問でしょうが。
 僕の予想は的中した。彼はおそらく図書館利用者からその施設との連関について統計を取っているのではないらしい。彼は若年層の労働傾向について、何らかの情報を取ろうとしている。図書館を頻繁に利用する時間のある若者ほど、労働に参加していないということを何らかの形式で発表するのだろうか。
――三月末まで料亭でホールスタッフをしていました。その前は、書店でアルバイトを。でも、今は働いていません。
 僕は彼には顔を合わせずに、ただ正面の硝子の壁を眺めながら返答した。僕は拳を握り締めていた。ニチャつく脂汗が、爪の奥に染み込んだ。
――するともう四ヵ月になりますね。多くの若者が低賃金でも懸命に社会の歯車として機能している間、両親に扶養されて生活することに罪悪感はありますか?あなたにとって図書館という領域はどのような価値を持ちますか?
 僕の鼓動は急激に早くなっていた。呼吸が荒くなり、彼が世界中の働く若者の総体化された姿であるように感じた。僕は今、すぐに返答すると声が震えてしまうように感じた。一度小さく息を吸い、ゆっくり吐いた。
――罪悪感はあります、といった僕の声はやはり痙攣していた。だが、僕は続けた。罪悪感はあります、でも、僕は作家を目指しています。料亭で働いていた頃は、両方とも疎かにしてしまっていたんです。だから、今は一つの作品を仕上げるために、全力でそれと向かい合っています。理由になっていないかもしれませんが、今はこれが最大の仕事です。
 僕がそういうと、彼は一瞬上半身を大きく仰け反らせた。そして、やはり穏やかな微笑を浮かべながら僕を見つめた。
――別の街で同じような質問を、やはりあなたのような若い読書家にしました。返ってきた言葉も、やはり同じだった。私が彼女に「両立していく方向を考えられませんか?」と提案すると、彼女は「文学が私の全てです」といって、その場を足早に立ち去っていった。私だって、好きでこんな仕事をしているわけじゃない。若者自立支援団、聞こえはいいかもしれないが、私がしているのは脅迫ですからね。私もジョン・ダンは好きです。大江健三郎も、安部公房も、三島由紀夫も、カフカも、ベケットも、プルーストも読む。ただ、社会経験も一冊の本に相当するとは思いませんか?それも、経験する人しか読めない本です。私は書く行為を諦めた人間です。それはごく一部の選民にしか許されない行為だから。たとえ私が小説や詩を書いても、私より熱情の大きい人など五万といるでしょう。だから、いいですか?だからこそ、私にはあなたたちに生き易い道を提示する権利があります。あなたも新聞を読むでしょう?ニュースの特集もご覧になるでしょう?あなたのような若者、夢を追い、小さな社会の中で殻に閉じ篭ってヤドカリのように生きている人間は、どこにでもいる。でも、いつか諦めなければならない日、大粒の涙を流さずにはいられない日は来ます。私にも来た。だから、あなたにもいつか必ず訪れるでしょう。一人で生きていかざるをえなくなって、それでもあなたはまだあの美しい信条を唱えることができるでしょうか?「文学が私の全てです。書く行為以外に、私には存在意義がない。どんな人から揶揄されても、私は書き続けます」と?
 読者よ、僕はここで彼が陥っている数種のディレンマを解体することもできよう。彼の最大の誤謬は、文学への熱量の多寡を天秤にしていることである。そして、既に観察に長けた読者諸氏であるならば、この若者自立支援団の男が、もう一人の「僕」であることを直感するだろう。すなわち、これはモノローグであるのみならず、全て脳内で行われた架空の自問自答である。人はある事象に終止符を打つ時、必ずそれ自体を別のベクトルへ再始動させている。この貧しい発想しか持たない男が、「私は書く行為を諦めた人間です」と宣言する時、彼は「文学が私の全てです」という鏡像を意識の奥深くから浮上させているに過ぎない。それは書く行為の扉以前の問題であって、扉を開かないことにはいかなる風景も現れない。ドゥルーズは『無人島1953―1968』の中の「無人島の原因と理由」の中で以下のように述べている。「一切は反復されるのでなくてはならない。第二の瞬間は、第一の瞬間の後に続くものではない。第二の瞬間は、他の諸瞬間がみずからの循環を完成させた時にやって来る第一の瞬間の再出現なのだ」この「僕」と等号で結ばれる(繰り返すが、分裂ではない)男は、逆説的にかつての己の言葉を別の街で質問したという少女の言葉に置換している。彼女の言葉はかつての彼自身のそれであり、現在の彼の堅実的且つ醜悪な言葉はやはりかつての彼自信の言葉の反復である。同じ章で自殺した哲人はこう断言する。「文学とは、もはや理解されなくなった神話を極めて巧妙に解釈する試みである」だが、あえて僕は今手にしているダンの口から彼を木端微塵にしよう。「お前の幸は我々の半分、我々こそ、全宇宙の縮図なのだ。老いたお前は休むがよい。お前の義務は世界を暖めること、我々を温めればよい」文学は愛そのものである。僕はこういうべきだったのだ。「人類のために一冊の本を仕上げる」と。血の涙で書かれていない本などに読む価値はない。無智な輩はこの作品を小説ではないとさえ断言するだろう。僕が全力疾走で書いているこの傑作は百億の読者の中でも、その真意を理解できるのはおそらく数人に満たないだろう。だが、その一握りに愛されてこそ僕も腕に拍車がかかるというものだ。反芻しよう、そして今こそ読者に宣言したい、この作品を僕は世界で最も愛している。ボルヘス?ドゥルーズ?もうそんな輩の助けは借りない。僕は今すぐ裸体になる。衣服なしだ。この薄汚れたクタクタのシャツさえ脱いでしまおう。これは僕とあなた二人だけの物語だ。読者よ、僕の声はひどく擦れて裏声さえ混じる卑下たものだが、それでもこの声には魂が宿っている。あなたは、この僕の魂が蝋燭の火ほどにも小さいなどというつもりか?
 こうして、僕は小説の内部で一つの目標を掴むに到った。それがすなわち僕の行動原理であり、僕が生涯に渡って追い求めるべき研究課題になるのだ。僕はこれを《魂/永劫回帰》という一冊の分厚いノートに仕上げることを思い立った。先述して僕は先人たちの教えは乞わないという風な発言をしたが、僕は観測者として彼らの星図を貪欲に利用すべきである。それは彼らの洗練された智慧や思想を僕自身へ体内化するということである。軽々しく「そんな輩の助け」扱いした僕は厳しく咎められなければならない。そもそも、「先人たちの教えは乞わない」というのは本質的に成立不可能である。要するに、僕は自分の声を信じる人間を信じない。彼らは別の人間の声を反復しているに過ぎないのだから。僕の声は全て他者の本の内部に存在する。この自明の理をあえて僕は勇敢にも提示してみせたが、博識な読者であるあなたにはその真意が解るだろう。すなわち、一切が消尽された最後に残るのは熱狂のみである、と。僕はメロディア・レーベルから発売されたショスタコーヴィチ作曲、ムラヴィンスキー指揮の『交響曲第12番Op,112「1917年」』の第一楽章「革命のペトログラード」から圧倒的な跳躍力を与えられながら、書く行為を続ける。僕は既にこの曲を五十回以上聴いているが、あえて今は『カンタータ「森の歌」Op,81』の第七曲「讃歌」から、次のように叫ばねばならないだろう。

  Stalinu rodnomu,
  i vsemu narodu slava,
  Slava, slava, slava,
  slava, slava!

 これは「愛しきスターリンに、そして、全人民に栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ!」と訳されているが、僕はこうする必要がある。

  愛しき文学の神に
  そして、全書物に栄光あれ
  栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ
  栄光あれ、栄光あれ!

 読者よ、僕は今どこにいるのだろうか?空はやはりオレンジ色で染められ、建造物の輪郭には黒い夜が纏わり付いている。僕は母校である小学校に隣接した狭い空き地にいるのだ。誰も乗りそうもない廃車の後方に、折畳み式のキャンプ用の椅子を置いて、そこに座って夕空を眺めている。地面は砂利と石、それに小さな鉄材や木材の破片、硝子、空き缶、菓子の袋、水を吸って日焼した雑誌の断片などで覆われている。この十五m×十m程の空き地で、僕は西暦二〇〇六年八月一六日午後六時二十三分を確かに生きている。僕が生まれ育ったこの街に存在する、ありふれた一つの何も建てられていない空間。小学生の頃、北校舎の屋上からこの場所を眺めていた気がするし、しない気もする。登校中、ないしは、下校中のいずれかに、僕はこの名も無き空き地の前を通り掛って、マンホールの上に置かれた空き缶を今僕が座っている辺りに勢いよく蹴ったのかもしれないし、蹴っていないのかもしれない。何一つ、この廃墟さえ均された空間と僕自身を結び付けるものは存在しない。唯一、僕にわずかな希望を与えるのは、この領域が僕の住む街の中にあり、僕の小学校の周辺にポツンと広がっているということだけである。ここで七人の女たちが儀式を行い、僕の醒めない夢を終わらせることもできるだろう。ここはシルヴァプラーナの森の小径であり、ヨルダン川の辺である、と僕が断言したとして、一体いかなる存在が僕を否定することができるのだろうか?僕は昨日も、そして一年前の同じ日にも、そして明日も、十年後の同じ日にも、やはりここにこうして座っているのだろう。僕は足元に落ちていた錆び付いた十円玉を拾い上げた。右手の掌の中央にそれを置いた。まだ貨幣として通用する十円玉である。僕はポケットから財布を取り出し、小銭入れから一枚の十円玉を取り出した。光沢のある、美しい十円玉だった。僕はそれを反対側、左手の掌の中央に置いた。開かれた両手の中に、二枚の十円玉が存在した。錆の度合い、変色具合からして、明らかに右手の十円玉の方が古いものだった。だが、実際は財布から取り出したピカピカしている十円玉の方が古かった。年代には、十年の差があった。僕はボルヘスが提示したコインの命題を否応無く想起した。そして、ボルヘスという巨人の死後にも無数のボルヘス主義者が存在していることを呼び寄せて、僕はコインの「裏」と「表」から無限に引き出される哲学的な問題についての考察を中断した。それは、中断せざるをえなかった。
 街では黄昏が無限に続いていた。椅子から立ち上がり、大通りを覗き見れば、そこには数知れない人間の歩みがあった。僕は不意に、やはりボルヘスの『八岐の園』の一文「わたしは、前に話したあのうごめきを感じた。家を取り囲んでいる夜露に濡れた庭園が、目に見えぬ人間で果てしなくあふれているように思われた。これらの人間は、時間の別の次元のなかで隠密に行動し、多忙をきわめ、ほしいままに変化するアルバートとわたしだった」を思い出し、最早僕の背後には取り除こうとしても離れないボルヘスという名の怨霊が纏わり付いていることを自覚した。僕は借りてきた『対訳 ジョン・ダン詩集』を無気力に開いた。そして、現在の僕の心を如実に表現したと信じられる言葉を無我夢中で探し始めた。たとえいかなる些細な言葉であれ、僕は自身の声を信じるわけにはいかなかったのだから。「The world、s whole sap is sunk」という言葉が僕にとり憑いた。「世界の樹液は深く沈んだ」と右頁の日本語には書かれていた。僕は心の中で、「世界の樹液は深く沈んだのだ」と暗い念仏のように呟いた。僕は同じように、この本の中から僕の魂を浄化する呪文を探した。それは次々に発見できた。「Were I a man, that I were one, I needs must know」これは「僕が人間なら、人間であるという自覚があるはずだ」と訳されていた。僕はこの言葉に呼応するかのように、「僕は人間ではないのかもしれない。その自覚があるのか、ないのかもわからない」と声に出して囁いてみた。僕は少しずつ、小さな活気を取り戻し始めた。以下の言葉には、いよいよ救いを浮上させた。「人間以上のものにならなければ、お前は蟻以下である。その上、人間と同様に、この世界全体の骨格の間接もばらばらに外れている、不具に作られたとも言えよう」左頁には魔法の言葉が記されていた。「Be more than man, or thou、rt less than an Ant. Then, as mankind, so is the world、s whole frame Quite out of joint, almost created lame」この一節を持つ詩は「THE FIRST ANNIVERSARY : AN ANATOMY OF THE WORLD」という表題を持ち、「一周忌の歌(この世の解剖)」と訳され、十四歳で亡くなったという貴族の娘のエリザベス・ドルアリーを悼んだものだという。解説には「エリザベス亡き後のこの世を死体に喩え、それを解剖することによってこの世の病の実態を暴こうとしたものである」と記されていた。僕はこの詩に励まされながら、「この世界が死体だとすれば、それを掃除するのは誰だろう?」としばし考えた。そして、「世界の夜明けは、その黄昏であったと言えるであろう」と訳された、「That evening was beginning of the day」という言葉が、この空き地の夕刻に適しているとも考えた。僕は重苦しい意識の穴ボコに、ダンから詰め物を貰った気がしていた。僕は再度、亀裂の走った廃車の窓から大通りの辺りを眺めたが、そこにはもうボルヘスの亡霊は漂ってはいなかった。僕は今後、心に何か重々しい岩盤が浮上してくれば、やはり最初にわずかでも確かな光を与えてくれた「The world、s whole sap is sunk」という言葉を想起しようと思った。「世界の樹液は深く沈んでいる。そうさ、もう底の底まで沈んでしまったんだ。後はゆっくりと、暗い泥濘に樹液が溜まっていくだけなんだ。ゆっくり、一滴、一滴。きっとそうさ」と僕は己を慰めた。
 しばらくして、僕は《魂/永劫回帰》について書かれるべき空白のノートを取り出して、ペンを握った。僕はそこに以下のように記した。

   「merry‐go‐round」の仕組みに関する覚書        
 
      ○←○←○    魂の輪廻は上記の簡略図の循環システムによ
      ↓   ↑    って解釈される。一つ、一つの○は時代も場
      ○ 樹 ○    所も異なる人間の各々の魂をモデルにしてい
      ↓   ↑    る。一見どれも同じ○に見えるが、全て配置
      ○→○→○    されている場所が異なっていることが図を見
   れば解る。つまり、同じ魂でも場所=空間によって差異が生ずる。中央
   に存在している「樹」は、いわば魂が集結している想像上の領域である。
   この「樹」が魂を産み出し、我々の肉体に宿る。我々の肉体と魂が分離
  すれば、すなわち死を経ると魂は再度この「樹」に帰還する。
  下記の図は時間の概念を含ませた輪廻のモデル    ①←⑧←⑦          
  図である。①の時代に生きていた人間が魂を②    ↓   ↑
  の時代へ移転させる過程において、①の記憶は    ② 樹 ⑥
  全体的に抹消されるか、或いは部分的に削除さ    ↓   ↑
  れる。従って、可能性としては⑧の時代を生き    ③→④→⑤
  ている人間が不意に①の記憶を呼び覚ますことは原理上成立する。このモ
  デル図では魂の個数を八つに限定しているが、これは輪廻をイメェジする
  ことに適切であるからである。しかし、⑧の時代を生きる人間が①の記憶
  を残存させてい、且つ次の時代には①を迎えるのであれば、この者は二重
  にかつての自身の記憶を所有することになる。すなわち、①の記憶を既に
  内在している者が再度①の時代を生きることになるのである。これを便宜
  的にここでは「デジャ・ヴュ」と呼称する。この原理上、①から⑧全てに
  既視感は遍在する。例えば、⑥の時代が西暦二千六年であった場合、この
  時代を生きる人間が②の時代の記憶を何らかの形式で再現出させたと仮定
  する。そして、③、④、⑤の記憶が全て⑥に引き継がれてもいなかった場
  合、おそらく⑥の者は己がかつて②の時代を生きる者であったことのみに
  おいて、「デジャ・ヴュ」を浮上させるだろう。しかし、これは誤謬であ
  る。「樹」の視座に立てば、⑥まで辿り着くには順番に②→③→④→⑤と
  来ているのが解る。しかし、⑥を生きる者には③、④、⑤の記憶が削除さ
  れているので、あたかも②の直接的な転生(②→⑥)などという錯覚が生ま
  れるのである。肉体と魂が分離して、「樹」に帰還すると、魂は帰還した
  時点で別の肉体に憑依する。記憶が部分的に削除、あるいは全的に抹消さ  
  れるのは「樹」が魂の濾過装置の機能を担っているからである。ここで記
  憶というのは、視覚に限定されたものではない。②の時代、紀元前二千年
  頃のエジプトで偶然耳にした音楽に対する記憶が、⑥の時代に作曲家の発
  明と摩り替わることはあり得る。このように魂は空間×時間を媒介して絶
  え間なく循環している。しかし、「樹」で発生したばかりの始原的な魂に
  は地上でのいかなる記憶も存在しなかった。人間は死ぬと瞬間的に別の肉
  体を獲得して魂を更新させるに過ぎない。これを始点にまで遡行すると、
  全ての魂は一なるものであるという帰結になる。この一なる魂、無数の変
  奏の可能性を帯びた魂を持った人間を仮に「アダム」と呼称する。すると、
  ここで一つの定理が抽出される。「全ての人間はアダムを反復している」
  先述して、筆者は「前世の記憶が全的に抹消される可能性もある」とした
  が、これはおそらく誤りであろう。何故なら、それは輪廻転生の根本的原  
  則とは不一致であるからである。全ての人間は何らかの形式で前世を生き
  ている。全ての人間が前世を何らかの形式で反復している。このように、
  ありとあらゆる人間の運命は「アダム」を始祖とする環で繋がっている。
  男が女に接吻したいと望むのは、「アダム」が「エヴァ」を最初に抱擁し
  た時の躊躇いを伴う好奇心の無限の反復である。西暦二千六年の現代に「ア
  ベル」と「カイン」は無数に存在する。我々人間は、既にサタンという名
  の蛇を直に目撃した記憶を受け継いでいる。我々は箱舟を作り、我々は三
  重苦に苛み、我々は磔刑に処される…。

 僕はペンを地面に落とした。というのも、ボルヘスの亡霊がこのノートの頁に顔を出したことに不安を感じたからである。改めて自分の稚拙な文字面を再読すると、「デジャ・ヴュ」に関して説明している箇所に納得のいかないものを見出した。例えば、⑧の人間の隣街で①の人間が生まれたとすると、①の人間は隣街のある裏通りで「デジャ・ヴュ」を感じるかもしれない。つまり、その裏通りに彼の前世である⑧の人間が暮らしていたからである。だが、このノートに記されている「デジャ・ヴュ」には、かつて①の時代を生きていた⑧の時代の人間が、再度①の時代に生まれ変わった時に感じる既視感として位置付けられている。この二つでは意味が全く異なる。このようなエラーが発生したのは、僕の思考プロセスに根本的な誤りがあるからだろう。ボルヘスの『永遠の歴史』の「円環的時間」の章における永劫回帰の三つの基本形式において、彼は三番目の「同一のものの回帰ではなく類似のものの循環」に同調している。つまり、全く同じものが反復するのではなく、微妙に小さい差異を持ったものが循環していくのである。彼は同書の「循環説」の章で、「ストア派の宇宙発生論にも事物の周期的円環構造説が含有されている」としているが、「ストア派ではこれを全面的反復として〈アポカタスタシス(完全な復元)〉と呼ぶ」と述べている。また、ドゥルーズは『差異と反復』の中で「ニーチェの発明した新しい永劫回帰」を、「同一のものの回帰ではなく類似のものの循環」として規定している。すなわち、「たえまない変身であり、変わり続けるものであり、差異である」と。そしてこの差異を作り出すエネルギーが「力への意志」であるとする。回転木馬では二度同じ風景は現出しない。また、イェイツは自らの歴史観を「どの時代も円錐状に展開して、前の時代が描いた円環を次の時代はほぐすように展開する」と述べている。彼の「再来」という詩には、次のような一節が存在する。「鷹はぐるぐる飛びながら旋回の輪をひろげていって鷹使いの声が聞こえなくなる。ものごとはばらばら、中心は保てない」(『イェイツの詩を読む』参照)これは第一次世界大戦の状況を描いた予言的な詩であるそうだが、永劫回帰の負のイメェジを表出している点で極めて示唆深い。また、ベケットの奇作『ワット』には以下のような言葉がある。「実際の話、わたしたちはみんな、とっくにわたしたちのような状況――どういう状況にせよです――にいるものの上には、必ず同じことが起こるのです、ただわたしたちがそれを知ろうとしないだけです」更に彼の戯曲『勝負の終わり』において、ハムが「いったい何が起こっているんだ?」と問うたことに対し、クロヴはこういう。「なにかが軌道をすぎていく」地下鉄のプラットホームの何気ない広告の中にも、おそらく永劫回帰の教義は存在する。ただ、僕はアポカタスタシスを信じることはできない。それを信じると、おそらく「The world、s whole sap is sunk」の深みに呑み込まれてしまうだろう。僕は結局、ノートの頁を破ってクシャクシャに丸めた。そして、ノートの扉にただ、次のような図を描いて鞄に素早く仕舞い込んだ。

      …○   ○   ○   ○…
        / \ / \ / \      DNA?
         ○   ○   ○
 
 読者よ、街の空はひたすら鮮やかなオレンジ色を帯びている。先述した引用を、僕は自分の読書記録ノートから行った。つまり、鞄の中には三つのノートが存在していたわけである。一冊目は右の図が扉に描かれて、最初の頁が破られているノート。二冊目は、僕がこれまで読んできた本についての記録。三冊目は、無論、この小説が綴られたノートである。ここで読者は僕の行動を気狂いということには控えて貰いたい。二冊目のノートは、三冊目のノートの内部にも存在している。すなわち、右の図と、〈「merry‐go‐round」の仕組みに関する覚書〉と題されたテクストを、僕は二度そっくりそのまま書いているのである。地面に転がっている最初の紙屑は、三冊目に記されている〈「merry‐go‐round」の仕組みに関する覚書〉の原型である。だが、後者の方が無限に豊かである、と僕が述べると、博識な読者ならばおそらくセルバンテスとピエール・メナールのテクストの構図を想起するだろう。僕はそれに乗じた訳ではない。ただ、僕は書く行為の過程を常に読者に提示することが、作家の使命であると信じているだけである。
 しばらくして、僕は夕空しか眺められなくなった。視界に入る烏の数をぼんやりと数えることしかできなくなったのだ。僕はせっかくダンの言葉に賦活剤を得たのに、わずかの間でそれが霧消してしまうことを怖れた。僕は九冊のノートを繋げた読書記録ノートを開き、ヘンリー・ミラーの言葉を探した。『わが愛 わが彷徨』というミラーへのインタビューからのメモを発見した。「闘争を止めよ、ほかの人間になることを止めよ、自分自身になることだ」という言葉を赤ペンで引用していた。それはミラーの言葉に魂を揺さぶられて、僕自身がペンで写したものだった。「すべて人間的なものは、一人の人間に内包されている」という言葉も見出した。僕は以前、この言葉をどこかで読んだ気がしたので、違う頁を捲った。しばらくして、それはポーの『ユリイカ』での中断された読書メモから発見できた。「一人の人間は人類を代表することとなり、人類は知識の宇宙的家族の一員となるでありましょう」同じような言葉は、ボルヘスの詩「Everything and Nothing――全と無」の中の「お前は、わたしと同様、多くの人間でありながら何者でもないのだ」というシェイクスピアをモデルにした作品からも見受けられた。僕は再度ミラーのインタビューの頁に戻り、そこから「ぼくは大旅行家ではないし、内面にしか旅はしない」という言葉や、「人は内部に一冊の本を有している」といった言葉を読み返し、己を勇気付けようとした。だが、先人たちの魂の言葉に接する度に、僕はいよいよ世界の樹液が濃く深い闇に沈み込んでいくのを感じていた。僕は自分の書いたこの小説の主人公をこう解釈した。「彼は読む行為にも書く行為にも意義を見出せない。何故なら、ある一人の作家を読むと、必ず別の作家との符牒を嗅ぎ取ってしまうからである。その作品自体で独自なものは何一つ存在しない。だとすれば、ただ一冊の本、例えば、ヘルメス・トリスメギストスの声のみを聴くだけで良い。それ以外の読書は時間の空費である。また、書く行為にも同様にいかなる意味も存在しない。何故なら、書く行為自体が読む行為の改変作業に過ぎないからである。書く行為は、今まで読んできたことの反復の域を脱しない。たとえ書いている上で発見が生まれても、しばらくすれば別の先行する作家のテクストからそれが再発見に過ぎなかったということが判明する。我々は世界地図を書こうとしている。だが、既にその地図には無数の複製が存在しているのであり、別に我々の一人が欠けても、作成者の代役は星の数ほど存在する。このような現状に、彼は〈書くこと、すなわち、悦びよ!〉という熱情だけで応戦し得るのか?いいや、彼はきっと何もかも忘れてただ、ひたすら書くだろう。書いて書いて、再生産だの再発見だのおかまいなしに書き続けるだろう。だが、書き終えた後、じわじわと迫り来る世界の暗い樹液に浸されながら、彼はこういうのだ。〈書くこと、すなわち、哀しみよ!〉と」このような長々しい現代文学の自明の理を、あえて綴ってしまったことに僕は苛立ちを憶えた。僕の今の拙い解釈は既にベケットの戯曲『ロッカバイ』に決定打として記されている。誰が発しているか解らない声が語る。

声 目をかっと見開いて
  あっちやこっち
  いろんなところ
  もうそろそろやめていいころよ
  もうそろそろやめていいころよ

女 もっと

 ベケットの作品を集中的に読解していた頃のノートには次のような言葉が大きく書かれていた。「想像力は死んだ、想像せよ!」これはドゥルーズのベケット論『消尽したもの』からの引用である。『オハイオ即興劇』の感想の頁には、おそらく訳者から引用したのであろう「語るべきことはもうなにも残っていない」という言葉が、やはり大きく赤字で書かれていた。
 僕は軟体動物のようによろけ、瞼をゆっくり閉じた。否、それは閉じさせられた、というべきだろう。瞼の裏には先刻まで眺めていた夕空の残滓が形容不可能な色彩を帯びてぼんやりと浮かんでいた。僕は瞼の裏側にまで、夕空が反復されることにいよいよ虚無を浮上させた。ゆっくりと、深呼吸しながら瞼を開けた。空き地の乱雑な地面があった。ものが散在している。びっしりと、地面にこびりついて微動だにしない。僕は片眼を閉じた。そして、手で覗き窓を作って、開いている方の眼に当てた。僕の視界は限りなく限定された。その瞬間、地面に転がっている全ての塵たちが、くっきりと浮き上がった。僕は覗き窓から世界を眺めることに、小さな安らぎを抱いた。それは心地よかった。僕は片目を閉じ、更に開いている方の眼にも自家製の小さい覗き窓を当てている。顕微鏡で世界をゆっくり観察しているような、落ち着いた感覚だった。僕は空き地に存在している一つ、一つのものを窓に入れた。「あれは雑草です」「これは廃車です」「あれは空です」「これは靴です」というように、僕は一つ、一つのものに抽象絵画のような存在感を持たせた。全てのものがあからさまに存在を主張して来るのではなく、ごく限られたレンズを通して穏やかに入ってくるのが、堪らなく可愛らしかった。僕はものへの感覚の独自な視点をロカンタンに教えられた気がしたが、この瞬間の僕は、そういう先行する作品群の存在を抜きにして、確かに覗き窓に愛着を寄せることができていた。僕は街路でもこのように覗き窓を付けて歩けたら、どれほど素晴らしい散歩ができるだろう、と考えた。僕は左眼の瞼にセロハンテープを貼り、右眼には竹筒のような覗き窓を取り付けて、この街の隅々を歩きたくなった。しばらく僕は空き地を覗いていた。そして、廃車の窓の亀裂、その蜘蛛の巣じみた破砕の跡を視界に収めた。「これは硝子です」と僕は小声で囁いてから、笑った。その笑い声は、胸の奥底から間欠泉のように溢れ出して来るものだった。「硝子が割れています」と僕は更に囁いた。そして、空き地の前で警察官が不審そうな眼差しで眺めていないかを確認した。前の道路には誰一人存在しなかった。斜め右の大通りには、多くの人が行き交っていたが、僕の存在に気付く者は誰もいなかった。仮にこちらへ歩いて来たとしても、僕は廃車の後方にいるので、気付くわけがなかった。僕は安心して、再び硝子を覗き窓に入れた。「蜘蛛の巣のようです」と僕は小声でいった。僕は自分が幼児に戻ったような悦ばしい感覚になり、息を荒くした。僕はその時、自分が可愛らしくて仕方が無かった。僕は視点を空き地の百m上空に固定させ、そこから顕微鏡で僕自身を覗いているもう一人の僕を想像した。その視界には、こそこそと廃車の後ろで子供みたいに手で小窓を作っている熱心な蟻が一匹いるのである。すぐ隣の大通りでは蟻の行列が流れているというのに、この空き地では仲間外れの変な蟻が何かを密かに愉しんでいる。僕はそう考えると、震えるような笑いが腹の底から湧出した。だが、笑い声は大きく空き地の中を駆け巡るのではなく、あくまで僕の喉の中間辺りで、執拗に抑えられていた。それは卑屈な声だということを自覚した時、僕は自分が「可愛い」とは思えなくなった。だが、僕は何を語っても意味がないことを暗い真理のように自覚していたから、寧ろこの遊びに依存した。僕はある一つの事柄に気付いた。僕が「これは硝子です」といった後と、「蜘蛛の巣のようです」といった後では、明らかに前者の方が「可愛い」と感じたのである。「蜘蛛の巣のようです」というのは、どこか大人じみていた。だが、誰が見ても硝子であるものを、あえて「これは硝子です」ということには、麻薬じみた快感が存在した。僕はこの定理から一つの応用例を頭の中で派生させた。二人の少年が、堤防をサイクリングしている。やはり、夕焼けが美しい。一人が口笛を中断して、空を見上げてこう隣の親友に囁く。「空ですよ」これに対して、隣の少年は「本当ですね、空です」と笑顔で元気よく返す。彼ら二人は、「綺麗な夕焼けだね」であったり、「誰かが自殺したみたいな色だな」であったり、「空なんかどうでもいい」であったり、「もうすぐ雨が降るぞ、急げ!」であったり、そのような不必要な観念が加味された言葉を使用しない。ただ、純粋に、空がそこに存在しているということのみに、無上の幸福を引き出す。だが、僕には腑に落ちない点が一つあった。亀裂の入った汚い廃車の窓を見て、「これは硝子です」というのと、美しい夕空を眺めて、「空ですよ」というのとでは、明らかに何かが違っていた。後者は限りなく無垢な幸福に近付いている。だが、前者、すなわち覗き窓で視界を絞ってものに何か奇妙な恋慕を呼び覚ましている僕は、断じて無垢な幸福に近付いているとはいえなかった。寧ろ、僕は先述して「麻薬」という言葉を使っていたように、そこに歪な屈折した快楽の遍在を見出す。それは名状し難い、独特な慰めだった。二秒後に、必ずあの空き瓶を覗き窓に入れる、と決めて、二秒間地面をゆっくりぐるぐる眺めた直後に、ちょっとだけ空き瓶の底の方を視界に入れるその瞬間は、窃視症じみた愉楽が確かに存在した。そこには覗く者の優位な視点と、覗かれる者の被害者的な感覚に対する後ろめたさが混合されていた。僕は、空き瓶を裸体の少女に交換することも可能だと思い至り、ますますこの覗き窓にジメッとした不快感を浮上させた。空き瓶を覗き窓に入れるという行為と、衣服が解けて今にも恥部が見えそうな女を横目で観察するという行為が、僕の意識の内部で等号として結ばれた以上、それはどうにも不快なものとなってしまった。僕はがっかりして手で覗き窓を作るのを止め、閉じていた瞼も開いた。僕は空き瓶の底を、両方の眼で眺めながら考えた。「俺は女の裸体が好きだし、女が脱衣所で胸に水滴をこびりつかせているのを扉の隙間からこっそり眺めるのもきっと愉しめるだろう。だが、その女が俺の妻だったとして、もう何度も何度も抱いている奴だったとすれば、俺はこの女の裸体を隅から隅まで観察しているだろうし、あらためて扉から覗くことはしないだろう。おそらくこの女がまだ新妻であるならば、俺は風呂場を覗きに覗き、我慢できずに俺もいっしょに湯船に浸かるだろうが、それはまだこの女の裸体に対して、視覚的な免疫があまり出来ていないためだ。それはその女の本来の裸体じゃない。いわば、覗き窓という遮蔽幕を張っている、よく見ようとしてしまう架空の女なんだ。覗き窓、つまり色眼鏡を通してこの女を見ているために、俺はこの女に惚れ抜いているのだろう。だが、ものに対して、俺が限定した視界で眺めたことに不快感を浮上させたことからしても、人間は視界を絞ってはならないだろう。人間という生き物には有難いことに眼がちゃんと二つも備わっている。どちらかを自ら塞いで、何かに脅えるようにしてこそこそものを眺めるのは一時的な快感しか与えない。片眼を閉じて女のオルガスムスを見届けるようなものだろう。俺は何がいいたいのか?無論、眼は両方開け、ということだ。だが、一番問題なのは、俺たち人間が、両方とも眼を開いていると信じているのに、実は片方の眼は閉じている場合なのだ。二項対立的な概念の、一方の極にいつの間にか立っていることに対して、俺は警戒したい。盲目はあらゆる事象に遍在している。中庸ほど難解な領域は存在しないだろう。だが中庸という一つ眼も、結局は二つの眼を必要としている。何故なら、中間地点は二点が存在しないと見出せないからだ。読者よ、『デイジー・ミラー』というヘンリー・ジェイムズの作品は御存知であろう。この作品にはデイジー・ミラーという〈アメリカ〉的な自由奔放さを持つ美しい女性が登場する。純真で、遊び好きで、ガサツだがけして憎めない彼女を愛している青年がいて、彼は名をウィンターボーンという。この青年の叔母は〈ヨーロッパ〉的な古い因習に縛られた貴婦人で、デイジーを目の敵にしている。だが、彼は叔母とも折り合いを付けながら、デイジーの虜になっていく。しかし、遊び好きなデイジーにジョヴァネリという名のもう一人のボーイフレンドがいることを知った辺りから、徐々にウィンターボーンはデイジーから離れていく。最後には彼女は重病を患って亡くなってしまうが、ウィンターボーンはほとんど哀しんでいる様子を見せない。俺はこの作品を読んだ時、ウィンターボーンの心理的道程に二項対立からの脱構築の難しさを見出したのだ。ウィンターボーンという名の浮動因子は、〈アメリカ〉的なものと、〈ヨーロッパ〉的なものの境界で揺れ動きながら、前者から後者へと移動した。つまり、デイジーの遊び好きが許せなかったわけである。読者よ、あなたが仮にウィンターボーンだったとすれば、果たしてデイジーを死なせずに済んだであろうか?つまり、ジョヴァネリとデイジーがマラリアの巣窟へ夜の散歩に出かける以前に、何らかの行動を起こして、彼女側のベクトルに新しい価値観を見出すことはできなかったであろうか?おそらく、徹底した中庸主義者がウィンターボーンであったならば、何らかの解決策を見出していたかもしれないし、やはり死なせたかもしれない。これはおそらく今後も反復される作品だろう。〈東洋〉と〈西洋〉、〈イスラム教〉と〈キリスト教〉などに形態を変容させて。だが、一体この世界の何人が、デイジー・ミラーがマラリヤ窟に足を踏み込む以前に救済できるというのだろうか?彼女の死は我々人類に大き過ぎる哲学的課題を残してしまったのだ…。」
 再度、電波塔へ向かった。だが、僕はそこへ到着する前に、広い草むらの片隅に置かれたベンチに座り込んでしまった。僕はまた何か架空の話を、今度は『マロウンは死ぬ』のようにでっちあげようとした。ハーネット・オズワルド作、『電波塔』、僕はそれを絶版にして新しい架空の作者を考えていた。僕は草野忠芳という現代の日本文壇で活躍している中年文芸評論家を想像して、彼の最近の作品である『「電波塔」の表象と地層、その限界』という作品を考案した。これはオズワルドの作品に、草野が敬意を表して仔細に独自な解説を試みたものである。草野はここで『電波塔』を、まずは間テクスト性理論の見地からボルヘス、ベケット、更に「私小説を想像的に改変したフィクショナルな小説群」などと照合しながら、極めて嘲笑的にその方法論の「新奇さ」を論駁する。草野は同書、第三章「ヌーボー・フィロゾフとの連関、あるいは文学的退化」において、『電波塔』における文学評論じみたテクストと引用の羅列を「本自体が語る以上に、本を話題にしている」と徹底的に悪評している。(いうまでもなく、これはドゥルーズの『狂人の二つの体制1975~1982』の十三章からの愚劣な転用である。ドゥルーズはヌーボー・フィロゾフを「マーケティング」であり、「マスメディア」との蜜月であり、「インスタント思想」であるなどと規定する。草野は評論家としてのモラルに乏しく、この本を参考文献としてさえ提示していない)草野はほぼ全章に渡ってオズワルドに敵意と憤慨と冷笑を浴びせるが、最後の「あとがき」二頁を使って、以下のように記している。「私はオズワルドの『電波塔』を中学生時代に読んで以来、絶えず自分と近しい感覚の持ち主がこの世界には少数ながら存在しているという励ましを与えられてきた。彼が我々に提示した小説の方法は明らかにボルヘスの圧倒的影響下にあり、更にほぼどの頁を開いても引用が登場しているが、それでも私はオズワルドの「声」を確かに耳にしている。彼が〈読者よ、僕の声はひどく擦れて裏声さえ混じる卑下たものだが、それでもこの声には魂が宿っている〉と倣岸にも宣言する時、私は奇妙な慰めを寧ろ自分自身に対して抱かざるを得ないのだ。それは、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生涯と意見』の第一巻第四章において、作者が「あらかじめ宣言しておきますが、これから先は好奇心の強いお方、せんさくずきのお方のためにのみ書くのですから」と読者諸氏に訴えかける時に感じた強靭な励ましよりも、更に大きく計り知れない希望を、我々読者に与えはしないか?オズワルドは小説の内部で生き、更にその世界の中で作家であり続けた唯一の作家である。彼は確かに存在しない。おそらく、彼は架空の作家として後世の何者かに引用されるだけの存在に過ぎないだろう。だが、彼は今もあらゆるテクストの内部で呼吸している。」この「あとがき」において、後半の草野は明らかにオズワルドと自己同一化している。
 僕は再度、図書館へ向かった。再び有限数の書棚に対面し、それらの隙間をゆっくり歩いた。ベンチで綴ったとりとめもない文章が、僕のその時間を世界の暗い樹液から救ったのだ。僕は書く行為には、人間を生に繋ぐ力が存在していることを改めて認識し、心に小さな木漏れ日が当たった。だが、相変わらず正方形の小さな窓からはオレンジ色の夕陽が無機質に差していた。僕は絵画関連の書棚から岩波書店の『コンセプチュアル・アート』という本を取り出した。隣では、やはりあの学者風の老人と、端麗な面影を残す老婆が仲良く語り合っていた。僕はできるだけ人気のない一角を探して、その隅に座り込んだ。巡回している警備員に注意されれば、カーペットから尻を上げればいい。僕が今手にしているこの本は、カタログ風に解説と作品が記載されていた。僕はしかし、寧ろ写真のみを眺めるようにして頁を捲った。僕はその本の中で、やはり今の僕の心象風景を語ったものを探し始めていたのだ。読者よ、相変わらず街の夕空はこの小説の冒頭と同じ色彩を帯びている。そして僕は今、服の中に隠して携帯している小説用ノートに文章を綴ってもいる。僕が作品の内部で行動した場所は順に「自室」→「電波塔」→「図書室」→「空き地」→「電波塔」→「図書室」である。循環に美を見出し始めた読者諸氏であるならば、この次に僕が訪れる場所がどこか平易に推測できるだろう。だが、僕は実際、「空き地」の次に「電波塔」へは辿り着くことなく、「ベンチ」に落ち着いたのだ。場所は完全に同一性に基いて反復されているのではなく、類似性によって微小な差異を帯び始めている。この作品を書いている上で、僕は一度も誰とも会話をしていない。始めの図書室で出現した背広の男は、僕が作り出した架空の存在であって、先述した老婆たちとは異質である。だが、そもそもあの老婆たちでさえ、僕はやはり「そこに存在してはいるが、明らかに書き手が産み出した作品内の人物」として描いているわけである。だから、事実上、この図書室には本来僕以外の誰も存在しないのである。否、これも不十分な言い草である。より正確に表現すると、この小説に存在する全ての場所、時間、人物は虚構である。書き手は、ずっと「自室」の電子画面にワードプロセッサでこれらのテクストを綴っているに過ぎない。よって、先刻まであなたが読んでいた「図書室の片隅で『コンセプチュアル・アート』のカタログを眺めている〈僕〉」という人物は存在しない。これらは既に言い尽くされているであろうし、今更僕が書く行為の内情を吐露する必要性も無いのかもしれない。だが、読者よ、それら架空の「僕」と、この今まさに文字を打っている僕とでは、一体いかなる差異があるというのだろうか?一体誰が、背広の男は存在しない、あの老婆もこの図書室も夕陽も私も何もかも……、と断言できるのだろうか?現実は夢の延長であり、人間は起きている間に眠っていて、眠っている間に起きている。コインには裏と表が存在するが、それらは共に一枚のコインであって、切り離されているわけでも、引き剥がされているわけでもなく、皮膚のように繋がっている。だとすれば、僕が作り出したこれらの人物は、虚構という裏の世界を超越して表の現実に湧出していても不思議ではない。読者よ、僕はこういうべきだろう。我々は常に理想の人間を夢想する。そのような人間が傍にいてくれさえすれば、どれほど今のこの孤独が癒されるだろうか、と。だが、我々がそのように夢想したのは、実際にそのような人間が存在していることを知っているからに他ならない。(僕はこのような箴言調の書き方には大きな抵抗感があるが)だから、読者よ、僕と「僕」は交換可能であるのだ。さて、物語を再開してもよろしいだろうか?僕は読者が、「ここらで密かに終わらせてくれ」と囁くのを怖れている。何故なら、僕にはまだ書かねばならない結末が存在するからだ。この作品の最後の風景、僕が漂着する最後の場所を、読者よ、あなたは予想できるであろうか?
 僕のしゃがみ込んでいる場所に影が差した。それは警備員の人影にしたら愕くほど華奢なものだった。見上げると、高校生くらいの華美なファッションに身を包んだ少年が一人立っていた。髪の毛は南仏の黄金色の畑ほどに金に染まり、眼はカラーコンタクトをしているのか、異常なほど赤かった。彼はじっと僕を見下ろし、僕が手にしている本の中身というよりも、僕が「本を読む」という行為を観察しているようだった。僕は急速に立ち上がった。本を抱えたまま、彼を見つめようとした。だが、既に観察者と化していた彼の眼差しには威圧感が漂い、僕はそれに抵抗するように見つめ返すということができなかった。僕は首をカーペットの床にやや落としながら、それでも彼の右耳にぶら下げられた十字架のピアスを瞬時に見た。それは幻のように銀色の輝きを孕んでいた。彼を横切り、僕はパイプ椅子の方へ向かおうとした。すると、後ろの少年が僕の肩を強靭に掴んだ。彼は掴むと同時に、以下のようなことを早口でいった。
――アナタ小説家デスヨネ?
 僕は彼のその言葉に立ち止まることを余儀なくされた。しばらく、僕は直立不動で「小説家」という言葉が持つ重みが背中をぎっしり覆い尽くすのを待っていた。それは、待たざるを得なかった。僕はどのように返答するか考えた挙句、結局こう落ち着いた。
――はい、と。つまり、僕は小説家志望者であるにも関わらず、「小説家」かと問うた彼に肯定したのである。だが、これにはある強力な意味があった。小説を書く上で、小説家志望者として書く人間がどこにいるであろう?「小説家」になること、小説家志望者であること、双方に差異は無い。僕はただ書きたいから書くのであり、書くことを自己救済にしているのであり、書くこと、すなわち悦びよ、を求めて書いているのである。白い紙、ないしは白い画面に涙の痕跡を残す者全てが小説家ではないだろうか。否、書くことは人間の本能であり、衝動であると僕は思う。(僕はやはり箴言調の文章よりも、~と思う、~ではないだろうか、という綴り方が似合うだろう)彼は僕がそう短く返すと、園児のような満面の笑顔を顔中に浮かべた。僕はその顔がひどく滑稽に、そして不気味に思えた。彼は続けて僕に人懐っこく近付いた。
――俺アナタノコト知ッテルンデストイウノハ俺ガ高校ニ入学シタ当時アナタハ三年デシタカライツモ同ジプラットホームニイタンデスケドアナタハ最後マデ気付イテクレマセンデシタアナタニ影響サレテ俺モニーチェノアノ本ヲ読ミナガラ通学スルヨウニナッタンデスヨ。
 僕は機械の音声じみて名詞や代名詞を奇妙にも同じ調子で話す彼に笑った。だが、それは彼が意識して僕に滑稽な印象を与えようと努力したようなものではないらしく、実際にそのようにしか話せない印象を与えた。例えば、「オレ」という言葉のアクセントは、通常の「おれ」とは別の場所に付いている具合。(「オ」ではなく、「レ」を強く発音しているのだ)そのように、全ての発音を別の場所に移動させることは、突発的な遊戯感覚で成せる代物ではない。読者よ、僕が最も吹き出しそうになったのは、「俺モニーチェノアノ本ヲ読ミナガラ通学スルヨウニナッタンデスヨ」という部分である。それは遊星人の会話風景にも聴き取れたし、『ワット』に登場する「逆さ言葉」めいた親密感を僕に呼び覚ました。だが、奇妙にもくすぐったいのは、通訳が必要というほどのレヴェルではなく、あくまで最小限度会話が成り立つ具合で彼がそう口にできている点だ。そして何より、僕は彼の短い台詞の内部に含まれていた「プラットホーム」や「ニーチェ」という言葉から、急激に高校生に遡行したような懐かしさを感じたのである。僕はこの見知らぬ後輩との思いがけない再会に、強い悦びを抱いた。僕は彼に失礼がないように、できるだけ礼節を重んじてこう返答した。
――夏休みだから頭髪検査がないからね。
 彼は僕がそういうと、自分の金髪に手を当てて首を傾げた。その傾げ方は、鳩のように俊敏であり、僕にこの図書室の係員を想起させた。
――タイガクシマシタ。
 彼は不意に短くそういった。僕は一瞬「エ」といった。そして、今彼の口にした「タイガク」という言葉が、発音こそ奇妙ではありながら、やはり「退学」を意味していることを知った。
――退学?ああ、そうだったのか、と僕は沈鬱な面持ちを浮かべるように努力しながら、同情を寄せていった。俺の学年でも十人以上の退学者が出たよ。三年間でさ、と僕は付け足すことも忘れなかった。
――裏庭ニアッタマリア像ニ傷ヲツケテヤッタンデス放課後誰モイナイノヲ見計ラッテトンカチヤハンマーヤキリヤノコギリデソレガ密告サレテ保護者ヲ呼ビ出サレテ学園長室デタイガクシナサイト諭サレマシタデモ俺ハトテモ晴レ晴レシイ気持チダッタンデスアナタニモアノ木端微塵ニ粉砕シテヤッタマリア像ヲミセタカッタナダッテアノ聖母像ハ学校ノシンボルデショウ俺ハアナタナラキット俺ヲ許シテクレルト思ッテイマス俺ハマリア像ノ頭部ダケハ傷一ツツケマセンデシタダッテニケア・コンスタンチノープル信条ニモ「主ハワタシタチ人類ノタメワタシタチノ救イノタメニ天カラクダリ聖霊ニヨッテオトメマリアヨリカラダヲ受ケ人トナラレマシタ」トアリマスヨネマリアハ娼婦デシタガキリストノ母デアル点デアラユル女性ノ頂点ニ君臨シテイル俺ハ幸徳秋水ノ『基督抹殺論』ノヨウニ毎日「キリストトハ何者ゾヤ?」ト考エテイルンデス。
 僕は彼がそこまでいった時、彼が先輩に対して親密な会話を求めているわけではないことを思い知った。僕は深い溜息を吐きながら、彼が確かに僕と同じフランスのマリア会を母体とするカトリック系ミッションスクールの生徒であったこと、そしてその学校の権力と結合したキリスト教を打ち破るために反キリスト的なイデオロギーを吸収してマリア像を破壊したこと、退学して今は居場所の喪失に嘆いていることなどを思い巡らせた。彼は涙ぐましいような沈んだ表情で小さくなっていた。僕は彼を見ていると、堪らないほど哀れに思え、背に手を置いてパイプ椅子へ誘導した。実際、僕にも同じ学校の生徒として、彼に似た傾向があった。朝、讃美歌の流れる廊下を越えて、教室に辿り着く。着席して、しばらくすると担任の教師が教卓の後方に座る。黒板の上には「世の塩 地の光」と刻まれた額縁と、聖母子を題材にした小さな絵。その中間にはスピーカーがあり、そこから朝の宗教講和の声が流れてくる。誰一人一言も話さない。声の主は学校中を歩き回っている神父だ。彼らは学園長ほどにも傲慢な顔つきをして生徒の前を通り過ぎる。「キリストの権力」があの学校を密かに包み込んでいた。そして、僕は神父が聖書を朗読するのに耳を閉ざしながら、ポケットに入った『この人を見よ』の厚みに強烈な結び付きを感じていた。今、図書室の片隅でこうして僕の隣に座っている彼は、反キリスト者のような存在にも見えた。その姿はあの監獄を自主退学していった全ての生徒を反復していた。だが、僕はどこか彼に虚しさを感じていた。それは、虚しさ、という言葉以外では名状し難い、小さくて、情けない、甘ったれた、ほとんど昔の僕自身に対する憤慨だった。彼は震えていた。それは小動物が冬眠に失敗して寒すぎる地上に出てきた三日目の晩のように、丸くなって凍えていた。僕は彼の背をゆっくり撫でながら、顔を覗き込んで気遣った。彼は僕にとって、既に仲間だった。「キリストの権力」の囚人として高校生活を送った、掛け替えのない親友だった。おそらく、僕も卒業するまでの間、彼のような口振りだった気がする。
――誰も君の退学を責める権利はない、と僕は慎重にいった。僕は彼が実は萎縮して、脅えていることを察知していた。だから、どうにかして彼に安らぎを与えたかったのだ。俺は卒業したんだ、卒業証書が欲しかったから。だから、どちらかというと、俺は自分の高校時代を全面的に肯定するような具合なんだよ。それに、今となっては、マリア像も複雑な気持ちを除外して、単純に何か神聖な存在だと思えるようになっているんだ。ただ、フリースクールを親と相談するほど、もう我慢の限界にきていたってことはあったよ。
 僕はそこまでいって、彼の表情を確認した。彼はどんよりと灰色の眼差しを床に落としていたが、それでも僕の話には耳を傾けてくれているようでもあった。僕は話を続けようと思った。
――欠席もよくしたな。恥ずかしいけどさ、父親の声色を真似て、事務の人に出席番号とかを報告して、「××の父ですけれども、今日はちょっと本人の体調が悪いようなので、欠席させます」ってな具合で休んだもんだよ。二年はそのピークで、三年はちょっと少なくなった。話せる友達は二人いたんだけど、その二人同士がかなり仲良かったから、俺はだんだん誰とも話さなくなっていったんだよ。それが淋しくて、いつのまにか父親の声を使うようになったんだ、と僕がいったん話を中断して彼の方を見ると、そこには笑顔があった。それは控え目な、しかしどこか安心しているような笑顔だった。僕は嬉しくなり、更に話を続けた。
――俺は今ボルヘスって作家を読んでるんだけどさ、もしも高校時代にこの作家に出会っていたらって、思わない日はないよ。ちょっと変な言い方かもしれないけど、「救済のイメェジ」はどこにでも転がってるんじゃないかって思うんだ。絵本でもさ、ギターでもさ、歌でも、野球でも、サッカーでも、何かを無くした瞬間にこそ、打ち込めるものがあると思うんだよな。月並みな言い方だな。
 彼は僕の話を聞いてくれていた。彼は小さく、うん、うん、と呟いていた。僕は不意に、彼の先刻の言葉を想起した。
――ああ、そういえば、君はさっきマリアを娼婦といっていたけど、あれはマグダラのマリアと勘違いしているんじゃないか?マリアはアンナの無原罪受胎から生まれて、キリストはマリアの処女懐胎で生まれたはずだろう?キリストの母親は娼婦じゃない。
 僕は卒業した頃、図書室でマリアについて調べていたことがあった。竹下節子女史の本によれば、マリアの処女性が決議されたのは西暦六四五年のラテラノ公会議であり、やはり同じく処女懐胎によって生まれたフリギア地方のアティス神に影響を受けているという。しかし、興味深いことに、それよりもずっと昔、西暦三九〇年のミラノ公会議でジョヴィニウスは「マリアはイエスの他にも子を産んだ」といって破門されている。紀元前二五〇年から一五〇年にかけて少しずつ訳された『七十人訳聖書』によれば、訳される過程でヘブライ語の「almah=若い女」は「parthenos=処女」とされていたという。西暦一四五一年、ヤコブ・アカランはジョヴィニウスを反復する。「ノートルダムは我々と同じように結婚していたんだ、処女なんてとんでもない」彼はそういって三年を獄中で過ごした。僕はこのような文章を竹下女史の本から見出したが、最も衝撃的だったのは「イエスは女性である」という意見である。「母神的宗教は父性宗教の古層にいつもあり、完全に払拭されることはない」のであり、神の愛は本質的に母性愛であるとする。「槍に刺し貫かれて開いた脇腹に神秘家たちは母の性器を見た」類似したことをデリダは『死を与える』第一章「ヨーロッパ的責任のさまざまな秘密」で述べる。「喪」の形式において、「抑圧されたものは次の形式において体内化されている」のであり、「キリスト教はプラトニズムを残存している」と。キリストの男性的な皮膚を剥がすと、そこからはマリアの膚が覗くのではなかろうか。とはいえ、高校時代の僕は校内に乱立する神父像の外側を捲って、中から聖母像を見出すほどに大らかな心を持てずにいたのだった。彼はしばし沈黙して首を落としていた。だが、やがて背筋をピッと伸ばし、首を直角に僕に向けた。
――俺ハマダ、マリアヲ許スコトハデキマセン。デモ、俺ハ顔ヲ傷ツケナカッタ。デキナカッタンデス。俺ハマリアニ許シテモラエルデショウカ。
 彼の言葉は気のせいか、先刻よりかなり聞き易くなった。奇妙な発音は部分的に改善されていた。小窓から差すオレンジ色の夕陽を浴びて、彼の顔には陰影が濃く滲んでいた。僕は彼のわずかにまだ痙攣している右手に左手を乗せた。
――君がマリアを許したら、きっとマリアも君を許すと思うよ。いや、もう許してると思う。だって、木漏れ日のような女性だったんだから。
 僕がそういうと、後方でハッ!という、大きな笑い声が響いた。後ろを振り返ると、四、五人の若い大学生らしき男女が、僕と彼を交互に見てクスクス笑っていた。僕は素早く向き直った。確かに、どう考えても、僕のような目立たない恰好をした華のない男が、彼のように整った容姿をした派手な恰好の少年と隣り合って、しかも手を乗せ合っているのはおかしなことだった。僕は手を急速に引っ込めた。いつか、僕はクラスメイトの一人に手を乗せられて、愕いて手を引っ込めたことを思い出した。それは僕がほとんど人と話さなくなったことを心配して、近寄ってきてくれた親切な生徒だった。僕はあの頃心の中で、同性愛というものに極度な憧憬と、そしてそれを凌駕する大きさの不安を抱いていた。あの、やはり夕陽が燦然と差す廊下で、彼が伸ばした手に、僕は禁忌なものを掴み取ってしまっていたのだ。それ以後、彼とは一切話さなかった。卒業式の日、僕は貰ったばかりのアルバムを可燃物用のゴミ箱に入れながら、「ゲイども」と囁いたことを暗い沼の内部から掬い上げた。後方からは、肩を強張らせた僕らをいつまでも粘着質な眼が監視していた。彼らは口々にいった。「オトモダチ?」だが、僕はひたすら耐えていた。ここでもしも、取り乱して、彼らに牙を向けば、あの頃手を引っ込めた僕を反復してしまう気がした。僕は息が荒くなっていた。なぜ、同じマリア像を眼にしていた先輩と後輩が、手を繋ぎ合ってはならない?と僕は心の中で彼らに叫んでいた。なぜ、孤独とは何かさえ知ることのできない若者同士が、慰めのように手を取り合ってはならない?しばらくしてから、彼は無言でゆっくり立ち上がった。僕は彼の顔色を窺う気力を喪失させてしまっていた。だが、その顔が僕に対する憤りで満ちているであろうことは、容易に予想することができた。僕は胸が締め付けられ、低い声で自分でも意味の不明瞭な言葉を口走った。彼が後ろにいる若者のグループたちを気にしていることはすぐに解った。そして、再会したばかりの「よく素性を知らない先輩」にいきなり手を乗せられたことにも。僕は彼に手を乗せたことを羞じた。それは、すべきではなかった。少なくとも、このような状況を作り出してしまうのであるならば。僕は、女子生徒がいないことに耐え切れないのか、自ら女性と化して女っぽい仕草をしている生徒がいたこと、男子トイレの奥から、昼休みになると二人の生徒の唸り声が響いていたことなどを想起して、眩暈に襲われた。僕は彼らを反復しようとしていたのだ。「抑圧されたものは次の形式において体内化されている」僕はデリダのその言葉を忌わしい呪のように浮上させた。僕がもしもカトリックの洗礼を受けていたら、今このように思い煩うことはなかっただろう、と僕は思った。神の国に僕も入っていれば、僕は「手を乗せる」くらいの行為で、いちいち悩まないだろう。それは友人同士の当然の風景であり、親睦の象徴であるのだろうから。僕はこのように考えること自体が、僕の人間としての卑小さを如実に物語っている気がしてならなかった。
 彼は去った。やがて、僕らを笑っていた者たちの姿も消えた。僕はパイプ椅子で再び一人になった。(否、初めから僕は一人であるに過ぎないが)僕は再び『コンセプチュアル・アート』のカタログを開いた。小窓からはオレンジ色の夕陽が差している、ずっと同じだ。僕は一九八八年に制作されたアネット・ルミューの「私はどこにいるの」という作品の写真を見た。そこに記されている言葉を、僕は順番に小さな声で読み上げた。それは、読み上げざるを得なかった。
――Where am I
―――Where are you
――――Where is she 
―――――Where is he
――――――Where are they
―――――――Where are we
――――――――Who am I
―――――――――Who are you
――――――――――Who is she
―――――――――――Who is he
――――――――――――Who are they
―――――――――――――Who are we
――――――――――――――What am I
―――――――――――――――What are you 
――――――――――――――――What is she 
―――――――――――――――――What is he 
――――――――――――――――――What are they
―――――――――――――――――――What are we
――――――――――――――――――――Why am I
―――――――――――――――――――――Why are you 
――――――――――――――――――――――Why is she 
―――――――――――――――――――――――Why is he
――――――――――――――――――――――――Why are they
―――――――――――――――――――――――――Why are we 
 僕はこの二十四の呼び掛けに答えられた人間を知らなかった。そして、僕は『ヨハネ伝』八章六節の言葉を想起した。「イエスは地面に言葉を書いたが、人々は誰一人それを読まなかった」まだ書かれていない言葉、かつては話し言葉の内部にのみ存在した秘密の言葉を、僕は求めた。
 再び、僕は空き地へ向かった。図書室から空き地へ向かうまでの街路で、僕の周囲二m以内で擦れ違った人間は、自動車の内部も含めて合計三十四名だった。その誰もが、完璧な通行人だった。彼らは各々の進むべき道に向かって夕暮れの中を歩いていた。僕は街の建造物、歩く人、止まっている人、それら全てを含めて一つ一つを単純な図形化された抽象絵画のように捉えようとした。例えば、頭の大きな黒服の男は、黒い円柱。犬を連れた小さい少年は、丸い二つの球体。手を繋ぎ合った若い男女は、細いパイプ状の円柱で癒合された二つの赤い円錐。スーパーマーケット、コンビニエンス‐ストア、美容院、CDショップ、本屋…、それらあらゆる建物は極めて単純な立方体、及び直方体(無論、円柱なども存在する)として見る。僕はここで「見る」という。「見える」とは断じていわない。複雑極まる街の構造を、単純なオモチャの積み木に置き換えるに過ぎない。空はオレンジ色の壁紙である。鳥の群は無数の黒い点。そのように見ようとすることで、少なくとも僕は複雑な構造に呑み込まれる不安を紛らわせることができた。僕が今眼にしている光景は、確かに現実の絶え間ない連続した運動と喧騒に満ちていたが、いわば自身の眼の奥にもう一つの架空の眼を持つように意識するのである。その眼はドミノタワーやレゴブロックで遊ぶのが好きな子供の眼よりも遊戯的である。実際に僕が「見える」のではないという事実が、僕に想像の歯車を大きく回転させ続けていた。僕はレゴブロック製の歩道橋を上り、橋の中央から車道を見下ろした。二つの車道では、それぞれ向きの違う直方体がほぼ同じ速度で交錯し続けていた。否、僕はもっと単純に考えるべきだった。つまり、二本の線と数知れない点。不意に、この線に小さな球体が入り込む。直方体と衝突する。小さな球体は赤い、常に変化し続ける図形で線を汚す。やがて白い直方体が来て、この小さな球体を数個の円柱たちが運び込む。単純な音が、周辺の円柱や円錐たちを停止させる。彼らは囁く。「事故だ」「子供が飛び出した」「可哀想に」「あんなに血が出てる」「きっと助からない」数週間後、この歩道橋の脇に小さな三角形の集合体が置かれる。それは花だ。誰もがその花を見て思う。「あの子は死んだんだ」「誰かがここで死んだんだ」「気をつけよう」三角形の集合体はやがて回収される。線の上を点は動き続ける。別の線上で、また点と点が衝突する。どこかに三角形の集合体が置かれる。
 しばらくして、僕は空き地へ到着した。廃車の後方にはキャンプ用の椅子が置かれていた。僕はそこに腰掛けた。かすかに温もりが残っていた。それは誰かがつい先刻までここに座っていた証拠だった。僕はそれが別に誰でも良かった。ただ、僕ではない方が、どこか落ち着くだろう、それくらいの感情しか呼び覚まさなかった。空き地の地面を僕は眺めた。僕はずっとこの椅子に座ってこの地面を眺めてきたような気がした。無数の砂利、塵の集積である。僕は不意にfragmentという英語を浮上させた。破片。全てのものが何らかの形式で欠落点を持っていた。すなわち、fragmentを落としていた。空き瓶の破片。雑誌の破片。昆虫の破片。犬の毛の破片。中には完全に近い形態をした、例えば中身だけ無くなった空き瓶も確かに存在した。だが、それらはやはりfragmentだった。使い古され、所有者から見捨てられ、忘れられた無数の記憶の破片。この空き地、この街の平凡な一角に、少なくとも無限に近い記憶のfragmentが散在していた。僕は今座っているこの椅子を見下ろしてみた。それはやはりfragmentと化していた。僕がこの場所を離れていたごくわずかの間に、少なくとも数千年の哀しみを内包していた。僕は眼の前の廃車を眺めた。大きなfragment、かつては運動し、人間を乗せて車道を走り回っていた機械。だが、今は他のものより大きさの点だけでひたすら勝っているだけの、役立たずな破片に過ぎなかった。僕は亀裂の錯綜した硝子を眺めた。僕の顔が映っていた。砂埃に覆われて、ひどく曖昧な映り方をしていた。指で砂埃を拭って、正方形の窓を作ってみた。再び覗き込むと、先刻よりも明瞭に何者かの頭部が映し出された。それは紛れもないfragmentだった。彼の顔はバラバラに砕けていた。それは丸められた紙屑を再度開いた時の無数の折れ線が刻まれた、醜悪な頭部だった。この空き地に、何一つとして破片ではないものは存在しなかった。否、この空き地だけではなかった。この街の風景の全てが、ピースを数個失ったジグソーパズルだった。何かが確かに欠けていた。その何かは、fragmentとしてどこかに転がっているのだろうか?それとも、この街全体が一つの小さ過ぎるfragmentに過ぎないのだろうか?「部分は全体と同じく豊饒である」という言葉を、僕は想起した。銀河系、これも破片に過ぎない。地球も、この街も、この空き地も、僕が今握っている石ころも…。だとすれば、この石ころを銀河系と交換することはできないのだろうか?同じfragmentならきっと交換できるはずだ、と僕は長旅で酔った貿易商のように考えた。人間は死んでも、fragmentは必ず残る。完全にこの世界から消尽されるものなど何一つ存在しないだろう。僕の祖父は太平洋戦争の衛生兵だった。いつか、僕は彼にラムネが沢山入った瓶を貰った。僕はそれを一日で全て平らげた。彼は戦地で片方の肺の四分の一を落とした。彼は中国の広い平原で、仲間の骨の一部を担ぎながら夜通し歩く列に加わった。祖父の記憶のfragmentは、今となっては極度に磨耗して、更に小さな結晶と化している。だが、その内部で確かに祖父は生きていた。彼は今も僕にラムネの瓶を渡そうとして、笑っている。戦争にまつわる祖父の記憶は、父に受け継がれ、やがて僕にも受け継がれた。既に取捨選別を経ていたfragmentが、更に濾過されて、「夜の中国の平原」「骨を担ぐ」「戦地の爆弾」「肺を負傷する」といった断片化された言葉にまで選び抜かれていた。部分は全体と同じく豊饒である。祖父の体験した中には、「敵を殺す」「親友を失う」というような、容易に息子や孫には語り得ない事柄も含まれていたのかもしれない。だが、僕には確かにそのfragmentが受け継がれている。そこから僕は無限の想像を巡らせることができる。僕がもしも戦地で敵を殺すような未来を持つとすれば、その時の僕に対して現在の僕はこう断言することができるだろう。「おまえはfragmentを失ったのだ」僕は祖父のように戦争を知らない。だが、僕は祖父の味わった戦争のfragmentを所有している。これさえあれば、僕は日の丸を担いで君が代を叫ぶような愚かな真似はしないだろう。おそらく、戦争を知らない世代である僕のfragmentには、戦地で流れた無数の涙と血の風景が霧消し易い状態にある。涙と血、これらを映し込んだ記憶のfragmentを失う時、僕らの中で「帝國」が生まれる。世界中で起きた戦争のfragmentに共通して映し込まれているのは、涙と血なのだ。これらを反復することを、僕の祖父は果たして許すだろうか?祖父はきっと今の僕にならこういってくれるだろう。「力への意志の概念を誤るな。血と涙の反復を打ち破る、幸福の羅針盤を握る力への意志を持て」僕は死ぬまで祖父の戦争のfragmentを手放さない。手放してたまるか。僕は、それを手放さない。僕はfragmentを失わない。失ってたまるか。
 エルンストの作品に、『氷の風景、女の体から成る氷柱と石』という一九二〇年に制作されたコラージュがある。やはり同年、彼は『砂利の中の女主人』というコラージュ作品を制作している。この二つの作品に登場するものを順に列挙すると、僕はある一つの定理を抽出しなければならない。それは僕が今、この空き地に存在してぼんやりとオレンジ色の空を眺めているという行為の全てを破壊するものである。まずは「歯車」「風車」「地層」「アンテナ」「海」「砂浜」「山」「積み木のようなブロック」、これらは一枚目の作品に登場するものだ。次に「ギア」「タービン」「ポンプ」「コンクリート」「暖炉のような装置」これらは二枚目に登場するものである。双方に共通しているのは、これらが〈回転する機械〉を形成していることだった。それは孤独に回転し、循環する、歯車型の動力マシンだった。特にこれといった優秀な機能を持っているわけでもなさそうな、淋しい簡素な機械たちの廃墟。僕はこの二枚のエルンストの作品に、僕が綴ってきたこの小説との連関を見出したのだ。読者よ、僕は確かに〈回転する機械〉になろうとしていた。無限に続く夕暮れの街、いつもと変わらない図書室、追い遣られた孤独者が行き着く電波塔、破片に塗れた空き地…、それらの場所を繰り返し訪れることで、僕は自ら〈回転する機械〉のように生きようとしていた。だが、完全な回転、完全な反復、完全な循環など、あり得なかった。エルンストの作品に表出されている〈回転する機械〉も、きっとそうだろう。回転する度に、歯車たちは違う声で叫んでいる。だが、それに耳を傾ける者は誰一人いないのだ。僕が最初に訪れた図書室と、二度目に訪れた図書室では、やはり何かが違っていた。だが、それは声なき声としていつの間にか霧消してしまうのだ。僕があのパイプ椅子で座っていた時、もしかすると既に同じことを考えていた別の人間がいたのかもしれない。だが、僕は彼の声に耳を傾けることはなかったのだ。
 一九二一年、エルンストはコラージュの大作『セレベスの象』を制作した。現代世界美術全集『エルンスト』の、この作品に対する解説には次のような文章が見受けられる。「この象は、巨大なガスタンクに似た怪物的な機械である。同時に、機械が、ついに象となってしまったとも見える。実際には、セレベスの象のモデルとなったのは、巨大な貯水容器であってその大きさは家ほどもあった。首のない人体が、手を上げて、象=機械の道案内をしてどこかへ導いてゆくが、このゴムホース状の首の長い怪物はどこへ行こうとしているのか。このイメージの無気味さは、動物的に巨大な機械の存在の無気味さに通じている」僕はこの作品を見た時に直感した。〈回転する機械〉を破砕する力を持っているのはこの〈セレベスの象〉であると。僕がこの無限に反復される夕暮れの街から抜け出て、夜の果てへ向かうには、僕自身が〈セレベスの象〉を体内化しなければならないと。物質的な化物である〈セレベスの象〉に、僕は皮膚までをも同化することはできなかった。だが、意識の内部にこの怪物を取り込むことは可能だった。僕はそこで、小説内部の僕自身を変身させるために、一つの結合された主格を導いた。そのためには、僕という一人称主格をどうしても排除せねばならなかった。僕、私、俺、これほど蜃気楼に包まれた言葉は存在しない。そこで僕は一人称から「流民」という複数形の架空人称を作り出した。『20世紀思想事典』第二版によると、「流民」という概念はまだ成熟しておらず、学術用語としても十分定着していないという。しかし定義では「政治的・経済的など何らかの理由でもともと暮らしていた土地から他の土地へ移住することを余儀なくされ、しかも移住先ではじゃまで危険な存在とみなされる人びと」と規定されている。僕はこの「流民」から一字「流」を抽出し、更にエルンストの『セレベスの象』に小さく書き込まれている「CELEBSS」から最初の一字「C」を抜き出して、これを結合させた。すなわち、〈流/C〉が僕を破壊して主格に適用される。
 〈流/C〉は始まりの場所へ戻った。自室へ。カーテンは開いていた。空はレモン色でも水色でもなく、涙ぐましいオレンジ色を帯びていた。〈流/C〉はしばらく夕空を眺めていた。何も考えずに、ぼうっと眺めていた。空の下にはけして広くはない運動場があった。〈流/C〉の部屋から見渡せる、彼の母校の見慣れた運動場だった。彼はここで三年間、中学生として過ごした。学校で泣いたことは一度もなかった。誰かが彼のせいで泣いたことも一度もなかっただろう。彼は卒業式の日、誰かから記念写真の撮影に誘われることもなく、すぐ近くの自宅へ帰った。彼は部屋の窓から、運動場が無人と化すまでずっと小さな卒業生たちを眺めていた。〈流/C〉は自室を見渡した。それは整然とし過ぎていた。気味悪いほど、ものが少なかった。二つの本棚にぎっしり埋まった本には白い布が掛けられて、壁と同化していた。部屋の隅に一台のpcがあった。画面はスクリーンセーバーになっていた。楕円が絶えずゆっくり回転している。天井にはニーチェの肖像画が貼り付けられていた。部屋のもう片隅に、布団が丸められて置かれていた。ここが間違いなく〈流/C〉の部屋だった。ここで〈流/C〉が昨日も眠り、今日も眠る部屋だった。それは雪原のような世界だった。彼が内的な衝動に駆られてそうしたのか、それともいつの間にかこうなっていたのか、とにかく部屋は病室のように白かった。家には誰もいなかった。〈流/C〉には父と母、それに妹と弟がいるはずだった。だが、この日は全員が留守だった。彼は昨日の夜、母が祖父母の家へ帰るといっていたことを想起した。否、それは二日前の夜かもしれなかった。もうずっと、彼だけがこの家に一人で棲み付いているような気さえした。或いは、実際には四人は別の部屋でにこやかに笑っているのかもしれなかった。〈流/C〉は墓場に眠るようにして、暗い床に仰臥した。彼はニーチェと対面した。しばらく見つめていると、彼は胸の中で小さな虫たちが蠢きだすのを感じた。彼は立ち上がり、椅子を持ってきて肖像画を外した。彼はそれを引き裂いて部屋にばらまいた。やがて再び背を床にした。瞼を閉じ、この家が滲み出しているわずかな音を拾った。時計の音が鳴っている。よく耳を澄ましていると、虫が肢を一秒おきに動かしているような気がしてくる。〈流/C〉は今、自分の部屋にいて、「彼女に贈る小説」を書こうとしている。否、それは最早彼女でも、より普遍的な人類への小説でもなかった。それは小説でさえなかった。〈流/C〉は立ち上がり、pcの方へ寄った。マウスを動かして、執筆途中の画面を再起動させた。彼は一瞬でそれを消去すると、pcの電源をコンセントから引き抜いた。〈流/C〉は立ち上がり、カーテンを閉めた。しばらくして、彼は耐え切れなくなり、再度カーテンを開いた。
 〈流/C〉はやはり無限に反復される黄昏から逃れることはできなかった。彼がpcの小説を削除しても、ノートでこれと限りなく類似した作品が無限に繰り返されるだろう、と思った。実際、彼のノートには一つの小説が綴られていた。否、それは小説の体裁を見失った、傲慢で稚拙な評論じみていた。彼はもう全て、書く行為に終止符を打とうと考えた。これから先、まだペンを握って、一体そこからいかなる自己変化が起きるというのだろうか?彼はたった一人の、ここまで付き合ってくれた読者にさえ囁く力を失いそうだった。彼は逃げ腰になり、結局は自作の末尾を投げやりな自己否定で終わらせてしまう己の脆さを呪った。彼はスターンの『トリストラム・シャンディの生涯と意見』の第一巻第二十一章にある言葉を引用した。「恐らくものを書くなどということは全て終わりになることでしょう――書くことが全てなくなれば、読むということも全てなくなるでしょう――やがてはあらゆる知識もおしまいになるでしょう――そうなったら――またはじめからやり直さねばならない、言い換えれば完全な元の木阿弥に戻るわけです」彼の情けない引用への依存も、これで最後だった。彼はスターンの霊魂を傷つけてしまったような気になり、いよいよこの小説を書き続ける勇気を小さくした。だが、たとえ自信が微塵も持てなくとも、彼には書くしかなかった。彼はそれ以外に、自分の存在意義を持たなかった。彼はこの作品に全身全霊をこめ続けなければならないのだ。〈流/C〉の書き方が真っ先に責められるとすれば、それはおそらく「小説の体裁」に関する問題であるだろう。「貴様は引用に頼り過ぎている」「貴様はたんに先行する作品群からシンパシーを憶えた文を抽出してそれを撒き散らしているに過ぎない」「評論を混合した小説は別に新しくも何ともない。例えばクンデラの『不滅』を見よ」だが、彼はこれ以外の書き方を知らないのだ。彼は断言できた。「俺は書き方の潮流はどうでもいい。俺は己を生かすために書いた。読者どもの亡骸の上に俺は立つ。作家どもの墓場の上で排泄する。俺は文学から面白いもの、愛さざるを得ない美しい思想、それらを吸収しようとしたまでだ。今後もそうする。渡り鳥のように本を旅しているのだ。俺はその旅先のベンチでこれを密かに綴ってきたのだ。読者は海辺の利巧な鳥たちだ。俺の読者はあの海鳥だけだ。だが、俺は人間だ。人間は書く動物だ。書くからには、同種の中から一匹の相手を探せ。そいつと魂の交接を果たせ。俺は百億の人間から揶揄されても、たった一人、俺の魂の内部に宿る焔の輝きを覗きたい者に向けて、永遠に書き続ける。そして、そいつと二人で海鳥になる。海原へ飛び立て。宝島を目指そう。俺は書く海鳥だ。俺は本を抱いた海鳥だ。おまえは俺の親友だ。おまえはきっと、俺のこの小説を愛してくれる。おまえは俺の文学への熱情と、孤独と、努力の成果を愛してくれる。何故なら、おまえも俺と同じく文学にしか愛を見出せないからだ。俺とおまえはどこまでも一つ。嵐が来たら俺はおまえの前を飛ぶ。満天の星空ならゆっくり飛ぼう。世界は暗くない。世界は不幸ではない。世界は醜くない。おまえが俺の小説の中で真の己を見出す限り、温かい場所は必ずある。俺が楽園の前で力尽きても、おまえはそこへ行く。俺はおまえを勇気付ける男だ。この小説の中には、必ず俺の声がある。それは他の作家どもの声よりも突出して輝いている。その巨大な結晶が、おまえなのだ。おまえは誰よりも強い。おまえはこれからも世界に「生きよ!」と謳われし者なのだ。おまえは自殺を乗り越える。おまえは孤独を超越する。おまえはおまえの心の病を克服する。おまえは世界が嫉妬するほど、もう十分に孤独を与えられた。おまえのその孤独が、おまえの輝きなのだ。おまえはイデオロギーの衣服を被らない。おまえは裸体を愛する。おまえはすぐに服を脱ぎ捨てる。この世界で、おまえほど大粒の涙を流した人間は存在しない。おまえが密かに流した涙を、俺は知っている。おまえは弱い人間を助ける。おまえは大木のような魂を持つ。おまえの幹は太く、根は誰よりも逞しい。おまえは全ての動物たちをやさしく覆う。海鳥である我等は、樹木でもあるのだ。俺はおまえを愛する。おまえも俺を愛する。俺とおまえには声がある。俺とおまえには歌がある。俺の小説はおまえのために存在する。思慮深いおまえは、俺の小説の弱点にこそ愛を見出すだろう。俺はおまえの一部に過ぎない。それは服を脱ぎ捨てるのに億劫な青二才の詩なのだ。俺はしかし、今は裸体だ。おまえは最初から裸体だった。ようやく、俺はおまえの飛ぶ空へ近付いたのだ。俺のこしらえた汚い古巣は、おまえの翼で生まれ変わる。だが、まだ聴こえはしないか?あの野蛮な鳥どもの罵りを。俺はどうやら嫌われ者のようだ。もう今更何をいっても遅いと、奴らは叫んでいる。あの醜い鳥どもなど滅びればいいが。俺が口から火焔を吐ければいいのだが。俺の小説には敵が多い。俺のしたことに怒りと憤慨しか見出せない心の狭い鳥どもが。奴らは俺の小説を半分まで読むまでもなく、ただの衒学者の自己満足などと規定する。だが、おまえよ、俺の小説は自己救済そのものだ。この小説の表層に捉われる者は何も知らない猿だ。俺は書くことで生を保つことができる男だ。おまえなら、きっとその真意を、その魂を悟るだろう。俺とおまえは世界にとって、同様に卑小だ。だが、おまえは掛け替えのないfragmentだ。おまえが世界を棄てることは哀しすぎる。もしもおまえが自殺を考えているならば、死ぬ前に俺のこの小説を読んで欲しい。前半がややこしいならば、せめてこの声だけを聴いて欲しい。この部分にこそ、俺の声の全てがある。いい加減、自己満足や、自己救済や、自分勝手といった言葉に負の意味を与える無智な者どもから、我々は乖離せねばなるまい。我々は自己満足などという卑俗な言葉を使える者には関与しないでおこう。我々はただ救済の賦活剤と呼ぶ。ヘンリー・ミラーという作家は、我々にとってのキリストなのだ。ミラーには魂がある。それはホイットマンの詩のような、破天荒で美しい輝きなのだ。我々は自己救済のために文学に加担する。内的領土への旅こそ、我々の運命。我々の目的地はそこにある。高みへ向かおう。文学は貴族的でいい。本来そうあるべきだ。だとすれば、俺とおまえは王族だ。おまえは戴冠している。おまえは己の王国を持つ。王族こそ、国を治める国王こそ、我々なのだ。その国を破壊するのも、再建するのも、全て我々自身なのだ」
 〈流/C〉はそこまでノートに書いて、ペンを投げ捨てた。彼は悩んだ。自殺の苦悩に苛まれている者にとって、一体自分の書いたものが何になるのかと。死の遍在と常に闘う者に、倣岸にも歌を歌おうとするなど、無智極まりないのではないかと。だが、彼はやはりそれでも、己を読もうとする読者に歌いたかった。実際、〈流/C〉自身も自分が何らかの病に陥っていることを自覚していた。だからこそ、彼は己を、そして己の魂にシンパシーを抱くことのできる選び抜かれた読者に対して、治療を施したかった。彼は白すぎる部屋の中央で正座した。人間は監獄の中で、監獄の夢を見るだろうか?彼は自身に答えた。それはない、と。人間は辛ければ辛いほど、きっと木漏れ日の溢れる風景を希求するはずだと。〈流/C〉は寧ろ、誤解を承知でこう平然と叫ぶことができた。「俺は読者を楽園まで誘う義務を持つ」それはここが地獄であるからこそだった。彼は読者が、この小説を読み、徹底的に解体し、バラバラのfragmentにして、その一つ一つを再度繋ぎ合わせることをこそ望んだ。彼は自分の声がノイズのように酷いことを知っていた。だが、他者の声を借りる病には、たとえ気味の悪い裏声混じりの歌声でも、歌うこと自体が薬になるだろうと強く感じるのだった。〈流/C〉は力強い歌手だった。その歌い方がどこか滑稽であることを、彼は薄々感じてもいた。彼はたとえ一人でも、常に読者の魂と繋がっていることを信じた。それは一人でも良かった。たった一人でも、彼は自分の存在意義を認めてくれる人間に向けて、御礼の歌を贈りたかった。彼はキリコの『出発の苦悩』を意識に呼び寄せた。あの孤独な絵には、しかし二人の人影が確かに存在した。それは一人ではなかった。両方とも小さく、破片のように脆そうだが、彼らは隣り合って、巨大な赤い煙突を覗いていた。〈流/C〉はこの人影の一人が、実は自分だったことを知った。そして、隣にいるもう一人は、彼の最大の仲間であり最大の敵でもある読者であることを知った。彼には、この二人が孤独を越えて、大空へ飛び立つことを願っているように見えた。限りなく、無音状態に近い、キリコの初期の絵。だが、それは「出発」であり、けして「後退」ではなかった。そして〈流/C〉は読者にこうも囁いた。キリコは何故、マリオネットのような人間を描いたのだろうか?何故、彼は顔を喪失した人間の姿を描いたのだろうか?だが、他方でキリコは自画像を描き続けた画家でもあった。〈流/C〉は救済の感覚を予感しながら、こう考えた。キリコはマネキン人形を描いている時、もしかすると自画像を描こうとしていたのではないか?自画像を描く時、彼は自分の顔がマネキン化されるのを怖れていたのではないのか?キリコとは、存在の希薄をパラドキシカルな次元で表出した、或いは、表出せざるを得なかった、我々のシンボルではないのか……。〈流/C〉にはキリコの絵に惹かれるもう一つの理由があった。キリコもやはり、若い頃にニーチェに傾倒していたのだ。〈流/C〉は奇妙な迷宮に入り込んだような気持ちになりながら、こう思った。ニーチェという人間は、寧ろ迷宮の名前だったのではないだろうか。出口を目指す時、絶えず入口に気を取られ、入口に戻る時、絶えず出口に気を取られる、人間たちの迷宮の名こそが、NIETZSCHEだったのではないのか。その奥に佇むのは、兇暴なディオニュソスではなく、寧ろ、地球全体を覆い尽くす、陽光に溢れたやさしい大木ではなかったのだろうか……。
 〈流/C〉は街に出た。彼は急速に、図書室にいた後輩のことを想ったのだった。〈流/C〉は彼の役に立ちたいと願った。どこか、彼には自分と似た空気があった。この街では珍しい、同校の生徒と出会えたのに、別れ方があのような具合であることが悔やまれた。〈流/C〉は明らかにあの後輩に対し、犠牲的な友情ともでもいうべき念を抱いていた。それは先輩として、こちらが献身的に彼を補佐する、という形で彼の傍にいることを正当化するようなものだった。〈流/C〉は彼に小さな恋慕を、少年が転校してきた少女に心を時めかせるのにも似た奇妙な愛着を寄せていた。〈流/C〉は彼と仲間になり、共同体を形成し、精神的に強く結ばれたいと思った。それは二人で良かった。〈流/C〉は、あの後輩が壮絶な孤独に苦しめられていることを悟っていた。彼には今、如何なる居場所も存在しない。だからこそ、〈流/C〉は彼に安らぎに溢れた領域はどこにでもあることを告げたかった。この時の〈流/C〉は、確かにどこか野獣めいていた。彼は実際、自分の行動原理にどこか不審なものを感じてもいた。彼はあの後輩と、砂浜を二人で散歩しながら、対話するような風景を浮上させ、そこに耽溺してさえいた。〈流/C〉はこれまでの蓄積された淋しさが、突如あの後輩ただ一人によって浄化されるのではないかと期待していた。それは見苦しいほどの人恋しさだったかもしれない。無限に続く夕暮れの街で繰り返される夢想とも、これでようやく縁を切れると彼は予感した。〈流/C〉はあの後輩の、素晴らしい相談役、思慮深い師として尊敬されることを密かに願って止まなかった。〈流/C〉は最初、あの図書室を訪れた。しかし、そこには後輩の姿はなかった。〈流/C〉はいきなり暗闇に呑まれたような不安を浮上させたが、しかし街はけして大きくはないことを思い出し、己を慰めた。〈流/C〉はまず空き地、次に電波塔といった具合で、自分が行ったり来たりしていた場所を虱潰しに歩き回った。〈流/C〉のその姿はやはりどこか野獣めいていた。だが、意外なことに、後輩は再度訪れた図書室の片隅で座っていた。〈流/C〉は彼を遠目から、書棚の細い隙間を利用して眺めた。彼はパイプ椅子に腰掛けて、本を謐かに読んでいるようだった。〈流/C〉は緊張した面持ちで、肩を強張らせた。彼は声をかけなければならない。彼は後輩に対し、笑顔で友情を結ばねばならない。やがて〈流/C〉は彼の隣に腰掛けた。〈流/C〉は自分でも異常としか考えられない台詞を、それも大声でいってしまった。
――海に行かないか?堤防をずっと川岸に沿って。
 〈流/C〉は確かにそういった。すると、後輩は一驚して彼の方を向いた。その顔に恐怖はなかった。後輩は「アア、サッキノアンタカ」と言いたげな面持ちで、半ば鬱陶しそうに彼を見つめた。〈流/C〉はというと、今さっき自分がいってしまった言葉自体に赤面していた。それは怪しい誘いかけであり、明らかに何らかの悪意がこめられていると思われても仕方がないような第一声であった。〈流/C〉は改めて、自分が同性愛的なもので孤独を紛らわせようとしていると感じた。それは不純な誘いかけに違いなかった。〈流/C〉はこのままであると、間違いなく海辺で彼の頬に接吻するだろう。そうすることに我慢できなくなるだろう。だが、〈流/C〉はそんな風景に吐き気を感じてもいた。俺は似合わない。似合わないなどという以前に、俺はどこか無理をして同性愛者を演じようとしているらしい。無理などしなくていい。頭を冷やせ。俺は女のことは何一つ知らないが、それでも女が好きだ。男ではない。男に男が恋愛をすることが許されるのは、選び抜かれた美男子だけなんだ。俺は美男子どころか、汚らしい乞食みたいな野獣なんだ。彼は確かに端正な、そしてどこか中性的な顔立ちをしているが、彼は男なのだ。彼は女ではない。だが、〈流/C〉はそのように考えている間も、どこか必死にこの後輩を男性でも女性でもない存在と見做そうとしている向きがあった。〈流/C〉は実際、この後輩の顔立ちに美しさのようなもの、そういっては自分に吐き気を催すが、確かにそういわざるを得ない美を見出してもいた。彼は常に憂い顔だった。それは、没落した西洋の貴族青年にさえ見えた。否、〈流/C〉はそうではない、彼は単なる街中を歩いている、多少派手な恰好の美少年に過ぎない、と打ち消そうともする。しかし、〈流/C〉には彼がやはり貴族の少年に見えた。彼は実際、日本人離れした容貌をしていた。両目の赤いカラーコンタクトが、彼にどこか兇暴な色を添えている。〈流/C〉は彼の容貌に嫉妬した。そして、彼がいっていた話を想起した。この後輩は、裏庭であのマリア像の首だけを抱いていたのだ。彼はマリアを殺し、それによって退学したのだ。彼は讃美歌の鳴る廊下に唾を吐いたり、聖書に精液を撒き散らすこともなく、ただ、あの学校の象徴である聖母マリア像だけを破壊して、「キリストの権力」に抵抗したのだ。〈流/C〉は確信した。彼にとって、恋愛対象はひたすら聖母マリアただ一人だったのだ。彼は常に慈愛の眼差しを向けて下さるマリア様に、全身全霊の愛を注いでいたに違いない。〈流/C〉は、そんな彼が涙ぐましいほどに愛しかった。〈流/C〉は生まれて初めて、真剣に年下の男に対して愛のごときものを寄せた。彼はしかしそれが、大部分を彼自身の妄想に依存していることを知らなかった。〈流/C〉は彼を美化しようとしているに過ぎない。そしておそらくは、〈流/C〉自身の高校時代と重ね合わせて。だが、返答は思わぬ方向に進んだ。
――俺、彼女ガイルンデス。今カラソイツト、モウ一人俺ノ男友達ト堤防デサイクリングシヨウッテ、イッテイタトコロナンデス。先輩モ来マスカ?
 〈流/C〉は新鮮な愕きを味わった。彼には彼女がいたらしい。ということは、俺が考えていた彼とマリアの結びつきは、どこか思い過ごしに近いものだったらしい。〈流/C〉はそう残念がるというよりも、寧ろそれで良かったという具合で納得した。彼は正常な異性愛者なのだ。俺もどこか、彼を必要以上に神聖化し過ぎていたのだろう。笑い話だ。〈流/C〉はそんな風にして急速に幻想を霧消させた。そして〈流/C〉は彼が自分のことを「先輩」と呼んでくれたことに、大きな悦びを抱いていた。後輩が「先輩」を堤防へ誘う。他にも仲間がいる。〈流/C〉は、ようやく自分の生きる世界に、生きた動的な物語が進行し始めたことに強い希望を感じた。
――そうか、サイクリングな。ああ、じゃあ俺も行くよ。ただ、俺は今日家に帰らないつもりだから、海の見える地点までは一人でも行く。
 〈流/C〉はあえてそういった。そして、彼は思い出したように後輩に問わねばならないことを浮上させた。彼の名だった。
――友達ハミンナ〈閉じられた瞼〉ッテ呼ンデマス。ダカラ先輩モ〈閉じられた瞼〉デ。アッ、コッチモ名前ウカガッテイイデスカ?
 〈流/C〉は彼がいつの間にか、すっかり人間そのものを様変わりさせているように感じていた。何故なら、最初に図書室で出会った時の彼は、明らかに機械のように独特な孤独を滲み出させていたのだから。だが、今の彼、すなわち〈閉じられた瞼〉と名乗る後輩は、明らかに無邪気で活発な少年だった。〈流/C〉は半ば不安に襲われた。そして何より、〈閉じられた瞼〉などという奇妙奇天烈なニックネームで友達からも呼ばれているという彼に、どこか無気味なものさえ感じていた。
――いや、俺は智っていうだが。そんなことより、〈閉じられた瞼〉とは変な渾名だなぁ。誰がつけたんだ?というより、一体どういう理由でつけられたんだ?どこか君自身もそのニックネームが気に入っているみたいだけど。
 〈流/C〉がそう尋ねると、急速に〈閉じられた瞼〉は塞ぎ込んだ。彼は沈黙し、しかしジッと、先輩の眼を見つめるのだった。赤い瞳が、〈流/C〉に注がれた。彼は笑顔だった。
――名前ヲツケタノハ〈開かれた瞼〉デスヨ。サッキイッテタ、俺ノ男友達。俺トアイツハ、ズット近所デ育ッテキタンデス。アイツハ別ノ私立ヘ行キマシタケド、今デモコンナフウニ、夕暮レニサイクリングシタリスルンデス。彼女ハ隣ノ街ニ住ンデマス。先輩、俺タチノ母校カラ二駅ノトコロニ、遊園地前ノ精神病院ガアッタデショウ?彼女ハ最近マデソコノ患者ダッタンデス。デモ、今ハ快復シテ、先輩トモウマク話セルト思イマス。デモ、念ノタメニ報告シテオイタホウガイイト思ッテ……。
 〈流/C〉は自分も高校時代に精神病院へ行って診察を受けたことがあったので、特に愕きはしなかった。ただ、彼が心療内科から大きな病院へ行くようにいわれて、実際に母を伴って行った病院は、そことは別の場所に違いなかった。〈流/C〉はどこか、その最近退院したばかりという彼女に親近感を寄せた。彼が精神病院で医師に話したのは、学校への憤懣と敵意に過ぎなかったが。
――最近まで患者だったってことは、学校は行っていなかったのかい?それとも、休学して入院したのか。
――休学デスヨ、と〈閉じられた瞼〉は即答した。彼女ハ仏教系ノ女子校ノ生徒デス。ヤッパリ校風ニ馴染メナイミタイデ…、ドウセナラキリストノ学校ガヨカッタトカイッタリシテイマス…。デモ、一時期ハソウイウコトモイエナイ状況ダッタンデス。知リ合ッタノハ駅ノプラットホームデ、タマタマ同ジ本ヲ読ンデタッテイウ、些細ナコトダッタンデスケド。
 〈流/C〉はそれを聞いて少し安心した。というのも、もしも彼が「知リ合ッタノハ心療内科ノ待合室ダッタンデスヨ」などと口にすれば、それは彼が予想した通りの台詞をなぞっているに過ぎないと思われたからである。精神的なリハビリのために、四人の若者らが堤防をサイクリングする姿は不愉快だった。各々の持つ病は異なるし、安易に馴れ合いに走っても、結局亀裂が生じて全て台無しになるのは目に見えているのだ。だが、少なくともこれはそういう病人たちの閉鎖的なサイクリングではないらしかった。本質的に全ての現代人は何らかの偽薬を必要としている、といえばそれまでではあったが。
 〈流/C〉は後輩に連れられて河川公園の一角へ向かった。そこは電波塔とは反対の方角であり、仲間との待ち合わせ場所だった。隣街とを結ぶ大きな橋の下に、一人の少年が立っていた。彼はチャップリンが被っていたような紳士帽を頭の上に乗せていた。おそらく、この少年が〈開かれた瞼〉だった。〈閉じられた瞼〉が「アイツハ?」と尋ねた。〈開かれた瞼〉が「知るか」と返した。〈閉じられた瞼〉は微笑して、〈開かれた瞼〉の肩を叩いた。
――イツマデ待テバイイ?
 彼のその問いかけには答えず、〈開かれた瞼〉は〈流/C〉の方を向いた。それは小動物を嬲り殺す獣のような冷たい眼差しだった。「こいつは?」「俺ノ先輩ダヨ。図書室デ偶然会ッテ、俺ノ方カラ同行シマセンカッテ誘ッタンダ。別ニイイダロウ?」「おまえ、あれほど学校を憎んでたのに、同じ空気に染められた相手には頭を下げるのかよ?」「コノ人ハ別ナンダ」二人の会話はどこかぎこちなかった。明らかに〈開かれた瞼〉は主従関係の上位者を占めているようだった。二人の顔はまったく似ていなかった。〈流/C〉はしばらくして、〈開かれた瞼〉にニックネームの来歴を質問した。すると彼は極めて粗暴な口調で、この先輩の存在に耐えられないというような不快感を示しながらこういった。
――俺とこいつは二人で一生あの女の面倒を見るって約束したんだ。どこまでいっても俺らは三人で一つ。俺が眠ってる時はこいつがあの女の世話をして、こいつが眠ってる時はこの俺があの女の世話をする。単純だろ?何をやるのも俺らはいっしょなんだぜ?例えばな、あいつの性欲処理だった俺ら二人がサンドイッチで…。
 彼がそこまで言いかけた時、〈閉じられた瞼〉が激昂して割って入った。彼は「イイ加減ニシロ。普段ソンナ話シ方カ?」といって、相棒を牽制した。二人はどこかシーソーのように呼応し合っていた。〈流/C〉には元々一人であった少年が、二人に分裂して二極の気質に派生したようにさえ感じられた。実のところ、〈流/C〉は既にサイクリングする気を喪失していた。彼はこの少年たちとは己が無縁であるように感じていた。彼らは三人で仲良くサイクリングをすればいいのであり、自分は一人で図書館に戻ればそれで良かった。わざわざ顔も知らない謎の少女を慣れない少年らと待ち続ける必要は微塵もない。だが、〈流/C〉はそう考えはするものの、やはり少女の存在が気になってもいた。同時に、後輩を裏切るような真似はやはりできないという常識も浮上させていた。
 少女はやがて来た。三人はゴドーを待ち続けているわけではなかったのだから。〈流/C〉はしかし、無礼であることを承知しつつも、彼女の顔を見て愕いてしまった。梟のように巨大な眼だった。彼女は極めて簡素な恰好をしていた。両手で分厚い小さな本を抱き締めている。それはNEKO PUBLISHING CO.,LTDから出版された『テディベア図鑑』だった。彼女は人間というよりも、どこか夜の森に棲み付く鳥類の長のような印象を与えた。巨大な瞳には涙が成分の膜が張り、夕陽を浴びて輝いていた。〈流/C〉は彼女の瞳の内部に、百億の自殺した人間たちの血飛沫を見て取った。彼女はその存在そのものが、既に数千回の自殺を繰り返した人のようでさえあった。昨日、蛹から羽化し、明日にまた蛹と化して再度羽化するような瑞々しい生の歯車を、彼女はその内部で絶えず回転させているようだった。〈流/C〉は彼女に挨拶をした。彼女も礼儀正しく頭を下げて〈流/C〉に挨拶をした。こうして四人が揃った。彼らは各々の自転車に跨って、川沿いの散歩道を走り始めた。そのずっと先には海があるはずだった。彼らは直線となって並んで走っていた。しばらくして、少女が口を開いた。
――このポーリーン・コックリルっていう世界的なテディベア専門家の本なんだけど、一頁につきほぼ一体の割合で可愛いテディベアたちの写真が記載されてるのよね。最初のテディベアはドイツのシュタイフ社製の1902~05年が製造年代のもので、本の最後はベアアーティストのたかはしみちという方が製作された1999年のもの。いわばテディベアの進化の過程が解るような構成になっているだけど、この五百頁分、百年のテディベア史を眺めてるうちに、私ある一つの不可思議な点に気付いたのよ、と彼女が一度仲間の反応をうかがうために小休止入れると、〈閉じられた瞼〉が大きく相槌を打った。彼女はさらに続けた。ここに記載されているテディベアを、「熊のベクトル」と「玩具のベクトル」の二項で再構成すると、明らかに彼らは進化するに連れて「玩具のベクトル」に近接しているのよね。逆にいうと、原型である動物としての熊から遠のいているように感じるわ。初期のアイディアル社だったり、ゲブリューダー・ビング社の1930年代より以前のモデルは、むしろ「熊のベクトル」に限りなく近かった。そこまで考えてね、私、鳥肌が立ったの。テディベアはいくら「熊のベクトル」に接近しても、玩具だから実際の熊にまで遡行することはあり得ないんだけど、もしも「熊のベクトル」の極北に位置するテディベアが存在したとするなら、それは寧ろ熊そのものじゃないかしら?私がいいたいのはね、動物の熊とテディベアの双方を区別するものとは何かってことなのよ。例えば、小熊を剥製にして、その小熊そっくりのテディベアと隣り合わせで飾ったら、私たちはその二つをどう評価する?「限りなく動物の熊に近い玩具のテディベア」が二体?それとも、「限りなく玩具のテディベアに近い動物の熊」が二体?私たち、横断歩道を渡る時、いつも信号機を見るわよね?青で歩いて、赤で止まる。でも、黄色だったらどうする?青でもない、赤でもない、弱々しく点滅してて、歩行者に早くある規定された位置に進むことを強要する黄色信号機。ここには進むものに進化、あるいは退化を、または前進、あるいは後退を強要する権力構造があると私は思うの。でね、そういった中間者としての黄色信号機の権力を、そのままテディベア史にスライドさせると、「熊のベクトル」と「玩具のベクトル」とは次元の異なる、中性的な「熊=テディベア」が存在せざるを得なくなるのよ。これまでにその「熊=テディベア」を眼にしたコレクターがいるのかしら?この『テディベア図鑑』の中の一体には、もしかするとそういう存在が入り込んでいるのかもしれないわ。私は部屋に合計二百八個のテディベアを含む縫い包みを飾ってるけど、全てが何らかの動物を模ったものなの。でも、彼らは皆部屋の中で呼吸しているし、何かを食べ、何かを話し合い、何かを排泄している。最初に部屋に置いたボロボロの兔の縫い包みは、明らかに誰が見ても玩具そのものだけど、一体誰が、それが実は動物であることを否定できるかしらね?この世界には、きっと二つの次元からはみ出した移民たちが、あらゆる領域において存在していると思うわ。私はそういう亡霊みたいな存在になりたい。どちらの世界にも依存しない、その境界でユラユラと揺れ動く気体みたいな存在に。
 彼女の長広舌が終わると、〈開かれた瞼〉が自転車を慌しげに止めた。彼はどうやら彼女に憤慨しているようだった。やがて三人も自転車を止めて、彼の傍に近寄った。
――おい未来、よくもおまえはそんな冷酷なことをいえるな。まるで俺もこいつも両方とも粗大ゴミで出すみたいな口振りだぜ。そんな軽率なことを平気でいっていい立場かよ?おまえみたいな弱い女は、俺らみたいな男がずっと傍にいないと死んじまうだろうがよ。今すぐ取り消しやがれ、餓鬼が。
 彼がそういうと、少女は素早く反論した。〈閉じられた瞼〉は動揺して二人の顔を窺っている。〈流/C〉はただ、この三人を観察していた。
――餓鬼って、あんたも餓鬼でしょ?それに、私は別にあんたらに助けられた筋合いはないわよ。寧ろ、雄大が〈閉じられた瞼〉になってしまったのを、必死で戻そうとしているのは私の方よ?勘違いしないで欲しいわ、隼人。
 彼女にそういわれた彼は、眉を顰めながら親指で唇を横になぞった。その仕草から〈流/C〉はゴダールの『勝手にしやがれ』を想起した。〈開かれた瞼〉こと、隼人という名の少年は映画の中のジャン=ポール・ベルモンドの仕草を完全に反復していた。だが、〈流/C〉はこの少年少女の会話風景とは異なる領域に足を浸そうとし始めていた。彼にとって、彼らの会話はいかなる意味も持たなかった。読者よ、何故このような事態になったのであろうか?〈流/C〉、〈開かれた瞼〉、〈閉じられた瞼〉、どれもあまりに表層的で浅薄ではないか。少なくとも書き手は何か展開を持つ、物語らしい物語を書き始めようとはしていたのだ。そのためにこれら少女を含む三名の高校生らを想像し、彼らが作品に何か新しい方向付けを齎すことを期待していたのだ。だが、結局、これら三人は書き手の破片に過ぎない。再度「僕」を登場させることを許されるならば、書き手である僕は複数の架空の登場人物を使って自問自答を繰り返していたに過ぎないのである。例えば先述した少女のいうテディベアの話は、僕がこの小説の前半部分でボルヘスを引用して何やら考えていたこととほとんど等質であろう。それでは意味が無いのだ。登場人物には独自の、書き手さえ予想し得ない声が必要なのだ。それは作者の分身の増殖であってはならない。だが、〈閉じられた瞼〉など、高校時代の僕そっくりだ。おそらく、ここまで粘り強く読みを進めた読者は僕にこう叫ぶだろう。
――よくもここまで長々と自慰小説を綴ったものだなあ!少しは読者のことも考えて書け。私が読みたいのは小説だ。登場人物が行動し、他の人物とのドラマを持ち、内的に変化する物語だ。主人公が内的に変化するからこそ、読者もその変化に呼応できるのだ。だが、貴様の下らない模倣評論集は、いちいちコセコセと作者が介入して、おまけに同じ場所を往復して衒学に精を出しているだけではないか?挙句の果てにようやく登場させた人間どもは、貴様の分身に過ぎないと来た。それでよく「自己救済」などと吐けるな。一から小説とは何か考え直せ!
 だが、僕はこのように叫ぶ無智な読者どもを笑い飛ばすことができる。小説にはルールがない、これが小説の唯一にして最大のルールである。あらゆる異領域、例えば植物の観察記録のみで構成されたテクストも小説であり、新聞の社説の切り抜きを配合したものも小説であり、言うまでもなく文学評論のみで構成されたテクストも(何故僕はこのような現代文学における自明の理をあえて語っているのか?)小説である。便所の一室に散らばめられた卑猥極まる落書きの集積も小説であり、路上に落ちている自衛官募集のパンフレットも小説であり、更に言えばデュシャンのレディメイドもキューブリックの映画のワンシーンも、全てテクストそのものであることは今更いうまでもなく、寧ろ古典的な文学的常識である。僕は以前、同じく作家を志しながらも、小説の方法論についてはほとんど閉鎖的であるといわざるを得ない「語彙の極めて豊かな少女」から、僕の作品のスタイルについて醜悪な悪評を付されたことがあったが、あの時僕は何故彼女に牙を向かなかったのか?彼女はおそらく、未だに怖ろしいほど綿密なプロットを用意して、構成や人物の造形や彼らのいちいちの台詞や主人公が流す涙の数まで草稿に書き込んでいる。彼女たちは何も考えずに空白の画面と格闘するという勇気を持たない。僕ならばその試行錯誤の跡が残った草稿自体を有機的に小説空間へ吸収させるが、彼女たちはそれを破棄さえする。いずれカンガルーの声に無限の変数を持たせた小説が世界文学全集に並べられる日が訪れるだろう。その時になって、彼女は泣いて文学の神に懺悔しても遅いのである。文学は人間だけの領分ではない。ジャングルを徘徊する密猟者は最も前衛的な小説家たちの声を耳にしている世界一幸福な読者である。小説とはダイナマイトであり、コペルニクスの肖像画に刻まれた彼の頬の皺であり、蟻地獄に捕らえられた哀れな働き蟻の運動の総体であり、カムパネルラに助けられたザネリが口から吐き出した一匹のクラムボンであり、都会とはかけ離れた田舎町の線路の上でギターを弾いていたカート・コバーンの口笛であり、ライプニッツの可能的世界を生きる林檎を食べなかったアダムであり、アインシュタインが記者に向かって舌を出した時に地面に落ちた唾液の一滴であり、今読者諸賢が我が魂の小説を読んでいる時に頁に付けた、手垢そのものである。従来の全ての小説は書き手が読者の指先に触れることさえできなかった。ミラーでさえ、今まさに彼の小説を読んでいる読者の指先の温度を感知していたのか定かではない。だが、僕は読者の体温を知っている。僕の指先と読者よ、あなたの指先が触れ合う瞬間、書き手と読み手という二文法は破壊されて僕でもなくあなたでもない、何者かが小説を書き始めるのだ。あなたは本を読む。だが、読んでいる時にあなたは既に書いているのだ。読む行為と書く行為は始原的には結合したものである。あなたが読んだものは、あなたが書いたものに他ならない。夜の街路で、マンホールから聴こえる水の流れる音は、あなた自身が作り出したものである。この宇宙の歴史全体が一つの書物であり、我々の慎ましい早朝の散歩には世界最高の文学が内包されている。我々が夕陽を眺める時、我々が無機質なビルディングの群を眺める時、我々が夢の門前に立つ時、我々が動物園で淋しそうな象の親子の垂れ下がった長い鼻を見る時、我々は神の網膜を通して偉大な詩に触れている。ただ一人を愛するためだけに今は亡き彼女以外の全てを犠牲にしてきた無名の貧しい老人、彼の人生は神の織り成した最も美しい薔薇であり、叙事詩である。読者よ、僕はけして淋しくはない。何故なら、僕には僕の魂に触れようとしてくれるあなたがいる。本来、あらゆる小説に登場する人物は二人だけなのだ。僕はあなたの壮絶な孤独を癒し、楽園へ誘うことができるだろうか?あなたの幽閉された壁のない監獄の壁を打ち破り、流星雨の丘まで共に走り続けることができるだろうか?読者よ、僕はまだ若い青二才だが、こう答えたい。僕ならできる。否、あなたならできる。あなたは矢であり、幸福の的を射抜く。たとえ僕がこの小説の内部で滅んでも、あなたは僕を越えていく。我々の魂は永遠に不滅であり、その魂の主成分は革命的な幸福と一粒の涙である。
 自転車の車輪は絶えず回転している。僕らはしかし、海に呼ばれているわけではなかった。河川公園をどこまでも走り、巨大な水溜りが広がる場所、そこで夕陽に照らされた水平線を眺めることにはいかなる安らぎも存在しなかった。僕はこう考えた。全ての場所に孤独が存在しない最大の理由は、僕が孤独者ではないためである。実際、僕は孤独らしきものを弄び、嘲笑してさえいた。サイクリングをしている間に、幾つかの会話が浮上した。彼らは平凡な、あまりにも均質な、どこにでもいる存在の機械化された歯車たちに過ぎなかった。僕もその一つなのだ。僕らは喉の奥から音を拾い上げ、それを相手に吐き出す。相手も吐き出されたその吐瀉物じみたノイズを飲んで、別の汚らしいノイズを吐き出す。街は熱情的な変わらない色に沈んでいる。僕は異常なほど首の長い人間になりたかった。首が大気圏を越える高さまで伸びれば、僕は世界中でまだ誰も触れたことのない孤独を掴むことができるだろう。おそらく、伸びすぎた首のはるか下方で、三人が僕の足や股や腹を強靭に打ちのめすだろう。だが、果たして僕は首を縮めるだろうか?首を縮めることができるだろうか?首が長い僕が眼にしている風景、それはやはり首の長い麒麟のような人間たちが無気力に生きている世界に過ぎないというのに?だが、結局僕らは若さにかまけて海辺の砂浜に到着したのである。置き去りにした自転車に、第二の僕ら、第三の僕ら、第四の僕ら…を残して、僕らは並びあって海を眺める。僕はデリダの『火ここになき灰』の核心となる言葉、「il y a la cendre(イリヤラサンドル)」を想い出していた。「そこに灰がある」。燃えた場所はあくまで「そこ」であり、「ここ」には何も存在しないのだ。僕は今、雄大、隼人、未来という三人の少年少女と海辺に立っている。そして僕は今、小説を書いている。僕の左手には『火ここになき灰』という一冊の薄い本がある。僕は文章を拾う。「こんな仕方で書きながら、彼はさらにもう一度燃やしているんだわ、自分がいまだに熱愛しているものを、いったん燃やしてしまったものを燃やすのよ」僕は頁を捲って、別の文章を拾う。「どんな隆起もないの、たち昇ることのない灰があるだけ、いくつもの灰がわたしを愛してくれている、このとき灰たちは性を変え、雄となり、両性具有化し=皆殺しにする」僕は全ての思考も夢想も思案も煩いも停止して、三人を眺めた。「そこ」にいる。彼らは確かに「そこ」で笑い合い、僕の方を振り返り、いっしょに笑おうと誘う。だが、彼らは「ここ」にいない。海が「そこ」にある。だが、海は「ここ」にはない。僕が「そこ」にいる。否、僕は「ここ」にいるのだろうか?僕が己の存在を、この位置を自覚している「ここ」とは、一体どこなのか?やがて僕は三人に近寄り、流木で焚き火をしようと提案した。彼らは頷き、やがて一箇所に木のfragmentたちが集められた。隼人が胸ポケットから髑髏型のライターを取り出し、新聞紙に火をつけた。彼はそれを流木に放った。僕らは火を輪になって眺めた。それは極めて神聖な光景に違いなかった。やがて未来が衣服を脱ぎ、全員で自分を犯すように命じた。僕は微笑して、それを拒否した。だが、雄大と隼人は裸体となり、人目も憚らずに未来に詰め寄った。彼らは前戯をすることもなく、いきなり交接を始めた。三人の姿は焼き上がったばかりの三枚のベーコンだった。彼らは虚無という言葉を、肉体に変換したような印象を僕に与えた。彼らの肉体は虚無であろうとしていた。だが、虚無に限りなく近付きはするものの、彼らはやはりそれを手放しているようでもあった。僕は思った。人間は虚無を内部化できない。世界中に誰一人孤独者が存在しないのと同様に、孤独は自分自身ではけして到達できない領域だろう。奇妙なことだが、この時僕は十八歳の夏に一人旅した南仏の風景を浮上させていた。マルセイユの旧港から船出して、イフ島の断崖絶壁から眺めた大海原を僕は想起していた。その風景は蜃気楼に包まれたように朦朧としていた。全体に白色がかった、どこか生温かい奇妙な海だった。貯めたお金で南仏を旅する、スナフキンのような帽子を被って。マルセイユのユースホステルで相部屋になったイギリス人の青年(彼はアッシュと名乗ったが)は、ニーチェの本を読んでいた。僕は片言で彼と会話した。彼はギターを抱いていた。やがて三つ目のベッドにデュッセルドルフの農学部生が来た。僕らはムソルグスキーの『展覧会の絵』を口笛で吹き合い、HIROSHIMAやナチスについて話した。否、僕の拙い英語力では、話したというには値しないだろう。だが、彼は少なくとも戦争を忌避する信条を備えているようだった。かつての連合国の一人がニーチェの本を枕にしながら眠っている傍で、日本人の僕とドイツ人の彼は「平和」というあまりに観念的且つ抽象的な、しかしその定義と解釈には無限の豊かさを持たすべき言葉を何度も口にし合った。僕らはあの相部屋を利用した旅烏だった。わずか三日だったが、僕らは固く握手しあった。今、どうしてあの頃の風景を思い描いたのかは自分でもわからない。隣では未来がオルガスムスに達したようだった。僕は火をぼんやりと眺めていた。少なくとも、僕は異国のありふれた街角を所有している。アルル郊外の向日葵畑の一本に頬を当てた僕は、今でもあの地に存在している。存在のfragmentを世界に残す、それをすることができるのは神だけだろう。人間は記憶の破片を世界中の路地裏に残すことしかできないのだ。何故だろう、何故、僕は今こんな観念的な考えにしか依存できなくなっているのだろう?今、ちょうど隼人と雄大が同時にオルガスムスに達した。三人は最早醜い油ぎったベーコンではなかった。彼らは活気に満ちていた。彼らはこれから数億回、連続して交接できる力を宿しているようだった。やがて僕は自分が滑稽に思えてきた。僕もやはり若いのだ、内部に闘争の歯車を所有しているのだ、だったら裸体になって彼らに割って入るべきではないか?だが、僕は既に彼らと何度も交接したような気がしていた。世界中の全ての人間と、僕は少なくとも一度は皮膚と皮膚を触れ合わせている。それは飛躍でも突飛な夢想でもない。この世界に、誰とも手を繋ぎ合っていない人間はただ一人も存在しないのだから。「手を繋ぐ」イメェジ、人間にとっての、最大の幸福を伴う救済の感覚。地球が何故丸いのか、それをもし神に問うたならばその存在はこう返答するだろう。「全ての生者、死者が手を繋げますように」生まれ落ちて以来、自分以外の人間を知らない者、彼は果たして孤独だろうか?彼の周囲には、手を繋ぎ合える者さえ存在しないのか?否、そうではない。人間は暗いどん底に落ち込んでいればいるほど、自分の手を繋いでくれる者を希求するはずなのだ。だが、このようなセンチメンタルな考えが、僕自身の脆さと甘えであることを、無論僕は知っている。『夜と霧』の最後でフランクル教授はこういう。「われわれは〈幸福〉を問題とはしないのである。われわれを支えてくれるもの、われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは〈幸福〉ではなかった」だが、少なくとも僕は、いかなる孤独と名付けえぬ暗い樹液をも、「手を繋ぐ」イメェジを浮上させることによって浄化させられると信じるのだ。それは日本という贅沢な国家が産んだ傲慢だろうか?それとも、甘ったれて大言豪語を振りかざす青二才のガラス細工の理想論だろうか?「手を繋ぐ」、それが僕にとっての救済の賦活剤である限り、僕は他者を希求する。たとえ僕が得体の知れぬ強烈な孤独に襲われようと、僕は「手を繋ぐ」意志を失わないと誓う。
 キリコは海を求めていた。現代美術全集『キリコ』に収録されている作品の中には、少なくとも二枚の海への強い渇望を感じさせる絵がある。一枚目は二十八歳のキリコが描いた『イタリア広場』。二枚目は八十歳のキリコが描いた「エブドメロスの出発」という別名を持つ『海への逃亡』。一枚目の絵の奥には、巨大な赤い塔が屹立し、その傍に小さなヨットが描かれている。二枚目は砂漠の片隅に存在する奇妙なサーカスのようだ。この絵には二種の水溜りがある。一つは機械化されたような、水泡の一つさえ生じさせない人工的な水溜りであり、もう一つは海である。機械化されたプールには二人の裸体が浸っている。そして海では、今まさに背広服を来た男が小船でこの砂漠から旅立とうとしている。デリダはアルトー論『基底材を猛り狂わせる』の中で「描くデッサン」ではなく「書くデッサン」「聴くデッサン」を主張している。「諸芸術間の国境を廃絶する」べきであり、ゴッホについて論じたアルトーの以下の文章「彼は大画家であるとともに大作家であり、自分が文章で描写した作品に対して、人を為すすべもなく茫然とさせるような真実性の印象を与える」を作中で引用している。もしも今、キリコの『イタリア広場』と『海への逃亡』の二枚の絵を、「描かれた」ものではなく、「書かれた」ものとしてみると、一体どのような事態が発生するのだろうか?そこには、共通して、「私は海へ出発する」という言葉が記されているのではないだろうか?そして、この二枚を音楽化すれば、そこには海辺の波が押し寄せる静謐な音が溢れ出してはこないだろうか?僕は今、やはり海辺にいる。焚き火を四人で囲んでいる。今さっき、未来が姉夫婦を携帯電話で呼び出したばかりだ。いずれ、彼らもここへ来るだろう。海辺の夕暮れは無限に続いている。もしも今、砂浜にヨットが現れたら、僕らはそこに乗り込むだろうか?僕はおそらくそうしない。ヨットはこことは違う砂浜へ運ぶに過ぎないのだから。僕らはヨットを使って、別の絵に移動するに過ぎない。だが、もしもヨットではなく、海で暮らす鯨だったらどうだろう?彼らが拒んでも、僕はきっと鯨の背にしがみつく。鯨の背中に爪を食い込ませて、必死で彼の王国へ連行されることを願うだろう。僕は深海で鯨たちと生き続けるだろう。
 自動車が灯台の傍に止まった。未来の姉夫婦と思しき男女が、小さな少年を連れてやってきた。夫婦は間に息子を挟んで、三人で手を繋ぎ合っていた。その姿は僕を嫉妬させるほど、安らぎと木漏れ日に満ちていた。彼らはやがて焚き火の辺りまで来た。背広姿の夫が、袋から巨大な西瓜を取り出した。「全部で七人か。でも、きっと食べきれないな」彼はそういいながら砂浜に大き過ぎる西瓜を置いた。子供は母の後ろから僕を眺めていた。彼は僕を怖れているようだった。しばらく彼らは笑い合い、会話の中に溶け込んだ。僕はどうすることもできなくなり、ただ小さく笑っていた。夫婦は僕もこの少女の仲間だと思っているらしかった。未来、雄大、隼人、その枠内に僕も入っていると思っているのだ。だが、僕は彼らの笑い声が大きくなればなるほど、僕の存在が萎縮していくのを感じていた。少年は母の腰の高さから、ひたすら僕を眺めていた。やがて僕にも西瓜の一部が渡された。誰かが「夏だな」と囁いた。僕は彼ら全員を海の底へ沈みこませる想像に没頭した。walk hand in hand「手を繋いで歩く」、それは僕にとってあまりに遠いものだった。僕は不意に若者自立支援団の男を想起した。何故僕は彼に九月から清掃会社に入社して働き始めることを告げなかったのだろうか。僕が掃除屋として働いても、僕はずっと僕であるに違いない。僕は文学に生き、文学と共に滅ぶ、それ以外にいかなる存在意義があるだろうか?きっと、あの若い夫が背広服を着込んでいたから、僕の中で焦燥が煌いたのだ。だが、果たして僕はあの夫婦の姿に憧憬を抱いていいのだろうか?僕が文学に求めている世界は、少なくとも「手を繋ぐ」ような幼児的な愛のごときもので満足できるほど脆弱な世界ではなかった。寧ろ文学のために全てを犠牲にしなければ、文学の神の見えざる手を握り締めるまでは、僕はただ一人でひたすら書き続けなければならなかった。何度も面接段階で落ち、ようやく採用された清掃会社は、僕の存在にとって一つのfragmentに過ぎない。僕はそこで働く。働いた金を両親に何割か渡す。残りの金で旅費を作る。或いは、もう増やすべきではない本棚に再度既に読んだ本を加える。僕にとって大切な存在、手を繋ぎたい存在、繋がざるを得ない存在、それが文学の女神であり、この世界に文学以上に広大な海原は存在しない。文学に加担する全ての人類が僕の同志であり、同時に敵である。家族を作り、子供のために働き、妻を愛す、それが一つの「手を繋ぐ」風景であるならば、文学という巨大な家族の中の一員を目指すのも、また「手を繋ぐ」風景に違いない。僕はリルケの描いた『マルテの手記』の主人公のように、たった一人孤独に生きているわけではない。僕は家族と共に生きている。僕が家族と共に暮らしている限り、僕は真の孤独の形態を見出すには到らないだろう。僕が一時的に急速に接近していた日本共産党の、同年の女党員は一人で暮らしているといっていた。青年支部会議で、僕が彼女に自己紹介した時、彼女は終始笑顔を向けていたが、その奥では浮遊して甘えきった僕の生活を嘲笑っていたことだろう。彼女は正規社員として働き、毎朝赤旗を読み、家賃も全て自分で払い、一人で生きている。パリの片隅でひっそりと暮らすマルテ・ラウリツ・ブリッゲのように。彼女から今の僕を俯瞰すれば、孤独が何だろう?だが、僕は今なら、きっと彼女にこういうことができる。「孤独に位階は存在しない。俺は現在を生き抜くために文学に加担している。俺の熱情は全て文学に捧げられる。人間がもし、何か一つのことを成すためだけに存在しているとするなら、俺は文学の歯車を回転させることのみに己の価値を見出す。それができるか、できないか、といったことは本質的にどうでもよい。ただひたすら書き続けるに過ぎない。貴女が俺に一人で生きることを強いるのは、貴女が一人で暮らしていくことに誇りを見出しているからだろう。だが、俺には書く行為によって、魂とは何かを追究する使命がある。それは眼には見えないが、テクストの皮膚のそこかしこで湧出するものなのだ。貴女がもし、本当に俺を唾棄することを望むならば、俺が家族と共に暮らす状態を責めるのではなく、小説を責めるべきだ。それでこそ真に対等である。貴女が命懸けで価値を見出す領野と、俺が命懸けで価値を見出す領野を対峙させよ。貴女がどうしても俺の小説の中で許せない部分を見出すのなら、俺がよくいる図書館までダイナマイトを携えてやって来ればいい。そこで俺と俺の野蛮な小説を粉砕すればいい。それほどの衝迫力を貴女に与えたのであれば、寧ろ俺は貴女に殺されることをこそ望む」読者よ、僕は男だ。僕は十九歳だ。僕は日本人だ。僕は文学が好きだ。そして僕は家族と共に生きている。父の建築現場を手伝うこともあれば、母とフライドポテトを作ることもある。妹に怪談を聞かせて震え上がらせることもあれば、弟の弾くギターを褒めてやることもある。僕を規定する無数の言葉で、真に必要なのはこの二つだけだ。「家族」「文学」。この二つさえあれば、僕はいかなる世界の暗い樹液をも乗り越えることができるだろう。
――大丈夫ですか?
 不意に、背広の彼が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。彼の眼は美しい白銀を駆け回る親狐のようだった。小さな少年が「ワッ!」と叫び、砂山を壊した。母親が少年に近付き、残念そうな顔をして溜息を吐いた。いつの間にか、隼人と雄大はいなくなっていた。未来の隣には、隼人でもなく、雄大でもない、全く別の少年が笑顔で座って口笛を吹いていた。少女はこの僕と同年ほどの男の肩に頭を乗せて、うっとり海の彼方、讃美歌の流れる水平線の奥、その奥、はるか彼方を眺めていた。僕は彼に声をかけられて、ようやく自分が見栄を張り、執拗に背伸びし、無理をしていたことを悟った。僕は初めからこういうべきだったのだ。「寂しい。助けてください。僕は手を繋ぎたい。僕は僕の存在を認めてくれる誰かと手を繋ぎたい。それ以外は何もいらない」僕の涙腺は急激に弛緩した。だが、涙などという少年臭い汚物を、僕は僕自身の眼から流れ出ることを許さない。僕を気遣ってくれている彼に、僕は振り向くことをしなかった。そればかりか、僕は砂浜の暗い穴ボコに頭を垂れた。世界に讃美歌など流れていなかった。「手を繋ぐ」イメェジ、それは無だった。僕は再度〈流/C〉に戻ることを余儀なくされた。〈流/C〉は思った。「ココハ我等ノ居場所デハナイ。ココハ海辺デハナイ。我等ハ精神病院ノ暗イ一室ノ隅ニイルノダ。ダガ、誰一人我等ノ病名ヲ知ッテイル医師ハ存在シナイ。我等ハ常ニ存在ノ亡霊化ニ苦シンデイル。我等ハ絶エズ、アラユル領域ヲ歩クコトガデキルガ、ドコニモ留マルコトヲ許サレナイノダ。我等ハ存在ノ亡命者ナノダ。存在ノ亡霊化ヲ食イ止メル薬ヲ与エヨ!我等ノ魂ハ常ニ薄クナリ、軽クナリ、ヨリ大キナ魂ニ追イ遣ラレテイル。ココハ無人ノ熱砂漠ダ。ドンナニ弱ッテモ、留マルコトハ許サレナイ」〈流/C〉はやがて背広の彼に鄭重にお詫びをし、自転車に跨った。彼は治療室へ向かわねばならなかった。すなわち、有限数の書棚が並ぶ図書フロアへ。そこで何をするというのでもない。ただ、彼は書物の洪水を浴びたかった。砂浜を立ち去る時、彼は一度振り返った。そこに立っていたのは、最早あの小さな少年ただ一人だった。少年は小児喘息を患い、胸を弱りきった鳩のように上下させていた。それはかつての〈流/C〉だった。少年のガラス細工の宝石じみた瞳が、〈流/C〉を強靭に捉えた。しかし、〈流/C〉はそれを振り払った。〈流/C〉はあの少年が巨大な波に呑まれることを望んだ。世界に二人も自分は不必要だった。幾人かの食べ残された西瓜の破片が、波打ち際に散在していた。
 僕は図書室へ戻った。画集棚では、やはりあの二人の老人たちが談笑していた。世界文学が並べられた書棚の前から声が聴こえた。「この夏休みで合計三十八冊の本を読んだわ。最高ね、図書館は」それは中学生くらいの少女の声だった。別の少女が笑った。僕は夏休みを利用して、それほど多くの本を読んだ彼女に新しい焦燥を植え付けられた。ここにも安穏などない、と僕は〈流/C〉をいつの間にか消失させている自分を奇妙に感じながら、そう胸の裡で呟いた。実際、もう〈流/C〉などという浅薄で遊戯的な記号に意味は無かった。僕は気を取り直そうとした。そして、読書家の中学生から少しだけ離れた場所で、しかし彼女の声が届く範囲内に立った。彼女はどの作家に触れたのだろう?と僕は思った。中学生時代、僕は成績に必死だったので、ほとんど本に触れなかった。国語の教科書で習った、『少年の日の思い出』という短い作品を通して、ごく限定されたヘッセの顔を覗いていたに過ぎない。不登校になっていた十六歳の冬、僕はニーチェと出会い、この世界に存在する書物には位階序列が存在することを知った。今ではその考えを僕は否定している。何故なら、全ての書かれたものには読まれるべき何かが存在するのだから。だが、あの少女は中学生くらいで、きっともうハムレットを、ドリアン・グレイを、ヨーゼフ・Kを知っているのだ。彼女に「どんな本が好きですか?」と質問したとする。すると、きっとこんな答えが返ってくるだろう。「いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する」彼女は十五歳で作家になり、二十五歳で文豪と呼ばれ、三十路過ぎに衝撃的な自殺をして、世界文学に名を残すのだろう。彼女の小説には読む者を熱狂させる霊性が宿っている。彼女が死んだ日、その死を悼んで跡を追った男たちは計り知れない。同時に、彼女を嫉妬し、蹴落とそうとしていた宿敵たちの数も計り知れない。だが、僕だけは知っている。彼女はただ、文学を愛していたに過ぎないのだ。このような、急速に呼び覚まされた想像において、僕は何故己が「熱狂」に拘泥するのかわからなかった。あの中学生の少女が読んでいた本が、実は全て童話の類であったとしても、やはり僕はもう「熱狂」について考えなければならなくなっていた。だが、それを考えることは、僕の救済でもあった。僕は少なくとも、海辺を逃れた後、図書室の片隅で蹲ることなく、考えなければならない材料を得たのだから。ボルヘスは『七つの夜』の「仏教について」で以下のように語る。「自殺は何の役にも立たない。それは情熱的な行為である。私たちは情熱を捨てなければなりません」しかしカート・コバーンはボルヘスに牙を向く。「徐々に色褪せるより、燃え尽きた方がずっといい」僕が「熱狂」に対して抱くものは、全て自殺的な、高揚と滅亡の随伴した風景だった。仮に、彼女のような作家、読む者を激越に熱狂させ、彼女の虜にする作家が存在したとする。彼女の伝説が不滅であるのは、彼女の人気が最高潮に達していた時、本人が凄まじい自殺を遂げたためであるが、少なくとも僕は自殺が彼女の魂を傷つけたと解釈する。新渡戸稲造は『武士道』の第十二章「自殺と敵討ちの制度」で以下のように語っている。「まことのサムライにとっては、死に急いだり死に求愛したりすることは、ひとしく臆病卑怯であった」更に彼はサー・トマス・ブラウンの『医者の宗教』から引用している。「生の方が死よりも恐ろしい場合には、あえて生きることこそまことの勇気である」僕は確かに自殺的な作家に強いシンパシーを憶える。「彼は狂気と闘い、常人には描けない小説を残したが、運命が彼に死を与えた」だが、死でもって運命を美しく飾った彼らは、残された人類の生を少しでも視野に入れたろうか?僕は生きることを前提にしてこの小説を書いている。無論、僕の読者であれば当然同じであろう。そして、我々は同時に「熱狂」と「自殺」に憧憬を抱いている。実際、僕はカート・コバーンが自殺した年齢に、一つの巨大な自殺への吸引力が働くことを予感してさえいる。だが、読者よ、我々の「熱狂」は生と結び付いたものだ。真の「熱狂」は、自殺を乗り越えるものである。ニーチェは『ツァラトゥストラ』第三部「快癒しつつある者」でこう歌う。「歌え!とどろきわたれ!おお、ツァラトゥストラよ。新しい歌であなたの魂を癒せ。そして、まだ何びとの運命でもなかったあなたの大いなる運命を担え」僕は運命を知り、それを自ら乗り越える地点まで上昇する。それは僕がニーチェと交わした密約である。僕はこれに遵守し、最大の魂を己の生から紡ぎ出す。文学の女神に愛されるために。
 突然、図書室に子供の泣く声が響き渡った。僕が一驚して書棚から顔を出すと、絵本書の辺りで一人の少年が大泣きしていた。僕は彼を見つめていた。いつまで経っても親が来る気配はなかった。やがて一人の少女が来て、少年の頭を撫でた。少女は彼の手を握りながら、辺りを見渡していた。その表情は、遠目からでも不安に満ちているのが手に取るようにわかった。どうやらこの小学生低学年くらいの少女は、この少年の姉らしかった。二人は親を探しているようだった。僕は「いずれ来るから泣かずに待つんだ」と心の中で囁いた。だが、無性に彼らのことが気になった。彼らの健気な小さい姿は、かつての僕の妹と弟に映った。やがて少女が泣きべそをかいている弟の手を引っ張りながら、室内をうろつき始めた。少女は「お母さん!」と絶えず大声で呼びかけている。やがて少女は全ての書棚を探し終え、弟と同じように泣き始めた。僕は居た堪れなくなったが、彼らに声をかけはしなかった。姉弟は萎縮し、小動物のように脅えてさえいた。僕が立っている書棚の前まで来た時、彼女は僕に小さくいった。「あの、お母さんいませんでしたか?」僕が短く、冷酷に「知らないよ」というと、彼女の表情はいっきに崩れて小犬のように泣き出した。僕はその姿を見て愕き、動揺した。僕は何故こんな言い方をしてしまったのだろうか?もう少し、別の言い方があるものである。僕は二人を安心させるために、というよりは、寧ろ自分を納得させるために、彼らにいった。
――椅子に座って待っておいで。お兄ちゃんがカウンターの人とお母さんについて話してくるから。
 そういうと、姉の方は急速に泣き止んで椅子に飛び乗ったものの、弟は僕の傍に寄って来て離れなかった。彼はどうやら僕に着いてこればすぐに母親と対面できると勘違いしているらしい。僕は姉に名前だけ尋ね、即座にカウンターへ向かった。だが、弟はひよこのように着いてきた。
――すいません、図書館に今迷子の子が二人いまして、林田くんというそうなんですが、彼らの保護者の方は来館してるんでしょうか?
 僕がそういうと、あの鳩のように首を慌しげに曲げる係員の女性が眼を丸くした。彼女は僕の足から顔を出している小さい少年の方を見て、眉をへの字にした。
――林田くん、お名前はいえるかな?
 すると少年は輝かしいほどの活気に溢れた声で「さっとしぃい!」と絶叫した。彼は何故か僕と同じ名前だった。僕は少女の方へ弟を連れて戻った。間もなく、館内アナウンスが流れた。「館内を御利用の皆様へお伝えします。林田さとし君の保護者の方は入口カウンターまでお越しください。繰り返します…」僕は二人をカウンターに近いソファーまで連れて行った。その間も、少年は僕の片足に居場所を見出したように、奇妙にもへばりつき続けた。僕らは並んで座っていたが、やがて少女が僕の右に移動して、姉弟が僕を挟み込んでくる形となった。僕は宙吊りになったような、不可思議な違和感を浮上させた。何故、これほど彼らは人懐っこいのだろうか?少しは警戒すべきであろう。不意に、少女が僕に一冊の本を手渡した。「お兄ちゃんこれ読んで?」僕はその訴えかけの無垢さに、正直呆れ返った。これでもし、母親がいつまでも来なければ、彼ら二人の面倒を見るのは誰になるというのだろうか?僕は何故自分がこのような事態に陥ったのか、冷静に分析しようと試みたが、弟が突然「エルマー!」と叫んだので、それは一瞬で風化した。彼らは既に、僕がその本を朗読することを前提にしているようだった。おそらく、市外から子供を連れて訪れた母親が、突然重大な用事を思い出して、子供に声もかけずにこの場を去ったのだろう。心配しなくとも、母親はいずれ飛んで戻ってくるのだ。僕は仕方なしに少女から本を受け取った。それはルース・スタイルス・ガネット作、ルース・クリスマン・ガネット絵の『エルマーのぼうけん』だった。僕は小学校の頃、この本の一部分を国語で習った気もした。少女は眼を輝かせながら口を開いた。
――はじめっから読んで!もう全部読んだけど、もう一回読みたいからっ!
 彼女の今の発言における「読みたい」とは、「読ませたい」であって、いよいよ隣に座っている若い語り部がその本を読み始めることを信じて疑わないようだった。僕はもう腹を括って『エルマーのぼうけん』を朗読してやることにした。弟の方は棒付きキャンディを舐めだして、涎を絶えずソファーに落とし続けていた。彼がこの本を理解できるかにさえ、僕は自信がなかったが、やがて声を低くして謐かに語り始めた。
――〈ぼくのとうさんねこにあう〉ぼくのとうさんのエルマーが小さかったときのこと、あるつめたい雨の日に、うちのきんじょのまちかどで、としとったのらねこにあいました。ねこは、びしょぬれで、とてもきもちがわるそうだったので、ぼくのとうさんは、いいました。「ぼくのうちにきてみませんか?」これをきいて、ねこはおどろきました――こんなとしとったのらねこにやさしくしてくれた人なんか、いままでいなかったからです――けれども、ねこは、こういいました。「あったかいだんろのそばに……。
 二人は右頁に描かれている鉛筆画のようなエルマーと猫の姿を覗き込んでいた。少女はまだ礼儀正しくしていたが、さとしの方は下品に両脚をパタパタし、小便でもしたいのか突然股を力強く叩き始めた。僕はいったん中断を余儀なくされ、「トイレか?」と尋ねた。しかし彼は大きく首を振って、ニッと笑った。僕はそれからもずっと声に出して読み続けた。カウンターに眼を配ると、先刻の係員の女性が本で顔を隠して笑っているようだった。他の利用者の目線も気になりはしたが、別段この二人の実の兄としてもある程度通用しそうだったので、ほとんど気を配らなくなくなった。寧ろ、僕が気掛かりであったのは、この「さとし」という小さい少年が僕と同名であるという点だった。それは偶然であろう。だが、偶然とは高度な規則性である。「世界に二人も自分は不必要だった」僕は海辺でそう思った記憶を浮上させた。彼は無論、僕とは年齢も住んでいる場所も異なる人間だが、彼の名前が「さとし」であったということが、何かしら僕に秘匿された訴えかけをしているのではなかろうか?彼の名前は「聡」かもしれないし、「哲」か、「敏」か、「慧」か、やはり「智」かもしれない。しかし、この少年と僕を分け隔てるものとは一体何なのだろうか?彼と僕が完全に同一人物であり得る瞬間が存在するのではなかろうか?その考えを世界にまで拡大すると、全ての人類がただ一人に成り得る瞬間が、やはり存在するのではないだろうか?それは突飛な机上の空論かもしれなかったが、大いに僕の魂を勇気付けた。
 やがて母親が死んだような顔をして現れた。彼女は僕らに気付き、無表情で近寄った。僕は朗読を止め、二人も母親に気付いた。少なくとも、僕はこの時点まで、つまり、彼ら二人の姉弟が僕の傍に座り、僕が持つ本を覗き込み、声を聞いていたという風景に、小さな、わずかばかりの安らぎを感じてもいた。それが長く続くことを期待しているわけではなかったが、僕は彼らの元をいずれ訪れるであろう未だ見ぬ母親の姿に、一つの官能を、一つの熱情を寄せていたのだった。僕は貴女が産んだ蟻二匹の面倒を見てやったのだ。見返りをくれなければならない。貴女は僕を貴女の家まで誘い、僕を抱き締め、僕は貴女を抱き締めなければならない。そうでなければ僕がこの蟻二匹を世話した意味がない。貴女は僕のこの小説を読み、それに耽溺し、僕を作家と呼び、僕を包丁で刺し殺さねばならない。その愛ゆえに。だが、実際の母親は子供を連れて、そのまま即座に室内を去った。姉弟は一瞬で僕の存在を忘れ、本さえ取り戻そうとしなかった。僕が母親にそれを手渡すと、彼女は一度深々と無言で頭を下げた。それをしたに過ぎないのだ。おそらく、あの二人の子供は、僕と彼らの母親を結び付ける作動因子として存在していたはずだった。僕は彼女の愛人となり、彼女の胸の上でこの小説を朗読してやるはずだった。僕は文学の女神の首を噛み切り、彼女と屈折した愛に没頭するはずだったのだ。だが、世界は僕に文学の女神は用意しても、僕そのものを愛する女神は用意しないつもりらしかった。僕はこれまで他者の小説の内部で、数知れない主人公の女神たちを見てきた。彼女らは孤独な主人公を励まし、性によって勇気付け、最期には残酷に見捨てられた。それは主人公が所有する圧倒的な孤独によってだった。彼の孤独の総体が、彼女を遠ざけ、呑み込んだ。だが、僕にとってその歪な関係は、巨大な救済のイメェジであり続けた。僕は僕の存在を認めてくれる女性に、励まされ、徹底的に作品を否定され、蹂躙され、拷問され、しかし肉体的には涙ぐましいほど壮絶な愛撫を与えられたかった。僕は肉体的にも、文学的にも、最も男根的な女性の下僕と化したかった。僕は貴様を見捨てない、だから貴様も僕を愛さねばならない。貴女は僕が抱く文学の女神への愛を破砕し、取って代わらねばならない。貴女にはそれができたはずなのだ。それなのに、何故、御辞儀一つでこの場を去るのだ?僕は孤独者ではないのだ、だから、僕は死ぬまで貴女の傍で貴女に服従できるといっているのに、何故わざわざ蟻の巣へ戻る?貴女は最高に危険な、最高に熱狂的な若い青年との魂の火遊びを逃したのだ。僕は貴女に殺されたかったのに、貴女はその最も官能的な機会を逃したのだ。魂は血を流さない、魂は不滅である、魂は輝く薔薇の構造を持つ、それを知る幸福さえ唾棄して?ありふれた平凡な夫との情事に吐き気を催しているのに?何故だ、文学の女神は発狂しているのか?一体、何を御考えになっておられるのか?いつになれば、僕はこの怖ろしいほどの智慧に溢れた女神の処女膜を突き破ることができるのか?教えよ、この僕に教えよ!もしもそれを拒むならば、貴様の代わりとなる女神を与えよ!僕はそう胸の奥底で叫びながら、早足で去っていく母親を、両手に二つの幸福を握る彼女をいつまでも眺めていた。
 僕の魂は弱りきった。僕はこれまで綴ってきたこの小説を読み返し、推敲し、或いは部分的に補筆さえ施し、より完璧なものを志向した。だが、明らかに僕は先人たちの声に埋もれ、己の声帯を喪っていた。僕の作品は、僕に内的な変革を齎さないのだ。前の頁を捲った時、絶えず引用文献が飛び出してくるのが、いよいよ僕の書く行為への熱情を奪った。だが読者よ、本来我々に声などあるのか?我々に顔などあるのか?否、そんなものはないのだ。ただ一人の人間の声が、顔が、今日まで無限に反復し続けているに過ぎないのだ。読者よ、あなたは己の顔を鏡に映し出してみるがいい。そこには唯一固有のあなたの肖像が描き出されるだろう。だが、あなたがペンを握り、ノートに何か小説を書いてみるがいい。そこに果たしてあなたが堅固に、唯一固有の肖像として描き出されるだろうか?僕は引用に依存し、声帯を獲得できない病を患っている。その自覚が、僕の唯一の誇りである。だが、読者よ、あなたならおそらくこう思考しもするだろう。引用した部分こそが、他者の声を借りた部分こそが、実は我々なのだ。何気ない地の文には、これまで読み、聴き、触れてきた幾多の文章が地下水脈のように流れているのだ。そして、それら地の文(まさにこの独白がそうであろう)こそ、他者の声であり、我々の声ではないものなのだ。画家は肖像画を無数に描く。だが、そのどれ一つも画家自身ではないのだ。我々は孤独と対峙するために日記を綴る。だが、その書かれた言葉の集積体は、全て我々が書いたものではないのだ。例えば、あなたが日記にこう綴ったとする。「私には手を繋ぎ合える恋人がいない。私はそれが欲しくて堪らない」そして、あなたの住む街とは別の街で、数日後、仲睦まじい恋人を襲った悪漢が捕まったとする。あなたはおそらく動揺し、小さな罪悪感さえ呼び覚ますだろう。「私は確かに嫉妬した。そして、あの若い男女などこの世界から消え去ればいいと願った。だが、私は彼らの命まで奪おうとは思わない」だが読者よ、あなたが恋人たちに憤慨し、日記にその憎悪を綴っていた時、あなたはあなたではないのだ。あなたは数日後に罪を犯す悪漢に、ペンを握らせていたのだ。この世界に、確固たる自己を備えた人間など、誰一人存在しない。全ての人間はfragmentであり、互いに内的な連関を持ち、呼応し合っているのだ。その錯綜し、複雑に入り乱れた蜘蛛の巣のような線の一つに足を取られた時、我々はおそらく鏡に映った自分自身にさえ、存在の亡霊化を浮上させるだろう。「これは私ではない。これは私の顔ではない。これは誰かの顔、既に滅び去った、先人の顔、これから生まれてくる、見知らぬ笑顔を浮かべる顔、ああ、これは私の顔ではないのだ」僕にはもう一つの謎がある。僕は書く動物であり、文章を綴る。だが、常に僕は何かをまだ書いていないのではないのか?という不安に襲われるのだ。そして、一度綴った文章に、それを綴るべきであったか、それとも別の文章に変化させるべきであったか、常に脅迫されているような気さえする。僕の綴った文章たちは書き手である僕にこう叫んでいる。「俺は一つの文章。上の句点が俺の頭であり、下の句点が俺の尻だ。だが、俺は今、書き手であるおまえの方を向いている。すなわち、正面を向いている。だが、おまえは気付いていない。俺たちには必ず裏があるのだ。俺たちにはおまえの知らない背中があるのだ。果たしておまえはその裏を覗くことができるだろうか?全ての書き連ねた文章を翻し、俺たちの背中を観察することができるだろうか?」僕が書いてきたこの小説、これは果たして僕が書いたのであろうか?読者よ、僕はあなたが僕にこの小説を書かせるように強いた気がしてならない。僕とあなたがまだ書いていない言葉、その未知の言葉を含む文章とは、何であろうか?それは登場人物の一人の台詞に含まれているのか、それとも、引用した文章の一字であるのか、或いは、句点なのか、余白なのか?僕はこの小説の結末を知らない。僕の眼前には真っ白の砂漠地帯のみが無機質に広がっている。僕はその砂丘の一つで、たった一つの、それだけあれば他のどの文章も不必要になるであろう輝かしい言葉を発見するに到るのだろうか?その埋もれた宝石のような砂粒に、僕とあなたは到達できるであろうか?僕があなたに「我々ならば可能だ」と叫ぶことを、何者かが阻止している。それはそう平易に見出され得るものではないのだ。だが、もしも我々がその言葉に出会えば、我々はおそらく狂人の道を歩き始めることになるだろう。僕とあなたは今、最も危険な綱渡りをしているのだ。そして、凄まじいほどの地層を連ねる文章の奥深くで、我々が遂にその言葉を発掘した瞬間、我々はあの女神の顔を知ることになるだろう。それは紛れもない聖母マリアのような慎み深い慈愛に溢れた顔だろうか?それとも、(僕は今、皮膚が粟立っているが)やはり眼も鼻も口もない、ガス状の黒い亡霊なのだろうか…?
 燃え上がる青木繁、我々に強靭な雷撃を撃ち落す青木繁が、ここにいる。それは閑散としたこの図書室の隅、画集棚の一角に確かに屹立している。一九〇三年、二一歳の青木が描いた『自画像』、ここには研ぎ澄まされ、極限状態にまで練磨された魂の爆裂が宿っている。この一枚の絵に触れることは、我々の魂にとってあまりに危険である。僕は今、この日本列島さえ小指一本で破壊し尽くせるような一人の神と対峙している。『自画像』に描かれた青木繁は、既に人間ではない。彼はエナメル線に即座に着火可能な夥しい数の雷電を皮膚の上に張り巡らし、我々を獣のように見つめている。この「音楽」はひたすら落雷であり、この「テクスト」は最早意味を持たない。おそらく、青木の奏でたこの音楽は、色彩を持った不滅のテクストである。一体誰が、この霊性を宿した青木繁と化すことができるだろうか?だが、弱り果てた現在の僕の魂を鼓舞するのは、最早この『自画像』以外には何もない。僕は青木繁の噴き上げる血飛沫の一滴、一滴を鼻腔から吸い上げながら、テクストの皮膚を爆破させねばなるまい。それをするのは僕でもなく、青木でもなく、ただあの砂丘に埋もれた一粒の砂のfragmentである。魂が闘争を欲するのならば、僕は彼を抹殺せねばならない。彼の圧倒的な孤独の総体、スサノオの魂を内部化した破天荒な狂度が、僕の存在に無数の孔を空けていく。そして僕は知るのだ。魂は「熱狂」など求めていない。魂が言語に求めているのは純然たる「狂気」なのだ。そして、その極北に存在するのは、時の風化に左右されない不変不屈の「静謐」なのだ。「狂気」が「静謐」を獲得し、交接し、歓喜の歌を叫ぶ時、我々はテクストの荒地で孤独なる戴冠を果たすだろう。そして、我々は文学の女神の首を天高く掲げてそれを笑いのめすだろう。不意に、後方で老人の声がした。僕は愕いて振り返った。あの学者風の白髭が美しい老紳士だった。だが、彼は隣にいる端正な顔立ちの老婆と、僕を不審そうに見つめていた。二人の眼は、無言でありながら何か僕の考えを否定する火を内部に秘めているようだった。僕はどうすればいいのか皆目見当がつかなくなり、肩を強張らせて現代日本美術全集『青木繁/藤島武二』を急いで閉じた。確かに、僕は何か過ちを犯していた。僕は「狂気」について、「静謐」について、その観念の表層で酔っているに過ぎなかった。ゆっくり頭が冷めてくると、僕は先刻まで自分が青木繁について考えていた事柄が、たまらなく稚拙に感じられてくるのだった。僕は何も知らない。「熱狂」についても、「狂気」についても、この図書室とは何であるかについても、一枚の葉とは何かについても…。ただ、漠然とそれに近しい領域への通過儀礼なるものが存在していることを予感しているに過ぎないのだ。二人の老紳士、老淑女はゆっくり僕から離れていった。彼らはやがて階段の底へと消えていった。僕は急速に青木繁に敗北したような気になり、素早く『自画像』の頁を開け直した。そこに描かれているのは、既に先刻の『自画像』ではなかった。それはどこか別物、他人のようにさえ見えた。彼からは確かにまだ落雷の音が残響していた。だが、それを耳にしている僕は、今のこの僕よりも一歩前の地点に存在しているのであって、どこか遮蔽幕が下ろされたような感覚を抱くのだった。『自画像』の音楽を聴いているのは「そこ」にいる僕であり、「ここ」にいる僕ではない。僕は不安になり、眉間に小指をグッと突き刺した。
 僕は図書室でグランド世界美術の『デューラー/ファン・アイク/ボッシュ』を借りて、そこを離れた。青木繁は魂の王族、僕の求める存在に違いなかった。だが、僕は彼の絵が収録されている画集を借りることはなかった。僕は河川公園を目指してゆっくり歩いていた。やがて電波塔まで辿り着き、細い鉄柱の斜交いを利用して二階まで上った。二階とはいえ、そこは鬱蒼とした木々の枝葉に隠された暗いコンクリートの囲いだったが。同じ枝に烏が三匹止まっていた。僕はここから河川公園の茂みや、散歩道を密かに俯瞰した。黄金色の茂みを走る年取ったマラソンランナーは、僕に気付くことなくその場を通過した。やはり全てが反復された風景だった。見上げると、電波塔の上部で烏が舞っていた。彼らは必死で円環を描いているようだった。やがて一台の自転車が電波塔の前で停止した。そこに乗っている人間に、僕は見覚えがあった。否、明らかに僕は彼女の顔も服装も知らないはずだったが、以前どこかで会ったような気がしていた。彼女は未来に違いなかった。僕は彼女の様子をしばらく上から観察していた。彼女は自転車から降り、茂みの上で何やら考え事をしているようだった。だが、何かを思いついたのか、再び自転車に乗った。「他の連中は?」僕はそう大声でいった。すると彼女は愕いて二階を見上げた。「別れたのかい?」と僕が問うと、彼女は首を落とした。未来(そう呼ぶべきか定かではないが)は僕のいる場所まで素早く駆け上ってきた。僕が再度、「君の姉夫婦とも?」と尋ねると、彼女は疲れ果てたように溜息を吐き、一言「夜までここにいるわ」といった。僕と彼女は並んで三角座りをしながら夕陽を眺めていた。どうやら未来は、仲間たちと逸れたようだった。或いは、彼女自身が仲間から逃れてきたのかもしれなかった。彼女の左頬には巨大な痣があった。それを僕は以前見たような気がしていたが、捏造された記憶かもしれなかった。僕は彼女にヒエロニムス・ボッシュの『快楽の園祭壇画』の見開き頁を見せた。彼女は中央の、無数の裸の男女たちが水辺で蠢いている絵に釘付けになった。この三幅画の中央図が『快楽の園』の風景であり、左翼が『エデンの園』、右翼が『地獄』だった。『快楽の園』は狂的な絵に違いなかった。そこに描かれているのはグノーシス主義の中でも極めて背徳的なアダム派の世界であり、あらゆる人間たちが小集団をそこかしこで形成して、しかし互いに連関を持たずに混沌としていた。水辺で抱き合う裸体の男女が描かれているかと思えば、尻の穴に花を突き刺してこちらを眺めている奇妙な男も存在した。馬に乗る集団、豚に乗る集団、熊に乗る集団、それらはさながら国家を象徴していた。間違いなく、この中央の絵は現代世界の縮図だった。「私を抱きたいの?」と未来はいった。「こんな絵をいきなり見せて」僕は彼女の問いにしばらく沈黙し、やがて「もう抱いている」といった。実際、僕は既に彼女の肩を抱いていた。彼女は僕の腕に気付き、信じられないほど悲痛な眼差しを僕に向けた。やがて彼女は謐かに涙を流し始めた。「私、もう死にたいわ」僕は彼女の横顔を見つめ、髪を撫でてやった。「死ねばいい」と僕は短くいった。「夜になったら、俺がここから突き落としてやる」すると未来は眼を丸くして、小さな笑顔を向けた。「本当に?」僕が首を縦に振ると、彼女は赤子のように無垢な笑窪さえ覗かせて、「いっしょに死んでくれる?」といった。僕は彼女の笑顔に凍えるような、怖ろしいほど張り詰めた威圧感を抱いた。僕は夜が来ないことを知っている。僕の小説では、夕陽が無限に続かざるを得ないのだ。だが、彼女はそれを知らない。僕らはいつまで経っても、自殺することはできないのだ。「耳朶にkissしてくれないか?」と僕は彼女にいった。すると彼女は不思議そうに見返しながら、「いいわよ、それくらい」といった。彼女が唇を僕の耳元に近づけた時、僕は彼女の方を振り向いた。「噛み切ってくれ。そうしたら、いっしょに俺も死ぬ」彼女は愕き、笑い、僕の唇にkissをした。やがて僕は右耳を、次いで左耳を彼女に向け、それら二つを噛み切らせた。彼女の歯茎が僕の耳朶の引き裂かれた肉に食い込む音が、鼓膜の奥まで届いた。僕は滝のように脂汗を全身から湧出させながら、痛みに耐えていた。彼女は舌の上で血に塗れた耳朶の残骸を注意深げに転がしていた。僕は両目から涙を流していたが、引き攣った笑いは浮かべることができた。風が耳を撫でる度に、失われた耳朶が焼けるように痛んだ。しばらくして未来が地面に耳朶を吐き落とした。彼女はその後、断続的に何度も何度も小さく嘔吐した。
 その時であろうか?僕の脳裡に二つの結合した言葉が雷となって撃ち落された。それは僕の習慣である広告から任意に文字を切り抜き、意味を持たせて配列するという行為による。以下の言葉である。「小説内部の体質改善・脂肪燃焼」このゴシック体の部分は、ダイエット食品に関する広告からの切り抜き。ここまで僕は実に七万五千字ほどの小説を綴ってきたが、そろそろ僕はこの小説に対し、制度を明白化しなければならないだろう。僕がこの作品の序章を書き始めた当初、そこには無限に続く白い画面が広がっていたに過ぎなかった。だが、今は少なくとも七万五千字ほどの文字が存在している。たとえ十字であれ、そこには制度が組み敷かれているものであろう。今、僕はこの作品に五つの制度を見出す。読者よ、何度も本筋から脱線して申し訳ないが、ここにこそ僕の熱情がこめられていることを既にあなたならば悟っていることであろう。(本筋からの幾度にも渡る脱線、それはスターンの『トリストラム・シャンディの生涯と意見』第七巻第四十章に一つのモデル図が示されている。物語とは本来脱線的であり、蛇足的であらねばならない。直線的な物語、矢のようにテクストの皮膚を滑空する物語が仮に存在するとするなら、読者よ、僕に提示してみせよ)五つといったが、以下の通りである。

① 検閲者の遍在
② 評論のコード
③ 人物の架空化
④ 空間移動の反復
⑤ 時間の滞留
 
①における「検閲者」というのは、僕の作品を常に自己解体しようとする書き手の分身の意である。スターンの場合、これを脱線と規定しているが、僕はそうは思わない。寧ろ、「書いたばかりの自分の小説の本筋を削除し、その反省部分のテクストのみを小説として提示すること」の方が、より勇敢、より大胆不敵である。その場合、「物語を書く、という行為を描いた物語」となろう。②は読者も承知の通り、この作品で行われた数知れない「引用」に基くテクストである。「引用」したテクストから派生して、書き手自身が独自に思考したと自負できる箇所も無論ある。だが、「独自」という言葉は本来、自己を備えた小説家が使用すべきであり、僕が「独自」に綴ったテクストでさえ、やはり「引用」元を探すことは可能だろう。(断言するが、僕が今まで読んできた全ての作家は、自己を消失させている病を患っていた。だが、それに気付いているのは極めて少数である)続いて③へ移行しよう。これは雄大と隼人の融合や、未来の変身などでも具現化されていようが、要するに本質的にフィクショナルな装置としての小説内部の人物を、書き手がわざわざ「これは虚構である」と宣言することである。しかしこれは構造的にトートロジーではない。書き手があえて登場人物の存在を架空化する、亡霊化することそのものに意味がある。④と⑤は表裏一体である。時間は夕方を常に反復しているとされているが、実は空間を移動しているので時間はきっちり進行しているはずなのだ。それを書き手があえて「夕暮れは無限に反復する」と規定する時、空間は反復の病理に汚染される。さて、僕は自己批評の契機を持たせて以上のように五つの体制、五つの制度を示した。これを批評家の機能に委ねることは文学的には怠慢に他ならない。少なくとも書く信条は、それを小説内部に有機的に吸収せねばならない。しかし僕が今、やや気掛かりであるのは寧ろこのような明文化された制度ではない。ハーネット・オズワルドとは誰か?という本質的な問題である。実際、僕はこの作家がどこで生まれたのか、いつ生まれたのか、残した作品の表題は何か、といった事柄について、「知り得ない」といわねばならない。読者はここで僕に反論できるだろう。「私は彼を知っている。それを教えたのは他でもない書き手である君だ。オズワルドはアメリカの作家である。彼は『電波塔』という作品を残した。そして君の話では、その小説がオズワルドの処女作であり、同時に遺作である。また、オズワルドの評論さえ、君は考え出している。おそらくボルヘスの短編の手法から学んだためであろうが、これもやはり架空の評論であろう。草野忠芳の『「電波塔」の表象と地層、その限界』がそれである」だが読者よ、それはあくまで僕の読んだオズワルドだったのだ。「架空の作家」として誰かある一人の作家を想像するという行為は、一度成されねばならないものである。何故なら、それは想像する者の分身を産み出すからだ。それは鏡像であり、彼自身でさえある。僕は何も新しい発見を望まない。草野忠芳とはこの未だ名もなき小説の評論家であり、彼はこの世界に実在する。そして僕は読者にこう断言できもする。「私は草野忠芳である」と。本題に戻ろう。僕が今、真に志向したいのは先述したが「小説内部の体質改善・脂肪燃焼」である。この小説の中で、不必要な贅肉を削ぎ落とせ。例えば、卑近な例をあげると、「僕」の耳朶が噛み切られたという小話である。これは果たしてこの小説にとって必要不可欠な要素だったろうか?より大胆に指摘すると、場所は初めから自室のみで良かったのではなかろうか?また、数多くの書物から引用を行ったが、これを巧緻に隠蔽して、あたかも僕自身が考えた文章のように語ることはできなかったであろうか?だが読者よ、僕はそこまで「紳士的」にはなれない。無論、この小説は「反紳士的」な、或いは「反淑女的」な読者のための、一つの罠であり、策略である。思想そのものを、言葉をもちいないで、伝達することができるとしたら、それこそ詩人にとっては、いちばん好ましいことでしょう。これは引用である。この文章――すなわち、「思想そのものを…好ましいことでしょう」のセンテンスであるが――は、一九三一年にヴィトゲンシュタインが綴ったものである。しかし、実はこれはヴィトゲンシュタインの文章ではないのだ。これは彼が引用したハインリヒ・フォン・クライストの文章である。クライストはこの文章を「ひとりの詩人からもうひとりの詩人への手紙」(一八一一年一月五日)の中で綴っている。そこには等質なテクストが存在するはずである。だが、仮にヴィトゲンシュタインがクライストの文字を一つだけ変えて、自分の文章として引用符を用いなければ、それで果たしてその文章は彼自身のものといえるのであろうか?そもそも、クライストに先行する亡霊化された作家たちの声こそ、最も疑念を抱くべきものである。クライストは誰の声を反復したのか?一体誰が、セルバンテスの『ドン・キホーテ』より、ピエール・メナールのそれの方が無限に豊かであると断言できるのか?あのセンテンスを綴った瞬間のボルヘスは、ボルヘス以外の〈何か〉ではなかったのか?このようにゴシック体を遍在させると、僕はいよいよあの魔術師の皮膚に近接してしまう気もするが、この罪悪感は、しかし無意味である。読者よ、おそらく我々は今、NIETZSCHEという名の迷宮の中で視界を喪っている。一体誰が、あの哲人と手を繋ぐことができるのであろうか?
 僕は未来を連れて自室でもなく、空き地でもなく、図書室でもなく、海辺でもない場所へ到着した。彼女は僕の手に強く繋がれながら、絶えず「墓場の下で眠らせて」と囁き続けた。僕はその度に彼女の指先を己の醜い指先で愛撫してやった。彼女がこれまで何度も身を委ね、絶えず魂の交接を果たす資格を持つ夫と認めていたのは僕だった。僕はそれまで気付いていなかったが、雄大と隼人という精神的双生児も、彼らのどちらでもない一人の青年も、全て僕の亡霊だった。ずっと僕は彼女の傍にいて、彼女の手を繋いでいたのだ。ただ、それを信じようとしなかったに過ぎない。そして、僕はもう既にそれを信じない。彼女は今、砂時計を握りながら零れ落ちる砂粒の一つ、一つを嬲るように観察している。僕はそれを機械化された眼差しで眺めようとしている。遠く離れた場所で。やがて未来は姿を消した。僕の足元に存在しているのはこの何一つ真に書きたいものまで到達できなかった小説と、古い砂時計だけだった。この小説に音楽はない。それは、あってはならぬものなのだ。この小説に色彩はない。それを欲することは僕に許されない。この最果ての場所へ、夕暮れの深奥まで到着すると、僕は何か一つの真理を天啓のように得るものだと信じて疑わなかった。僕は「引用」の魔手を唾棄し、ようやく己の声帯を奪還するに到るのだと。だが、いうまでもなくこのテクストは先行する作家のものである。例えば、あなたが何かを書く時、その白亜の原稿にあなたの傍らに置かれた書物が影響を与える。そして我々はそこに虚無を引き摺り上げていたのだ。だが、読者よ、我々はもう我々の声帯を焼き尽くそう。その存在しないはずの声帯を、再度、徹底的に火葬場へ放り込もう。僕がこれを書き綴ってきて断言できることが一つだけ存在する。それは、少なくとも僕がこの小説を生きる手段にしていたということだ。いうなれば一つの巨大な課題である。僕は大学という知的スペースを知らぬが、彼らのように少々早い卒業論文を書き残そうとしたに過ぎない。そして、僕はその「書く行為」に関する卒業論文=魂に血の涙をこめた。たとえ博学な読者よ、あなたが僕のテクストのそこかしこで論駁すべき箇所を見出したとしても(否、あなたはそれを見出し、僕を死体置き場へ送り返さねばならないが)、僕はあなたの背に僕自身の名を刻み付けることができる。僕は世界で最も、この名もなき一人の作家、この哀れで卑小な無名の、声なき作家を愛する。彼を称揚する。彼を讃美する。そして、読者よ、何度もあなたに語ってきたが、僕は「孤独」という言葉は高みへ昇華されることを知ったのだ。我々は最早、孤独者ではない。我々は孤独を知らない。僕はなんという幸福な書き手であろうか。小説を書くとは、なぜこれほど幸福を伴うものであるのか。読者よ、僕は感じるのだ。今、この瞬間も、どこかで孤独を知らぬ者が、書く行為をしていると。そして、我々は既に、それを読んでいると。我々は単数で書くのではない。あなたはこの小説と限りなく類似した作品を、数年前に未完成のまま焼却している。僕もやはりそうするであろう。我々は複数の者たちの手垢がついたペンを握る。そして、そのペンで書く者の姿を知ることを望まない。ここは夕陽なのだ。全ての風景が黄昏に燃えているのだ。我々は夕陽そのものが場所であることを知っている。ここには誰もいない。書き手も、読み手も、非現実的な人物たちも。小説は密かに進行している。誰も読まない、誰も書かない小説が。僕はしかし、手を繋ぎたい。少年時代、池で水死しかけた僕を、水面から突き出した片腕だけを発見して引っ張り上げたのは母だった。彼女はもう片方の腕に僕の小さな妹を抱いていた。もしもあの時、母が少しでも妹の涎を拭き取るのに気を取られていたら、この小説を綴っていたのは別の誰かだったろう。母は僕を見てくれていたのだ。僕の視界に一瞬で広がった醜い、痛々しいほどの宇宙、それは濁った池の中で散乱した無数の小さな破片たちであり、僕自身だった。僕は池の底で、全身に藻をこびり付かせた亡霊のような自転車をも見た。だが、母の力強い一本の腕が、今の僕に書く行為を許したのだ。読者よ、ここはありふれた、あなたもきっと覗いたことのあるであろう、一つのリビングルームなのだ。我々は家にいる。我々は帰宅し、家族を待とう。この小説に存在していないもの、存在しているはずなのに、秘匿されていた者たちが、もうすぐ帰還する。読者よ、ここまであなたを招待しておきながら、今更取りとめもないことをあえて僕はいいたい。「我々は家族を大切にしなければならない。家族の涙を拭い、手を繋ぎ合って歩かねばならない」家族とは宇宙であり、偏狭のナショナリズムを意味しない。我々が握っているのは新しい日の丸ではなく、あらゆる民族の手である。これは政治的な理想論ではない。我々が語っているのは、二つ以上の歯車の連結とその回転方法、すなわち文学機械=文学論=小説である。やがて僕が帰ってくる。この書き手も、そろそろテクストの皮下組織へと潜らねばならない。今、僕はガレージに自動車が止まる音を、その振動を聴いた。出窓のカーテンを開けて、下を覗いてみた。僕の家族たちだ。母、父、妹、弟、僕が笑っている。読む行為と、書く行為の一致を目的とした彼の旅は、そこへ到達することなく、ただひたすら長い遍歴のみが残された。読者よ、あなたには見えるか?西の空に太陽が沈んだ風景が。やがて夜が始まる。否、既にそれはずっと始まっていたのだ。あなたは階段を駆け上がる。その階梯の一つ、一つが何を意味するか、我々は果たして知っているのであるか?








(了)







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