密林


 

Ⅰ 「電子の木から、淀川の木へ」
 
 Googleの検索衛星「クローラー」はWebの内部を駆け巡っている。鈴村のpcはXPなので、原則一秒で検索結果を表示させるわけではないが、それでも調べたいことなら便利に何でも調べられる。彼が最近思うことは、Googleにはまだ文学的に書かれるべきことが沢山残っている、ということだった。例えば、レジス・ドブレは一神教の起源はネットワークにあると規定したが、これは正確である。これまで彼はWeb上に存在する「Page Not Found」という現象をテーマにした短編小説を書いてきた。それらを書いている時に感じていたのは、何か流浪している感覚、砂丘の上で掌から砂粒を柔らかくこぼす奇妙な感覚であった。
 鈴村は、Webという広大なこの大海原は、表現としてはむしろ「砂漠」に近しいと感じる。砂漠には何もないように見えるが、実際には隊商が渡る複数の「線」が錯綜している。ある領土Aから領土Bへ移動する時、そこに「線」が生まれる。ユダヤ教と、ポスト・ユダヤ教たるキリスト教も、やはり複数の「線」によって絡み合い、豊かに交通している。
 キリスト教は存在しない。キリスト教とは、厳密にいえばユダヤ教エッセネ派の教義が、広く民衆にトランスミッションされた二次的形式である。ポスト・ドゥルーズに位置するドブレを読んでいて鈴村が関心を示したのは、一点であった。つまり、彼自身も属する2000年以上の歴史を有するローマ・カトリック教会は、実は広大なネットワークの中の一つの領土であるという事実である。
 「インターネットは頭を持たないネットワーク、脱中心化し水平に広がる無限のリゾームである」――ドブレのこの定義ほど正確な表現があろうか?カトリック教会は、ローマの兵隊階級制度であるタクシスというヒエラルキーに基づいて、上から教皇、枢機卿、大司教、司教、助祭、信徒などと階層構造を形成している。ここは一つの巨大企業なのだ。このカトリックという領土は、ちょうどピラミスの形態を成しているのである。
 ドブレは、「キリスト教とは、宗教化されたメディウムである」と規定している。また、彼は同じことを、「ニュースキャスターは、与えられた文書を読み上げて視聴者に情報を伝達するが、モーゼは神から与えられた情報を民衆に伝達した。双方ともに発信者→( )→受信者の経路において、この( )に相当する媒介項(メディウム)であるという点で、メディオロジー的に同一である」などと述べている。この思考フレームに出会った時、鈴村は久しぶりに意識がパチパチと音を立てるのを感じた。
 モーゼはメディウムだったのだ。ドブレは、「受胎告知」のトランスミッションにおいて、「神→( )→マリア」の経路でメディウムの役割を果たした存在者についても言及していた。この( )に入るのは誰か?そう、大天使ガブリエルだ。ガブリエルもメディウムであり、情報を伝達する際の媒介項なのである。
 鈴村は、Webとキリスト教神学には何か奥深い接点が隠されているのではないか、と常々考えてきた。例えば、サイバー・パンクという誤った流派の生みの親とされ現在も教祖と化している「ポスト・ボルヘス」期の最大の作家であるウィリアム・ギブスンは、「Webには聖なるものがおられる」と信じていた。あの作品では、Web上に存在する人工知能(ウィンター・ミュート)が、人工的な身体を有する少年ニューロマンサーと「融合」して、「擬似‐受肉」に到るという、Web2・0期の神学を描いている。この場合、ウィンター・ミュートとは、神のロゴスであり、身体なき知識である。対して、ニューロマンサーは受容器であり、身体である。これと同じことがナザレのイエスに起きている。受肉とは、神のロゴスがひとの形を取ったということである。
 これを安直にSFと一笑する者を、鈴村はキリスト教神学について無知な者として逆に呵呵大笑してやることに決めている。ギブスンとは、Web2・0期にこそ再読されるべき、「我々の時代」のこの上なく異端的なキリスト教神学者――否、グノーシス派の教祖というべきか?――である。ギブスンは岩波文庫でゲーテやホルクハイマーと同じように熟読されねばならない。ギブスンを知らない人間がWebを語る資格などない。ギブスンは、あの文体のバロウズ的な軽薄さに比して、怖ろしいほどに濃密な神学体系を構築したのである。鈴村はギブスンを一人の父として規定する。
 現代世界で、最も影響力のある、世界最高峰に位置する作家とは、常にJ・L・ボルヘスである。鈴村は、ボルヘス以外に作家を知らない、とすらいっていい。ボルヘスがラテン・アメリカで逝去された1986年に、鈴村はアジアの最東端という最もクールな島国で生誕した。鈴村には、どこかボルヘスの生まれ変わりを信じているような幼稚極まる側面がある。そのボルヘスは、最も伝統主義的であったが、実は彼が知る限り、たった一行だけ、サイバネティックスについて論じたテクストが存在している。これを、ボルヘスに関する講演会を行ったらしい平野啓一郎などは気付いているであろうか?以下だ。
 「フランシス・ベーコンが予言した実験科学は今や、人間が月面を踏むことを可能にしたサイバネティックスを我々に与えるに到ったが、そこで用いられるコンピュータは、言葉の使い方が正しいとすればだが、ルルスの野心に満ちた円の遅れてきた姉妹なのだ」。これだけ読んでも、誰もが「?」な顔をするだろう。ここで鈴村が注目して欲しいと思うのは、「ルルス」である。ライムンドゥス・ルルスは13世紀に存在した神学者であるが、後に異端視された。そのルルスは、当時のテクノロジーからは夢幻にも等しい思考機械を発案していた。それは、「神聖な術語(善、永遠性、知識、力、栄光…)の象徴を盛り込んだ木製の同心円からなり、調べものをする人が回転させると、不明確な、ほとんど無限である神学的概念の総体を与えてくれるものであった」らしい。これは原-Googleである。万能の検索技術を神に結びつける発想は、ボルヘスがいうには13世紀の異端の神学者にまで遡るというわけだ。
 
 鈴村が一体何をいいたいのか?それは、つまりボルヘスがかつて「夢のような」眼差しで語ったテクノロジーが、二十一世紀には「有る」ということである。日本人には、一般的にWebについて悲観的な見解を持つ人間がアメリカに較べて多いのだが、むしろ鈴村は「意志的な楽観論」に立っている。ギブスンの予言に反して、Webから神は生成されないと考えるが、ドブレがいうように、思想はメディウム、つまり媒介項となる技術体系に依存するのである。鈴村が「本」の次に日常生活で最もよく接しているものとは、「Web」である。Webの中への書籍の移動もデジタル化という形式で進行しているようだ。

 鈴村は大阪という、最も伝統的な商人の都市で生まれ、育ち、暮らしている。だが、彼は大阪城になどは行かない。大切な場所とは、常に既に「淀川河川公園」なのである。ここは、思索と散歩の宝庫である。イマージュと構想のオアシスである。淀川よ、褒め称えられよ。夜の淀川の水面は、さながら転回期のハイデガーが圧倒的な霊性に力を得て書き綴った、かの「底無しの深淵」のようだ。重要なのは、大阪城や道頓堀、ミナミなどではない。そうではなくて、絶対的に淀川、徹頭徹尾、淀川なのである。鈴村という青年は、豊臣秀吉(この成金!)や大塩平八郎(珍しい革命家、フランス革命にも参加できそうだ)などよりも、無名の淀川河川公園製作者を謳歌している。結局、ひとは、ひとが暮らすその地方の平凡な場所へと帰還するのだ――神学的に。
 淀川は、まるで神秘的な巫女のようだ!夜の淀川の水面が有する、あの独特の寂しい、吸い込まれそうな雰囲気、夕暮れの淀川の熱烈に太陽と接吻している輝き、早朝の淀川の、眠たげで目がトロンとしているボンヤリした様相――ああ、淀川をラテン語化すると、それは女性名詞記号を賦与されねばなるまい!
 淀川は、どれほど讃美されても、され過ぎることはないであろう。実は先日、鈴村は淀川で「無人島」を見出した。そこに、ジル・ドゥルーズの気配を感じた!そうだ、あの名高い天才的な論稿「無人島の原因と理由」のセンテンスを想起していたのだ!そこは文字通り、人が棲みたくても絶対に棲めない無人島だった。狭過ぎるのだ。波打ち際は、おそらく5メートル四方であろう。兎に角、狭過ぎることと、陸からあまりにも近く通行人に爆笑されるであろうことが、ここを「可哀想なプチ無人島」にしてしまっている。
 それに、あの小さな島に本気で棲むような人間は、おそらくルドンが描いたあの孤島の浜辺で、一本足でこちらを見つめている病んだ男くらいであろう。だが、淀川の此岸と彼岸のあわい、すなわち川のどこかに「プチ無人島」じみた島があるのは紛れも無い事実である。読者よ、嘘だと思うなら、大日、守口、門真辺りの淀川河川公園をサイクリングしてみよ。君はそこで、「プチ無人島」の陰惨な姿を目にするであろう。
 親愛なる読者諸賢よ、実は、我らの淀川では、かつて「水都祭」という、それはそれは素晴らしいセレモニーが開催されていたのだ。SUITOSAIは、世界的により認知されるべきであったろうに。だが、あの天才的な花火大会は、いつの間にか終幕に達し(おそらく市の財政状況と関連する)、最早、ここにカーニバルの残滓などない。ああ、あの夜の射的屋、フランクフルト屋、水風船屋、くじびき屋たちよ!汝らはどこへ霧消したのであるか?あの頃は、鈴村も可愛い小学生の盛りだった。好きな女子が浴衣姿で仲間たちと笑顔で歩いているのを目にすると、突然オモチャの拳銃で「ばきゅーん!」などと叫んだものだ。
 あらゆる偉大な作家は、「土地」を重視する。ジョイスは死ぬまで故郷ダブリンを舞台にした。大江健三郎も、いつの間にか東京への憧れを忘れ、故郷である四国の村へと帰還した。ボルヘスも、あれだけ引用を用いたのに、舞台はといえば、荒くれ者のいるブエノスアイレスの路地裏を好んだ。ひとには、故郷がある。故郷は、小説に書かれるべきなのだ。鈴村の場合、故郷とは、それはまさしく淀川を意味している!彼はこれまでに何度か引越しをしているが、いずれもが淀川からさほど遠くない街の一角にであった。淀川は彼の生活世界の中心であり、心臓部分であり、それゆえに、「メディウム」(ドブレ)なのである。
 だが、遊牧民の思考回路には、「故郷」などはない。大文字化された故郷など存在しないのだ。ノマドロジーにおいて、故郷とは常に名も無き砂漠の上である。持つべきものは必要最小限のものだ。水、食料、ラクダ。好きなCDも化粧水も本も携帯電話もpcも無い。そういう極限下の中で、ひとは唯一不動の存在を意識し始めた。特に、国外へ追放されて砂漠を彷徨うような民族の場合、心の救いとなる恵みの存在が絶対に必要であった。そう、ヤハウェが。ドブレが一神教を、領土に属さない線の錯綜地帯である「砂漠」に見出したのは以上の理由からも正しいのである。一神教は、砂漠から必然的に生起した。ユダヤ教である。が、キリスト教は、先述したがクムラン文書からも解るように、ユダヤ教の一派であるエッセネ派から深い影響を受けている。つまり、ユダヤ教とキリスト教は、「陸続き」なのだ。キリスト教も一神教である。聖三位一体とは、父なる神、子なるキリスト、聖霊という、本質的に「一つ」であるものが「三つ」の様態(モード)を持つということに他ならない。
 だとすれば、大阪に「定住」して、砂漠を知らない鈴村は、常に偶像崇拝の危険に曝されるということになるのだ。本質的に「ネットワーク(一神教)/砂漠」であるべきなのに、鈴村は「領土(多神教)/定住地」を有している。鈴村は実際に、形式を変えた偶像崇拝が現代日本社会で再現前化しているのを目撃してもいる。例えば、「ガングロ」というのが前に一部の、ごく一部の若い女性に流行っていたと思うが、あれは古代のボディ・ペインティング的なディオニュソス崇拝のルプレザンタシオン(再現前化)に他ならない。IT企業が持て囃され、さながらWebの未来を巧く予測できるビジネスが脚光を浴びるのも、Webに「神」を代理させているわけだ。コヘレトの書にも、「神はかつて起きたことを繰り返される」と確かに刻まれている。
 大阪には、おそらく数知れないグノーシス主義者たちが潜在している。彼らはそれに無自覚であるだけで、神学的に見れば、偶像崇拝の魔に染まっているのだ。特に、夜の大阪の街は、眠らないネオンの都市として知られている。
 だが、コヘレトの書の定式に従えば、現代にもマリア・マグダレナのような聖女は存在するということだ。すなわち、体を売りながらも隣人愛の究極の本質とは何かを悟っているような女性たちが。マリア・マグダレナという女性は不思議だ。福音書記者聖ヨハネは、「罪の女」を彼女と同定していないし、新約に彼女を元娼婦と記した一文など、どこにも存在しない。これは、おそらくヤコブス・デ・ウォラギネが13世紀に『黄金伝説』の「マグダラの聖マリア」の章で、これまでの伝承をまとめた時に書き記されたものだろう。マグダラの聖マリアが娼婦であった、という事実は聖典には記されていないこと、これは極めて重要なことである。
 だが、マグダラの聖マリアは、聖母マリア様と同じほどイエスに愛された女性だといわれている。イエスは死後、三日後に復活したが、最初に誰の前に現れたか?愛すべき使徒聖ヨハネか?三度否んでニワトリの声を聞いて泣いた聖ペトロか?否、実はマリア・マグダレナその人の前にであった。その時、復活された御威光に溢れたイエスは、彼女に一言、現代の哲学者の思考をも悩ます神秘的なメッセージを送ったと伝えられている。すなわち、「Noli me tangere(我に触れるな)」。
 鈴村は、ここで怖れ多くもこの名高い聖女について論じようなどとは思わない。だが、これはいえるだろう。つまり、仮に本当にマグダラの聖マリアが「罪の女」だったとしても、イエスは彼女を常に、あの圧倒的な優しさで赦したということである。彼女を一夜だけ抱いた荒くれ男にとっては、この女性は一晩のためのしがない娼婦に過ぎなかったであろう。だが、イエスは多角的に彼女の人柄の総体に触れた。モーゼに神が与えた律法では、「汝、姦淫することなかれ」と刻まれている。だが、不思議なことに神御自身が姦淫をしていた女性を優しく「赦す」のである。神は、何故あれほど優しいのであろうか。かと思えば、何故あれほど偶像崇拝の徒たちに怒りを御示しになられたのか。エレミヤ書では、神はエレミヤの前で「私はひとを憐れむことに飽きた」などとも告げていた、あの神が、「御子を世にお与えになられるほどに世を愛された」(ヨハネ)のである。それは、人類の成長と共に、神も人格的に成長してきたことを意味するのであろうか?神は、ひとりぼっちでおられるのを寂しがっておられるのか?神が、他の土製の偶像神に御怒りになられるのは、忘れ去られることに最も涙を流される、神御自身の悲哀のためではなかったか。

 鈴村は考える。我々が「ひとりぼっち」の時、我々には常に神がおられると。では、神が「ひとりぼっち」の時、彼女=彼の傍には誰がおられるのか?それは、我々なのだ。人間が神を必要としているように、神も人間を必要としているのだ。人間が涙を流すように、神も号泣するのだ。おそらく、アダムとイヴが堕罪した時、最も涙を流されたのは、あれほど忠告を与えておいた神御自身であった。
 神は誰の胸元で泣くのか?それは、神を愛する我々の胸元である。我々が孤独や病苦に打ちひしがれて、神の胸元で慟哭するように。
 神は何故、ひとになられたのか?つまり、神はイエスに受肉した。だが、それは何故だったのか?イエスは、何故「隣人愛」と「神への愛」の二つを最大の教えとしたのか?これほど簡単なことを、わざわざ神が伝えたということは、これが実はいかなる哲学者や数学者でも解けない最大の命題だったからである。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これは一見簡単なようでいて、極めて難解、とうよりも困難な道である。誰にでも苦手な人間がいるし、好きな人にでも色々な赦せない点が見えることもある。こういったことは、哲学史のプロセスで浮上する幾多の概念を用いてどうこうなる問題ではない。
 神がイエスとして到来した期間、彼の唇から発せられた言葉の数々の全ては、「愛」についての教えだった。「神とは愛である」(ヨハネ)。読者よ、貴方を生んで、感動のあまり涙を流した貴方の母親は、神である。何故なら、神とは愛なのだから。神は隣人の「顔」を通じて顕現されるのではないか。鈴村には、不器用でもいいので、愛されることよりも、「まず自分から先に愛する」ことが今後、重要である。

 Ⅱ 「淀川の木から、ハイデガーの木へ」

 鈴村には、問いが残されている。それは、唯一の問いといっていいだろう。彼は、未だにあの男が提起した命題を克服し切れていないと感じている。あの男とは、マルティン・ハイデガーのことであり、その命題とは、「最後の神」のことである。最後の神とは何なのか?これを省察するに当たって、提示されるべきは、「コップの中は本当に空洞であるのか?」という、ハイデガーが『ブレーメン講演』で投げ放ったメッセージである。
 最後の神とは何なのか?或いは、誰なのか?ハイデガーは何故あのような表現を使う必要があったのか?前期ハイデガーの未完の習作『有と時』の最大最高の問いとは、「有とは何か?」であった。つまり、「有」と「有るもの」の差異――存在論的差異――を現代世界の全ての者に根付かせることであった。だが、その策略は発案者自身によって「大いなる挫折」を迎えた。ちょうど、彼がナチスに加担しつつ、複雑な気持ちで「総統閣下」の背中を見守っていた頃、彼の中であの問いが死滅したことは注目に値する。ハイデガーは、「存在論」を捨てた。彼は、「有る」ということに関心を失ったのだ。唯一にして最大の問いであった「有るとはどういうことか?」は、その裏面へ向い始めた。つまり、「無い」について――彼のアポカリプス的な表現を用いれば、「底無しの深淵」とは何か?
 結論からいえば、「最後の神」とは「底無しの深淵」から、「有るもの」が生起することである。この「生起」は山脈が地殻変動によって突如、神的に「屹立」「突出」することである。ハイデガーはこれを「生起」ではなく「性起」と呼んだ。異常なほど暗い、どこまでも穴を穿ち抜かれた巨躯な空洞から、この世界に存在する全ての「有るもの」が開け放たれる――それが「最後の神」の本質的な意味内容である。中期ハイデガーは、既に若い頃からそうであったが、やはり何か悪魔的なものに憑依されているという他ない。鈴村は、ハイデガーが強制収容所でのユダヤ人の虐殺について、「死体が製造されているに過ぎない」と断言したことを――この男の言葉の罪を――糾弾するつもりは微塵もない。ハイデガーが同職でユダヤ人サークルと関係のあった仲間を追放しようとしたことにも言及しない。ハイデガーは20世紀の残した最大の知的栄誉であると同時に、最大の汚点ですらあることは認める。だが、ラクー・ラバルトが述べていたように、誰も彼を裁けない。何に基づいて裁けるのか?人間が一人の人間を裁けるのか?鈴村はハイデガーを糾弾しない。彼は十分に苦しんだであろうし、十分にナチスの犯した罪を背負ったはずである。
 二十一歳のカトリックの信徒として、鈴村がハイデガーについて言及することを赦される命題があるとすれば、それは「最後の神」をおいて他にはない。最後の神とは、改めて何だったのか?現代世界は、最後の神が支配する終末の時代であるのか?ハイデガーは、彼の思想の根幹を全て徹底的に暴露した、あの衝撃的な問題作『哲学への寄与論稿』(何故最近までこの本が幻の主著と噂されてきたのか?)で、「我々の時代は、没落の時代である」と規定している。20世紀後半が没落の時代であれば、21世紀初頭は「遊牧機械」(ドゥルーズ)の時代であろうか?ハイデガーは、そもそも何故、現代世界では「全ての問いが無効化されている」などと述べることができたのか?それは、おそらく彼が預言者の口調を好んだからである。
 厳密にいえば、「世界の終わり」などは存在しない。ナザレのイエスも「最後の審判」のことを常に暗示させていたが、実際に2000年以上も「終わり」は到来していない――同じように、ハイデガーが死んで本当に哲学が死滅したわけではなかった。1802年に「神が死んでいる」(ヘーゲル)と提言され、続いてニーチェが西欧形而上学を完結させたことで、ハイデガーは、全ての問いは無効化し、最早残された問いは「底無しの深淵とは何か?」のみだと信じ続けた。彼のスタイルである。が、ハイデガーが死んでも哲学は現に続いているではないか。
 ハイデガーは、「デザイン」の学者ではなかったのか。つまり、彼は預言者の口ぶり、文体を天才的な形式で模倣したのである。鈴村にとって、ハイデガーの色彩は、読み始めた当初は「灰色」だった。が、今はなんと無印商品のような簡潔な「白色」になっている。不思議なことに、「ハイデガー」という俳優が捏造され、その背後で一人の小文字化された少年が笑っているように思えるのである。この少年こそが、真のハイデガーである。少年ハイデガーが、悲劇役者としての「ハイデガー」の仮面を被ったのだ。ハイデガーという人間そのものは存在しないのである。存在しているのは、繊細かつ内気な微笑を浮かべている、ほとんど美しいとすらいっていい牧師的な少年に過ぎない。
 ハイデガーは、現代の預言者である。現代の日本で、年間30000人の自殺者が存在していることとも、彼の思想は連関を有する。だが、鈴村がハイデガーのことを常に意識せざるをえないのは、彼の口調がどこか異常だからである。この男は、おそらく本当に天才的な、(鈴村が知っている数少ない哲学者の中で、ドゥルーズに匹敵するほどの天才はハイデガー以外には存在しない)書き手だった。ハイデガーは、哲学が「スタイル」であることを知り尽くしていた。ハイデガーほど、徹底的に自分で作り出した主題にしがみついた男がいただろうか?その姿は哀れで、美しくもある。だが、鈴村はまだ何もハイデガーについて語ったことにはならない。
 何か名状し難い魅力があるのだ。ハイデガーは、何故ナチスに関心を示したのか?一説に拠ると、彼はヒトラーではなく、ヒトラー・ユーゲントの魂に賛同していたという。ヒトラーは、ドイツを愛していた。ハイデガーは、戦争へ立ち向かうドイツの若き青年たちを愛していた。
 ハイデガーに鈴村が惹かれるのは、ハイデガーが問題的だからである。つまり、彼がセンセーショナルだからである。偉大な人間が、常にその共通の特質として「衝撃性」のさ中に屹立するのは何故だろうか?ニーチェは衝撃的だった。それは、彼が「神が死滅した」と、若きヘーゲルのテクストを絶叫の形式で反復したからではない。そうではなくて、ニーチェが衝撃的であるのは、彼がキリスト教の神の死を叫びつつも、教会にまだ顔を出し、カトリックに死ぬまで憧憬を抱き続けたからである。これは、ユダ・イスカリオテの苦悩を感じさせる出来事だった。ニーチェは、イエスを殺すほどに愛していたに相違ない。真に相思相愛である者は、愛するが故に、互いの命を喰らいあうだろう。ニーチェのインパクトとはそれだ。
 「衝撃性」が、芸術の全てなのか?ニーチェは、「然り」という。ハイデガーも「然り」。大江健三郎は、本国でも第二部が未だ発禁になっている『セブンティーン』において、彼の天才性を圧倒的な魂の炸裂によって放射した。『セブンティーン』を読めば、おそらく多くの現代の少年たちは、彼に社会への殺意を挫かれるであろう。それほどにこの十七歳の少年(実在するモデルがいるが)は、禍々しい。大江健三郎を、鈴村がまごうことなき天才だと規定するのは、彼が『セブンティーン』の作者だからである。記憶が薄れているが、確か当時若き大江は悪評に苛まれていた。けれど、ある先輩の作家(大江はあまり好きではなかったようだが)は、『セブンティーン』を賞賛していた。三島由紀夫である。白髪を蓄え、すっかり優しい笑顔になってしまった現在の大江健三郎は、真の大江健三郎ですらない。彼は、本質的にハイデガーと同じである。つまり、「全て偉大なる者は、嵐のさ中に立つ」ことを熟知している。
 『セブンティーン』に、今のところ唯一匹敵する本は、ニーチェの『この人を見よ』しかない。この国籍も年代も異なる二つの作品は、共にディオニュソスに捧げられた聖書である点で同一である。ニーチェは、「私は人間ではない」と確かに書いている。続けて、「私はダイナマイトだ」と断言した。ニーチェは、「親愛なる読者よ」という形式で語りかけるような男ではなかった。彼は、「我がドイツ民族諸君!諸君らはこのニーチェに最も忌まわしき十字架を与えたのだ!」などと、『我が闘争』のエクリチュールの原形質を見せている。
 『セブンティーン』の通奏低音とは、「おお、天皇よ!」であった。ニーチェの場合、「おお、アンチ・クリストよ!」であった。ハイデガーの場合、「おお、最後の神よ!」であった。ヒトラーはといえば、「主よ、我らの闘争を祝福したまえ!」などと記している。これらの「ディオニュソス」の末裔たちには、共通した特徴がある。つまり、「高揚の持続」である。これらの書き手は、一時的に、瞬間湯沸かし器的にそのパトスを放射するのではない。彼らは、圧倒的な「高揚感」を「持続」させるのである。高揚の持続、衝撃性の維持こそが、つまり徹頭徹尾、衝撃性をテーマにすることのみが、あらゆる芸術の本質である。
 だが、本当にそうだろうか?フランシス・ベーコンやジェニー・サヴィリーのような絵画が、果たして本当に芸術といえるのか?実は、それこそが「貧しさ」ではないのか?鈴村は、実はこのような書き手から多大な影響を受けつつも、自分は彼らと正反対であるべきだと考えている。それは、今はまだ難しいかもしれない。だが、最後に彼らは、「穏やかさ」、「優しさ」の前で敗北するのである。
 
 鈴村が気になる問いは以下だ。「コップの中は本当に空洞であるのか?」――これこそがハイデガーの問いの根幹である。ちなみに、ハイデガーという人間は、「哲学は役に立たない」という真実を若者に教え、「ハイデガーには哲学は存在しない」と断言したことでも知られている。ハイデガー自身が、「私の哲学」など存在しないと規定している以上、鈴村は彼を安直に哲学者などとは規定しない。むしろ、彼は「問う預言者」ではなかったのか。
 コップの中は本当に空洞か?水を入れると溢れてテーブルに小さな小川ができる。そこに息を吹きかけると、テーブルの上で洪水が起きる。だが、コップは既に水で満たされている。ハイデガーは、この満杯になっている時に、「何故、未だに空洞であるのか?」と問うような男だった。何故、水で、或いはワインで、或いは血液で、或いは化粧水で、或いは砂粒で満たされたコップは、満たされることがないのか?これは物理学的に、分子と分子の間に隙間があることを意味しているのでは毛頭ない。そうではなくて、これは現代世界の縮図なのである――鈴村はそうハイデガーを誤読する。
 新しい着想は、常にレディメイドな思想の「誤読」からしか生まれない。鈴村は「誤読」と「誤解」を神聖視している。彼は、ハイデガーを読み、彼の著作を読了し、やがて自由にハイデガーという粘土を作り変える時のスリリングな高揚に身を委ねたいのだ。
 おそらく、コップは水で満たされていたのだ。コップの水が急激に減少し始めたのは、先述したがヘーゲルが小論『信と知』で、「近代の宗教心の根本的気運としての……神そのものが死んでいるということ」と綴った頃からである。すなわち、1804年である。この「1・8・0・4」という年代は読者よ、記憶に留めておいて良いだろう。何故なら、この年代は、西欧文明において、キリスト教の神に、「死亡推定年代」が告知された最初の検死年度だったからである。
 コップの水の蒸発はレッケンの牧師の息子ニーチェによって最高度に達した。ニーチェが最後の一滴を蒸発させた張本人である。つまり、ハイデガーの眼前には、「空洞になったコップ」しか残されていなかったのだ。これがハイデガーの最大の苦悩でもあったに相違ない。彼が神学から哲学へ移籍したというエピソードは、彼があくまで「神」の体系に執着していたことを物語っている。
 コップの水は蒸発し、ヘーゲルのストローとニーチェの攻撃的な唇によって完全に吸い上げられてしまった。ハイデガーは、テーブルの上で、ぼんやりと残されたカラッポのコップを見つめていたに違いない。「おお、水が無い!」――それは砂漠を流浪する者たちが共通して担う苦悩であった。だが、ハイデガーは「ドイツのメスキルヒ」で生まれた。つまり、「砂漠」では生まれなかった。本質的に一神教的だった彼のような潜在的神学者が、「定住地」を持つと危険な出来事が生起することは目に見えていた。そう、偶像崇拝である。ハイデガーの「有」への依存は、明らかに「神」の概念を痕跡化し、「有る」ことの本質を復権させる偶像崇拝の亜種である。
 最も愕くべきことであるが、ハイデガーは転回期の重要な小論『ニーチェの「神は死せり」について』において、「神は痕跡化した」と述べているだけで、「神は死んだ」とは述べていないのである。つまり、まだ水の分子は「見えない」だけで、コップの底面に付着していることに気付いていたのだ。そこで、ハイデガーは別の水溶液をコップに注ぎ始めた。そう、オントロギーという苦くも甘い水溶液をである。この桃色の水溶液は、ハイデガーにとって、新しい神――キリスト教を越えた新しい体系――への可能性を感じさせる壮大なものであった。「神」は蒸発し、「有」が注がれたのである。だが、「有」は「神」の代理に過ぎなかった。ハイデガーが常にキリスト教的な思考フレームに依存しているのはそのためである。ハイデガーは、正確にいえば、プロテスタントの神学者の、そのコインの「裏」である。翻せば、彼はキリスト教徒に全ての書き物と講演を捧げたのだ。
 ハイデガーは聖水ではなく、オントロギーというアルコール度数の非常に高い厳格なシステムを注ぎ込んだ。この高級のワインは、時に人をディオニュソスへ傾斜させた(ナチスとの明らかな関与)。だが、一途に信徒がナザレのイエスを愛するように、ハイデガーも一途に「有」へ祈りを捧げた。この「有」はいつしか名前を変えて、よりアルコール度数の異常に高い「最後の神」というワインへ変貌してしまった。
 ハイデガーの思想的道程とは、このように実はワインの生成プロセスと本質的に同一である。コップにどれほどオントロギーを注いでも、所詮は同じコップに過ぎない。彼はキリスト教というラベルが貼られた無印商品のグラスに、自分の思考の液体化されたエッセンスを注いだのだ。それはすっかり様変わりしたキリスト教なのである。鈴村が何故ハイデガーを読むのか?その理由は、実はハイデガーがキリスト教徒の「裏」だったからである。ハイデガーに仮に洗礼名があるとすれば、それはおそらくグノーシス主義の父祖として、そしてナザレのイエスの教えではなく御業の力だけを欲したとして、後世から悪名高くも影で未だに人気を博する、あの「魔術師シモン」という他なかろう。

 Ⅲ 「ハイデガーの木から、妹の木へ」

 最近の鈴村の変化といえば、妹と前よりも仲良くなれたことと、教会で聖書朗読を任され、いつだろう、と少し緊張していることくらいだ。鈴村の生活はそれほど大したものではない。彼の読書も大したものではない。ブログに書きにくいことは、小説風でこんな感じになるのだ。
 妹は、もう少しで付き合ってる彼氏と兵庫で二人暮らしするらしいので、あと少ししかあまり話せない。だから最近、深夜になってもよく話す。色々話した。鈴村は、妹と話しているのが好きだった。妹こそ全てだ。妹と話すことは、父や母と話すよりも1000000000倍は楽しい。
 鈴村は、今非常に疲れている。弟と殴り合いの喧嘩をしたのだ。父母にも「出て行け」といわれた。一番腹立たしいのは、父が圧し掛かってきたことだった。鈴村はブチ切れると、頭の中が真っ白になる。しょうもないバラエティー番組を観ていることが赦せないのだ。しかも、TVかケータイかどっちかにしろよ、といいたくなる。だからケータイは喧嘩の最中にへし折った。
 妹が心配して、部屋の扉をトントン、トン、と遠慮がちに叩いた。最近、妹に相談ばかりしている。どっちが年上かわからない。たぶん、妹は姉だったのだ。鈴村の精神年齢は死ぬほど低い。すぐに切れる。すぐに暴走する。すぐに冷静になり、酷く憂鬱になる。
 ――お兄ちゃん運動した方がええわ。モヤモヤしてんねんやろ?
 ――すぐにキレる癖はどうやったら直るんやろなぁ…。
 妹はバイトで忙しいのに、こういう相談に乗ってくれる。今、鈴村の仲間は妹のみだ。父も母も弟も、「ケータイをへし折った」事実に激怒している。妹も怒っているが、その怒り方は控えめだった。自分で甘えてるとは思う。だが、それだけ辛い孤独感に苛まれてきたのだ。自分の大切な妹に甘えて何が悪い?一度、
 ――お兄ちゃん、「甘える」とか思わんと何でも相談してな?といわれて、「うん」といった。
 妹は確か今19だ。2歳下だから。ピアノ講師資格を持ってる。ショパン好きで、何度も聴いてきた。バルトークも弾いて欲しい。鈴村は今、死ぬほど哀しい。何故すぐにカッとなってしまうのか?
 世界で一番大事な妹。鈴村の実の妹。たぶん血族じゃなかったら片想いしてるくらい好きだ。
 鈴村は、死ぬほど哀しい時、どうすることもできない時、こうする。つまり、書くのだ。でも、どうせ伝わらない。今朝、ミサで今までの城島シスターとの距離が、グッと縮まったような気がして嬉しかったばかりだったのに。いきなりキレてしまった。弟と本気で殴りあった。顔を足で蹴りまくった。父が見かねて、鈴村に圧し掛かってきたのだ。あの巨体だ。鈴村は身長174で体重62とわりと華奢だが、父はおそらく90キロはある。窒息死するかと思った。そして、割れた皿で腹部でも刺そうかと本気で思った。父の顔が嫌いだった。父は豚みたいだ。昔は、若い頃は痩せていた。今は、ストレスか何か知らないが、太りすぎている。自分の体重のコントロールもできない人間はどうかと思う。
 鈴村は、基本的に強烈に喧嘩っ早い。誰にもこれまで喧嘩で負けたことがないし、口論、論戦でも全部打ちのめしてきた。やられたらやり返す、100000倍にして――これが鉄則だった。小学生の頃、友達と椅子の離れた場所から口喧嘩して、口だけで大泣きさせたこともある。鈴村は、絶対に喧嘩で泣かなかった。ただ、ボコボコにしてやった奴の泣き顔を見ていて、無性に哀しくなることはあった。だが、鈴村はキレやすい。自分でヤバイと思う。妹もそれを知っている。だからあんな顔で相談に乗ってくださる。
 どんな奴でも鈴村は反論できるし、いざとなったら徹底的に攻撃する。見返りなどない。ただ、やりたいからやりまくるのである。だが、信仰に悖る。わかっているが、うまくいかない。憂鬱なのだ、もっと穏やかになりたい。
 父に腹立つのは、彼が経験論者だからだ。社会経験でしか事物を判断できない。鈴村は「ちゃうやろ」と思う。世界の究極の視座とは、常に認識論である。認識論こそが最高の思想である。カトリックは認識論だし、ライプニッツも認識論者だし、ハイデガーもそうだし、ドゥルーズにいったては、経験論が「大嫌い」だったことはよく知られている。何故かというと、大学での仕事経験くらいしかないからだ。
 世界をどのように認識するか、その視座、視点、フレームを用意するのが認識論である。リゾームはまさに認識論だし、モナドもそうだ。天国と地獄も、認識論の賜物である。
 根本的な立場が違うから、永久に仲良くできない。鈴村と鈴村の父は、完全に逆なのだ。思想への態度が。だから分かち合えないし、分かち合う必要性も微塵もない。世界は認識論によってしか解明されないことを、彼は知り抜いているのである。
 認識論こそが最高の基礎だ。これ以外に真理はない。鈴村が、妹の不安げな眼差しを見ていて、心が痛むのは、彼女が「妹である」ということを認識しているためである。認識は経験に先立つ。世界の初めにあったのは、神の意識である。
 だから、人生論みたいな哲学書などは鈴村は一冊も読まない。そういう本は誰でも書ける。自分の経験を適当に真理っぽく書けばよろしい。ただ、本当に見る眼のある読者からは相手にすらされないだろう。経験論を個から複数に拡大するのが一番危ない。勝手に一人で一人だけの哲学でも構築すればよろしい。鈴村は、ひたすら、世界的に「認知」されている、既成の認識論のフレームを歩く。それが、逆説的に、経験を豊かに変えるのである。あらゆる人間の自殺の原因は、経験論への傾斜、依存である。経験など捨てろ。認識論に頭を切り替えろ。そうすれば、世界の見方がコペルニクス的に転回する。
 経験には意味がない。意味は、認識から生まれる。経験の概念を上位に置く限り、ひとは何も語ったことにすらならない。そういう体験談は、居酒屋でゆっくり聞いてもらえばいい。誰もが聞きたがり、そして、誰もがいずれ忘れるだろう。
 聖書を読めばいい。神が人類に何を望んでおられるかを見ればいい。神は「経験」を求めているだろうか?否、まず「神への愛」という認識あってこその経験である。認識が経験に先立ち、その逆ではない。世界が存在する理由は、神が世界を認識したからである。つまり、世界は神の認識に対して、ア・ポステリオリな位置にある。
 多くの作家は、自分の固有の経験論を崇拝している。それをネタにして満足する。だが、大いなる誤謬といえよう。これらは、全て無意味なことである。せいぜい、ある一人の作家は、既成の認識論の一つか二つの概念にまで達するに過ぎない。経験論は、主観的であるがゆえに、中はドーナツである。対して、認識論は、甘美なチョコレートムースである。経験論は穴ぼこだらけだが、認識論は溢れかえる魅惑的な炭酸水のように思考回路を潤す。
 ボルヘスは若い頃にこれに気付いていた。ボルヘスの偉大さは、彼が経験を捨てたことにこそある。ボルヘスは、自分の家族のことや、今の自分の感情については、一切語らないし、そんなものを書いても無意味だということに気付いていたのだ。書かれるべきは、レディメイドな思想を、主体がいかに認識したか、である。ガブリエル・タルドがいうように、社会にもし唯一の法則があるとすれば、それは常に「模倣」である。経験でしか作品を書けない作家は、それがオリジナルであると錯覚しているが、実際はレディメイドである。人間の「感じ方」のパターンなどは知れている。そんな「感情」を細密に描いても、21世紀後半の読者は――大いなる未来の読者――悦ばない。むしろ、彼らは「認識」が「経験」に与える影響力を観察するのである。
 したがって、大江健三郎は天才的に失敗しているのである。ボルヘスのみが正しい。ボルヘスだけが偉大なのである。他の作家は、どれほど背伸びしても、せいぜいボルヘスの膝の高さになるくらいである。大江などはボルヘスの爪先にも値しない。
 ボルヘスの作品で最も偉大なのは、「神学者」である。この作品を知らない現代人は、全員が例外なく愚者であり、その時点で終わりである。この作品は、引用で構成されている。つまり、ボルヘスは姿を消そうとしている。それが、逆にボルヘスをボルヘス足らしめるのだ。偉大な作家には「顔」がないのだ。「顔」を消せる作家、経験を捨て去って普遍化できる作家こそ、天才である。
 ボルヘスは不死であるべきだった。ボルヘスは、21世紀で、Googleを目撃し、小説を書くべきであった。何故、偉大な作家も、「死」へ向うのか?大江もいつか死ぬ。ベケットも死んだ。セリーヌも死んだ。作家は何故死ぬのか?誰一人死んではならないのだ。「死」には何の意味も無い。
 ボルヘスに唯一匹敵する作家は、マルセル・シュウォッブだけである。ここにギブスンを加えることには何故か躊躇いが生まれる。シュウォッブの「黄金仮面の王」は、まさにあのような作品でこそ、ひとは「読む」ことの「体験」へと向うのである。だが、シュウォッブよ、お前も早く死に過ぎた。何故だ?何故偉大なお前らは早く死ぬ?
 リルケは大した作家ではない。リルケは経験論でしか書けない点で、最悪である。ヘンリー・ミラーも同様だ。プルーストも経験論でしか書けない。何故お前ら無能の作家は気付かなかったのか?認識こそが文学のテーマにならねばならない。
 カフカは天才である。何故か?彼は異常極まるエピステモロジスト、つまり認識論者だったからだ。彼の『城』は、カフカの経験を描いたものではない。あれは、『出エジプト記』のルプレザンタシオンだからである。カフカは引用しているに過ぎない。
 金原ひとみは、自分自身は大して男の味も知らないくせに、知ったかぶりをして偽の経験論を描きすぎている点で、阿呆である。鈴村は気付いている。この女は、二本か三本のペニスの味もろくに知らないであろう。それで男を知ったと思ったら大間違いだ。どうせ経験論的にセックスを描くなら、最低でも100本のペニスを喰らい尽くさねばならない。そこまで徹底すれば、それは既に認識論なのである。
 ドゥルーズは天才である。彼はいくら褒められても褒められすぎることなどない。ドゥルーズを知らないで死ぬ人間どもは哀れですらある。ドゥルーズは死ぬ前に、「ああ、今日も空は綺麗だなぁ」と呟いたと鈴村は推測する。哲学者の最期の声は、不思議にも経験論へと退化するのである。(ドゥルーズが投身自殺して地面に頭を叩きつける数秒前に何を思考していたかと空想するドゥルージアンにはモラルも品性もない)
 マルクスは、読んでも何の意味も無いただの三流のエッセイストである。重要なのは、ホワイトヘッド、ニーチェ、ドゥルーズ、ライプニッツ、ハイデガー、フッサール、メルロ=ポンティ、そしてデリダである。(デリダには、しかし慎重になろう)。
 神学者ならば、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、マクデブルクのメヒティルト、オリゲネス、ペトゥルス・ロンバルドゥスが重要である。トマスやアウグスティヌスは、実はそれほど現代思想において大切ではない。特に、アウグスティヌスは、最近のフェミニズム研究者からは敬遠されている。
 色々と紹介したが、特に大切なのは、やはりドゥルーズである。ドゥルーズと、ポスト・ドゥルーズたるレジス・ドブレ(ネグリではない)。そして、神学者ならば、絶対的に聖ヒルデガルト、この中世最大の女性神学者である。
 作家なら、ボルヘス、シュウォッブという双璧の他に、彼らほど優れているわけではないが、ビラ=マタスと、ミラン・クンデラ、それに日本でもやはり現代文学の真の女王というべき、笙野頼子が存在する。
 現代の合言葉は、「Web2・0」である。そこに、鈴村は「Page Not Found」(サイバースペースにおける非現前)を付け加えよう。
 イエスの使徒の中で最も重要なのは、聖ヨハネと、ユダ・イスカリオテである。アポカリプスで重要なのは、サタンではない。サタンよりも、大淫婦イザベラが強烈である。創世記で最も重要な人物は、アブラハムでもイサクでもノアでもアダムでもない。イヴである。イヴはアダムの肋骨から作られたとされているが、これはナザレのイエスが聖ロンギヌスに突き刺された槍の傷口と正確に「同じ」位置である。つまり、ナザレのイエス、聖母マリア、イヴとは、本質的に母性的存在である点で、一者なのである。これらの点については、聖ヒルデガルトのこの上なく天才的な著作を見よ。
 無価値な作家は沢山いる。例えば、ジョイスを読むことは、21世紀にはいかなる意味も価値もない。ジョイスは三流作家、素人である。重要なのは、むしろジョイスの娘の、あの精神錯乱気味で、サミュエル・ベケットの腕を掴むことに愛着を覚えていたルチアではなかろうか?残念なことに、彼女は作家ではないのだが。(ルチアとベケットは相思相愛になるべきだった!ベケットにふられた、可哀想なルチア!)
 ノーベル賞に騙されるな。ノーベル文学賞を受賞した作家で、未だかつて偉大な作家など一人も存在しない。ボルヘスは受賞候補の一人だったが、死んでしまった。偉大な作家は、名誉から遠ざかるのだ。セリーヌや、アルトーにこそスウェーデンの二流アカデミーの老獪どもは賞を贈与せねばならなかった。サルトルは受賞を拒否したが、『嘔吐』は経験論的かつ、「実存主義」をそのままパロディ化しすぎている点で、習作に過ぎない。
 詩人では、W・Bイェイツ、ウィリアム・ブレイク、入沢康夫、パウル・ツェランの四名が金字塔である。特に、鈴村と同じ日本人である天才的怪物入沢の「牛の首のある七つの情景」を知らないで、詩を語ることなど不可能だ。これほど衝撃的な詩は世界中にどこにもない。
 世界で最高の画家とは、常にアンドリュー・ワイエスである。ワイエスのデッサン力はレオナルドに匹敵する。ワイエスを知らない人間は、人間ですらない。ワイエスは画家の中の画家、画家の父である。この画家の心象風景ほど、現代世界にとって本質的な意味で「癒し」「安らぎ」になるものはない。
 大江健三郎に騙されるな。この作家の猿真似をした阿部和重は、無能である。大江は悪源である。現代の日本のイエローモンキーたちは大江をやたらと崇拝するが、絶対にこれは回避せよ。むしろ、大江は評論家に媚を売る、最低の作家だった。大江の作品は燃やせ。
 ダブル村上を読むなどは論外である。村上春樹も村上龍も、いかなる価値もない。読むだけ同時代人としてはむしろ危険である。作家になりたくない人間のみ、愉しんで読め。
 ホメロスは笑っている。ホメロスは待っている。ボルヘスはホメロスを批判したかったが、結局、讃美することしかできなかった。しかし、当時の社会でホメロスへの悪評はむしろ自然だったのである。同時代人から崇拝される作家は、未来にまで残らない。今、無名の作家こそが、未来の偉大なる作家なのである。偉大さとは、常に未来への投資である。未来の読者に語ったニーチェは偉大だった。
 妹を持っている全ての兄貴は、彼女を大事にしろ。お前のたった一人の妹だ。絶対に泣かすな。絶対に優しくしろ。そして、いつも笑わせろ。

 翌朝、鈴村はぼんやりした朝の夏空を眺めていた。ルターは「少なく読め、だが深く読め」をモットーにしていた。鈴村もこの点についてはルターに賛成する。
 鈴村は、Webで《作家でごはん!》という投稿サイトにこれまで習作を投稿してきた。だが、これからは、「読み」に回ろうかと考えている。「書く」よりも、「読む」方が、実は得られるものが大きい気がするのだ。
 鈴村は、ブログを書いている。読書感想文と、毎週のミサのことだ。最近、ブログが政治を動かすらしい。アメリカでもそうらしい。世界はブログ化しているのだ。ブログは便利だし、時系列に沿って記事を書けるので成長の跡もそれなりに見えたりする。モーゼはブログを見たら何というだろうか?モーゼがブロガーだったら、どんなことをまず書くだろうか?モーゼ!ああ、モーゼ!貴方は実在した。だが、どんな顔をしているか、画家は空想することしかできなかった。モーゼに抱かれたい。
 モーゼがプロフを書けば、「将来のゆめ」とか、「好きな女性のタイプ」には何と書くだろうか?モーゼが何故か気になる。今朝、突如としてモーゼのことを想い始めたのだ。もう一度エクソドスを再読すべきか?
 

(了)