「不安」とは存在論的に何の謂いか?

ハイデガーの不安論

どんな人にも、不安がある。
例えば、結婚して、新居を構え、素敵な夫と暮らす若い夫人――誰が見ても「不安さ」とは無縁そうな彼女は、やはり“この幸せがいつまで続くだろうか”という核心的な不安を抱いて生きている。
あらゆる人間は、不安という十字架を背負っているのである。

これから、私は「不安」に苦しんでいる、全ての、ここで出会った方々に語り掛けたい。
ハイデガーという、「医師」の声を織り交ぜながら。
私もやはり「不安」の徒である。
そして、その不安を解体することに対して、不安を抱くのだ。
何故なら、絶対に解体不可能なほど根深い不安の芽は、摘み取ることができないからである。

脅かすものがどこにも無いということ、そのことが、不安の何に面してを、性格づけている。(ハイデガー全集 二巻『有と時』 p281)



「脅かすもの」、つまり不安の「対象」が、「どこにもない」こと、それが不安の本質だというのである。
これは、極めて示唆深いことではなかろうか。
私は不安だ。
だが、何故不安なのか、書いても、語っても、描いても、歌っても、叫んでも、定かではない。
不安の対象はいつまで経っても見出せない。
何故か?

それは、不安の対象など、そもそも初めから「どこにもない」からである。
換言すれば、不安とは、何も不安ではない満ち足りた瞬間に、稲妻の如く屹立する戦慄すべき概念なのである。

ハイデガーは更に別の表現を用いて語る。

 

「脅かすものが一定の方向からここへ、近さの内部で近づいてくることは、ありえないのであり、脅かすものは既に〈そこ〉にあって――しかもどこにもない、脅かすものは、それがひとの胸を締め付け息もつげなくするほど、近くにあって――しかもどこにもない。」(p282)



このテクストについて、実はハイデガーはある重大な解釈を付している。
それは、これは、心理学的な見地から解体されてしまうようなものではないということである。
このテクストが、『有と時』という、存在論に関する考察書の中で、最重要項目として綴られていることを想起していただきたい。
そう、つまり、「不安」というのは、現有の本質的な実存規定なのである。
つまり、人間は、人間である限り、常に「不安」である、という定式が、ここに成立しているのである。

ハイデガーは、更に考察を深めていく。
現有には、幾つか実存規定があり、それは本書に詳述されているのだが、その中で特に、「不安」と連関があるのは、「曖昧性」である。

現有の日常生活は、曖昧性の中に没している。
それをハイデガーは、以下のように表現している。

 

「そこでは毎日毎日いっさいのことが起こりつつ、しかも根本においては、何も起こっていない」(p265)



私は、高校時代の地下鉄の風景を想起している。
あそこでは、常に沢山の人間が出入りしていた。
彼らには各々の生活があり、このようにブログでその日の出来事を綴ったりしている。

だが、現有には、それでいて、生活においては、実際に何が生起しているのか?
ハイデガーは、現有は、「ひと」というマリオネット的な仮面の体制に「頽落」している、と述べている。
電車の中で、誰かが苦しくて倒れても、つり革を握った無関心な大衆は、何も反応しない。
そういう時、人間は、「ひと」なのだ。

我々の生活には、沢山のことが起きる。
だが、ハイデガーは、「根本的には何も起こっていない」と述べている。
この辺りの発想が、私から見れば、極めてハイデガーの「孤独な魂」を感じさせる部分で、きっと高校生くらいの読者であれば、いっそう本質的に彼の感性を直観するのだろう。




「出エジプト記」との接点を探る

ハイデガーの不安論を読んでいると、ますます不安が増すではないか、という人のために、私はここで新しい見地を紹介したい。
どんな本でも、それが魅惑的である場合、いわゆるトランスクリティークを実践してみるべきではなかろうか。
例えば、ハイデガーの「死」の実存論的考察に触れる者は、ハイデガーに欠落していたアウシュヴィッツ以後の倫理学的なアガンベンの「死」の考察にも触れるべきだろう。
そういう同時的な読解、ダブルクロスによる読みによって、双方ともに理解が深まる、と私は考える。

さて、ここで引き合いに出したいのは、他でもない『出エジプト記』だ。
これは、今私が教会で学んでいることと深く関わりを持っているためでもある。

まず、以下のテクストを読んで欲しい。

 

「なぜなら、ヤハウェは熱愛の神で、その名をエル・カンナーというからである。」(旧約聖書翻訳委員会訳 『出エジプト記』 34:14)



ヤハウェは、モーセに十戒を与える時、このように言葉を残している。
熱愛の神」、「エル・カンナー」である、と。

他の箇所でも、ヤハウェは自らこう語っている。

 

「まことに、わたしはヤハウェ、あなたの神は、熱愛する神である。わたしを憎む者には、父たちの罪を息子たち、三代目の者たち、四代目の者たちに報い、わたしを愛する者たち、わたしの命令を守る者たちには、いくつもの氏族にまで恵みを行うものである。」(20:5~6)



ヤハウェは、自らを、「貴方たちを熱愛する神」だと告げているのだ。
この事実を、現代世界の全ての人間は見過ごすべきではないだろう。
ハイデガーの暗闇の陥穽から抜け出すためには、ハイデガーに救いを求めてはならない。
彼には救いはなく、救いは主にあるからである。

さて、この「エル・カンナー」という概念について、記憶しておこう。
私たちは、神から愛されているのである。
これを忘れてはならない。
神から愛されていることを忘れると、そこに「不安」が忍び込む。
どんな罪を犯した人でも、神は赦されるはずである。

この「エル・カンナー」について、注釈には、こう書かれている。

恵みが罰よりはるかに大きいという内容を考慮してこう訳した」と。

神は、「罰を与える」のではなく、「恵み」を与えるのである。
無論、罰を与えないわけではない。
だが、ここで問題となっているのは、むしろ「恵み」の圧倒的な豊穣さである。

この「恵み」という概念は、正確には「嗣業」と呼ばれている。
嗣業とは、「神が与える恵みの賜物」のことである。
だから、イスラエル人が定住したカナンの地は、ヤハウェがイスラエルに与えた嗣業である。
イスラエルの民や、息子たち、やはりヤハウェの嗣業である。

熱愛する神は、罰するよりも、嗣業を与えるのである。
これが『出エジプト記』に明記されている、という重大な事実を忘れて、「不安」論を語るべきではない。

解説には、以下のように記されている。

 

「イスラエルの人々は、自分たちの神がどんな神であるかを言い表すのに、イスラエルをエジプトから導き出した神であると語り続けた。」



そして、これを自分たちに対する神の「救い」として受け取っているのである。
自分たち、というのは、新約が与えられている私たちにとっては、世界中の全ての人間のことだ。
イスラエルの民だけではなく、全ての民族の、全ての人間、という意味である。

このように見ていくと、「不安」と「熱愛」が、さながら対立する概念のようにして我々の前に現れる。
だが、「熱愛」が最も大きく、「不安」が小さいものであるということ、それはいうまでもないのではないか。
何故なら、ヤハウェ自らが、『出エジプト記』で、「私は熱愛する神である」と告げているからである。
ヤハウェは不安を与える神でも、怒りで人間を無慈悲に裁く神でもない。
そうではなく、ヤハウェは、端的に以下のように述べている。

 

「ヤハウェは彼(モーセ)の面前を通り過ぎて叫んだ、ヤハウェ、ヤハウェ、憐れみ深く慈しみ深い神、怒るに遅く、恵みと真実に富む神。いくつもの氏族に恵みを守る者、咎と背きと罪を赦す者。」(34:6~7)



ヤハウェは、「不安のさ中にある人」に、憐れみ深く慈しみ深い神である。
そして、ヤハウェは、なんとこれらを叫んでいるのだ。
小さな声で、ボソボソと告白したり、傲慢な人にだけ耳元で囁いているのではなく、モーセという選ばれた者に、叫んでいる。
この「叫んでいる」ということは、非常に衝撃的なことである。
なんと、神が叫んでいるからである。

それも、暴力的なことを叫ぶのではなく、ヤハウェは、「怒るに遅く、恵みと真実に富む神」だと叫んでいる。
この叫びを、二度と忘れないようにしよう。
このような出来事が、実際にかつて生起したという事実を、心で受け止めてこそ、ハイデガー的な実存の「不安」から、ひとはようやく解放されるのである。
その先に光り輝いているのは、「新しいモーセ」と呼ばれる、イエズス・クリストさまである。



それでは、何故未だ不安が我々を襲うのか?



それでも、我々は「不安」に襲われるのである。
それは何故だろうか?

一つ、ハイデガーは示唆深いことを述べている。
それはWeb2・0などと呼ばれている現代において、いよいよ本質的な問題となるものである。

ハイデガーは、現有の実存規定として、「好奇心」という概念をあげる。
好奇心は、ハイデガーの表現を用いれば、「じっと踏み留まらない」ものである。
例えば、この本の次はあの本、そしてその次はこっちの本・・・と、ただ好奇心に任せて、一貫したものを持たずに時代に流されている者が、ここで指摘されているのである。

 

「じっと踏み留まらないことと、新たな諸可能性の内へ散乱していくこととは、好奇心というこの現象の第三の本質性格を基礎付けており、その本質性格をわれわれは“滞在喪失”と名づける。好奇心はいたるところにあって、どこにもない。」(p262)



好奇心は、散乱している。
つまり興味の対象が常にあっちやこっちへと移ろい行く人は、滞在喪失している、とされるのである。
そこから「不安」も生起する。
つまり、「私は次から次へと新しい情報を飲み込んで、楽しい本を読み漁るけれど、そこに普遍的な何か一貫したものがあったであろうか?」と。

この情報がシャワーのように毎日降り注ぐグローバルな世界において、最も重要なことは、「いかにして我々は滞在喪失しないか」である。

ハイデガーはそれを誰よりも危機感として抱いていたのであり、だからこそWW�の前に既に警鐘を鳴らすことができたのである。