ヘラクレイトスの覚醒

「偉大な政治は全てarcanum(秘所)に属する」 

by カール・シュミット


我々の時代ではなく、我々の子らの時代が対峙する命題は、20世紀の悲惨さを反復する形式で到来する。
それは「闘い」の時代の復活である。

我々の時代が、我々の子らの時代に残せる「平和」の概念は、あまりにも軽薄で無残極まるものである。

我々にとって「闘うこと」とは何であるか?
改めて、根本的に問う必要性が存在論的に生起している、すなわち、「なぜ人を殺してはならないのか?」

モーゼは、ただ十戒に「汝、殺すな」と否定形で刻印した。
Why?とこれに問い返した別の預言者の存在を思考するのが、21世紀初頭の我々の「責任」ではないか。
ひとを殺しても良い場合が存在する。
それは、「闘い」のさ中における、自己と他者の命をかけた争乱において。
ひとを殺すことができるのは、徹頭徹尾、この「命」をかけて、現-有が、己の存在基盤を稲妻のように天に「投げ返す」、かの時に他ならない。
存在論的に、「闘い」とは、現-有が「最後の神」(by ハイデガー)の呪縛を背負いつつ、その守護者として見守りながら、他者に「死を与える」ことに他ならない。
「闘い」が「闘い」として、活火山のように燃え盛るためには、これが徹底的に殺戮化されなければならない。
殺戮とは、罪ではなく、「闘い」が最高度に「他者に死を与える」形式を取った、ひとつの芸術的形式なのである。

しかし、「殺戮」よりもいっそう、我々にとって美的な「闘い」の形式が存在する。
それこそが、「我々よりも強き者に対峙する」という、この最高の戦闘論的核心である。
我々弱き現-有が、「最後の神」の空白化を防ぎ、守りつつ、他者として、最高の他者である「強大なる他性」に「衝突」する時、我々はこの瞬間を正確に「対峙する」と定義する。
我々は「死」を畏怖する者であってはならない。
我々は、「より強き者」に立ち向かうという存在論的な原理に従って、己の「闘い」を開示する。
「闘い」のさ中で、燃え上がる火炎の渦から「最後の神」が我々双方に「絶滅」をもたらす、これこそが、「共に滅ぶ」という我々の美的形式ではなかったか。
我々は「共に滅ぶ」ことをなしたまう現-有であり、それは夕暮れに映える廃墟の美である。

「闘い」が開示する美学とは、このようなものである。
それは「平穏さを奪取する」ことのみを目的としている。
すなわち、ローマ・カトリック教徒がこの思想を受肉した場合、彼らは全て、ナチズムへと失墜するに至る。
しかし、ナチズムとは果たして真に悪であったか?
ハイデガーがいうように、ナチズムは「死体の製造」という新しい概念を創造した「事業」ではなかったのか?
我々は、美しいものが何であるかを、自分で策定する権利を有する。
美しいものが、「闘い」のさ中で、「相互に滅する」ことから圧倒的な衝撃力を持って裂け開かれることであっても、それはいっこうにかまわないのである。

ナチズムは美学であり、それは「死」を弄ぶ遊戯的連盟である。
ナチズムが残したことは、「他者に死を与える」最高形式である。
それは、「他者に死を与える」という事実性の「破壊」、すなわち「痕跡」の絶滅をも意味している。
これが完全な破壊、「破壊の破壊」に他ならない。

「闘い」に「渇望して、有る」ことは、21世紀初頭の現-有の内的特質である。
「闘い」が存在しない場合、それは「代理」される。
「闘い」は個人の生活世界における金銭的「闘い」へと「代理」され、或いはひとりの女性をめぐる男同士の血塗れの「戦乱」へと「代理」される。
しかし、根本気分として有るのは、現-有が生まれながらに有する「闘いへの意志」である。
「闘いへの意志」の最も腐敗した、幼稚な形式が「セックス」である。
女に狂う男は、「闘いへの意志」を誤訳しているに過ぎない。
「闘いへの意志」は、もし可能であるならば、常に己の「宿敵」を創造し、彼を「超克」していく、そのプロセスとして展開される。
「闘い」として、教会は21世紀の「若者離れ」の凄まじい孤独と対峙しつつ、ひたすら「新しい神父」を希求する。
「新しいキリスト教」として、未だ固有名を賦与されていないシステムの君臨が待望されている。
それは、21世紀から開け放たれたメシアニズムの極限形式である。