「情報の身体化」について
ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』は、岩波文庫に入れられるべきである。
ボルヘスの『伝奇集』と並んで、赤色(文学ライン)ではなく、青色(思想ライン)に。
この作品には、非常に厳粛に取り扱うべき哲学的なテーマが、私が一回目の読了を終えた時点で、既に三つは存在している。
一つ目は、「情報の身体化」というテーマである。
ギブスンという作家は、一般的にはSF作家として位置付けられているようだ。
だが、本当にそうなのだろうか?
私は少なくとも、これは予言書であると確信するし、ギブスンは寧ろ、「ポスト・ボルヘス」の代表者であると規定したい。
その理由は、まだ漠然としているが、これからじっくり考察するとしよう。
まず、この作品では、サイバースペース上に存在する、例えば「情報A」が、受肉する、というような事態が、ごく一般的に発生している。
端的に私は、彼の作品の中で、この「情報」と「身体」という概念の描かれ方の特異性に衝撃を受けた。
「情報」というのは、西垣通氏の『基礎情報学』の定義を看取して述べれば、一つの「生命」である。
例えば、人間の「記憶」、これは徹頭徹尾、「情報」なのである。
Web2.0期に相当する現代において、「ライフ・ログ」という言葉を聞いたことのある人もいるだろう。
これは、自分の人生の全ての「情報=記憶」を、サイバースペース上に記録することを意味している。
電脳空間に自己の「記憶」が残れば、たとえ身体が消滅しても、その「記憶」を「情報」として、別の身体に受肉させることが可能だ――ギブスン的思考とは、こういうものである。
逆に、現実世界から、「精神」をサイバースペースに一時的に移転させておいて、「肉体」を自動操作する、というような描写も存在する。
「心身二元論」的な思考フレームが、この作品には確かに背景としてあるのだが、しかし、そうした二項対立関係を限りなく曖昧にしているのが、サイバースペースなのである。
作中で、駅の描写がある。
そこで、主人公は、宙に浮いたホログラムを見る。
この世界では、ユビキタス社会は完全に実現されている。
つまり、UコードをRFIDシステムによって電子タグが読み取り、携帯電話などの画面に「情報」が表示される、という現在ではまだ未来形でしかない社会の枠組みが、より進化した形態を見せているのである。
画面に情報が表示されるのではなくて、空中に表示されるのである。
おそらく、システムの中枢全体が、超小型化しており、最早「機器」を手に取る必要は消えているのだろう。
眼鏡や、網膜の上に「情報」が表示されるのかもしれない。
そういった世界観の中で、ギブスンはこう囁いている。
「人間の記憶に、我々はアクセスすることができるのだ」と。
例えば、ある人間が、ブログなりHPなりに、自我に関する情報を記録していたと仮定せよ。
この時、この情報を、ギブスンならば、「人格」と表現するだろう。
そして、肉体が滅び、サイバースペース上に「人格」だけが残存すれば、この「身体なき精神」は、電脳空間からジャック・アウトして、「憑依」可能な媒体を探し始めるだろう。
こういった出来事が、本作では常態として登場する。
「情報」が自我に目覚め、(=ネオ・コギトというべきだろうか)「身体」を欲するということ――。
これはキリスト教神学における根本概念とリンクしている。
“受肉”だ。
本作のテーマは、サイバースペース上で生まれた「ウィンターミュート」というA・Iが、「ニューロマンサー」という人格に“受肉”するという、霊肉一致の如き出来事が神秘的に描かれている。
ウィンターミュートは「集合精神」であり、おそらくより正確に表現すれば「群知能」/「超個体的な集合知」である。
彼はサイバースペース上に存在する全情報に自由自在にアクセスできるが、「固有の」人格を有さない。
そこで、彼はニューロマンサーと結合して、いわば世界に創造された全ての概念の最終段階にまで踏み込むのである。
「神」である。
しかし、ギブスンは作中でこれを「悪魔」と表現してもいることに注意したい。
例えば、サイバースペース上の「ヴルガータ聖書」という文字情報が、受肉すればどうなるのだろうか?
そして、『ニューロマンサー』の世界観において、受肉は、一体どの対象の範囲にまで拡大しているのだろうか?
「聖書を暗誦するクマのオモチャ」なども、この世界では、おそらく実現可能なのだろう。
クマのオモチャが、サイバースペースにジャック・インできる小型のシステムを搭載していれば、逆に「情報」サイドから憑依されることもあり得るだろう。
このような思考上のイメージ世界が、『ニューロマンサー』の世界観では描かれている。
それをボルヘスが読めば、何というだろうか?
ボルヘスが逝去された年が1986であり、ギブスンの本書が日本で刊行され、衝撃を走らせたのが1986であり、私が1986という年に生まれていることを考えると、この年を境に、何か現代思想上で潜在的な「革新」が起きていたとしか考えられない。
ドゥルーズ+ガタリは共著作者であったが、『ニューロマンサー』は、文体こそバロウズ的であれ、ボルヘス+ギブスンというユニットが創造したものではなかったのか?
そんな気さえするのである。
「モリイの海辺」について
作中のラストでサイバースペース上に出現する「モリイの海辺」の世界とは何だろうか?
それは彼女の知覚体験から再構成されたものなのか?
それとも、モリイがかつて歩いた海辺の風景そのもの、つまりフッサールの言葉を使うと「原的体験」なのか?
「モリイの海辺」が、自我と他我の境界的な"間主観的フィールド”であるとすれば、そこにはウィンターミュート自身の「作用」が働かねばならない。
ケイスはモリイの海辺を歩いたが、それは一体どこまで、彼女の記憶を反映しているのか?
「想起」によってこの海辺が再現されている場合、このサイバースペース上の海辺は、原型となる現実世界の海辺の「中立変容」を被っている。
しかし、ウィンターミュートが、モリイが目にした断片的な海辺の、「世界-観」から、海辺の「世界」を集合的に再現しているのだとすれば、作中の「モリイの海辺」は、現象学的観点からしても成立可能である。
この作品で最も神秘的なのは、実はこの「記憶の海辺」ではないか?
それは、モリイという女性の記憶=情報から再構成(=再現前化)されたフィールドである。
そして、その海辺は最早、現実世界の海辺と視覚的にも、聴覚的にも、触覚的にも、同一なのである。(脳に直接、刺激が与えられているのだから)
そして、ここでニューロマンサーが、海辺で戯れる少年の一人として優雅に登場する。
それはノスタルジックな回帰であり、ギブスンの最も迫真的な描写である。
ところで、ボルヘスとギブスンの接点について考える。
ボルヘスの文体は、ハイパーテキスト的であり、彼の頭の中にはウィキペディアが存在している。
ボルヘスに「記憶の人フネス」という代表的な短編が存在するが、彼は間違いなく「記憶」の人であり、そして、つまり「情報の人」である。
他方、ギブスンは「情報社会の未来形」を描出した作家である。
ギブスンが描いた世界では、情報網という古典的なキータームは存在しない。
「すべての情報に、すべての人が、どこからでも、自由自在にアクセスできる」。
ユビキタス化の完成形態が描かれており、それはボルヘスが夢見た世界の実現である。
ボルヘスは、おそらくギブスンの描いた「千葉市」の住人なのである。
ギブスンは、ドゥルーズと兄弟かもしれない。
というのは、彼は概念の創造者だからだ。
前回は、「情報の身体化(データの受肉)」というテーマで一つプロトコルを残した。
今回は、ギブスンがどれほど豊穣な概念結合体であるかを紹介しようと思う。
まず、典拠となるのはやはり彼の代表作『ニューロマンサー』である。
ここでまず取り上げるのは、「メインフレーム(身体)/アニマ(魂)」という二項対立的概念である。
本作では、魂が次から次へと別の身体へ憑依する、というような事態が生起する。
自我を構成する「記憶=情報」を、サイバースペースに保存し、身体を別の新しい身体へ交換する、といったメタンプシコース(輪廻転生)的な事態が起きているのである。
その上で、これは「モード(様態)の変移」という概念で締め括ることができるだろう。
つまり、魂というのは、基本的に身体を伴うものではないということだ。
魂(つまり自己の全情報の核心)は、非身体的であるが故に、身体に依存しないのである。
ひとの魂は、別のひとの身体に憑依することができる。
ただし、本作ではそれは、「サイバースペース」という海のネットワークを経由して行われる。
つまり、魂は海を浮遊し、端末を媒介して、別の新しい有機体にジャック・インするわけである。
これを「受肉」と呼んでもいいだろう。
次に、「体験/擬験」という、やはり二項対立的概念が登場する。
擬験の方は、「シムステイム」と呼ばれている。
要するに、我々は、例えば「昨日、美術館でリヒターの絵を観た」という体験を持つことができる。
それは事実であり、リアルである。
対して、シムステイムとは、「昨日、美術館でリヒターの絵を観た」という体験をした、と「偽る」ことである。
擬験は、体験の「偽造・模造/ミメーシス」である。
しかし、擬験は体験よりもリアルなのである。
擬験はその人に、本当にそのような体験をしたかのように錯覚させることができる。
いうなれば、彼には、シムステイムとしての情報が組み込まれるのだ。
これにより、彼は擬験を体験と錯覚する。
否、もしかすると、これは実際に「記憶」になる点で、(体験)というべきかもしれない。
だが、それはあくまで人工的かつ幻想的な( )に入れられた虚構の体験であり、「体験」ではない。
つまり、実在する美術館で、実在する絵を確かに観たというリアルな体験ではないのである。
これと並んで、本作には「ホログラム」が頻繁に登場する。
ホログラムは映像である。
だが、それはそこに生きている人が立っているかのような錯覚を与える。
触れると実体がないので、やはり映像に過ぎない。
しかし、少なくとも視覚的には、人のイミテーション(偽物)を造りだすことができるのである。
これもギブスンが仕掛けた夢幻的な罠の一つである。
この世界では、「有る」ということが、蜃気楼に包まれて、「有らない」ものや、「有りえない」ものと混在するのである。
それは実在物と仮象の交叉配列であり、リアルと夢の入れ子構造である。
ここにはボルヘスの到達点ともいうべき、巨大な「迷宮」が見え隠れしているのだ。
本作では、あらゆる情報は、「誰のものでもない情報」と化している。
情報の著作権は剥奪され、自由自在にコピーライトが貼付される。
情報は売買される。
つまり、「情報=記憶」としての、人間性の基礎さえもが、売買される。
しかし、本作でウィンターミュートがケイスに告げてもいるのだが、本来、情報とはホログラフィー的なのだ。
換言すると、人間の「記憶」とは、ホログラフィー的なのである。
それは原初的な体験に虚構の層を被せることもできる、という意味である。
つまり、我々は記憶を捏造しているのである。
「体験」は、想起されるたびにその内容を変容させる。(フッサール)
しかし、全ての想起内容には、原的な体験の「核」がタマネギの種のように痕跡として残存する。
本作で最も広大な概念としてあるのは、無論「サイバースペース」である。
実は、本作では、水辺に関する描写が異様に多い。
例えば、「プール」「ヨット」「浜辺」「東京湾」などといった設定が頻出する。
実は、これはサイバースペースの世界観の相似形なのである。
本作では、サイバースペースとは、一つの巨大な海である。
その証拠に、サイバースペース内の各エリアへ向う手段として、「船(タグ)」が登場するのである。
例えば、サイバースペース内の聖域であるザイオンは、内部循環型の「閉鎖系」と呼ばれている。
対して、自律的ではなく、外部環境から資源を輸入せざるをえないエリアである自由界(フリーサイド)などは、「有限系」と呼称される。
ザイオンは中央円環体に位置する、いわばサイバースペースの中の中心点である。
それぞれの「島」は、それぞれの環境システムによって互いの島とネットワーク的に関連し合っている。
つまり、サイバースペースとは、「郡孤島化地帯」なのだ。
それぞれの島には、ウィルスなどの侵入を防ぐICE(侵入対抗電子機器)が仕掛けられ保護されている。
本作でも登場するアメリカの図書館のICEはレトロなもので、すぐに氷破りに突破されてしまう。
それぞれの島が諸島化してコロニーとなり、より巨大な上部構造へとネットワークを繋げていく。
神経回路がリゾームを拡張していくように、サイバースペースの各島は、リゾーム状に形成されていく。
あるエリアは階層化し、あるエリアは植民地化される。
エリアにはICEがあり、おそらくは「統治者(管理システム)」が存在している。
このように、サイバースペースは巨大な網目状の海原であり、主人公ケイスたちはそこを「船」で移動するのである。
このような別の世界、別の宇宙ともいうべき主題が、ギブスンにはあった。
この世界で最も大切な経済的指標とは、「情報」である。
「誰のものでもない情報」がユビキタス化によって実現されている以上、少しでも入手困難な情報や、獲得困難な情報網を手に入れている方が、生き易いのである。
本作では、情報と無縁な人間はほとんど登場しない。
みな、怖ろしいほどに情報の獲得に対して無垢である。
そして、本作ではこの神秘的ともいえるサイバースペースから、データが独自に身体を得たり、また自我情報を保存して別の身体へ憑依する、といった現象が発生している。
あらゆるものが幽霊化しているのだ。
本作の副題は、否、正式な表題はおそらく「Ghost」である。
それほどに、この作品は文体の軽快さと反比例して、戦慄的な思想書なのである。