「私を奴隷にしようと試みる者は、それによって、私との戦争状態に身を置くことになる」
by John Loke
私がジョン・ロックの名を最初に知ったのは中学時代の世界史だったが、具体的に彼の本を読んだのは数日前である。
それ以前にも、私はライプニッツのテクストの中でロックが引用されているのを目にした。(『人間知性新論』)
私はロックを読んでいて、彼が極めて美しい思考回路を持っていたことを感じた。
そしてそれはキリスト教神学、というよりも決定的に「聖書」のディスクールに依存している。
私は彼のことをどのように記録しておけばよいか、それが正直わからない。
というのは、彼が主張している「law of nature(自然法)」や有名な「Commonwealth(コモンウェルス=政治的共同体)」、それに「capable of a majority(多数決に服する)」といった考え方、コンセプトについて記すことは、おそらくあまりに教科書的な記述の反復に過ぎなくなるであろうからである。
ちなみに、私が非常に興味深く読解したのは、ただ一点だといって良いかも知れない。
つまり、コモンウェルスの概念についてである。
ロックはこれを、先述したが「政治的共同体」と規定しているのだが、共同体とはいわば集合的な人間の「身体」を意味している。
ところで、キリスト教神学においては、人間には「神の法」が必要であった。
ロックは「神の法」を「自然法」と呼んでいるが、これは先のコモンウェルスの概念の前提として極めて重要である。
というのは、これはルソーの「自然法」の概念を参照していよいよ確信が深まったのだが、実は「自然法」というのは、ナザレのイエスの教えの「代補」だからである。
ロックもルソーも、人間は原初的に「自由」「平等」であり、「理性的存在者」であると規定している。
ロックが規定している「自然状態」の意味とは、その本質においてキリスト者を前提にしているのである。
注意せねばならないのは、これは特にルソーについていえるのだが、彼は「憐れみ」の情が「自然状態」に属する、すなわち「自然法」にカテゴライズされるといっている。
ということは、ここで我々は正直唖然とせざるをえないのだが、もしも「自然法」が人間に先天的に賦与されているのであれば、一体ナザレのイエスの教えとは何だったのか? ということになる。
私の現在の読解では、ロックは「自然法」を「神の法」と呼んでいるのだが、仮に「神」の概念を( )に入れてエポケーしても、おそらくロックは「自然法」を「理性的存在者」としての人間に賦与するであろう。
ロックは歴史の起源を「アダム」に認める。
これはロックの批判対象であるサー・ロバート・フィルマーも同様である。
もしも「自然法」が「神の法」の無い国家で、つまり日本のような非キリスト教圏で適用されるのかといえば、実質的には既に適用されているのである。
要するに、我々がここで主張したいのは、「自然法」は現代世界にとって、「神の法」である必要性が果たしてあるのか? ということなのである。
さて、ここで今一度「コモンウェルス」の概念について考えよう。
コモンウェルスとは、ロックによれば、その「魂」として「立法権力」を有する。
ここでロックが「魂」というキリスト教神学的な霊肉二元論を幽霊的に再現前化させていることに注目しよう。
つまり、ロックにとって政治的共同体=コモンウェルスとは、御子に「ロゴス」が受肉したように、いわば「立法権力」が身体を持った姿形なのである。
この「立法権力」とは、ロックのコンテクストに沿って考えると、いうまでもなく「自然法」なのである。
ということは、ロックのコモンウェルスとは、まさに人間が生まれながらに持っている「自由」「平等」を営むために集団が契約して形成する「政治的共同体」ということに他ならない。
そして、ロックはこのコモンウェルスの真の統治者を、「神」に設定しているのである。
我々はここで極めて矛盾したロックの過ちを容易に見て取れるであろう。
ロックは「権力」をアダムに賦与したサー・ロバートをことごとく第一部で批判している。
ロックはアダムを「世界の王」とは考えていない。
しかし、ロックにとって「世界の王」とは「神」であり、人間とは「神の作品」なのである。
要するに、純粋に権力構造のみを分解すれば、サー・ロバートと思考回路は同一である。
すなわち、サー・ロバートにとっての権力者アダムは、ロックにとって全能の父なる「神」に代理されているに過ぎない。
ロックは本書で、それこそ異常なほどに「神の法」に熱烈な接吻を贈っている。
ロックは人間を先天的に「自由」だと規定しながらも、その人間を「神」の従属物にまで失墜させているのである。
17世紀後半の英国の思想界の通奏低音が、ここで見え隠れしている。
彼らは何も気付いていない。
人間はロックの見解をそのまま鵜呑みにしただけでは、けして「自由」には達し得ない。
「神の法」から、「神の」という所有格を奪取し、これに「人間の」を賦与せねばならない。
主体化とは従属化を作り出す操作であり、ロックは神をあくまで主体化させている。
本書で一体、何度「神は」という主格で始まるフレーズが反復されることであるか。
そして、我々がどうしても気になったのが、先述したが「自然法」の有効範囲である。
「自然法」の内部に、もしも「赦し」「隣人愛」「愛敵」などが含有されているとすれば、ナザレのイエスが開始した宗教システムは、人間が生まれながらに誰でも持っているものを先鋭化させて概念にしただけの集合体に過ぎなくなる。
つまり、「自然法」と「キリスト教道徳」で重複する部分が捨象される。
ゆえに、残存している部分が、いわゆる「キリスト教」である。
我々はそれを「受肉」と「復活」の概念に見出す。
そして、これはルーマンの語彙を借用すれば、「宗教システムの閉鎖」を招く概念である。
今これを記していて我々に明らかになり始めたのだが、キリスト教は現在において、高度に「脱宗教化」されている。
脱宗教化されていない残存している部分として可能なのは、まずもって「受肉」と「復活」の概念であるが、これはキリスト教の心臓部分でもある。
そしてこれは「自然法」には属していない。
国家は「受肉」の概念のないところでも生起するのである。
したがって、これら二つは等根源的であり、かつ、キリスト教のシステムが内部に「折り目」を作る閉塞区域に他ならない。
換言すれば、ここから宗教システムが開始される。
さらに換言すれば、これこそが「自然法」と「キリスト教」の根本的差異である。
ホッブズの「市民法」から、「ウェブ市民法」へ
ホッブズは傑作『リヴァイアサン』の中で、「コロニー」の概念を登場させている。
しかしごく短い箇所で、さり気なく登場させている。
これは実は極めて重要な概念で、ウェブ市民論として賦活させなければならない。
まず、ホッブズのCommonwealthの概念の定義を引用しておこう。
「それは一個の人格であり、その行為は多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のために全ての強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその行為の本人とすることである」
ここで重要なのは、ホッブズが「コモンウェルス」の概念をキリスト教における「教会」という共同体概念と同軸上で述べているという事実である。
教会とは、ホッブズにとって、「キリスト教的コモンウェルス」なのだ。
確かに「相互契約」と「平和と共同防衛のために」などといった理念を有する共同体として「教会」は規定することが可能だろう。
重要なのは、ホッブズがコモンウェルスの成立条件として、Assembly(二人以上の人間の集合)という数的概念を導入している点だ。
コモンウェルスの基礎にあるのは、各人が有する普遍的な「神の法」、すなわち「自然法」だ。
しかし、ホッブズは「自然法はシヴィル・ロー(市民法)の一部である」と明言している。
ここで彼の思考回路の中で発生しているのは、自然法という一つの円が、より大なるシヴィル・ローという円に吸収されているという構図である。
実際に明文化されていない不文法は、全て市民法だとホッブズが断言できるのもこの円の関係性が認識すると判然とし易い。
ここでロックの用いていた「自然法」と「キリスト教道徳」の重複の問題を更に考察しよう。
ホッブズにとっても、やはり「自然法」とは「神の法」である。
すると、キリスト教は「自然法」の概念によって完全に脱宗教化されているとみなすことができる。
いわばキリスト教という宗教システムを、「市民法」というより高次の政治/法システムによって吸収するために、双方ともに「神」から「市民」に目を向けるのだ。
ロックとホッブズに共通しているのは、彼らが共に「神の法」を「自然法」と認識しているが、その「自然法」は実はシヴィル・ローに内包されている「小さな円」に過ぎなかったということである。
この点は重要であり、二人が最早神学的哲学者ではないことの証明である。
先の「コモンウェルス」の目的は「安全保障」にある。
ホッブズいわく、それに必要なのはロック同様に「多数決による公共権力」である。
そしてこのような多数決制の二人以上の、安全保障を目的とした市民法を有する共同体を、彼らは「コモンウェルス」と呼び、ホッブズはこれに象徴的な意味をこめて「リヴァイアサン(怪物)」と呼称するわけだ。
リヴァイアサンとはホッブズにとって「国家」である。
コモンウェルスがリヴァイアサンと化することの危うさをも込めたテーマ性が、現代世界からも再読すべき珠玉の古典の価値を与えているのだろう。
ところで、このコモンウェルスの概念それ自体は「ウェブ」にも相当する。
ウェブは不可視でかつ匿名的なリヴァイアサンである。
この<ウェブ=電子的コモンウェルス>の「コロニー」とは何であるか?
ホッブズ的に解釈すると、「コロニー」とは、「コモンウェルス」という母集合から分離した「子」である。
いわば移民、殖民の結果、形成されたエリアである。
そしてホッブズは、コロニーはやがてコモンウェルスと化するとのべている。
これは当初コロニーに過ぎなかったアメリカが、現在はイギリスを凌駕するコモンウェルスと化していることを見ても明らかである。
<ウェブ=電子的コモンウェルス>にとって、「コロニー」とは、ブログであり、かつサイトである。
しかもそれはこのブログのように、個人が運営している小さな「島」である。
それはウェブという電子的コモンウェルスの「部分」である。
ちなみに、このブログは「FC2ブログ」という親システムの「子」であり、いわば「コロニー」である。
ウェブをこのように、コモンウェルスという共同体概念として把捉する理由の一つは、ホッブズがコモンウェルスの概念それ自体を、「人造人間」として表現しているからに他ならない。
この巨大な人造人間の血液とは、「貨幣」である。
ウェブもやはり一人ひとりの「ユーザー」を単位として、それらの「母集合」として形成されている。
各人は孤独であっても、間違いなくウェブにとっては「部分」である。
注意したいのは、ロック&ホッブズの読みでは、コモンウェルスの真の支配者は「神」だということだ。
では、電子的コモンウェルスの支配者は誰だろうか?
これは実質的に考えれば(すなわち神学的システムを捨象すれば)管理会社である。
ウェブにおいては、「検索」をビジネス化している特定の企業である。
ウェブの市民法を形成するのは実質的には彼らである。
「グーグル八分」という問題は、グーグルという「主権者」が定めた「市民法」に背反する「部分」は自動的に排除するという原理から説明可能である。
ウェブが人工的なリヴァイアサンである限り、ある特定の実力者がウェブを支配するのは、むしろ「自然法」に属する。
そして「自然法」は「市民法」に含有されるのであるから、いわばグーグルが権力を持ってウェブ2・0期を、カンブリア紀のアノマロカリスの如く席巻しても「神」という絶対的観察者にとっては何らおかしなことではない。
そこで起きているのはただ「権力」の「贈与」関係のみである。
つまり、ウェブという大地は実質的には現実的な政治的縮図を持っているのだ。
しかしホッブズが以下のようなアフォリズムを残していることも忘れないようにしよう。
「死すべき人間のつくるものに不死のものはありえない」
ウェブは、もしも明日に地球に巨大な隕石が飛来すれば、消滅する可能性もある。
神は永遠であり、全知であり、遍在しておられるが、ウェブは所詮集合知に過ぎず、ユビキタス化しても宇宙の全域にまで浸透しない。
ウェブ自体は有限であり、不死ではない。
ウェブは管理者が死んでも残存できるが、世界死を経れば無に帰する。
すなわちウェブには神は宿らない。
ウェブは繰り返すが、被造物である我々が創造した二次的な人工物に過ぎない。
それは一つの仮想的国家であり、ゆえに電子的コモンウェルスである。
コモンウェルスは人工的なものであり、ゆえに神の本質にまでは到達しない。
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