ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』

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 6・431「・・・幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。」



その理由を彼は端的にこう述べる。

 

 6・373「世界は私の意志から独立である。」



 

 5・63「私は私の世界である。」



つまり、世界の総体と、私たちが個別に認識し得る世界とは別である。したがって、個別的には「救い難い世界」は可能であるが、世界そのものは彼/彼女の世界観とは無関係に独自に成立可能である、とウィトゲンシュタインは規定する。
ある人間が「神の死後の世界」として世界観を有することは可能である。しかし「世界は私の意志から独立である」が故に、世界そのものに彼の意志は何の関わりも持たない。

 

 5・632「主体は世界には属さない。それは世界の限界である。」



 

 5・6「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」



これは単純にそう解釈していいのか解らない。
確かに私は日本語しか話せないので、日本語という狭い一地域に住んでいる、と規定可能だろう。
だが、身体言語/身ぶりの場合はどうか?
彼のいう「言語」の意味内容はパロール(発話)+エクリチュール(書き言葉)の双方をも含意しているのか?
もし仮にそうだとしても、身体言語が私の世界の限界を突き破ることは可能である、と私は思うのだが。

 

 5・64「唯我論が厳格に貫徹されると純粋な実在論と合致することがここで見て取られるのである。唯我論の自我は延長を欠いた点にまで縮退し、そして自我に相関した実在は残ったままである。」



これは天才的な発想だ。
現象学的に見れば、「視界」とは常に私の「意識」を含んだものだった。何をどう見るか、その視界の切り口は個人によって千差万別である。したがって、世界のパースペクティブは人間の数的な次元に還元可能である。世界は主観性の内に帰属される。そして、フッサールは他我(アルター・エゴ)との<あわい>に「超越論的相互主観性」を見出した。ウィトゲンシュタインは他我には何一つ触れずに実在論にまで到達している。「私が、見出した、世界」とは、本質的に主観的である。だが、この故に、「私が、見出した、世界」は、確実に私が世界から切り取った「もの」を描き出すだろう。つまり、実在論的にならざるをえないだろう。仮に彼が心理小説的ないし独白的な文体を用いたとしても、依然として彼が「見出した、世界」とは、彼にとっての「私の世界」である。つまり、極限まで唯我論が先鋭化すると、「もの」の世界、実在論にまで到達するということだ。


 

 2・0251「空間、時間、そして色(有色性)、これらが対象の形式である。」



 

 2・063「総ての現実が世界である。」



 

 2・1「我々は世界の像を作る。」



「像」はBild、pictureの訳語。
彼によれば、「Bildが一方では画家が描く絵の意味を継承しつつ、他方Abbildung(写像)という数学者の用いる意味をも兼ね備えているという具合に、極めて広範囲な意義を一語に統一した語だ」ということである。


「Barnett Newman の世界の像」

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「Jacob van Ruysdael の世界の像」


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両者が描く世界の像は異なる。
しかし、彼らが創造した世界の像とは無関係に独自に世界は成立する。

 

 2・172「しかし像の写像形式を像は写像できない。像は写像形式を提示する。」



彼の「形式」の概念に特色がある。
上の絵を描いたバーネット・ニューマンは二十世紀の抽象表現主義に属する画家。
下の絵を描いたヤーコプ・ファン・ロイスダールは十七世紀のオランダ最大の風景画家。
彼らはそれぞれ、世界から独自に世界の像を作ることが可能である。
しかし、それらは世界とは無関係であり、独立している。
ニューマンもロイスダールも形式の一例を提示しているだけに過ぎない。彼らは「形式」そのものを写像しているわけではない。


 

 2・174「しかし像は自らの描出の形式の外側に立つこどはできない」



 

 3・031「神は全てのものを創造しうるが、しかし論理法則に反するものだけは例外である、とかつて語られた。というのも「非論理的な」世界についてそれがどうみえるかを我々は語りえないからである。」



この世界は神の論理に基いて創造されている。
したがって非論理的な世界は存在しない。

 

 3・02「思想は、思考される状態の可能性を含んでいる。思考可能なことは、存在可能である。」



 

 6・421「倫理学は超越的である。(倫理学と美学とは一つである。)



彼はカトリックの幼児洗礼を受けた。
したがって、彼はここである種の神学を展開しているとも解釈可能である。
ウィトゲンシュタインにとって「神」とは何か?

 

 6・432「いかに世界があるかは、より高貴なことにとっては全くどうでもよいことである。神は世界の中に自らを啓示しはしない。」



彼は論理空間の外に「神」の実在を認めている。

 

 6・4312「時間空間の中での生の謎の解決は時間空間の外にあるのである。」



 

 6・44「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである。」



「世界がある」とはどういうことなのか?
それ自体が究極の謎だと彼はいう。
したがって「世界がどのようにあるか」は意味を持たない。
重要なのは、なぜ「世界がある」かである。

ここで注意しておくが、彼にとってこれが謎だということだ。

 

 6・5「表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。謎は存在しない。いやしくも問を立てることができるのなら、その問に答えることもできるのである。」



これは逆説的に神の存在を表明している。
なぜなら、「世界がある」のが何故かという問には、答えが存在しないからである。しかし、彼の論理に従えば、問は既に回答を内包している。問を立てることができる質問には、その問に呼応した一連の回答が潜在的に結合している。そうでなければ、問など成立しないからである。だが、依然として「世界がある」のが何故なのか、という問は問のままで回答まで到達しない。すなわち、謎である。しかし、彼は「謎は存在しない」という。残された唯一の考えは、論理空間の外に何か回答に還元不可能な神秘的なものの実在を認めるか、論理空間の外を全否定するかのいずれかである。彼は前者を取る。したがって、神は実在する、とされる。これほど美しい神への信仰告白は存在しないだろう。

 

 6・522「だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。」