ロラン・バルト 「明るい部屋」から「明るいウェブ」へ
明るい部屋―写真についての覚書
(1997/06)
ロラン バルト
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「写真の時代は、私的なものが公的なものの中に侵入してゆく過程と正確に一致している」
by Roland Barthes
本書はバルトの遺著であり、「1980年」に刊行されている。
この刊行年代は極めて重要である。
要するに、バルトという有力な記号学者の死は、我々が生まれた80年代に生起しているのである。
本書を、私は「写真論」として読解することから離脱する。
これはむしろウェブ論に接近しているし、本書ラストの論述は明らかに「来るべきメディア」へのメシアニズムを予感させるのである。
では、ゆっくりと詳密に読解していこう。
まず、我々はバルトの「写真」という言葉を意図的に「サイト」に換言してみることを提案する。
というのは、この「誤訳」を遂行しても意味が通用することに現代性を見出すからである。
例えば、
「
サイト
は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。・・・・・・
サイト
の事実確認性は対象そのものに関わるのではなく、時間に関わるということである」
ここで我々は「サイト」と記したが、これは実質的には不正確であることはいうまでもない。
サイトには映像媒体としての機能があるのであり、写真のように「一時停止」しているわけではない。
しかし、我々は本書をウェブ論として読むべき地平の可能性を見つけているのである。
「
サイト
は、事物がかつてそこにあった、ということをけして否定できない」
写真は「紙」と同じで、電子画面上のみで表示されているのではない。
しかしウェブは流動的かつ液状化した世界であって、写真のように「静止」してはいない。
したがって、バルトが写真に与えた「アオリスト(不定過去形/現在との繋がりを持たない絶対的な過去)」という時制はウェブには通用しない。
「私は、生き生きした
サイト
の存在を信じないが、それは私を活気付ける」
これは「リアリティー」の問題、晩期ウィトゲンシュタインですら未完で終わらせた仕事「確実性の問題」に迫っている言説である、とはいえ、無論「写真」を「サイト」に「誤訳」しているわけだが。
むしろ注目すべきは以下である。
「仮面とは、完全に純粋な状態にある意味のことである」
この「仮面」に、「写真」「サイト」「ブログ」など、メディアの多様なモードを代入することができるだろう。
この見解を踏まえた上で、以下のようにバルトは述べている。
「
サイト
は主体を客体に変えた」
ウェブ上では、ひとは様々な「キャラクター」に変貌することが可能となる。
例えば、身長が150しかない若い女性が、仮に容姿端麗であるとせよ。
彼女は写真をウェブ上で公開するだろうが、この時プロフィールで身長162などと書き換えることは可能であり、それを赦すのがウェブである。
ウェブは虚構的に主体を再編成させるという点で、バルトのいう「仮面」の概念に「没入」している。
バルトが以下のように、ウィトゲンシュタインを悩ませたテーマを浮上させるのは意味深長である。
「私にとって、
サイト運営者
を代表する器官は、眼ではなく、指である」
本書では太字が「写真家」と表記されているが、これをウェブ的に変換しても無論意味が通じる。
我々がウェブにおいて信頼しているのは、「ウェブらしくないもの」、すなわち「現実」なのである。
ウェブでは全てが虚構化可能であるがゆえに、ブログでは平穏な「日記」を記すことがむしろ望ましいのではないか。
けれども、我々の考えでは、「日記を書く」という作業それ自体が「仮面」を作る錬金術に他ならない。
「
サイトそのもの
は常に見えない。見えるのは指向対象(
それぞれのサイト
)であって、
サイト
そのものではない」
「
サイト
は、自分自身が他者として出現すること、自己同一性の意識がよじれた形で分裂することを意味する」
写真とウェブの差異は、写真がアオリスト的なimago lucis opera expressa(光によって引き出された像)であることに対して、ウェブはそれらを全て内包した小宇宙であるということである。
ウェブはいわば「光の叛乱」である。
本書でバルトは彼独自の「存在論」を密かに提示している。
その骨子も既に記されているが、これはウェブ2・0期に属する我々にとってどのように読解されるべきであろうか?
「元のコピーが実在するコピーであるにせよ、内心のイメージであるにせよ、誰もけしてコピーのコピー以外のものではない」
COPYの二乗である。
つまり、我々は「他者をコピーしている他者」を「コピー」している「他者」なのである。
これは詭弁でもトートロジックな言語遊戯でもなく、まぎれもなくウェブ2・0期の「主体性神話」の崩壊を象徴するディスクールである。
ところで、バルトが本書で作り出し、写真論では一般的に引用「されすぎている」きらいすらあるstudium(一般的関心)、punctum(刺し傷、印象されたもの)の差異は重要である。
ここに一つの重大な例がある。
それは、映画館に我々が行って映画を観る時、仮に映画のスクリーン(=studium)ではなく、映画館の中で必死に映画を観て涙している女性を見つめている男性がいるとすれば、彼にとって彼女はpunctumだということである。
双方は同じく何らかの形式で「作品」である。
しかし、映画館の中で映画を観ずに暗闇とか観客を印象する行為は、我々にはむしろ「余白」とか「欄外」といったデリダ的な読解の香りを感じるのだ。
映画館で映画を観る必要性は無い。
というのは、それはスタディウムに過ぎないからだ。
映画館における「映画そのもの」とは、まさしく映画館の中での現実的に印象された空間的把握や人物への印象、すなわちプンクトゥムに他ならない。
ウェブに接続するとき、我々は電子画面ではなく、その奥にある窓越しの青空をプンクトゥムとして取り出すべきであろう。