「ニルヴァーナ」と「復活」の等根源性
普遍宗教における「悟り」とは、「心の平安」である。
「心の平安」とは、「わたし」と「あなた」の差異化の解消であり、「わたし=あなた」が「世界」である、ということに他ならない。
「心の平安」というのは、ケルト神話における神樹信仰(わたしの木)に近い。
ケルト民族の古くから伝わる伝承によれば、彼らは幼年時代にそれぞれ一人で森へ向かい、そこで迷いつつ、「わたしの木」を見出して村へ帰還する。
このような「森」を持つ環境性は、日本列島が古来より樹木に囲まれた島であることと共通しており、いうなればケルト民族と日本民族の共通した「癒しの志向性」を知る手掛かりになるのである。
「自分の木」というのは、現代の日本社会に置換すると、ベランダや窓際で誰もが育てることのできる「観葉植物」や、庭の「小さな草花」とみなして良い。
大切なのは、「心の平安」、すなわち「悟り」における心理システムと、「わたしの木」信仰における「癒し」に接点があるということなのである。
「わたしの木」の、この「木」とは、いわば「あなた」と「わたし」を繋ぐ接点、媒介項、宗教的メディウムである。
同時に、「木」には並べて、安らかに、静かにただ光合成をして、環境の厳しさに対して受苦の姿勢を見せるという性質がある。
植物には動物と違って、「不動性」とはいわないにせよ、心理的に「安穏」を感じさせる何かがあるのは確かである。
例えば、古い木の内部が空洞で、その中で幼い頃に不思議な少年と御話をした、というような謎めいた現象において、我々が何よりも惹かれるのは「木の中で話す」ということではないだろうか。
「木の中」において安らぎを見出すのは、我々がかつて、樹上生活者であった頃の太古の記憶がDNAに書き込まれている証なのである。
このように、普遍宗教における「悟り」の境地において、「わたしの木」は極めて重要な力を持っている。
今度は、「感興のことば」として知られる仏典『ウダーナヴァルガ』を開いてみよう。
そこには、以下のようにされている。
「修行僧は安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、迷いの生存の束縛を断ち切る」
「こわれた鐘が音を出さないように、汝が自分を動揺させ(煩悩を起こす)ことがないならば、汝はすでに安らぎ(ニルヴァーナ)に達している。汝はもはや、怒り罵ることがない」
「鹿の帰るところは原野の奥であり、鳥の帰るところは虚空であり、分別のある人々の帰するところはことわり(義)であり、もろもろの真人の帰するところは安らぎ(ニルヴァーナ)である」
ボルヘスがその語の響きそれ自体を美として謳歌した「ニルヴァーナ」とは一体何か?
ニルヴァーナというのは、実はキリスト教においても既に生起している現象である。
何故なら、普遍宗教に観察できる各教義の「差異」に関わらず、「真理=悟り」はそうした「差異性」を根本から解体するからである。
ゆえに、仏教における「ニルヴァーナ」という「語」は、実質的には「意味」しか持っていない。
実体は、キリスト教においても同じものとして存立しているのであり、ただ「語」の、すなわち「名」が異なるだけなのである。
『ウダーナヴァルガ』では、「ニルヴァーナ」、すなわち「悟り」について以下のように記されている。
「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみからも全く解脱する」
「さとりの究極に達し、怖れることなく、疑いがなく、後悔のわずらいの無いひとは生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である」
この「最後の身体」は、新約における「復活後のイエス」と交換可能である。
私が企てているのは、キリスト教と仏教のそれぞれの教えの「差異」の解体であり、宗教一般の本質への急迫である。
ルーマンがその画期的な『宗教論』で述べていたように、宗教とは自律的なシステムである。
互いにそれぞれ影響を受け合いながら共に進化してきたのが各宗教システムであるが、それらは全て同じ「原形質」から構成されている。
私が記したいのは、この宗教一般の「原形質」である。
宗教における「悟り」は、哲学的には「超越」として規定される。
しかし超越というのは、心理システムに還元すれば、「わたし」=「あなた」=「世界」という、この三つの等号による三位一体を心理システムと一体化させるということに他ならない。
このような状態にあって、主体は「安らぎ」に達するのである。
これを仏教は「ニルヴァーナ」と呼ぶ。
存在論的な見地から述べるのであれば、「有る、ということ了解している主体」、すなわち「現-有(現-存在)」と、そのようなことを「忘却している」(実存規定としての、いわゆる有の忘却)主体の「差異」を崩壊させるということが、すなわち「悟り」である。
それは依然、神の属性の一つに過ぎない「有」の支配からの脱却である。
また、同じように、これは「有るということ(有)」と、「有ることをしているもの(有るもの)」の「差異性」、すなわち名高い「存在論的差異」をも崩壊させる。
また、『哲学への寄与』におけるテーマの核心である、「有る」ということと、「無い」ということの、「差異性」をも崩壊させる。
何故なら、これらは二項対立的な概念に過ぎないからである。
「有る」という概念が、「無い」の一様態に過ぎない、という批判は、依然として「無い」を過大視している点で、「有る」に束縛されているのである。
上記の記述から、マルティン・ハイデッガーが全生涯をかけて繰り広げた、かくも名高い「存在論的帝国主義」(レヴィナスの表現を借用すれば)は、宗教システムにおける「悟り」=「差異性の解体」によって、崩壊を来たすのである。
また、これはハイデッガーの事実上の弟子であったジャン=リュック・ナンシーが、『複数にして単数の存在』において主題化していた、「共-存在(集合体)」という概念が、実は「現-存在(単体)」の複数化に過ぎず、あくまでも「現-存在」に依存している点でハイデッガーの呪縛から逃れていないということも明るみに曝け出すのである。
「存在(有)」とは、宗教システムにおいては、ただ単に「神」を規定する「概念」であるに過ぎない。
「存在(有)」は、あくまでも「非-存在」であるところの「無」の対立概念であるので、「悟り」=「差異性の解体」には到達していないのである。
歴史とは、絶え間ない「差異」の署名である。
すなわち、「差異」は常に微分化しつつ、「反復」を好むという、ドゥルーズの主張は確かに正しいのである。
しかしながら、彼はあくまでも「差異が反復を伴う現象」であるということ、すなわち、明日起きることは、今日起きたことの何らかの微分的差異を含んだ「反復」であるということを暴き出したに過ぎないのである。
「反復」というのは、「同じことの繰り返し」ではなく、それは「微分的差異」による連続体であるということが、ドゥルーズの主張である。
これは「輪廻転生」を、「同じことの繰り返し」ではなく、「常に更新されていく反復」として捉える、いうなれば宗教的な時間論の性質をも持つ学説なのである。
実際、ドゥルーズが『意味の論理学』で示唆している新しい時間論は、ウロボロスの蛇のような構造を持って循環しているのであるが、この蛇は常に脱皮し合い、同じ地点には留まらないのである。
「反復」とは、まさに歴史である。
何故なら、歴史は、微分的差異を持って進むからである。
そして、「悟り」においては、「今、ここ」は意味をなさない。
「今、ここ」は、「昔、そこ」などといった差異性を新たに生む座標だからである。
「悟り」は、脱歴史的な概念として、「永遠」と同じものであるとされるが、「永遠」は、まさに「時間」の概念の上に成立する虚構であるので、あくまでもこれは人間によって捏造された概念に過ぎない。
「悟り」とは、そういう「永遠」と「時間」という構造的対立の、外部にあるのである。
「悟り」とは、「時間」が「永遠」に包摂されているという構図を、無効化するのである。
かくして、「今、ここ」も、「昔、そこ」も、同じものであるに過ぎなくなる。
『ウダーナヴァルガ』において、このことは、「一切の相が滅びてなくなること」として記されている。
すなわち、「永遠」も、「時間」も、無いのである。
ただ、「無上の静けさ」がある。
これこそが、何者にも作られるざる「心の安らぎ」であり、あらゆるかたちに支配された心が晴れ渡る、「ニルヴァーナ」=「キリストの復活」の心理システムにおける一致に他ならない。