宗教における「悟り」について


『スッタニパータ』の「犀の角」の章には、極めて重大なメッセージが宿っている。
これから私は、カトリック教会におけるミサの「集会」という性質について考えてみる。

「集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め」



この「犀の角」とは、仏教学における世界的権威であり訳者の中村元氏の素晴らしい解説によれば、「犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりで、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ」という意であるという。

私はカトリックの信徒であり、今後もそのようにして生きていく。
けれども、それは仏教の教えについて無知であるということであってはならない。

さて、「集会」であるが、いうまでもなくカトリック教会には「ミサに集う」という性質がある。
安息日になると、信徒はミサに与る。
それはいわば信徒の暗黙の掟であって、そこで聖体拝領を受け、一週間の自分の行為、或いは過ち、良かったことなどを内省し、神に祈る。
この時、信徒たちは精神的には「キリストの体」という表現で示されているような「一体感」を持つのが理想であるとされる。
実際、パウロも書簡でそう述べている。

しかし、ブッダの教えを記した『スッタニパータ』によれば、「集会」はむしろ迷妄を生む場所として規定されている。
キリスト教と仏教で、根本的に異なるのは、前者が超越を外部に設定するのに対し、後者がそれを主体の内面性において認める点である。
換言すれば、キリスト教では、世界の創造主としての神を自己を越えた外部に認めるが、仏教は、主体の内面性の卓越において「悟り」の境地を認めるのだ。
二つとも、超越的な概念を教義に持つが、求める場所が違うのである。
キリスト教は隣人へ、己に石をぶつける敵へ、すなわち「外部の他者」へと向かう。
仏教は、むしろ孤独な内面における超越へ、すなわち「内部の他者」を求めるのである。

ゆえに、仏教には「集会」は必要ない。
これには個人主義的な傾向があるが、カトリック教会で時どき観察できるような、「信徒同士の小さなイザコザ」は回避できる。
教会といえども、コミュニティである以上は必ず衝突が起きる。
ひたすら内面を静かに磨きたい信徒にとっては、ミサはむしろ騒々しい寄り合いにしか過ぎないのである。

「罵らず、害わず、戒律に関して己を守り、食物に関して適当な量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。――これがもろもろのブッダの教えである」



ここにも、「淋しいところにひとり臥し、坐し」とある。
これは内面の深奥を静かに求めることに最大の力点があると感じられる記述であり、環境に支配されない、動じない心を想定していると思われる。
原理的にいえば、「悟った者」、すなわち、内部における超越を維持している信徒は、どこであっても、常に「悟り」の境地にある。
どれほど騒々しい場所でも、不動であり、安らかである。

「静かに思い、塵垢なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、――かれをわれはバラモンと呼ぶ」



仮にここで、「おちついているということ」を「悟り」における第一の性質と規定するのであれば、例えば映画を観るのが好きな男性がいて、それを観る時だけは常に「安らぎ」を感じるのであれば、彼にとって「映画を観る」という行為は、「祈り」を代理しているのであって、すなわち、その行為において確かに心は「悟り」に達しているのである。
絵を描く人で、描いている時だけは何故か「おちついている」のであれば、そしてそれによって魂が浄化されるのであれば、彼にとっての「悟り」の境地は、「絵を描く」というその「行為」にある。
「おちついていること」が、仮に「何もしないこと」、すなわち「呼吸のみして、静かに坐すこと」にあるとすれば、彼にとっての「悟り」は、「何もしないこと」にある――これは一般的に「瞑想」や「祈り」と定義される。

このように、『スッタニパータ』には、「煩悩を去る」こと、ないし「静かに思うこと」、あるいは、「心に関することにつとめはげむ」といった表現に見られるような、「心の平安」に「悟り」を見出すという共通のフレームが存在していることが浮き彫りとなる。
そして、その境地に達するためにすべきことも既に書かれている。
それは「塵垢なく、おちついて、為すべきことをなしとげ」という言葉にもあるように、何らかの「行為」である。
この「行為」には、石の上に坐して、「瞑想」するということも無論、含まれる。

だとすると、「悟り」に至るプロセスは、まさに千差万別である。
十人十色の「悟り」のシステムが用意されている。

「自分がしてもらって嬉しいことを他者にもしなさい」という、あらゆる普遍宗教に見出される共通原則を看取することはいうまでもない。
そういう、ホッブズの「自然法」的な宗教規則は、どの宗教にも見出される。
そして、キリスト教も仏教も、共通して「心の平安」を重んじる。

宗教儀礼における差異として際立つのは、仏教ではその教義に「集会」の義務がないことだ。
カトリックでは、ミサは守るべき宗教的義務である。
この「集会」を、仏教はキリスト教ほど欲していない。
むしろ、内面における「心の平安」をより重視する。

「心の平安」が、宗教に見られる共通原則である。
そのためのプロセスに差異があるのだ。
真理は一つである。
真理というのは、他者と自己の差異性の崩壊である。
すなわち、「わたし」が「世界」であり、「あなた」が「わたし」であるということを、概念化し、かつ心理的にも常態化させるということ、これである。
このための方法論に、差異が認められるという現象一般、これが「宗教」である。

ゆえに、「宗教」における教祖が偉大なのは、彼が「神」の代理的存在だからではない。
そうではなくて、彼が「わたし」は「あなた」であり、「あなた」が「世界」である、そういう「融即的な差異性の崩壊」=「唯物論と精神論の差異の崩壊」=「他我と自我の差異の崩壊」をメッセージとして伝達したからである。
このように、宗教における「真理」とは、「差異」を、それを差異性として認めつつも、より高次の概念へと包括するということである。
「あなたの家」は、「わたしの家」の二倍ある、だから「わたし」は「あなた」が「羨ましい」というような状況があるとせよ。
この時、主体は「差異性」に支配されている。
主体は他者と自己を明確に差異化し、他者の財産と自己の財産を比較し、はてはそこから享受できる幸福の量や質まで差異化する。
これが「憎悪」や「怨嗟」の根源であるが、全ては「わたし」と「あなた」の差異化に根本的な本質がある。
しかし、内部的超越にせよ、外部的超越にせよ、普遍宗教はこうした「差異化」を解消するために、世界に存在するあらゆるものを「わたし」に賦与する。
「わたし」は全てを既に持っているし、「あなた」も持っている。
何故なら、「わたし」にも「あなた」にも「差異性」が成立しないからである。
このようなことを認識する境地を「悟り」と呼称する。
ゆえに、「悟った人」は、すなわち仏教における「ニルヴァーナ」は、あるいはキリスト教における「キリスト」は、共に世界の全てを「分有」し合うのである。
新約におけるパンの無限分割も、たんに神の全能性のメッセージに留まらず、「自己」と「他者」における差異化の抹消を、すなわち人間の「一性」を表現するのである。

「悟り」とは、「わたしの国」と、「あなたの国」の差異性を崩壊させる。
より一般化すると、「悟り」とは、全ての二値編成的概念、二項対立、及び差異化の原理を解体するものである。
「集会」を嫌う者は、それを「嫌う」ことで「集会」に束縛される。
しかし、「集会」を「独り」においても実践できる者は、最早それに束縛されない。
このように、「悟り」は厳密にいえば、世界中のどこにでも観察できる差異化のシステムをその根元から解体するものである。

「ニルヴァーナ」と「復活」の等根源性



普遍宗教における「悟り」とは、「心の平安」である。
「心の平安」とは、「わたし」と「あなた」の差異化の解消であり、「わたし=あなた」が「世界」である、ということに他ならない。
「心の平安」というのは、ケルト神話における神樹信仰(わたしの木)に近い。
ケルト民族の古くから伝わる伝承によれば、彼らは幼年時代にそれぞれ一人で森へ向かい、そこで迷いつつ、「わたしの木」を見出して村へ帰還する。
このような「森」を持つ環境性は、日本列島が古来より樹木に囲まれた島であることと共通しており、いうなればケルト民族と日本民族の共通した「癒しの志向性」を知る手掛かりになるのである。

「自分の木」というのは、現代の日本社会に置換すると、ベランダや窓際で誰もが育てることのできる「観葉植物」や、庭の「小さな草花」とみなして良い。
大切なのは、「心の平安」、すなわち「悟り」における心理システムと、「わたしの木」信仰における「癒し」に接点があるということなのである。
「わたしの木」の、この「木」とは、いわば「あなた」と「わたし」を繋ぐ接点、媒介項、宗教的メディウムである。
同時に、「木」には並べて、安らかに、静かにただ光合成をして、環境の厳しさに対して受苦の姿勢を見せるという性質がある。
植物には動物と違って、「不動性」とはいわないにせよ、心理的に「安穏」を感じさせる何かがあるのは確かである。

例えば、古い木の内部が空洞で、その中で幼い頃に不思議な少年と御話をした、というような謎めいた現象において、我々が何よりも惹かれるのは「木の中で話す」ということではないだろうか。
「木の中」において安らぎを見出すのは、我々がかつて、樹上生活者であった頃の太古の記憶がDNAに書き込まれている証なのである。

このように、普遍宗教における「悟り」の境地において、「わたしの木」は極めて重要な力を持っている。
今度は、「感興のことば」として知られる仏典『ウダーナヴァルガ』を開いてみよう。
そこには、以下のようにされている。

 

「修行僧は安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、迷いの生存の束縛を断ち切る」

「こわれた鐘が音を出さないように、汝が自分を動揺させ(煩悩を起こす)ことがないならば、汝はすでに安らぎ(ニルヴァーナ)に達している。汝はもはや、怒り罵ることがない」

「鹿の帰るところは原野の奥であり、鳥の帰るところは虚空であり、分別のある人々の帰するところはことわり(義)であり、もろもろの真人の帰するところは安らぎ(ニルヴァーナ)である」

 



ボルヘスがその語の響きそれ自体を美として謳歌した「ニルヴァーナ」とは一体何か?
ニルヴァーナというのは、実はキリスト教においても既に生起している現象である。
何故なら、普遍宗教に観察できる各教義の「差異」に関わらず、「真理=悟り」はそうした「差異性」を根本から解体するからである。
ゆえに、仏教における「ニルヴァーナ」という「語」は、実質的には「意味」しか持っていない。
実体は、キリスト教においても同じものとして存立しているのであり、ただ「語」の、すなわち「名」が異なるだけなのである。

『ウダーナヴァルガ』では、「ニルヴァーナ」、すなわち「悟り」について以下のように記されている。

「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみからも全く解脱する」

「さとりの究極に達し、怖れることなく、疑いがなく、後悔のわずらいの無いひとは生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である」



この「最後の身体」は、新約における「復活後のイエス」と交換可能である。
私が企てているのは、キリスト教と仏教のそれぞれの教えの「差異」の解体であり、宗教一般の本質への急迫である。
ルーマンがその画期的な『宗教論』で述べていたように、宗教とは自律的なシステムである。
互いにそれぞれ影響を受け合いながら共に進化してきたのが各宗教システムであるが、それらは全て同じ「原形質」から構成されている。
私が記したいのは、この宗教一般の「原形質」である。

宗教における「悟り」は、哲学的には「超越」として規定される。
しかし超越というのは、心理システムに還元すれば、「わたし」=「あなた」=「世界」という、この三つの等号による三位一体を心理システムと一体化させるということに他ならない。
このような状態にあって、主体は「安らぎ」に達するのである。
これを仏教は「ニルヴァーナ」と呼ぶ。

存在論的な見地から述べるのであれば、「有る、ということ了解している主体」、すなわち「現-有(現-存在)」と、そのようなことを「忘却している」(実存規定としての、いわゆる有の忘却)主体の「差異」を崩壊させるということが、すなわち「悟り」である。
それは依然、神の属性の一つに過ぎない「有」の支配からの脱却である。
また、同じように、これは「有るということ(有)」と、「有ることをしているもの(有るもの)」の「差異性」、すなわち名高い「存在論的差異」をも崩壊させる。
また、『哲学への寄与』におけるテーマの核心である、「有る」ということと、「無い」ということの、「差異性」をも崩壊させる。
何故なら、これらは二項対立的な概念に過ぎないからである。
「有る」という概念が、「無い」の一様態に過ぎない、という批判は、依然として「無い」を過大視している点で、「有る」に束縛されているのである。

上記の記述から、マルティン・ハイデッガーが全生涯をかけて繰り広げた、かくも名高い「存在論的帝国主義」(レヴィナスの表現を借用すれば)は、宗教システムにおける「悟り」=「差異性の解体」によって、崩壊を来たすのである。
また、これはハイデッガーの事実上の弟子であったジャン=リュック・ナンシーが、『複数にして単数の存在』において主題化していた、「共-存在(集合体)」という概念が、実は「現-存在(単体)」の複数化に過ぎず、あくまでも「現-存在」に依存している点でハイデッガーの呪縛から逃れていないということも明るみに曝け出すのである。

「存在(有)」とは、宗教システムにおいては、ただ単に「神」を規定する「概念」であるに過ぎない。
「存在(有)」は、あくまでも「非-存在」であるところの「無」の対立概念であるので、「悟り」=「差異性の解体」には到達していないのである。

歴史とは、絶え間ない「差異」の署名である。
すなわち、「差異」は常に微分化しつつ、「反復」を好むという、ドゥルーズの主張は確かに正しいのである。
しかしながら、彼はあくまでも「差異が反復を伴う現象」であるということ、すなわち、明日起きることは、今日起きたことの何らかの微分的差異を含んだ「反復」であるということを暴き出したに過ぎないのである。

「反復」というのは、「同じことの繰り返し」ではなく、それは「微分的差異」による連続体であるということが、ドゥルーズの主張である。
これは「輪廻転生」を、「同じことの繰り返し」ではなく、「常に更新されていく反復」として捉える、いうなれば宗教的な時間論の性質をも持つ学説なのである。
実際、ドゥルーズが『意味の論理学』で示唆している新しい時間論は、ウロボロスの蛇のような構造を持って循環しているのであるが、この蛇は常に脱皮し合い、同じ地点には留まらないのである。

「反復」とは、まさに歴史である。
何故なら、歴史は、微分的差異を持って進むからである。
そして、「悟り」においては、「今、ここ」は意味をなさない。
「今、ここ」は、「昔、そこ」などといった差異性を新たに生む座標だからである。

「悟り」は、脱歴史的な概念として、「永遠」と同じものであるとされるが、「永遠」は、まさに「時間」の概念の上に成立する虚構であるので、あくまでもこれは人間によって捏造された概念に過ぎない。
「悟り」とは、そういう「永遠」と「時間」という構造的対立の、外部にあるのである。
「悟り」とは、「時間」が「永遠」に包摂されているという構図を、無効化するのである。
かくして、「今、ここ」も、「昔、そこ」も、同じものであるに過ぎなくなる。

『ウダーナヴァルガ』において、このことは、「一切の相が滅びてなくなること」として記されている。
すなわち、「永遠」も、「時間」も、無いのである。
ただ、「無上の静けさ」がある。
これこそが、何者にも作られるざる「心の安らぎ」であり、あらゆるかたちに支配された心が晴れ渡る、「ニルヴァーナ」=「キリストの復活」の心理システムにおける一致に他ならない。