「オートポイエーシス的システムは、変化する構造を有するシステムであり、そこでオートポイエーシスを実現している環境との相互作用をとおして、継続的に選び出される変化のコースをたどっている」
by ウンベルト・マトゥラーナ
このように、オートポイエーシスであるならば、必ず異なるシステムとの交通を媒介にして、進化を行う。
しかし、カトリックはオートポイエーシスを容認不可能である。
それがカトリックの存在意義なのだ。
つまり、カトリックは普遍的であると称している限り、あくまで教義を変更することを認めないのである。
カトリックとは、システムであるが、環境ではない。
環境とは、この日本の多神教的な枠組みである。
現代のカトリック信徒の生活は、システムにおいてカトリックを有するが、彼らが暮らす環境においてはそれを有さない。
何故なら、安息日には教会でミサに参加するとはいえ、我々の毎日は社会とのコミュニケーションで成立しているのであって、社会システムにおいては、仏教もキリスト教も、共産党の人間もドゥルージアンもシステム理論を学ぶ学生も、皆等価だからである。
チャンネルは複合的に編成され、かつ強制的ではない。
これこそ、ルーマンが現代世界を「多中心的」と呼ぶ由縁に他ならない。
現代世界というよりも、これは彼の言葉をそのまま借りると「原罪以後の世界」である。
チャンネルの複合化は、けしてバベル化を意味しない。
チャンネルの中から、自分に最適のものを「選択」する「意志」が求められるという事である。
以上の分析から、我々はパラドキシカルであるが、やはりカトリックのチャンネルを必要とする。
「カトリックである」、ということは、イエスからの導きであるというよりも、むしろあるシステムを自分に貼付させることに他ならない。
それは世界の「意味」構成の編成である。
キリスト教徒でなければ、「ノアの箱舟」をただ文学的な事件として把捉すればそれでいい。
だが、信徒はこれを「事実」として対峙するのである。
もう一つの仮説を提示する。
それは、現代世界において、「キリスト教的異端」は終焉に達したという事である。
異端は存在しない。
何故なら、異端はどこにでも存在するからである。
キリスト教があらかじめ周縁的である日本においては、正統的、異端的というディコトミーも、最早社会的事件ですらなく、単なる個人史の問題になる。
中世ヨーロッパ社会においては、環境がシステムと一致していた。
だが、現代は環境とシステムが、キリスト教においては一致していない。
そうであるばかりか、ここは繰り返すが日本であって、日本にキリスト教が導入されたのは南米にピサロたちが上陸し、彼らの美しい文化、宗教を破壊し尽くして強制的な洗礼名を与えた時代とほぼ一致する。
我々は、輸入されたチャンネルを自らの人生に選んだのである。
だが、パウロはイエスの教えは国境を越えると繰り返していたし、パウロ自身が、実はユダヤ教の神学者であって、キリスト教の迫害者としての前歴を有するのである。
「正統的/異端的」というコード化も終わった。
だとすれば、我々にとって、キリスト教は最早、宗教ですらないのではないか。
それは、アナクロなファッションがもう一度密かに流行するような、一つの「身体性(=内面が外面に現出するものとしての身体性)」の獲得に過ぎないのか。
我々はこの重要な記事において、一貫して「カトリックの外に立つ視点の重要性」という問題を主張した。
それはルーマンの言葉でいうと、「セカンドオーダー・サイバネティクス」となる。
これは、以下のように記述される。
すなわち、メディアは、メディア自身を観察できないのである。
メディアが自己観察するためには、メディアの外部からの観察が必要である。
TVが、どれほどTV自身を観察し、自己批判しようとも、それは所詮、TVの中でのTV観察にしか達し得ない。
TVを真に観察するのは、「TVとは表現形態が完全に異なる別のメディア」(例えば書物、ないしWeb、あるいは識者同士のディスカッションetc)が必要不可欠である。
観察という概念は、観察されるものが、観察するものと一致しない。
観察は、観察するものが、観察されるものの「外部」に立たねばならないのである。
これが「セカンドオーダー」であることの「観察」概念の真意である。
カトリックのメディア・システムにおいて、興味深いことが一つある。
ルーマンの社会システム理論を、キリスト教神学の概念素に還元すると、彼のいう「観察者」こそが、キリスト教でいう「神」になるということである。
というのは、キリスト教神学では、神は世界を創造したことになっている。
神は世界を創造してそのまま放棄したのではなく、直接世界を「観察」しながら世界に「介入」している。
「介入」「侵入」の最高形式が「イエス」という神の「受肉」である。
ここで観察者は、およそ人間が味わう最高の屈辱と身体的拷問を、あえて受けることにより、神のメッセージとしての「互いに愛し合いなさい。神を愛しなさい」という二つの重要な愛の掟を残したのであった。
観察者は人間の心理システムを御存知である。
観察者は「涙」に訴え、「涙」を利用する。
彼女=彼は、人間が涙を流すのはいかなる時かを、人間を創造したがゆえに、熟知している。
すなわち、人間が最も「落涙」する瞬間とは、「ひとが、愛するひとのために、自ら死へ向かう」、かの時に他ならない。
ところで、観察者にとっては世界の総体が観察対象であるわけだから、「愛するひと」とは、「世界に存在する全ての隣人たち、全人類」にまで達する。
故に、ヨハネによる福音書で、以下の美しい表現が記されたのである。
「神は、御子をお与えになるほど世を愛された」
観察者は、このように直接的に世界に「介入」している。
しかし、重要な事は、神は世界の「外」から世界を「観察」しているということである。
神がもしも、世界の内側から世界を観察しているのであれば、それは「観察者」ではない。
何故なら、「観察」するためには、「外部」のフィールドを仮説的にであれ策定しなければ、この概念の意味内容と不一致だからである。
ゆえに、神とはルーマンのいう「セカンドオーダー・サイバネティクスの観察者」そのものである。
この場合、観察対象とは、「世界」である。
したがって、神は「世界の外」に存在する。
同時に、観察しているさ中で、各個人の生活世界に、直接的に「隣人」を媒介にして「介入」し続けている。
レヴィナスが、神の神性を隣人の「顔」が担う、と断言できたのは、これに由来する。
神は、観察者の最高形式であり、神を観察できる「サードオーダー・サイバネティクス」は存在しない。
このように、一神教の核心であり最高概念である「神」とは、メディア論的に還元可能であることが開示される。
一神教 システム理論
「神」 「セカンドオーダー・サイバネティクスの観察者」