一神教とシステム理論

カトリック教会というのは、カトリックという教義、階層性、信徒と非信徒のコミュニケーションそれら全てを内包した宗教システムである。
我々はこれから、この我々の精神的、信仰的基盤である「カトリックである」という存在論的規定を、我々なりにディコンストラクトする。

その上で重要なのは、徹底的にニクラス・ルーマンである。
ルーマンの『マスメディアのリアリティ』を読んでいるうちに、私の中である考えが形成され始めた。
それは、宗教システムそれ自体が、つまりイスラム教や仏教やヒンドゥー教といったキリスト教以外のほかの宗教システム全てが、実は「メディア・システム」のコードであるという着想である。

ルーマンは『社会システム理論』の中で、自身のシステム理論が生体内部のネットワークを前提にしていることを明示している。
確かに、彼の理論はある細胞と隣り合う別の細胞のニューラルネットワークの交通を、社会にまで応用した理論であると考えられる。
その場合、パラケルススの考えていたような、マクロコスモスとミクロコスモスの同時的、交叉配列的把捉が試みられているのであって、ルーマンの目からしてみれば、都市の中には必ず銀河が帰属され、この銀河は同時に細胞の中に存在する諸機能のネットワークと姉妹関係にあるのみか、むしろ同じ構造変化を繰り返していると規定されるのである。

ルーマンのシステム理論を応用すれば、キリスト教と仏教の差異などは何の意味も持たない。
重要なのは、システム理論的な見地に立つと、キリスト教と仏教が同じくメディア・システムの一つであり、隣り合う細胞であるということである。

現代はWeb2・0社会といわれ、書物を読む人間が、Webの中で書物を読まない人間を支配する時代といわれている。
このような流動性の高い、変動する進化の時代において、逆説的に「中世的な慣性法則」を人間の心理システムが希求し始めるという仮説を我々はこのブログで提唱した。
この「中世的な慣性法則」というのは、それが日常生活で生起する様々な感情のモメントと一致しつつ、人間形成において大きな触媒、成長の糧となるものであり、一言でいえば、宗教システムである。

我々は、日本という多神教の国家で生きているカトリック信徒である。
日本という国家で、カトリックが占める割合は少数であり、つまりマイノリティであって、デリダのいう「余白性(パレルゴナリティー)」に含まれる宗教システムである。
西欧文明においては、今でもキリスト教が根強く文化・思想を支配しているといわれる中で、それを同じように東洋人である我々が踏まえる事には何の意味も無い。
我々東洋は、キリスト教を批判できるほどにはまだキリスト教と共に時間を過ごしていないのである。

だが、現代世界において「カトリックである」ということを、ひたすらカトリックの教義システムの内部でのみ観察することは不可能である。
我々には、「カトリックとは‐別の形式で‐カトリックについて解体する意志」がどうしても必要であり、それによって初めて、カトリックの意義が明確化するのである。

カトリックの世界というのは、いうなれば一つの「円」である。
ただし、この円とは同心円である。
円の中心には核があり、この核が「隣人愛/復活/赦し/最後の審判」といったキリスト教神学上の重要概念を包み込んでいる。
いわば、宗教システムの根源が、このように円形の核として表象される。
このような教義を信じる信徒の「日常生活」は、この核の周りに地層を形成するようにして、あくまで同じ「円構造」ないし「球体構造」を維持しつつ同心円状に拡大する。
生活世界とは、教義としての完璧な円を、絶えず個人が「翻訳/体験」するプロセスに他ならない。
仮に、歪な楕円形になれば、完璧な円に立ち戻って軌道修正する。
円は円である限り、すなわち中心に円を有する限り、三角形や四角形に構造変化することはない。
これがカトリック教会が「閉鎖系のメディア・システム」であるとする我々の最大の主張である。
カトリックの信徒、及び中世の農民や修道士たちの精神構造というものは、何か日常で問題が生起すると、それを必ず「円に帰還する」ことでしか対処し得ない。
「円」に帰還することが、すなわち「赦しの秘蹟」であり、「悔い改め」であり、「祈り」である。
信徒の人生というのは、この「円」の完璧な直径を常に維持しつつ、なおかつ常に更新される心理システムを、この「円」と同じ直径にならしめる、ということに尽きるのである。
ここには、「円」が絶対的に「正方形」に「なる(システム変換)」ということはない、という問題性が存在する。
「円」は「円」以外になることをなしたまわない、それは信徒から非信徒へのシフトだからである。
これはすなわち、「同一性」であって、「中心化されたシステム」である。
カトリックは日常生活のシステムと、教義システムの絶え間ないコミュニケーションであるが、それはこの二つのシステムのネットワークに絶対的に依拠し続けている。
故に、これは1950年代から60年代に流行したルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィのシステム理論の操作子である「インプット/アウトプット/スループット」にコード化された宗教システムであると考えられる。

カトリックは、「~してはならない」という掟を有する。
例えば、我々は結婚する前にセックスをしてはならない。
もしも掟を破れば、彼女がどれほど愛しい人間で、どれほど愛していても、カトリックの掟は二人の相思相愛を引き裂くことをなしたまう。
これは「インプット/アウトプット」式に二項対立化した思考回路に他ならない。
すなわち、ある行為/出来事を、ある教義システムが判別し、それを「正統的/異端的」のディコトミーに振り分けるのである。
これはベルタランフィ的であって、システム理論的には生体内部のネットワークにまでは達していないといわざるをえない。

キリスト教は善悪の二元論に立っている。
キリスト教の教義にとって、善とはイエスへの道であり、悪とはサタンへの道である。
それは厳密に体系化され、システム管理されているが、結局は善悪二元論に立っている。
たとえ「悪を行う」ことを善が後に「赦す」としても、あくまでマニ教的な二元論の亡霊に憑かれているのである。

キリスト教は、自らを二元論的ではないと主張している。
キリスト教、とりわけローマ・カトリック教会は、法皇を頂点とする階層性のシステムであるが、それは二元論的ではないというのである。
二元論的ではない、という教会の主張は、教義において自らがいかなる二元論的な思考をも開示していない、ということなのであろうか。
しかし、バチカンの公式文書でありカトリック中央協議会が発行している『カトリック教会のカテキズム』の体系は、「善き人間」と「悪しき人間」に差異を持たせた上で、その二元論を隠蔽しているとも考えられる。
キリスト教には、間違いなく、異端として自らが退けたものを内部に吸収、体内化している現象が存在しているのであって、現代の神父の能弁さの中にも、決定的な二元論的思考の痕跡が窺えるのである。
仮にキリスト教が二元論的ではないと断固主張しても、神の属性には既に「善」がある。
「善」が神の属性である限り、その対立概念であるサタンは「悪」であるとされる。

二元論が暴力化する場合も聖書には存在している。
創世記において、イヴ(女性)はアダム(男性)の肋骨から創造された。
パウロの書簡においても、彼は女性に劣位的な「謙遜」を重んじるように諭している。
カトリック教会は、「男/女」を対等に扱っていない。
もしも扱っているというのであれば、「女性‐司祭」が誕生せねばならない。
だが、アポカリプスに見られるように、「欲望」「誘惑」「淫乱」といった人間的な欲望は、全て「女性化」されて表象されてきたのである。
それは、まるでアダムと同じ性別を有するキリストに近づける存在者が「男性」に限られ、女性はその補佐的存在としての「マリア」か、それとも誘惑者に初めに惑わされた「イヴ」ないし、イヴ以前の女性という伝承が存在する「リリト」、ないしもっと端的にいえば、色気と魅惑的な姿形で男性を死に至らしめる「サロメ」といった女性像に触れざるをえないのである。
マリアは神ではなく、神であるイエスの母親であり、神が宿った子宮の持ち主である。
マリアは無論、あらゆる聖人の中の頂点に立って尊敬と愛慕を集めている。
しかし、「マリア/女性の中で最も祝福された御方」に対して、「イエス/世界を創造した全能の父なる神の受肉せる人性」という対比を見た場合、明らかに「男性優越」が見て取れるわけである。
ここには、男性が優越している構造を女性自身が受け入れているという、性差の二文法の無邪気な「受苦」の姿勢が見えるのである。
これは「神は男性でも、女性でもない」という『カトリック教会のカテキズム』の主張と本質において矛盾するものであり、ゆえに教会は「男/女」のディコトミーにあくまで束縛され、パラドックスを抱えながら存続しているといえるのである。

現代のカトリック信徒は、カトリックとは何かを外部の視点に立って知らねばならない。
今、我々が考えている理論は、ルーマンの思考回路に未だ全面的に依拠しているものであるが、それは次のような形式でまずもって記述される。
すなわち、キリスト教カトリックとは、メディアの「チャンネル」である。
隣のチャンネル番号には、例えばマルクス主義がある。
その隣はというと、ラカン派の精神分析学である。
つまり、カトリックを一つのイデオロギーのシステムとして考える時、カトリックの中心的な円構造は止揚され、隣り合うほかの巨大な円構造の存在に触れるのである。
これらの諸円の核同士が互いに糸で結合され、ネットワークを形成する。
しかし、重要な事は、カトリックが「相互浸透」「構造的カップリング」を認可できないということだ。
相互浸透というのは、ある細胞Aが隣の別の細胞Bに相互に刺激されて、相互に進化、構造変化することである。
細胞BはDと、細胞AはCともリンクしているので、これは結局細胞全体にまで及んだ構造変化を意味する。

「オートポイエーシス的システムは、変化する構造を有するシステムであり、そこでオートポイエーシスを実現している環境との相互作用をとおして、継続的に選び出される変化のコースをたどっている」
                   by  ウンベルト・マトゥラーナ



このように、オートポイエーシスであるならば、必ず異なるシステムとの交通を媒介にして、進化を行う。
しかし、カトリックはオートポイエーシスを容認不可能である。
それがカトリックの存在意義なのだ。
つまり、カトリックは普遍的であると称している限り、あくまで教義を変更することを認めないのである。

カトリックとは、システムであるが、環境ではない。
環境とは、この日本の多神教的な枠組みである。
現代のカトリック信徒の生活は、システムにおいてカトリックを有するが、彼らが暮らす環境においてはそれを有さない。
何故なら、安息日には教会でミサに参加するとはいえ、我々の毎日は社会とのコミュニケーションで成立しているのであって、社会システムにおいては、仏教もキリスト教も、共産党の人間もドゥルージアンもシステム理論を学ぶ学生も、皆等価だからである。
チャンネルは複合的に編成され、かつ強制的ではない。
これこそ、ルーマンが現代世界を「多中心的」と呼ぶ由縁に他ならない。
現代世界というよりも、これは彼の言葉をそのまま借りると「原罪以後の世界」である。

チャンネルの複合化は、けしてバベル化を意味しない。
チャンネルの中から、自分に最適のものを「選択」する「意志」が求められるという事である。
以上の分析から、我々はパラドキシカルであるが、やはりカトリックのチャンネルを必要とする。
「カトリックである」、ということは、イエスからの導きであるというよりも、むしろあるシステムを自分に貼付させることに他ならない。
それは世界の「意味」構成の編成である。
キリスト教徒でなければ、「ノアの箱舟」をただ文学的な事件として把捉すればそれでいい。
だが、信徒はこれを「事実」として対峙するのである。

もう一つの仮説を提示する。
それは、現代世界において、「キリスト教的異端」は終焉に達したという事である。
異端は存在しない。
何故なら、異端はどこにでも存在するからである。
キリスト教があらかじめ周縁的である日本においては、正統的、異端的というディコトミーも、最早社会的事件ですらなく、単なる個人史の問題になる。
中世ヨーロッパ社会においては、環境がシステムと一致していた。
だが、現代は環境とシステムが、キリスト教においては一致していない。
そうであるばかりか、ここは繰り返すが日本であって、日本にキリスト教が導入されたのは南米にピサロたちが上陸し、彼らの美しい文化、宗教を破壊し尽くして強制的な洗礼名を与えた時代とほぼ一致する。
我々は、輸入されたチャンネルを自らの人生に選んだのである。
だが、パウロはイエスの教えは国境を越えると繰り返していたし、パウロ自身が、実はユダヤ教の神学者であって、キリスト教の迫害者としての前歴を有するのである。
「正統的/異端的」というコード化も終わった。
だとすれば、我々にとって、キリスト教は最早、宗教ですらないのではないか。
それは、アナクロなファッションがもう一度密かに流行するような、一つの「身体性(=内面が外面に現出するものとしての身体性)」の獲得に過ぎないのか。

我々はこの重要な記事において、一貫して「カトリックの外に立つ視点の重要性」という問題を主張した。
それはルーマンの言葉でいうと、「セカンドオーダー・サイバネティクス」となる。
これは、以下のように記述される。
すなわち、メディアは、メディア自身を観察できないのである。
メディアが自己観察するためには、メディアの外部からの観察が必要である。
TVが、どれほどTV自身を観察し、自己批判しようとも、それは所詮、TVの中でのTV観察にしか達し得ない。
TVを真に観察するのは、「TVとは表現形態が完全に異なる別のメディア」(例えば書物、ないしWeb、あるいは識者同士のディスカッションetc)が必要不可欠である。
観察という概念は、観察されるものが、観察するものと一致しない。
観察は、観察するものが、観察されるものの「外部」に立たねばならないのである。
これが「セカンドオーダー」であることの「観察」概念の真意である。

カトリックのメディア・システムにおいて、興味深いことが一つある。
ルーマンの社会システム理論を、キリスト教神学の概念素に還元すると、彼のいう「観察者」こそが、キリスト教でいう「神」になるということである。
というのは、キリスト教神学では、神は世界を創造したことになっている。
神は世界を創造してそのまま放棄したのではなく、直接世界を「観察」しながら世界に「介入」している。
「介入」「侵入」の最高形式が「イエス」という神の「受肉」である。
ここで観察者は、およそ人間が味わう最高の屈辱と身体的拷問を、あえて受けることにより、神のメッセージとしての「互いに愛し合いなさい。神を愛しなさい」という二つの重要な愛の掟を残したのであった。
観察者は人間の心理システムを御存知である。
観察者は「涙」に訴え、「涙」を利用する。
彼女=彼は、人間が涙を流すのはいかなる時かを、人間を創造したがゆえに、熟知している。
すなわち、人間が最も「落涙」する瞬間とは、「ひとが、愛するひとのために、自ら死へ向かう」、かの時に他ならない。
ところで、観察者にとっては世界の総体が観察対象であるわけだから、「愛するひと」とは、「世界に存在する全ての隣人たち、全人類」にまで達する。
故に、ヨハネによる福音書で、以下の美しい表現が記されたのである。
「神は、御子をお与えになるほど世を愛された」

観察者は、このように直接的に世界に「介入」している。
しかし、重要な事は、神は世界の「外」から世界を「観察」しているということである。
神がもしも、世界の内側から世界を観察しているのであれば、それは「観察者」ではない。
何故なら、「観察」するためには、「外部」のフィールドを仮説的にであれ策定しなければ、この概念の意味内容と不一致だからである。
ゆえに、神とはルーマンのいう「セカンドオーダー・サイバネティクスの観察者」そのものである。
この場合、観察対象とは、「世界」である。
したがって、神は「世界の外」に存在する。
同時に、観察しているさ中で、各個人の生活世界に、直接的に「隣人」を媒介にして「介入」し続けている。
レヴィナスが、神の神性を隣人の「顔」が担う、と断言できたのは、これに由来する。

神は、観察者の最高形式であり、神を観察できる「サードオーダー・サイバネティクス」は存在しない。

このように、一神教の核心であり最高概念である「神」とは、メディア論的に還元可能であることが開示される。



 

一神教            システム理論
「神」     「セカンドオーダー・サイバネティクスの観察者」




以上のような図式を踏まえると、「TVの閲覧」行為それ自体が、実は構造的にはシナイ山でのモーゼからの十戒の伝達と同一であることが解明できる。
ニュースキャスターは、あるニュースを伝達するメッセージの運び役であり、それは預言者と神の関係と同じである。

では、我々がニュースを観察するように、信徒も神を観察可能なのであろうか?
これは興味深いことに、マスメディアを通して可能なのである。
マスメディアは、世界で生起する諸事象をコード化・意味賦与して伝達するシステムである。
マスメディアは、あるモードにおいてのみ世界を観察する。
それは神のように絶対的な観察ではないが、少なくとも起きた事件を選択する能力を持っている。
故に、正確にいえば、信徒は神を観察不可能である。
マスメディアをどれほど複合化しても、世界を完全に観察する事はできない。
TV、Web、書物、人間同士のコミュニケーション、沈黙せる絵画、どれを用いても、世界を完全に観察不可能である。
マスメディアの「観察」は、神の「観察」とは異なり、有限的で取捨選択的であり、同時に意味強制的である。
神は、マスメディアの最高形式である。
神のような「観察」がマスメディアには不可能であるがゆえに、神とはいうなれば、「超越論的なマスメディア・システム」であると規定可能である。