N・ルーマンの宗教論
 

なぜ、ルーマンか?

我々カトリック信徒が、「これから新しく生きる」ためには、何を学ぶべきなのか?
キリスト教の脱構築が西欧文明で叫ばれている現代世界において、我々が取り組むべき対象は、徹頭徹尾、システム理論である。
システム理論といっても、それはMITのメディア・ラボの学科長が書いたような、「システム」という意味規定を不明確にしたまま表層的に用いるような論客を対象としているわけではない。
我々の対象は、20世紀最高の社会学者の一人である、システム理論に画期的な躍動をもたらした、ニクラス・ルーマンである。
だが、カトリック信徒は、ルーマンにどのようにアプローチすべきであろうか?
それが我々の課題である。
ルーマンは、確かに「宗教論」を幾つか残しているし、彼の妻は、おそらくキリスト教徒である。(80年代に彼が書いた『宗教社会学』の冒頭に、妻のことが記されており、そこに妻と信仰が深く結びついていたことをほのめかしている)


まず、以下のルーマンの見解を読んでみよう。

「世界は、もはや一つの集合体でも、普遍的な事物ではなく、むしろコミュニケーションのあらゆる可能性の指示地平である」
(『宗教論』)

「現代社会は、ポリツェントリッシュ(多中心的)/ポリコンテクスチュラル(二値編成複合的)=多数のコンテクスチュア(二値編成)から成る、システムである」
(『ポストヒューマンの人間論』所収「近代科学と現象学」)



フッサールが我々に提示した「思考モデル」というものがあった。
それは、我々の表現でいえば、「オニオン状」である。
すなわち、原的体験を、種子として、そこに様々な知覚体験が包摂されていくという操作、進化の渦である。
フッサールの純粋意識にまで到達した直後から、我々のこの「オニオン状」の意識の包摂は開始されている。
より明確に表記すると、例えば幼稚園の頃に、砂場で城を作ったとせよ。
その城が、やがて彼女が大人になった時に、建築された建造物として再現前化するのである。
たとえ対象が全く異なるマテリアで構成されていたとしても、彼女の純粋意識は、その「建造物」の種子に、間違いなく幼年時代の「砂の城」を残存している。
すなわち、原的体験の有限的翻訳として、人生は存在するというのが、フッサールの『イデーン�』の核心であるばかりか、原始現象学のスタート地点であった。

ルーマンは、この「オニオン状」の思考フレームを棄却する。
というよりも、いっそう厳密にいえば、アウフヘーベンしている。
ルーマンの提示するモデルは、システムの編成である。
ルーマンの思考フレームには、「進化するシステムとしての世界」という前提が間違いなくある。
例えば、ある都市に住んでいるという事実A。
次に、その都市の内部にある家の屋根に、烏が止まっているという事実B。
次に、その烏が、三秒前に突然死して路上に落下したという事実C。

上記の事実A~Cは、全て「システム」として構成されている。
まず、都市というのは、一つの「環境」である。
この「環境」の内部には、諸システムが存在する。
アスファルトの脇に育っている雑草の光合成も、この環境に属するシステムである。
烏の突然死は、それが突発的なものであれ、間違いなく都市という「環境」内部で生起し、この烏は同時に、環境内に生息していたのであるから、烏自体が、すなわち烏という生命体の生態系自体が、ここにおいては環境内部なのである。
「環境とシステムの差異」というのは、ルーマンが『社会システム理論』の重要な第一章で詳しく述べている基礎定立である。
環境が、システムを内包するのであるが、実はよりマクロな視点に立てば、その環境自体が、より巨大な環境のシステムとして存在している。
大阪という都市は、日本列島における都市的システムのひとつである。
日本は、世界の中の国家的なシステムのひとつである。
地球は、太陽系のシステムのひとつである。
このように、全ての事象、事物が、システムに内包されているか、或いはそのシステムの操作子として機能している。
ルーマンは、これを「システムの外は存在しない」という強力な概念でメッセージを発している。

では、「システムの進化」とは何か?
ルーマンという学者は、無論タルコット・パーソンズの元、ハーバードで学んだ若干アメリカ式の社会学者であるように感じられるが、その論理的な文体は、ドイツ的である。
ルーマンは、本人も認めているが、自らのシステム理論の理論的な祖を、なんとチャールズ・ダーウィンに設定している。
ダーウィンの進化論を、彼は「システム」に置換しているのである。
それは思考フレームの単なる移動に留まらない。

「全てのシステムが示す構造というのは、“過去”に発し、その過去はその発生の諸条件と、その“最高の時”を、おそらくは背後に持っている」
(『宗教社会学』)

「システムレベルでの進化は、“ゆるやかな連結”と呼ばれるものを要求する」
(同書)



ここで、ルーマンは、システムの進化について、「連結」と述べているが、これはどこかドゥルーズのリゾームにおける「捕獲装置」を彷彿とさせる。
ドゥルーズの概念の最深部においては、彼はニューラルネットワークの思考フレームを現前させていた。
ルーマンは、これをよりいっそう厳密に記述している、といえるのではないか。

ここで、ルーマンの「宗教観」を読んでみよう。
ルーマンは、宗教を棄却しているのではない。
むしろ、この脱中心化された、システム編成の時代において、唯一不変の地位を維持し続けている伝統的なメディアコード「ローマ・カトリック教会」に賛同する。
それは、ルーマンの理論の感性的帰結である、といえる。
しかし、ルーマンの理論の延長上には、唯一の絶対的な「神」などは存在しない。
むしろ、神すらもが一つのメディア・コードなのだ。
したがって、イエスの声とはまさしくメディアの声であり、モーゼにシナイ山で呼びかけた主も、同じくメディア・コードの一本に過ぎないと規定されるのである。

「宗教は全社会のレヴェルでは、最早機能上必須ではない。
ただ時たま召還される、補佐的道連れに後退している」
(同書)



これと似たディスクールは、既にマルクスが若い頃に述べている(より苛烈な表現で!)。
また、ルーマンの「聖書」についての考え方も極めて重要で有益である。

「宗教的なもの、特殊な意味形式として、つまり神的なもの、聖なるものとして“記述されてきたもの”は、規定不可能なものを、規定できるものへと変換する、“暗号化”のプロセスの結果として把捉される」
(同書)



以下に引用するのは、ルーマンのシステム理論から投げかける、カトリック教会への「批判」である。
これこそ、我々カトリック信徒が眼を向けるべきテクストである。

「暗号は、起源を覆い隠し、起源の代理をする。
暗号は、それが意味するところのものについて、標識が表したもののように、交換可能ではない。
“神”が、最早無効なら、一度“金銭”で試してみる、ということは、宗教にはできない」
(同書)



我々カトリック信徒は、当然「一本の柱」を持って生きている。
すなわち、「イエス様の道」を歩く、しかも「共に歩む」という敬虔な道だ。
それは曲がり道も多いだろうし、複雑な迷路の森も存在する長く険しいものであろう。
ルーマンがいっていることは、仮に「宗教では解決できない問題」に我々が直面した時に、その「宗教システム」を、別の次元のシステムに変換できるか否か? という操作のことをいっているのである。
一直線に受験勉強している人間が、それで見事合格できれば良いだろう。
だが、全ての人間が合格するわけではないのである。
神は、必ず被造物には「エラー」と感じられるような道をも用意される。
神は、そうやって、我々を愛しておられることを自ら確認されるほど、偉大なる御方だからである。

ルーマンは、世界には「中心的な一本道しか存在しない」という中世から続く思考回路を批判しているのである。
その権化こそが、キリスト教だったわけである。
だからといって、キリスト教という伝統性の一本道が否定されているわけではない。
注意深くルーマンを読むと、彼がこのようなことを述べていることにも気付くはずだからだ。

「歴史は、神との対話として反省される」
(同書)


ルーマンは、けして妻の精神的な拠り所を批判しているわけではない。
そうではなくて、彼はシステム理論においても、現代のカトリック教会が重大な存在意義を世界に与え続けていることを、パラドキシカルに表現しているのである。
これは、現代の神学書なのである。
ルーマンは現代の神学者である。
彼の「観察者」の概念は、神学的コードを捨象しようとしても、必然的に「神」と一体化している概念として現前せざるをえないのである。
FC2 Management FC2 Management