「終末が到来する時の状況について預言者が告げたこと、
すなわち偽メシアや地上を這う動物の出現、
ゴグとマゴグの出現、
イエスの天からの再臨、
および太陽の西からの上昇は真実である」
これ、読んでいてなにか気付きませんか?
実はこれ、同じく12世紀のキリスト教の修道院長フィオーレのヨアキム(1135?~1202)の終末思想とほとんど、というか完全に同じですね。
ヨアキムの思想の核心は、聖三位一体でも聖愛でも隣人愛でもありませんでした。
彼は、旧約と新約に登場する全ての数字に独自な意味賦与を行って、アンチ・クリストの到来年度を計算したことで史上名高いですよね。
「1260年」という彼の予言は見事当たりませんでしたが、何故、12世紀にイスラム教とキリスト教で、これほどの著しい「同一性」が見出されるのでしょうか?
少し調べると・・・・・・。
日本でもかなり有名な出村彰氏の『総説キリスト教史』(あの長大な三巻本ですよね)には、12世紀ルネサンスのことがけっこう判り易く記されています。
12世紀というのは、システム理論的にいえば、「構造的カップリング」の時代ですね。
つまり、イスラム・コードとキリスト・コードから、それぞれの線が伸びだして相互に連結し、思想的な意思疎通が働いたわけです。
西欧圏では、有名な「アリストテレスの大翻訳運動」が始まりましたよね。
それまでプラトニズムが西欧の思想を呪縛していたのですが、なんとプラトンの最大の弟子を再発見したのは、イスラム教神学者のおかげだったんですね。
中世のキリスト教社会を調べている上で、とりあえず「基礎必読文献」というのがあるわけですね。
例えば、ルクレールの『修道院文化入門』がそうです。
その中で、彼が「誘惑」について、かなり重要な概念を述べているので、これを今読んでいるひとや、キリスト教についてもっと勉強したい! という西洋好きなひとのために書き添えておきます。
「神は人間を誘惑する許可を悪魔に与えるが、
それは賢明なる計画によってであり、誘惑の結果生じる恩恵のためである。
誘惑は、意向を清めるべくかきたて、humilitasにさせる。
誘惑こそが高慢の治療薬なのである。
それゆえにこそ、神はこの危険を受け容れるのである」
humilitasは、ルターもマグニフィカート論で概念化していましたが、「謙遜」ですね。
これは自己否定とか自己卑下ではなく、よりよき自分への前進の意味を宿した「謙遜」です。
実はルクレールが引用しているこのテクストは、大グレゴリウスの神学に拠ります。
大グレゴリウスの教えは、彼の名前が消え去るほど現代のカトリック教会に生きているといわれています。
さて、話をもとに戻しましょう。
イスラム教で有名な神学者について学ぶことは、実はキリスト教について深化させることでもあるんですね。
11世紀の名高いイスラム神学者アヴィセンナ(イブン=シーナー)の世界の創造論にも、私なんかはけっこうデジャ・ヴュを感じるわけですが、皆さんはどうでしょうか?
「創造とは、神の自己の本質に対する思惟作用である」
神即世界ではなく、まず神があり、その本質において「世界」を宿している、ゆえに「世界」とは神御自身の「意識」の変遷史に他ならない、というわけですね。
これは西欧側の、例えばヒュームの有名な『自然宗教についての対話』などでも確か取り上げられていた考え方だったはずです。
一番私が驚愕したのは、イスラム教のある一派のコーランに対する解釈です。
聖書は、基本的に「無から有るものを創造した」という発想ですよね。
コーランには、なんとルクレティウス的な「原子論」的解釈をゆるす箇所がある、という考えがあり、そこから一派が生まれました。
つまり、「無から」ではなく、科学的に「素材から合成された世界創造」という点での、原子論ですね。
これはなかなか合理的な思考を生み出せるフレームではありますよね。
なにせ、コードの「合成」から世界創造の視座に立てるわけですから、有/無のディコトミーを少なくとも回避できますよね。
つまり、キリスト教的な二元論を克服する種子が宿っているわけですね。
イスラム教神学で面白い人といえば、もうこれはいうまでもないかもしれませんが、彼ですよね。
そう、ガザーリーですね。
ガザーリーについての専門書を読んでみたのですが、彼の神学は少なくともライプニッツと姉妹関係にあります。
予定調和であれ、最善世界説であれ、ガザーリーもライプニッツも半ば楽観論的に世界に生起するあらゆる「悪」は、神の大いなる計画の一部に過ぎないという発想ですね。
ガザーリーは、実は現象学的な思考も持っていたようですね。
これも有名ですが、彼はその宇宙論で、世界には肉眼で見える「現象界mulk」と、こころの眼でしか見えない「不可視世界malakut」があると規定しました。
これ自体は、別に大した考えでもありませんよね、少年時代には誰もが夢想する遊びです。
ただし、ガザーリーはこうもいっていますね。
「ムルクはマラクートの模倣/鏡である」
これは明らかにプラトニズムの亡霊を感じますよね。
これもあまりオリジナリティがあるとはいえませんね。
ただし、ガザーリーが以下のように書いた時は、どうでしょうか。
「ひとは睡眠中に、マラクート界を垣間見ることができる」
マラクートとかムルクとかいう「固有名」は捨象してかまいません。
重要なのは、彼が世界を「見えるものと見えないもの」(メルロ=ポンティ)に差異化し、その交通手段として、「夢」を登場させている点ですね。
これはあまりにもボルヘスに影響を与えているといわざるをえません。
ちなみに、ガザーリーはこの二つの世界の「中間」に心的システムとしての「jabarut」という世界があるといいました。
要するに、システム理論がまだ登場する以前の思想家たちは、世界とは何かを考える上で、それを「分ける」ことをしたかったようですね。
分けるという行為によって、それまで一つだったシステムが二つに分割され、相互に「観察」可能となります。
これをヒエラルキー式にピラミッドとして立てたのがプロティノスらネオ・プラトニズムの一派でしたね。
これは全く非合理的な世界論ですよね。
なにせ、世界は三角形で、上に上にエスカレーター式で上るためには~、などという条件を意味賦与しているわけですから。
ルーマン的に考えると、世界はただ複数のシステムで構成され、それぞれのシステムが自己準拠的に「進化」しているに過ぎません。
つまり、世界はこういう形をしているとか、天国/地獄、地上の国/神の国(アウグスティヌス)、ムルク/マラクート(ガザーリー)・・・・・・こういった分け方、区分、カテゴリーは全て意味を持っていません。
世界にはキリスト教というシステムもあれば、イスラム教というシステムもあり、また仏教というシステムもあり、それぞれが「等価」で、互いに少しずつ「引用」しながら「進化」しています。
それは、始祖鳥が鳩になるまでの生命の樹形図としてイメージすべきものです。
ルーマンはしかし、これらのシステムの「観察者」の概念を登場させていますね。
身近でいえば、もちろん「マスメディア」ですが、神学化すれば、「神」ですね。
以上見てきたように、イスラム教とキリスト教は地理学的な側面からも恩恵を受け合ってきたわけですね。
キリスト教神学を深く学んだ上で、イスラム教を読み始めると、そこにデジャ・ヴュを感じるのは自然なことです。
「信仰」の本質は、同じ人間ですから今も昔もそれほど変わりません。