ダンテ 『地獄篇』における「ウゴリーノ」をめぐって

地獄篇第33歌 「ウゴリーノ伯爵」について


『神曲』を俯瞰することなど今の私には不可能なので、まずウゴリーノについて書いておきたい。
ウゴリーノを語る上で、私は幾つかの操作子を設置しておく。
ウゴリーノとは、私にとっては「人物」という以前に、「状況性」であり、現代に通じる「神の死」、及び「教会の腐敗」を示した人物であるように思われる。
その理由を今から書く。


まず、ウゴリーノとは伯爵で、子供、孫のいる貴族だ。
彼はピーサの大司教ルッジェーリなる男に謀られて、子供らと共に塔に幽閉され、餓死させられる。
ここでまず、私は不可解だった。
大司教が罠をしかけているのである。
これは『地獄篇』を読んでいたときに感じていたことだが、ダンテの時代で既に、「神の死」は現前している。
それは端的に法皇の腐敗、教会の堕落、などとして象徴的に現れる。
『ヨハネの黙示録』でも、バビロン=ローマが娼婦として象徴化されている箇所があるが、最近読み始めた『煉獄篇』では、法王庁が娼婦として表現されている。


ダンテは法王庁を信頼してなどいない。
むしろ、今の私がウゴリーノにシンパシーを感じているように、作者も彼に寄り添うようにして書いたのではないか。
ウゴリーノを襲った悲劇は、太平洋戦争で実際に生起したような極限状況下での骨肉のカニバニリズムである。
父が子を喰らう。
ウゴリーノは絶食の苦悩に敗北して、その「鋭い犬のような歯」で子供たちの死肉を貪った。
注意すべきは、生きながらに子供を喰らったのではなく、ウゴリーノには最後まで父性愛があり、死肉となった子供の肉を食べたということである。
ウゴリーノは怪物ではない。
悲劇的な父親なのである。


不思議なのは、子供たちのかなり自己犠牲的な態度だ。
子供たちはまるでウゴリーノを怖れているとでもいわんばかりにこういう。

 

「父さん、父さんが僕たちを食べてくれたら、それだけ僕らの苦しみも減る」(61節)



これは怖れているというより、おそらく純粋に父親を気遣っている態度として読んでもいいのだろう。
よくできた息子だったのかもしれない。
ウゴリーノが最後まで餓死していないことを考えると、むしろ彼に「子供の死」を見せ付けるために謀られた策略なのかもしれない。
いずれにしても、ウゴリーノは我が子の死を次から次へと見届けた。
そして、自身も舌を噛み切るなどできずに、最後には畜生のように我が子の肉を喰らうのである。
これは確かに「地獄」である。
そして、私はここにキリスト教文学が描き出した「残酷さ」の、かなりのレヴェルのものを見出す。


ただし、繰り返すが、罠を仕組んだのはなんと大司教なのだ。
ウゴリーノの子供たちは嘆きながらこういう、この台詞は本来、大司教にこそ届かねばならないもののはずである。何故なら、子供たちはウゴリーノの(犯したであろう政治的な罪などの)問題と、無関係であるはずだから。

 

「お父さん、なぜ僕を助けてくれないの? 」(69節)




私は、このウゴリーノの子供の悲痛な声は、『地獄篇』そのもののテーマであるように感じる。
私は、『地獄篇』は、現代世界を象徴化したものであるという考えを持っている。
ウゴリーノの子供のこの声は、神から放任されたと感じて悲嘆するヨブの声を反復している。
つまり、ここで象徴化の高度のレヴェルにおいて、ウゴリーノ=神、ウゴリーノの子供たち=被造物としての人間、という構図が成立するのである。
無論、ウゴリーノは誰が見ても不完全な存在者ではあるが、ここで救いを差し伸べるべき存在者としての教会サイドの人間である大司教ルッジェーリが、そもそも彼にこのような苦悩を与えているということを想起していただきたい。
いうなれば、ある司祭が神に逆らう信徒を罠にかけて、彼に地獄のような苦痛を与えているというような具合として描かれているのである。

ルッジェーリは今、どうなっているのか?
ここが興味深いところだが、彼はなんと地獄においてウゴリーノに生首を齧られている。
ウゴリーノは自分の口についた、ルッジェーリの死肉の汚れを、ルッジェーリの髪の毛で拭っている。
ダンテと彼の頼もしい先輩であるウェルギリウスはその光景を見る。

要するに、ルッジェーリもやはり地獄へ堕ちたのだ。
ルッジェーリの罰はいうと、これは直接記されていないが、ここで彼の頭部がウゴリーノに食べられている以上、「自分が罠にかけて殺した男に逆に殺される」という罰である。
ウゴリーノは我が子を喰らうという苦悩を味わいながら死んでいった。
したがってルッジェーリも、「食べられる」という地獄のような苦悩を味わうように神に定められたのであろう。


いずれにしても、ここには腐敗した教会の姿が見えている。
そして、ダンテ自身も政治的な闘争に巻き込まれて、その苦しみが『神曲』構想に繋がるのであるから、ここではウゴリーノの姿にダンテがシンパシーを感じている、とみなした方が自然である。


ウゴリーノの苦悩は、『地獄篇』の中でも最も悲惨で、生々しい。
そうであるがゆえに、ここには『地獄篇』を安易に「絵」や「映画」のような視覚的表象で表出しようとする人間たちから守護すべき、文字言語による「何か」があるはずである。
ダンテは、ウゴリーノの塔のことを「憂いの牢獄」と呼称している。


これは繰り返したいのだが、私は『神曲』が文字で記された以上、文字で何かを掴み取るべきだと思う。
無論、ダンテをテーマにした絵画作品だけでも数知れなく存在するのだが、私がいっているのは、ダンテのイメージ世界を安易に「コミカル」なものとして把捉して、それをメディアに生産している者が日本にもそれなりにいるということなのだ。
これは直観であるが、ダンテの『神曲』の凄みは、むしろイメージの凄みではなく、もっと内面的で、詩的なものとして心に訴えるものであるように思う。
だから、私のこのダンテ研究においても、一切、絵を用いない。



第28歌 「ベルトラン・ド・ボルンについて」



ウゴリーノの苦悩のエピソードだけでは物足りないので、もう一つ凄まじいエピソードを紹介する。
とはいえ、この男にはそれほどダンテは筆を割いてはいない。
ただ、彼に与えられた罰があまりに表象においてショッキングであるので、ここに記すわけである。


ベルトラン・ド・ボルンは地獄に堕ちた者の一人で、フランスの貴族であり、イギリスの王子に父親へ反逆するように罠をしかけた、という程度のことしか記されていない。
彼は「胴体」と「首」が二つに切断されているが、胴体が首を掲げて歩行している。
挿絵を描いているギュスターヴ・ドレの絵は、映画としてもヒットしたトマス・ハリスの小説の文庫版『ハンニバル』の表紙絵である。
ちなみに、トマス・ハリスの創造したハンニバル・レクター博士は、ダンテの一流の研究家という設定である。
それは先にも記したように、レクターのカニバリズムとウゴリーノのそれが、どこかで接点を持つからなのかもしれないが、ここではまた別の話である。

私がこの奇怪な姿に関心を覚えたのは、「斬首」として洗者ヨハネとイメージがかぶるからだ。
斬首というのは、ヨハネにとっては常に女性原理の勝利を象徴すると私は考えているのだが、ド・ボルンの場合は、むしろ「首」を「堤燈のように提げて」いるので、それを前に突き出して「見せ付けている」ように思われる。
となれば、その首は、胴体による喪失された首の自己主張であって、なお奇怪である。
首を切断され、その切断されたという事実を、首のない人間が離れた首を掲げながら大勢の人間に演説しているとせよ。
それはやはり、極めて衝撃的であり、かつ、同時にコミカルである。


そう、ダンテはコミカルな側面も持っているのだ。
私には彼のこの姿がイメージとして怖くないが、実際に目撃するとやはりそれなりのインパクトを持つはずである。


そういえば、ニーチェは『悲劇の誕生』の後半あたりだったと記憶するが、スパルタ王クレオメネスの磔刑のイメージを描いていた。
彼の磔刑は、イエスより凄惨で、大蛇が無数に身体を覆っていたという。
ここには「死に様」において圧倒する美がある。
ド・ボルンのこの姿は、やはり美的なものとして解釈して良いのではないか。
神話的な「死に様」は、常に美しい。
例えば、ミレイの描いた自殺する直前のオフィーリアは、ラファエル前派が生み出した美の極北である。
人間の死は、彼が若く、同時に、その死が痛ましく劇的で、しかも視覚的である場合、「美」として我々に到来する。
ド・ボルンのような死を、例えばドリアン・グレイが受けたとすれば?
例えば、クレオメネスのような死を、高校生時代にクラスメイトだった友人が自ら選んだとすれば?


『地獄篇』は、別の視座に立てば、「死」の遊戯的なショーである。
様々な「死」についての神学的な研究書でもある。


私は、フランシス・ベーコンは一度くらいはド・ボルンをテーマにした絵を描いたと推測する。
或いは、これは楽しい想像であるが、レオナルドが、ド・ボルンの姿を仮に描いていたとすれば、これほど有名になるであろうものはなかったであろう。
なにせ、あのデッサン力である。

 



 

前回に引き続き、『神曲』の探究を再開する。

前回は、特に「ウゴリーノ」に『地獄篇』から感じられる最も深刻な苦悩を私なりに印象付けようと試みた。
それを受けて、私はCiNiの論文「
ダンテとチョーサー : ウゴリーノ伯エピソードをめぐって L'episodio dantesco di conte Ugolion in Chaucer」を読み、新しい発見の悦びを感じたのであった。
どうか、私と共に『神曲』を知りたい方は、この上に掲げた論文にも目を通して欲しいのである。


この論文を読んでいて知ったのであるが、実はウゴリーノについての文学形式における記述はダンテ以外でも試みられていて、チョーサーがそうであったという。
私はダンテの挿話としてのウゴリーノの苦悩よりも、「涙」を流して悲嘆するいっそう人間的なウゴリーノに共感を覚えた。
論文で記されているチョーサーの『カンタベリー物語』の中の「修道僧」にある、ウゴリーノの悲嘆の声をどうしてもここで引用しておきたい。
というのは、このウゴリーノの声こそ、私が心底欲していた魂の声であり、この地上を生き抜く時に「かけがえのないマナ」となりうる声だからである。
それは、実に以下のようにチョーサーの筆によって刻まれたという。

 

“ gllas, that I was wroght! "

(ああ、生まれなければよかった! )



ダンテの『神曲』と、チョーサーの『カンタベリー物語』のそれぞれのウゴリーノには差異があって、論文の著者は前者が「宇宙論的悲劇」であり、後者は「家庭的悲劇」に過ぎないという見解に賛成しているようだ。
私がこの論文を読む前に自分で訳文を読んで感じたウゴリーノは、ダンテの描いた描写だけで十分に「神学的な重さ」を持っていたといえる。
何故なら、ウゴリーノはルッジェーリという司教の「罠」にかけられて、餓死させられているからである。
万人を救うべき教皇庁が、ひとを窮地に落とし込む存在と化していること自体で、既にして問題的なわけだ。

チョーサーはダンテを敬愛し、師を知るためにウゴリーノの挿話を自分なりに解釈したという。

また、これはどうしてもこの記事を読んで下さっている方にも報告しておきたいのだが、実はウィキペディアで調査したところによれば、ウゴリーノが幽閉されたのは彼が齢七十前後の時だったそうで、そうなれば高確率で彼が子らを喰らったという話は虚構ということになる。
これは二十一世紀に入ってからの当時の痕跡に基づいたDNA鑑定などからも唱えられていて、ほぼ「ウゴリーノ=人食い」という通説は崩壊したといっていい。
実はボルヘスが『「神曲」講義』という本を刊行していたのだが、その中で私はウゴリーノが「食べたのか、食べていないのか」というような記述に出会った覚えがある。


ただし、これははっきり書いておきたいが、私は文学的にはウゴリーノに食べていて欲しいわけである。
その方が、史実に基づいた強烈な力をダンテの描いた『地獄篇』にも与えたはずだから。
ダンテの研究家は、今では「ウゴリーノは子等を食べていない」と考えるに至っている。
けれど、訳文で見る限り表現は曖昧だ。
右にも左にも解釈可能である。


いずれにしても、ウゴリーノは地獄でルッジェーリを喰らっている。
それは実際に記されている。
生前の悪行に類似した行為を、地獄で反復させられるという構造が『地獄篇』にはあるので、ウゴリーノが子等を食べたということがダンテの創作として登場していてもおかしくないと私は思う。


私がむしろ心に刻みたいのは、チョーサーの「生まれなければよかった! 」という、やはりヨブ的な台詞だ。
ウゴリーノには、どこかヨブ的な側面がある。
というより、私が知っている限りで、物語の中で「生まれた日そのものを呪う、死んでもいい」と絶叫したのは――それも「光」そのものを喪失した闇のさ中でそう悲嘆し得たのは――ヨブとウゴリーノだけである。


ウゴリーノの「憂いの牢獄」についてだが、私はこれがどこか現代人に通じるような気配を感じる。
「憂いの牢獄」は、例えば学校に行けない不登校の生徒であったり、職場で大きな傷を負い、自宅でほとんど療養といっていい生活をしているような若者たちにとっては、どのような意味を持つだろうか。
これは私が高校時代や、洗礼志願期間に主として自室や堤防で感じていた孤独にも通ずるのだが、まさに私は、いつだったか淀川の河川公園にポツンと立つ一本の樹木を見て、そこに「吊られた男」をイメージした。
そう、その逆さ吊りの男とは、私である。
私はウゴリーノと状況は違えど、同じ内的な叫びを発していた。
その余韻は今でも魂に残響しているのであり、私はその「残響」を宿しているからこそ、生きていくことができるのである。
私は「憂いの牢獄」を、「閉じられた内面世界」として解釈する。


だが、私は思うのだが、私にはウゴリーノのように「生まれなければ良かった! 」と思っている器官が必要なのである。
魂に構造があるとすれば、どこかの器官では、私はウゴリーノのような音楽を宿していたいのである。


或いは、より正確にいえば、ひとはウゴリーノであるからこそ、『天国篇』を意志できるのではないだろうか。
『天国篇』にしか興味のないような楽天的な人物こそが、真に堕落した盲者に他ならない。
『天国篇』の崇高さは、『地獄篇』にいる例えばウゴリーノや、ド・ボルンといった地獄の亡者たちに支えられている気がしてならない。

ウゴリーノのメロディーを宿しているからこそ、「光」をその本質において受け取ることもまた、可能なのではないだろうか。