ジュディス・バトラー



 

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱 ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
(1999/03)
ジュディス バトラー

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現代思想 10月臨時増刊 ジュディス・バトラー 現代思想 10月臨時増刊 ジュディス・バトラー
(2006/10)
不明

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「起源のパロディ的な反復によって、起源というものがそもそも、自然や起源という観念のパロディでしかないことが明らかとなる」 by バトラー

青土社が刊行している「現代思想」の必読書の輝かしき一冊に、ジュディス・バトラーのこの『ジェンダートラブル』が入っている。
第一章を、レジュメを作成しつつ綿密に読解している期間、私は「読書」というよりも、「自分の部屋が拡大する」感覚を抱いたのだった。
正直、これほど綿密に思考が発酵していく過程が綴られている本は、フッサールの『イデーン』以来である。

書かねばならないことはきっと沢山あるだろうが、今回は特に印象的だった彼女の思考フレームの部分にスポットライトを照射する。

まず、問いを立てよう。
「意味」とは何か?
意味とは、ある対象に賦与されるものである。(フッサール)

男性性と女性性の内実が「何か」といったものは、「意味賦与作用」に依存する。
意味賦与作用は、時代/文化/政治が策定する、変動的な操作である。
ルネサンス期の「女性」と、21世紀初頭のアメリカの「女性」は同じではない。

前提として、フェミニズムがフロイトの生物学的決定論を排し、言語決定論(認識論的に言語から性差が生まれると規定する)に立っていることを想起しておこう。

既にバトラーの思想を竹村和子女史(バトラーの翻訳者)の『フェミニズム』などで、前奏として紹介されていたので、理解はスムーズに進んだように感じる。
私がここで書いておきたいことは、バトラーが「マトリクス」や「関数要素」という術語を用いていた点である。

バトラーに拠ると、セクシュアリティは、「法A/権力B/言説C」の各バッファ変数に「何を」代入するかによって弾き出される論理和のようなものだ。
折りしもドブレの「メディオロジー」をモデルで図示していたので、バトラーの「マトリクス」のフレームもこれに類似した何かとして把捉することができた。
セクシュアリティの決定は、これら三つのコードの関数要素で変化する。

 

 

「言語身体を絶え間なく様式化していくこと――それがジェンダーである」



ここで、「言語身体」という術語を用いていることに改めて注意を向ける必要はあるだろうか?
フェミニズムは、先述したように、生物学的性差ではなく、認識論的なシステムによって、「性差」なるものが構築されるという基礎に立っている。

何度も例示してきたが、再びフェミニズム的思考実験として紹介しよう。

「女性は必見!女の子のための可愛い部屋特集!」

上記のようなキャッチフレーズの情報Aがあるとせよ。
この時、バトラーという巨人が注目するのは一箇所のみである。
すなわち、「女性とは何か?」。

この例で「女性」とは、生物学的性差から解釈された旧来の「女性」のことだとするなら、この宣伝文句は反フェミニズム的である。
バトラーは、この宣伝文句を作成した人間が、どのような観点で「女性」と「そうではない他者」に差異化をもたらしているのかを冷静に、緻密に、この上なく天才的に分析する。

「女性性」というものは、「男性性」が存在する時にしか存在しない。
男女の性差の問題が生み出すものは、二項対立式の思考フレームによる「他者」の産出である。
「私は男性である。ゆえに、私は女性ではない」――このような論理が自然に社会的に埋め込まれ、結果的に、我々は社会が偽造した意味のコードに人生を支配されて「意味」を束縛されて生活せざるをえない。
が、繰り返すが、これらは「構築」されたものである。
ルーマンは、「認識は常に構築される」と述べている。

どういう性質が「女性的」であるのか、どういう気質が「男性的」であるのか、それを策定するのは社会/文化である。
つまり、「意味」が我々の身体に賦与されているだけに過ぎないのである。
このような視座に立つと、モニク・ウィティッグが「女特有のエクリチュールは存在しない」と述べたことも理解されるだろう。
「女特有の小説だ」という言説一つ取り出しても、これを主張する人間が有する「女」の意味内容は、社会が彼が幼少期から無意識にまで刷り込んできたものなのである。

これは男性にも相当する。
男性とは、生物学的に雄であるということではない。
そうではなくて、意味を偽造して権力的に対象に貼付する概念として、「男性性」は存在するのである。
我々は、日記を書く時、或いは何か物語を書いてみる時、「私」を無意識に生物学的な性差に依存させてはいないか?
何故、それに束縛される必要などあろうか?
繰り返すが、性差を決定するようなフレームなどどこにも無い。
性差は意味の生産地帯であるテクストから表出する架空の構築物であるに過ぎない。

ドゥルーズは、「少女に<なれ>」と『千のプラトー』の名高い生成変化論で主張していた。
この生成変化の真相を知りたい読者には、本書の読解は責務といって良いだろう。
根本的に、ドゥルーズは父権構造の支配にまで目を向け、社会が構築したジェンダーを「トラブル(撹乱)」させるという一歩まで踏み込んでいない。
構築されたものは――すなわち意味が生産されたものは――それを「衣服」としていつでも脱衣させられる思考フレームが必要だったのである。

ここに三つの点があるとせよ。
一つ目は、「法」だ。
二つ目は、「権力」、そして三つ目は「言説」だ。
これら三点を線で繋いだ三角形という「面」から、セクシュアリティが産出されるのである。
各三点の位相座標が変化すれば、当然「女性性」や「男性性」の意味内容も変化する。
したがって、「女の子の部屋特集」とか、「メンズ・ファッション」といった言葉は、語義的かつフェミニズム的な解釈からして、常に不可能でありミステークである。
こうしたマスメディアが流すキャッチコピーの暴力こそが、「自分は男で、ある」といった存在論的決定論、生物学的決定論(これら双方は共にバトラー曰く、父系列エコノミーである)を生み出し、身体と意味のはざまで苦悩する人を作り出すのである。
フェミニズムは、レズビアニズムやゲイに肯定的であり、それらを解放する理論的基礎としても有効である。