歴史哲学についての異端的論考 [原書名:KAC´IRSK´E ESEJE O FILOSOFII DEJIN〈Patocka, Jan〉 ]
ISBN:9784622073260 (4622073269)
278p 19cm(B6)
みすず書房 (2007-09-14出版)
・パトチカ,ヤン【著】〈Patocka,Jan〉・石川 達夫【訳】
[B6 判] NDC分類:201.1 販売価:4,830(税込) (本体価:4,600)
夜と戦争と死の時代であった20世紀に向けて立てられた終わりなき問いと答え。
フッサールとハイデガーを継ぐ哲学者が民主的チェコと人類の歴史に残した遺産。
歴史哲学についての異端的論考
前史的考察
歴史の始まり
歴史に意味はあるか?
ヨーロッパと、十九世紀末までのヨーロッパの遺産
技術文明は堕落したものか?そして、それはなぜか?
二十世紀の戦争と、戦争としての二十世紀
『異端的論考』への、著者自身の解説
「フッサールにおける科学の技術化の危機と、ハイデガーにおける危機としての技術の本質」
パトチカ,ヤン[パトチカ,ヤン][Patocka,Jan]1907年、チェコ・東ボヘミア地方のトゥルノフ生まれ。プラハのカレル大学で学び、ソルボンヌに留学後、カレル大学で哲学博士の学位取得。1930年代にフライブルクでフッサール、ハイデガーに師事、カレル大学で大学教員資格を得る。ナチスのチェコ侵攻によって大学が閉鎖された後は高校教師となり、戦後、大学に戻るが、1950年にはチェコ共産党によって大学を追われ、マサリク研究所などに職をつないで1968年に復職するも、ソ連の軍事介入後の1972年にふたたび教職を解かれ、出版も禁止される。1977年、反体制運動の中心メンバーの一人となり、ヴァーツラフ・ハヴェル、イジー・ハーイェクらと共に「憲章77」を起草。その活動によって逮捕され尋問ののちに逝去。
石川達夫[イシカワタツオ]
1956年東京生まれ。東京大学文学部卒業。プラハのカレル大学留学を経て、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。神戸大学大学院教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
パトチカとは誰だったのか?
パトチカは二〇世紀、チェコ最大の哲学者である。
○昼について
彼は「昼」と「夜」という概念を登場させている。
意味としては、「平和=昼」であり、「夜=戦争」である。
しかし、彼は夜ではなく、むしろ昼に潜在する夜について徹底的に論じる。
戦争を生み出すのは、むしろ昼であると。
実際、戦争前夜、「これに勝てば自国に有益である」という昼的な観念が国民に流布される。
夜が、新しい昼のために、いわば昼の道具として利用される。
彼はそれを、「平和の支配」と呼んでいる。
そして、昼の支配圏域においては、戦争への意志が常に潜在しているとする。
○オルギアについて
「オルギア」とは、エクスタシーを伴う狂乱の秘儀のことである。
彼は、プラトニズムがうまくオルギアを克服した思想であることを「思想の流れ」に沿って観察していく。
しかし、それは完全に超克されたのではなく、むしろ残存しているのである。
オルギアは「責任」という概念によって管理される。
しかし、オルギアは『饗宴』における「エロス」の概念として痕跡化する。
キリスト教はプラトニズムを下地にして成立した宗教だが、実はオルギアはここにも残存している。
キリスト教においては、オルギアは「隣人愛」と「赦し」の概念によって管理される。
しかし、それは「極限まで抑圧されている」のであって、やはりオルギアは残存しているのである。
「オルギア的なものは除去されるのではなく、統御され、従属的なものにされる」(p169)
これについては、デリダが『死を与える』で、パトチカを敷衍しつつ「喪」の概念として先鋭化してもいる。
パトチカの宗教観は極めて秀逸である。
彼は、宗教は、哲学的に解決されない限り、いつまでもクリプト化されてしまうものだと述べる。
人間の本質としてオルギアがある限り、それをいかに超克しているかを「外部」から眺める装置として、宗教以外に、哲学という窓が必要なのである。
そして、このことで、彼は「自ら聖なるものを内的に支配する」と述べている。
宗教というものを、自分で理性的に管理するということの重要性を彼は力説するのである。
○フッサール×ハイデガーに対して
パトチカの両者への読みは、両者の思想の差異を知る上で極めて有益である。
パトチカの解析をモデル化すると、下の図のようになる。
ハイデガーモデル
「有」 「白バラ」
存在論的現象 → 存在的現象
【隠蔽性】 【現出】
ハイデガーもフッサールも、共に「有るもの」の根本的な踏み越えを意図してそれぞれの理論を構築した。
ハイデガーは、眼前にある「白バラ」の現出は、「有」が「白バラ」というマテリアに受肉した形態であると解釈する。
すなわち、「有るもの」の本質は「有」であり、この双方の差異、つまり存在論的差異を説明するのである。
フッサールモデル
「白バラ」
「超越論的主観」 → 存在的現象
【現出】
対してフッサールは、「有るもの」が実在している、という事実を完全に遮断した後、一体最後には何が残るかを思考して、その定式として「意識」をあげる。
したがって、「有るもの」がどのようにあるか、もしくはないか、といったことは全てひとえに「意識」に依拠する。
これによって、ハイデガーと同じく、「有るもの」の「現出」の様態が、それぞれの方法で克服されている。
しかし、ハイデガーの存在論は、フッサールのエポケーほど自由度が高いわけではない。
ハイデガーの規定する「現有」は、死に挑む有り方をしており、死によって有限的に世界に実存している。
一方、フッサールのエポケーは、実在論的地平を無限に自由に遮断するのである。
つまり、双方とも「現出」概念に新しい視点を導入している点で同一であるが、その克服方法に差異があるのである。
双方の差異は、テクノロジーに対する視点にも現れる。
フッサールはテクノロジーに対して否定的な見解を持つが、ハイデガーは、技術の進展が逆に「真理」を開示させると述べる。
例えば、Web2・0期におけるGoogleの超利便的なテクノロジーによって、根本的に事物の「距離」や「速度」の概念が革新された。
これによって存在論的差異の抹消線化は加速化し、有が忘却され始める――これは逆に「真理」から遠ざかることのように見えるが、現有の実存規定には最初から定義として「有の忘却」が含まれていることを想起しよう。
すなわち、存在論的差異が忘却され始めるほどにテクノロジーが高度化することも、真理の姿なのである。
フッサールの晩年の概念である「生活世界」に「技術」の概念を持ち込んだハイデガーの功績は大きい。
パトチカは技術論に対してはハイデガー寄りである。
テクノロジーの加速度的進化によって、有の深みが喪失され、技術性が存在論にとってかわる。
これによって「ひと=マリオネット」化が進行する、と目下パトチカは予言していた。
※ちなみに、パトチカはフィンクの友であり、フッサールに学んだ第一次世代である。