若きアドルノ、若きデリダ、それぞれのフッサール読解
アドルノの方が現象学に対しては従順だったのではないか。
デリダの修士論文は最初から最後までフッサールを「批判」的に読解しているが、アドルノは順々になぞっている印象である。
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○「木そのもの」は燃えても、「知覚された木そのもの」は燃えるか?(アドルノの問い)
アドルノはここにスポットを当てている。
「木そのもの」というのは、還元されていないものだ。
「知覚された木そのもの」は、還元後である。
ここに差異がある。
結論から述べると、「木そのもの」が燃えていなくても、「知覚された木」は燃えることがあるのだ。
何故か?
エポケーされているからである。
我々の心的システムは、『イデーン』を既に読んでいるユーザーにはいうまでもないが、対象に「意味」という外皮を被せる機能を有する。
意味論的なこの皮膜が、「知覚されたもの」である。
アドルノのいうように、「エポケーをしても現実性は何の変化もない」。
エポケーというのは、要するに本質直観、純粋意識の獲得作業である。
これは作業概念である。
したがって、作業後と前とで、事物の「見え方」が差異を有するのだ。
同じ人体模型でも、少女Aは「お化け」と信じ込み、少女Bは「ただの理科室の道具よ」と主張する。
少女Aを支持するのがフッサールである。
フッサールは、「それが実質的に何であるか」などは別にどうでもいいと断言する。
この操作を「遮断」つまり、エポケーというわけだ。
フッサールが問題視するのは、「どのように意識がそれを把捉したか」だ。
つまり、少女が「お化け」という意味の皮膜を「人体模型」に覆わせた、というこの意味賦与作用に着目する。
真理というのは、実はこの意味賦与作用から生起する。
アドルノも敷衍しているように、「真理は我々の人格的意識の連関の中に究極の基準を持つ」のだ。
意識が世界の中心である。
意識がどのように神を把捉するか、で神そのものも変容する。
これが現象学、というよりも『イデーン』の核心である。
例えば、リアル/バーチャルの差異もここでは意味がなくなる。
あるオンラインゲームを現実世界だと虚構的に直観することは可能である。
そういう人にとって、世界とはそのゲームの内部となる。
ここで、「他者の自我」つまり、アルター・エゴが問題となる。
「私の意識」が中心であれば、他者は究極的には抹消されるだろう。
が、フッサールはこれを「間主観性」の概念で克服する。
エポケーによって獲得されるのは、むしろ超越論的主観性というより、超越論的間主観性である。
間主観性とは、自我=他我の領域ではない。
そうではなくて、自我が、つまり意識が、他者の言説や動作の中に、自同性のtrace(痕跡)を抽出し、自我の内部で他者の自我を創造することである。
「感情移入」の概念がここで重要となってくる。
アドルノが結論として述べているのは、徹底的なエポケーは、( )に入れる、という表現自体を無意味にさせるということだ。
我々は志向的な生き物である。
意味を創造し、意味を剥奪するのも社会との駆け引きの上において自由である。
こうした中で、常に私であり続けようとする自同性原理ではなく、「他者」原理に重心を置かせたレヴィナスの思考プロセスは瞠目に値する。
フッサールが20世紀の哲学者に与えたインパクトの大きさを物語る本の一冊だ。
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○私の起源に到来するものとは何か?(デリダの問い)
若い頃のデリダの精緻な読解は素晴らしい。
というのは、この本の「序論」だけでも、既にデリダの思想の萌芽が見出されるからだ。
まだ全て読み切れていないが、あまりにも深い考察に敬意を表して、ここにレジュメを記念として刻んでおきたい。
既にノートを作っているのだが、もう一度、更に要約しておこう。
デリダは、「エポケー」の後について、やはり考えている。
アドルノは「エポケー」の操作をなぞり、それをフッサールに従って説明していただけに過ぎない。
が、デリダは「エポケー」後、世界の「起源」として抽出されるはずの「私の純粋意識」に疑念を抱く。
「それは果たして本当に私の意識か?」
起源としての純粋意識は世界に意味賦与作用を施す「はじまり」である。
だが、「意味賦与作用」をするためには、既に意味の体系的システムがレディメイドなものとして存在していなければならない。
「起源としての純粋意識」は、意味賦与作用という操作において、必然的に他者の意味論的システムに依存するのだ。
換言すれば、「起源としての純粋意識」の更なる起源が存在する。
それは、デリダによって「自己の異他性(etrangete)」として既に概念化されている。
世界の真理の起源はどこにあるのか?
フッサールはこれに一応の結論を与えた。
要するに、「意識」である。
「私にとって神がいなければいないし、いるのであればいる」のである。
が、この「意識」は既にコミュニケーションの言語学的なシステムに依存している。
それを構築したのは前時代の他者であり、端的に言葉を教える「母」である。
「私の意識」の発生の問題は、常に「母の口ぶり」まで回帰する。
ところで、「母」とは肉親であるが、哲学的には他者である。
私が「意識」を成立させる土台を与えた存在者に、エポケーという操作は依存しているのだ。
自我の起源には、こうして幼年時代、更には口唇期の「母」との目配せによるコミュニケーション、ないし母のまどろみの中で誘うようなメロディーにも近い歌声が到来する。
自我の起源は、「母」である。
ちなみに、デリダはこれを「絶対的他性」と規定している。
絶対的他性が、赤子の「意識」を構築するのである。
つまり、他性がここで、同一性へと変換されるのだ。
このように、全ての人間の「意識」の起源には、何らかの形式で、その「意識」の基礎を与えた存在者が立ち表れることになる。
これを神学的な文脈に移行させると、「母=神」となる。
神とは絶対的他性でありつつ、万人に普遍的に偏在する点で絶対的同一性の概念をも担う。
起源に「絶対的他者」としての「母型」を設置することで、「意識の起源」の問題が持つ怖ろしい無限遡行を(デリダは“無際限な弁証法”と述べる)回避することができる。
事物には必ず、根源的な基礎がある。
それは、「意識」を中核コンセプトに据えるフェノメノロギーにおいては、「母型」の問題にならざるをえない。
歴史の起源に存在するのは、最初に自我に覚醒した「イヴ」である。
あらゆる人間は、痕跡化した形式で、意識の内部に「イヴ」を有する。
これをフッサールは「超越論的間主観性」と呼んだのではなかったか?
かくて、「絶対的な起源」として「純粋なる私の意識」を獲得するというフッサールの試みは、「崩壊」(デリダ)するのだ。
これは、デリダが20代で書いた論文なのだが、驚嘆すべき読解の深さにはもう脱帽するしかない。
ただ、ここで私は「母型(マトリス)」という概念を登場させているが、デリダはこれをあくまで「絶対的他性」と表現している。
表現の問題ではすまされないが、基本的にデリダがフッサールに異議申し立てをしている最大の項目は、起源に「自同性」は不可能であるということなのだ。
換言すれば、これはあらゆるテクスト論、記号論にも応用可能である。
「私の書いた言葉」は不可能である。
スピヴァクのデリダ論も参照してもらいたいが、「私」の起源がマトリスであるからだ。
起源は常にマトリスである。