「最後の神」について

「我々は真理の本質が硬直化する長い時代の終わりに立っている」

 


例えば、図書館に行けば本がある。
本を借りて図書館を出れば空には雲が浮かんでいる。
そして部屋に帰ってきても、やはり図書館はそこにあり続けるだろう。

この短い文章において、ハイデガーが注目するのは一箇所しかない。
すなわち、「本が<ある>」「雲が<ある>」「図書館が<ある>」である。
この<ある>とは一体どういうことかを研究するのが、哲学でいう存在論である。

人生の様々な途上で、ひとは「私の存在にはどういう意味があったのだろう?」という問いを投げかけるだろう。
つまり、「私はある」とは、どういうことなのか?
そもそも、なぜ「私はある」ことを知っており、また当然のようにそう認識してきたのか?
その根拠はどこに由来しているのか?
こういった問いを生涯の考究すべきテーマとして選択し、全力で「<ある>とは何なのか!」と思考し抜いたのがハイデガーであった。

ハイデガーの主著といえば、誰もがこう回答するはずだ。
『有と時』と。
だが、実はハイデガーにはもう一冊、『有と時』以上に衝撃的な主著が存在する。
それが『哲学への寄与論考』として呼ばれ、ハイデガーが正確に「性起について」と題した本書に他ならない。

日本の現代社会、この二十一世紀初頭において、ハイデガーとは一体誰なのだろうか?
例えば、学校で苛められ、不登校になってしまった生徒。
「自分はなぜこの世界に生きているのか?こんな世界からはもう逃れてしまいたい!」
人間は孤独なときだけでなく、あまりにも幸せなときでさえ、きっと「私とは一体何者だろう?なぜ私はこの世界に存在しているのか?」と問うはずだ。

実はハイデガーも、深刻にこの問いを考えねばならないほど巨大な孤独に襲われ続けていた。
例えば、キリスト教神学において、<ある>こと、つまり有が神の属性であり、光であることを思い出せば、ハイデガーが有を<底無しの深淵>と規定したことの深刻さが感じられるだろう。


ハイデガーは、ニーチェ以後の最初の哲学者といっていい。
ニーチェは「神の死」を宣告した。
そうなるとハイデガーは必然的に、「神の死後」の哲学者ということになる。
本書でも何度も述べられている「最後の神」という表現は、ニーチェを受け継いでいる証拠である。

では、タイトルにもある「性起」とは何なのか?

 

das Ereignis(性起)

「有」が現―有の「自性」において自らの真理を現し、つまり「自性現起」し、新たな歴史の原初として現前する出来事が、性起である。(本書巻末の「訳語表」参照)



私はここに<いる>
私が、<ある>
そして、私という存在者は、いわばこの<ある=存在>そのものに巻き込まれている。
つまり、<私という存在者>と、<ある=存在>は別なのである。
この存在者と、存在との違いのことを、「存在論的差異」という。
そして、ひとがこの差異に気付いた状態のことを、「存在了解を持つ」という。
更に、この「存在了解を持つ」人間のことを、ハイデガーの場合は「現―有」という。
ところで、「現存在」というのは、西洋哲学史において随所に登場する概念であって、<あるもの>を意味する。
だから部屋の片隅に置かれたミッキーマウスのマスコットも、「現存在」である。
ただし、ミッキーマウスのマスコットは「存在了解を持つ」ことはできないので、この点が人間と他の諸事物を区別する要素となっている。
ハイデガーの<現―有>は、「存在了解を持つ」という意味を既に含んでいる。
したがって、原語はdas Daseinで同じなのだが、訳し方に区別を設けるわけだ。

さて、性起とは、「現―有」「有」から現成することである。
つまり、私たち人間が「有」から受肉して存在者となることを意味する。



「現-有(人間)と最後の神の存在論的関係」

有に投げ入れられていることを「被投」という。
有に投げ返すことを「企投」という。

これは存在論的差異を了解した人間、つまり現-有が最後の神に相対する態度の図といってもいいだろう。
つまり、有に自分が投げ入れられていることに気付くと、今度は自身の現-有を有そのものに向かって投げ返すという、存在論的キャッチボールである。

ハイデガーは「有の真理の究思は本質的に企投である」と明言している。

図において、「最後の神」は後方に後退している。
この線には意味があり、ハイデガーの「神の遠ざかり」という概念を反映させている。
これは同時に<ある>の遠ざかりである。

例えば、私たちは机の上に置かれているミッキーマウスのマスコットに手を伸ばすことができる。
伸ばせば掴めるだろう。
ここには距離があり、測ればその長さが数値としていくらで、感覚的には「近い」のか、それとも「遠い」のかが認識できる。
しかし、<ある>の遠ざかりはこのような空間的な距離ではない。
ミッキーマウスのマスコットの本質とは、有である。
それは有に投げ入れられている。
ハイデガーは、この有が遠ざかっているといっているのである。

 




「神はどのくらいわれわれから遠ざかっているのだろうか」


ハイデガーは『哲学への寄与論稿』の第七断片において、以下のように語っている。

 

「神はどのくらいわれわれから遠ざかっているのだろうか。すなわちその本質が、基づける者ないし創造する者を必要とするがゆえに、われわれをこの基づける者ないし創造する者として任命する、あの神は。あの神はあまりにも遠ざかっているために、われわれは神がわれわれの方へ向かっているのか、それともわれわれから去って行くのかについて、決定を下すことをなしえないでいる」(p28)



ハイデガーは、現代の神を「最後の神」と呼び、その神は「遠ざかっている」と規定している。
この「最後の神」とは、「sein」である。

 

「有は、人間に属している。しかも、この人間が、神々の出奔と到来の瞬間場の守り人として、有それ自体によって必要とされるという仕方で、人間に属している」(p282)



ここでハイデガーは、同じく「最後の神」と人間の関係性について述べている。
彼は、「最後の神が立ち去ること」と、「最後の神が到来すること」――この二つのことを見守る存在として、「人間」の存在を規定する。
これは明らかに世界の「劇場化」であり、「最後の神」とは一人の俳優である。
彼の退去と到来を見守る僕として、「人間」という巨大な俳優が存在しているのである。

また、ハイデガーは、「歴史」について、それを「大地と世界の戦い」として把捉する。
そして、その「大地と世界の戦い」とは、最後の神の姿をとってあらわれる「有」の真理の本質現成であると規定する。
つまり、ここで彼は、「歴史」を一つの劇場として、やはり把捉しているのである。
「歴史」とは、作品である。
その作品を展開する因子とは、常に「戦い」である。
その「戦い」において、「最後の神」が真理の姿として、世界に到来する――ハイデガーは『有と時』ではいい足りなかった彼自身の考えの真髄をここにおいてスパークさせている。

こうした反―神学的なコンテキストにおいて、ハイデガーは文化のキリスト教化の中で、「神の去り」、すなわちdie Entgotterung(神去り)が、その勝利を祝うのか?と、自問している。
また、彼は「退去」する「最後の神」に対する唯一の近さとは、人間にとって「黙秘」だという。
つまり、最後の神を見守る存在として、人間にできることは、最早、それについて「黙秘」することなのである。
「黙秘」とは「語り」のモードであり、「黙る」ということは「話す」ことの一様態である。
したがって、ここで彼は「最後の神」への態度として、「静かに待つこと」を希求するのである。

さて、こうした中で、「最後の神」とは何か?と問うことを、彼は「有」とは何か?と問い続けることであると規定する。
その上で、彼は以下のように語る。

 

「彼らの探求は、底無しの深淵を愛する」(p17)



der Abgrund(底無しの深淵)とは何だろうか?
ユダヤ・キリスト教神学的に考えれば、地獄のことである。
だが、ここで「有」とは何かを問う者の探求が、「地獄」を愛する、では文脈に不整合さが生じる。
これは、むしろ「虚無」のこと、つまり「無い」のことである。
「有る」と表裏一体にして、現代思想を未だに支配している概念とは、「無い」である。
ハイデガーは、「無」は「有」のモードだと規定していた。
「無」は、それが思考されている限り、そして言語化される限り、常に「有」であるに過ぎない。
「無」とは「有」なのである。

ここでお気づきだろうが、ハイデガーの問いの策定は、こうした存在/神学的な周辺概念を闊歩している。
事実、彼は「有の意味への問い」を、あらゆる問いの中の問い、と規定している。
そして、興味深いことに、現代世界の本質を、彼はこのように表現している。

 

「すべてのものに関する全き問いの無さの時代にあっては、あらゆる問いの中の問いなるものをまず一度問うことで、十分である」(p15)



ハイデガーは、ニーチェを西洋形而上学の「完成者」にして、「ピリオド」であると定義していた。
そこが彼の思考のスタート地点である。
その上で、彼の問いは、「神の死」の後の問いとして、唯一耐え忍ばれることの可能な強靭な問いとして、「有とは何か?」へと帰着した。
そして、彼は、それ以外に問いなど皆無である、と述べている。
あらゆる謎――追い求めるべき真理――とは、常に「有とは何か?」であって、それ以外ではないと断言する。
彼はこれを自分の人生の主要命題にして唯一最大のテーマに設定したのであり、実際、それによって哲学の流れが変革されたのである。

興味深いのは、やはり彼が「技術」に絶えず関心を示している点である。
原子爆弾の炸裂を知った時には、彼は興奮した様子で『ブレーメン講演』のプロトコルを残している。
彼は「技術」を絶えず見守っていた。
「技術」の進展によって、大地は破壊され、いよいよ最後の神は退去していく。
だが、こうして最後の神としての「有」が、人間から「忘却」され始めていることも、実は「人間」存在の本質であると、『有と時』では既に述べられている。
「有への忘却」とは、現有の実存規定の一つである。
したがって、そうである限り、テクノロジーの進展と共に、いよいよ「有る」ことが蜃気楼に包まれ、曖昧な濃霧に覆われることもまた、真理の姿なのである。
何故なら、ハイデガーが述べていたように、「神は常に隠されている」からである。
ハイデガーにとって、神とは、「最後の神」である「sein」のことである。
ただし、彼は無論、キリスト教神学の神として、この「最後の神」を扱っているのではない。
もし彼の思想をキリスト教神学的に把捉すれば、彼は20世紀に登場した驚嘆すべき『ヨハネの黙示録』の誤解者、という程度になってしまうであろう。
だが、彼は既に、ニーチェ以後であるということを自覚して、自身の思考を開始している。
ニーチェは「神は死せり」と叫んだが、これは個人的な叫びだったのではない、とハイデガーは解釈する。
つまり、彼は、ニーチェの叫びは、西洋形而上学そのものの絶叫、断末魔であると拡大解釈しているわけだ。
ハイデガーは、フッサールと同じく、「神」の概念を( )に入れてエポケーしている。

 




「底無しの深淵は、根拠の本質現成である」

ハイデガーは『有と時』において、「有る」とは何かを根本的に思索した。
その彼が、本書で「無い」とは何かへと孤独に立ち向かっていく様は極めて美しい。

ハイデガーは、「真理」とは本質的に現成するものだと述べている。
これは「生成」の原理と類似している。
真理は発出するのである。

ハイデガーは、「真理」の本質をAb-grund(底無しの深淵)と規定する。
キリスト教の神の時代は、ハイデガーによれば「ニーチェ」でピリオドを打った。
残された者たちは、徹頭徹尾「神去り」の後に佇む広大な「底無しの深淵」に対峙することのみである。

ハイデガーはいう。
現代世界とは、「没落の時代」であると。
では、何が没落しているのか?
我々だ。
神の死後、残されているのは、「大いなる火の突然の消滅」というアポカリプス的な出来事を看過して、静寂に世界を俯瞰することである。
現代世界には、いかなる「真理」も存在しない。
「大文字の真理」は破砕され、全てが曖昧で不定形なキメラ的「小文字の真理」へと分裂したのである。
ハイデガーはこのように、西欧の中心的概念であった「神」の死後を考察した、最初の予言的哲学者である。

現代においては、「イデアは極度に堕落している」。
物事の模範となるべき原型は、つまり拠り所となる真理は終わったのである。

こうして、没落の時代が始まった。


 

ハイデガーはヘルダーリンから圧倒的な詩的影響を受けつつ、現代の神を「最後の神」と名づける。
「ヘルダーリンの大地と天」という有名なヘルダーリン論の中で、彼は世界の基本原理を以下の四つの概念でまとめている。

 

 

1、天
2、大地
3、神
4、人間



これら四つは、四方域と呼ばれている。
この四つの点を持つ正方形の内に対角線を引いた時、十字架を付されてクロスするのが、「sein」、すなわち「有」である。
したがって、ハイデガーは本質的には、「sein」とは、十字架を架されて「sein」と表記されると述べていた。

これら四つは、それぞれ戦いによって真理を裂け開くとされる。
天と大地、神と人間――これらの戦いによって吹き上がる「大いなる火の突然の消滅」(『寄与論稿』)から到来する「静けさ」「慎ましさ」――これこそが現代世界を生きる現有の根本気分であると定義する。
ハイデガーは十字架につけられた「sein」を、詩的に「最後の神」と呼称している。
人間が「有」を忘却し続けている限り、真理としての「最後の神」は、逆説的に世界に裂け開かれて到来する。
ハイデガーはテクノロジーの進展を見据えつつ、アポカリプスの到来を密かに「待つ」。

神は現代において、すなわちWWⅡ以後において、どれほど遠ざかったのか?
二十世紀という戦争の時代を越えてなお、二十一世紀はテロルの時代として幕開けした。
血が新しい血によって流される現代において、平和な昼の国家である日本は、何をすべきなのだろうか?
ハイデガーは最高の戦いとしての芸術から、真理が開け放たれると、ヘラクレイトス流に述べている。
だが、それは「政治的である」(ラクーラバルト)として良いのか?
ハイデガーを「政治的」に解釈すると、ナチズムに直通することになる。
それはニーチェも同じである。(ニーチェは明確に国家論を述べていないのだが)
だとすれば、二十一世紀において、ハイデガーの純粋哲学を学ぶ上では、「政治的」とは異なるラインで解釈されねばならない。



ハイデガーの言葉

衝撃力の強い言葉を厳選した。

 

「神は、身を隠すことによってのみ、現存する」

         (「ヘルダーリンの大地と天」全集4巻 p230)

「最も恐るべき歓喜は、ある神が死ぬことでなければならない」

         (「跳躍」全集65巻 p246)

「哲学は役に立たない」

         (「先見」全集65巻 p42)

「死すべきものどもとしての人間だけが、世界としての世界に住まう。世界にもとづいてつましくも柔和であるもののみが、いつかは物となる」

         (「有るといえるものへの観入(物)」全集79巻 p28)

「技術は、終わりへ向う道、すなわち、最後の人間から技術化された動物へと逆戻りする歴史的な道であろうか」 

         (「跳躍」全集65巻 p295)

「危機のなかで最も危機的なことは、危機が危機としてのおのれの正体を隠している点にある」

         (「有るといえるものへの観入(危機)全集79巻 p71)

「哲学するとは、"なぜ、そもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか”と問うことである」

         (「形而上学入門」全集40巻 p11)

「人間の本質の規定はけっして解答ではなく、本質的に問いである」

         (「形而上学入門」全集40巻 p155)