ハイデガーが『形而上学入門』(全集40巻)で、「信仰」の問題についてこういっている。
少し長くなるが、非常に印象的なので、引用しておく。
「たとえば、聖書を神の啓示であり真理であると信じる人は、およそ問う前に、《なぜ、そもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか》という問いに対して既に答えを持っている。すなわち、有るものは、神自身でない限り、神によって創造されたのである。神自身は創造されたことのない創造主として《有る》。このような信仰の土台の上に立つ人は、なるほどある仕方で我々の問いかけの遂行をなぞったり、それに参与したりはできるのだが、信仰者としての自分自身を放棄し、この問いのあらゆる帰結を背負うのでなければ、本来問うことはできない。彼はあたかも問うている振りをしうるだけなのだ。しかし、他方では、かの信仰は、絶えず不信仰の可能性に曝されているのでなければ、信仰でさえない。むしろ、それは安逸であり、何らかの仕方で伝承されてきた教説に将来も固着しようとしう自分自身との申し合わせなのである。その時には、それは信仰でもなければ問いかけでもない。むしろ、それは無関心なのであって、その無関心はいまやあらゆることに恐らくは非常に好奇心を持ち、信仰にも問いかけにも等しく携わることができる。」(p10)
これは、私のようなカトリックの求道者(洗礼は今年の四月頃だ)にとって、非常に重い言葉だ。ハイデガーがキリスト教神学を真剣に学んだ人間であるだけに、余計に重みを与えてくる。信仰は不信仰の可能性に曝されているのでなければ、信仰ではない、というハイデガーの主張は、極めて問題的だ。こんなことをここで述べるべきではないかもしれないが、カトリック教会にも、色々な神父さまがいらっしゃる。中には、少し性格のどうしても好きになれないような神父さまもいらっしゃる。神父さまも当然、聖職者とはいえ、一人の人間であり、一人の男に過ぎない。非常に下らない説教をして、何のためにミサに参列したのか解らないような日もあった。そういう時、私は「神父は人間的、あまりに人間的だ」などと、ニーチェ的にある種の「諦め」を抱く。そして、ニーチェが「神は死んだのだ」と、『悦ばしき知識』で声高に主張した初めの日をイメージする。ハイデガーは、ニーチェ以後の最初の哲学者であり、「不信仰の危機」の時代を生き抜いた哲学者であった。私は、教会で何か不満足なことや、ムッとするようなことに遭遇すると、まるで教会自体を攻撃するかのように、ハイデガーやニーチェを読むようにしている。だが、私は、それでも、やはり教会には毎週通うわけである。そして、神父さまに、祝福していただくわけである。
神父さまのことを、手っ取り早く好きになる方法は、一つしかない。それは、「神父さまには、誰一人、顔などない」と考えることである。神父さまに、個別的な「顔」がないと思い込めば、一人ひとりの性格で、どうのこうのと患う必要性も消える。つまり、神父さまは、皆、「神父という共通の顔」を持った、一種のマリオネットであると判断するわけである。このことによって、私が逆に気付かされるのは、信徒にもやはり顔がないということである。信徒もマリオネット、神父もマリオネットだとすると、ここは操り人形たちの仮面舞踏会ということになる。だが、私は、現段階では、現代日本のカトリック教会とは、そういうものであると考えている。若者の「教会離れ」が進み、信徒の高齢化が加速している今、特に、私のような、9・11の頃はまだ中学生だった青年は、そう思うわけである。そして、そういうどこか暗く、孤独な気持ちになった時、改めて、大切な思想として登場してくるのが、ニーチェであり、ハイデガーであるのだ。だから、ハイデガーが「信仰と不信仰は紙一重でなければならない」というのは、現代のカトリックの青年なら、誰でも感じていることだと思われる。
ハイデガーは同書の五十二節で、ソフォクレスの『アンティゴネー』にインスピレーションを得て、考察を深めようとしている。ソフォクレスは、『アンティゴネー』の合唱歌の冒頭で、現代人にとって、あまりにも当たり前のことを告げている。そして、ハイデガーがそこに関心を示すわけだが、それは、「人間は最も不気味なものである」ということだ。何を今更?だといいたくなると思われる。ハイデガーに、手短く「人間って何ですか?」と問うと、彼は「世界で最も不気味なものだ」と答えるわけだが、これは別にハイデガーでなくとも、誰でもそう答えるだろう。「虚無」に触れた者ならば。ただ、ハイデガーはやはり哲学者で、一般的な感覚さは回避している。彼は、「不気味さ」を、概念化して、「デイノン」と名付ける。これはギリシア語で、「圧倒的に、力によって支配するもの」を意味するが、彼はそこに「不気味さ、恐ろしさという点で」という解釈を付加させるのである。そして、改めて「人間は、デイノンである」というわけだ。だが、これだけでは、何もいったことにはならない。あまりにも当然のことをいっていて、最早、反論も肯定もできないような、酷く虚無的な定義なのだ。
ハイデガーの哲学は、とにかく、一言で述べると、「虚無」そのものだ。絶望的な孤独感や、発狂寸前の苦悩に苛まれている人間にとって、ハイデガーを読むことだけが唯一の光といえるような日もあるかもしれない。ドゥルーズが「ピンクパンサー」を軽快かつユーモラスに語ったような感覚でハイデガーを読むことはできない。彼は、あまりにもいかつくて、重々しい。ドゥルーズは、確か『襞』だったと思うが、「ハイデガーは顔も狂的だった」というようなことをいっていたが、それはいい過ぎだとしても、確かに彼の思想は「澱んでいる」ような印象を受ける。ハイデガーは、支配的なのだ。「有」と「有るもの」を考えているが、同時に「虚無」に足をすくわれている。とにかく、ハイデガーは、私の人生にとっては、やはりかなり豊饒な「特効薬」でもあり、同時に、限りなく深い霧がかった迷宮でもある。
ハイデガーに必要なのは、「意志的な楽観論」であり、「ピンクパンサー」のような軽快さだと思う。本当に、そう思う。自殺をしようか、しないか極限的な魂の激震で苦悩している人が、ハイデガーの本になんぞ出会うと、余計酷くなるような気さえする。だから、私は少なくとも、自分のためにでもあるが、ハイデガーを軽快に読解しようかと思う。もうすぐ『形而上学入門』の二度目の通読(一年前にも図書館で借りて読んだが、その時はまだ全集にまで手を出していなかった)を終えるので、いよいよそう思うわけだ。ハイデガーを、楽しく解釈し直そう。そうすべきだ。きっと、そうすべきだ。
一つだけ、ハイデガーにも、ワクワクするような楽しさを感じさせる箇所が、本書にある。四十九節の、ヘラクレイトス解釈の部分だ。そこで彼は、「クシュノン」というギリシア語を概念化している。これは、「全てを己自身の中に収集し統率するもの」を意味している。これを読んだ時、私は思わずウィキペディアの「集合知」の概念を連想した。ハイデガーは、「有るもの」の特徴として、「集められて現成するもの」だと規定している。この、コレクトするということ、それを存在論の一つのキーコンセプトとして規定する辺りが、なかなか面白いのだ。典拠であるヘラクレイトスは、断章の中でこんなことをいっていたそうだ。
「それ自身のうちに集められて、円周上では、初めと終わりは同一である」
これは、いわゆるパンタレイ(万物流転)のことなのだろう。
ハイデガーは、この断章でも、「集める」ということに、何故か執着しているのだ。とにかく、「有るもの」は、集められてある状態である。例えば、「部屋が〈有る〉」場合、その部屋にはクローゼットとか、箪笥とか、ソファーとか、デスクとか、書棚とかがあり、その中には様々な更に小さいもの、細かいものが集められて〈ある〉。「有るもの」は、常に集合し、現有としての人間に、コレクトされる宿命にあるわけである。当たり前のことだが、非常に本質的なことだ。
《なぜ、そもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか?》
ハイデガーが人類に投げかけた問い。
世界に様々な「有るもの」があるが、その根拠とは何だろうか?
神だろうか?
神であるならば、「有るもの」は神によって創造されたもの、つまり被造物として世界にある「根拠」を得る。
不安などは生まれないはずだ。
この問い自体は、ライプニッツに来歴を持つ。
ライプニッツもかつて、《なぜ、そもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか?》に対峙した。
この問いを忘れないようにしよう。
この問いを忘れたら、おそらく私は死ぬだろう。
この問いが最後の切り札として残されている限り、今後、あらゆる苦悩が私に敗北する。
ハイデガーは神の存在を内心では意識していたのだろうか?
「有」と「有るもの」の差異は、プラトニズムにおける「イデア」とその「模造」の関係にある。
キリスト教神学では、「神」と「被造物」だ。
要するに、構図としては、何か原型となる概念が一つあり、そこから多様な変奏が生起する、というイメージなのである。
「有」という核が、「有るもの」にはある。
「有」が存在規定を与えるからこそ、「有るもの」が世界に現出するのだ。
これは、キリスト教神学と類似している。
存在論的差異を忘れることは、罪なのだろうか?
神が世界を創造しているということを忘れることが、罪だとすれば・・・。
ハイデガーは、私にとって最後の救いだ。
光が見えなくなったような日に、ハイデガーを読むと、イエズスの偉大さを改めて感じるからだ。
ハイデガーは、やはり無意味な問いを投げかけていたと。
つまり、私はハイデガーのような暗い孤独と闘わない、と。
ハイデガーは不思議な哲学者だ。
ナイフを握った少年が、ニーチェを分析的に読むと、ハイデガーになるような気がする。
とにかく、私には、ハイデガーが、人間の瀬戸際において到来する哲学者であると感じる。
「実存主義」などという言葉を使う必要はない。
アラン・バディウに依拠すれば、ハイデガーはドゥルーズの存在論とリンクしており、最早「実存主義」という一昔前のフレームに位置づける時代ではない。
ハイデガーの新しい解釈が必要なのだ。
デリダのハイデガーに対する姿勢は、どこかダンスしているようで私の感覚に合っている。
暗い世界でも、明るさを失わないこと。
それが最も大切な哲学の基礎であり、生き方の本意である。
高校時代も、中学時代も、嫌なこともあれば、楽しいことも沢山あったわけで、何も悲観的になる必要などない。
人間とは不思議なもので、その時の心持によって、世界が暗く見えたり明るく見えたりするのである。
世界は、「祈り」によって有る、と私は考えてみる。
祈り、それは、世界をまずは、自分が愛せるように見てみる、ということだ。
どんな見方でも初めはかまわない。
大切なことは、まず自分を愛すること。
そして、その愛を、少し隣人にも与えてあげること。
それだけで、愛は大きくなる。
もし、対人関係が得意でないならば、少なくとも、貧困で喘いでいる少年少女のために、「祈り」を捧げよう。
それだけで、神さまが、どれほど私たちを祝福してくださるだろうか。
それだけで、神さまは嬉しいのだ。
人が愛されたら嬉しいように、神さまも同じように愛されることを欲している。
だから、せっかくこの体を創ってくださり、世界を土台として与えてくださった神さまに、心から感謝しよう。
ハイデガーに足りないもの、それは「祈り」だ。
ハイデガーの思想から、「隣人愛」という概念が少しでも正統的に評価されたのならば、今の私はもっと彼を尊敬したことだろう。
問題的でしかありえない思想家は、真の思想家ではない。
哲学者は、「愛することを、してみたい」と、読者に思わせるほどにまで到達せねばならない。
それをしたのは、私が今知る限り、エマニュエル・レヴィナスと、イエズス・クリストの二人だけである。
レヴィナスを読む青年――なんとも優しいイメージを抱ける。
それは、レヴィナスが「他者」のことを、美しいほど大切にし続ける思想を構築したからである。
彼は、ユダヤ教的な思想の持ち主だが、実は、キリスト教的なのである。
戦争の只中という点で、ハイデガーの哲学を読むことは弾薬庫に飛び込むような重々しさを感じさせる。
戦後の苦難、そして救済、という点で、レヴィナスを読むことは、真に二十一世紀にとって必要なのだろう。
最も重要な哲学者は、フッサールとハイデガーを批判的に学び、独自の「倫理」を構築したエマニュエル・レヴィナスである。
そして、厳密なレヴェルでは、レヴィナスはキリスト教と幾つも差異を有するが、本質的には、つまり、「神を愛することとは、隣人を愛すること」であるという基底にある思想においては、共通していると考える。
レヴィナスは、キリスト教の正当性を、「神の死」以後に、改めて強く主張した、最初の哲学者なのだ。
私は、今年の春には洗礼を受けられるということが、嬉しい。
私は、もう誰の前で、誰をも、怖れる必要は無い。
畏怖すべきは、そして讃歌すべきは主イエズス・クリストだからだ。
私がカトリックの信徒になるということ、それは、私の二十一歳の、最高の思想的到達である。
あと長くて五十年間も、私はこの教会の優しくて温かいシスターさま、婦人会の皆様、そして年下から年配の信徒さまがたに囲まれて、生きることができる。
尊敬する神父さまの貴重な福音に、耳を傾け、魂に木漏れ日を与えることもできる。
「教会」としての人間こそ、私の全て。
私は、世界を愛する。
世界が、私を創造してくださり、愛してくださったのと同様に、それ以上に、世界を愛する。
世界は美しく、その構成因子としての私もまた、かけがえのない光であり、美しさの欠片である。
希望を持って生きること。
苦難に対して、「ありがとう」と感謝すること。
全てが、神の恵みであるのだから。