なぜ、海辺がないのか?
海辺はない。
それは消えつつある。
海鳥たちは消えつつある。
海辺はどこにあるのか?
無論、海辺はあるはずだ。
どこかに。
だが、「私の街」にはない。
島国である日本では、どうしてこれほど海辺が見えにくいのか?
海辺とは何であろうか?
海辺は母性の象徴である。
海辺とはおとめマリアさまの象徴である。
では、砂浜とは何であろうか?
そして、何故私は、砂浜のことを考える時に、常にその砂浜を無人化させた状態で思念するのであるか?
誰もいない砂浜には意味などあるのか?
砂浜には砂時計が転がっている。
これは時間の象徴である。
しかし、その砂時計は「亀裂」を帯びて、がらくたになっている。
つまり、時間は廃棄されている。
私がイメージする海辺の砂浜は、常に時間の流れの「外」にある世界なのである。
海辺は静かにある。
ひたすら静かである。
しかし、波のメロディーはあり、波は繰り返し波打ち際を洗う。
けれども、ここは時間の「外」なのである。
海辺は――真の海辺とは――常に時間の枠組みから逸脱していなければ、ないしは超越していなければならない。
神聖な海辺とは、常に「超―時間」的である。
どうしたものか?
ここは、どこで、目的地は、どこにあるのか?
解答は、一つである。
すなわち、ここは非―海辺であり、目的地こそが海辺なのである。
だが、神聖な海辺へ向うためには、電車や自動車を使えばそれでいい、というわけではない。
神聖な海辺は、その神聖さのゆえに、従来の交通手段では到達不可能なのである。
海辺への到達不可能性――この苦悩に溢れた神学的アポリア。
海辺はエデンである。
この命題に否定できる人間はいない。
繰り返すが、あらゆる海辺がエデンなのではない。
そうではなくて、神聖な海辺が、創世記に登場するあの楽園なのである。
エデンまで高速道路で行くことができれば、それは最早エデンではない。
エデンとは、到達不可能性に帰属される聖なる空間である。
そこは常に「超―時間」的であり、砂時計の動きは停止している。
トンネルがあるのではないか?
例えば、河川公園の何気ない小さなトンネルの奥に、神聖な海辺があるのではないか?
トンネルは常に神秘的な場所である。
トンネルは、世界Aと世界Bを繋ぐ通路である。
海辺はあるはずである。
どこかに、だが、見つからないのだ。
そもそも、海辺まで繋がっているトンネルなど、どこにあろうか?
トンネルの先には、広大な海辺が、塵一つない静謐な砂浜が広がっているとすれば、それは世界にとって、何を意味してしまうのであろうか?
海辺には、誰が住んでいるのだろうか?
それは、「貴女」と私が呼び続けている女性であろうか?
「貴女」がそこにいる。
だとすれば、私はそこへ行くことを躊躇う――「貴女」の前で赤面してしまうであろうがゆえに…?
おそらく、「島」なのだ。
私が想定しているのは。
トンネルの先には、「島」がある。
そこには、図書館もある。
カフェテラスもある。
現代都市を生きる疲弊した人間たちが、ふとしたきっかけで、その「島」に通路を見出せたら…。
そして、その「島」までの「トンネル」は、日常生活のありふれたところに、既にある。
例えば、学校も家も退屈な生徒が、いつものように階段を上がっていると、廊下が不可思議な「トンネル」へと変化しているのを見出す。
彼/彼女は、その先に、海辺を、すなわち「島」を見出す。
実は、これらのテクストは、全てフッサールの「現れざるものの現象学」を概念的に拡大した上で綴られている幻想的なテクストである。
「島」。
だが、島とは何であろうか?
島はひとつしかないのか?
島とは、世界の部分なのだろうか?
それとも、トンネルの先にあるその「島」とは、世界の全体にも等しいのであろうか?
私が今、思念しているこの「島」は、自然が創造したのだろうか?
それとも、人間の「夢」そのものが「島」として具現化しているのであろうか?
私は高校時代から、空間の奥には、今のこの空間とは別の空間が潜在している、という「気配」のようなものを感じていた。
特に、プラットホームの隅で、まだ来ない電車を、線路を見つめながら待っている時に、それをよく感じた。
この次に来る電車は、「島」行きの電車であり、普通の人には見えない…そのような夢想もしていたのかもしれない。