『芸術作品の根源』について

 

芸術作品の根源 (平凡社モダン・クラシックス) 芸術作品の根源 (平凡社モダン・クラシックス)
(2002/05)
マルティン ハイデッガー

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「全ての芸術はその本質において詩作である」

本書は名高いハイデガーの芸術論だ。
この中で彼は、「あらゆる芸術の最高形式は詩である」という見解を宣言する。
芸術とは、いわば「真理を開示させる」行為である。
真理は本来的には包み隠されている。
この包蔵を裂け開かせ、開示させること、つまり真理を樹立させることが芸術作品の根源であり、それが全てだと彼はいう。

本書でハイデガーが引用した芸術家といえば、
ヴァン・ゴッホ(それほど熱く語ってはいない)、ヘルダーリン(これは相変わらず崇敬の念を持って論じている)、デューラー(一瞬だけ顔を出す)、そして、ギリシアのパルテノン神殿である。
本にもゴッホの絵が表紙にされているので、どこかゴッホについて思い入れがあるようにも見えるが、実際、この中で彼は「詩」こそが最高の芸術であると述べている。

興味深いのは、ハイデガーが「地質学」的な思考回路に依存し続けていることだ。
彼は、「裂け開く」とか「開示させる」とか「大地と世界の戦い」などという言葉を何度も用いる。
それらを絵にしていくと、なんと「戦争画」になる。
だが、より簡略化すると、まず地面に扉があり、その扉が「閉まっている」という状態が登場する。
これを、彼は真理の「伏蔵」という。
しかし、創作によって、この扉が開かれる。
これを「開示」とか「裂け開く」と彼はいう。
つまり、芸術とは閉じられていた真理を露出させ、突出させることだと述べる。

その本質は、「不気味なもの」である。
ハイデガーは、偉大なる芸術は、常に「不気味なもの」であり、「孤独なもの」であり、しかも「衝撃的なもの」だと断言する。
また、彼はヘラクレイトス風に、「真理の本質は原闘争である」とまで述べている。
閉じられていた扉を裂け開くためには、力が必要である。
それは闘争そのものへの意志であり、これが芸術家の魂である。

はっきりいえば、ハイデガーは「高揚させるもの」に弱いのだ。
ハイデガーが選んだ芸術家は、たいていが精神錯乱気味である。
そういう者には特有の霊性があり、常軌を逸しているがゆえに、「衝撃的」である。
しかし、それはアウトサイダーアートであれば全て偉大だとか、衝撃さを故意に狙うとか、そんな幼稚で卑しいものではない。
そこには、「真理」を開示させるものが、直接的に描かれていなければならない。
ハイデガーは絵画よりも詩を重視する。
彼は真理を獲得するための闘争に用いる武器を、「言葉」と呼ぶ。

芸術は、真理を裂け開き、それを立てることである。
従来まで人々が当たり前のようにあると考えていたもの、それを粉々に破砕させる時、人は衝撃される。
衝撃は原闘争から生起する。
つまり、芸術家は絶えず作品の中で闘争し続けなければならないのだ。

「真理」が衝撃となり、従来のものを粉々に打ち砕く時、そこに作品が生まれる。

 

 

「作品の作品存在は、世界と大地との間の闘争を闘わせることにある」(p67)

「芸術は常に、いつでもある衝撃である」(p115)



真理を闘い獲るために、詩作=思索による歩み寄りが必要なのだ。
ハイデガーはそういう。

また、彼は「市場主義」を呪う。
「人気投票的な全ての文学・音楽・絵画」は、ハイデガーの高貴な魂によって拒絶される。
が、これは事実だろうか?
例えば、笙野頼子の『てんたまおやしらズどっぺるげんげる』は、無意味で雑談的な記号の廃墟地帯を描いている。
それは「闘争」というよりも、完全に「遊戯」である。
が、ハイデガーは本書で「闘争は、開けの遊動空間で生起する」などとも述べている。
「遊動空間」である。
『ハイデガーの迷宮』という解説書では、この「遊動空間」にポストモダン文化の原型を見ている。

改めて、ハイデガーは現代文学の惨状について何というだろうか?

ハイデガーは、同時代の芸術家をあまり論じようとしない。
ヘルダーリンは彼の先輩である。
ゴッホもそうである。
ニーチェもそうである。
つまり、ハイデガーは自分で誰かを発掘するという努力を怠っていたのだ。
彼は、ましてや「キッチュ文化」になど目も向けない。
彼には彼特有の美意識があるからだ。

が、ハイデガーが本書で述べていることは、実は笙野頼子論である。
これに気付いている人間はおそらく、日本でもごく少数だろう。
というのは、「真理を開示させる」「闘争」ということにおいて、笙野の作品は一貫して妥当するからだ。
笙野は、言葉を記号的に生成させている。
その本質は「遊動空間」であり、「大笑い」である。
「不気味で、孤独で、衝撃的な」感性が、時として芸術に革命を起こすことはあるだろう。
だが、「言葉」とは、本来、意味賦与作用を経ることで生成されるものである。
例えば、Page Not Foundという表現に、「神の死」や「不在」という重苦しい意味を担わせることは常に可能なのだ。
言葉とは「意味の捏造」である。
だとすれば、笙野の作品は真理を裂け開いているのである。
しかも、真理が閉ざされている、という事態を、真理として裂け開いているのである。

芸術ビジネスを、おそらくは大半の哲学者は否定するだろう。
だが、ハイデガーほどの哲学者であれば、デュシャンやウォーホルをも視野に入れて芸術論を書かねばならなかった。
特に、デュシャンを語らなかったハイデガーは、ほとんど「古い時代」の男だといっていい。
ゴッホを語るのではなく、「泉」を語るべきであったろうに。
それは、「もの」と「作品」の差異、「道具」と「作品」の差異という、冒頭で掲げられていたテーマが、いつのまにかパルテノン神殿論に変化してしまっていることからみても、ハイデガーのアナクロニズムを露呈させているという他ないのだ。