「全ての類似は反復を原因としている」 by タルド
「反復が差異を含むということ」 by ドゥルーズ
ガブリエル・タルドは、ベルクソンやニーチェ、リーマンと同じくドゥルーズに影響を与えた「師」の一人で、近年急速に再評価が高まっている社会学者である。
この上なく簡潔な文体で、高校生でも愉しめるような書き方をしてくれている。
おそらく『差異と反復』ほどに謎めいた美しさは無い。
だが、一つ非常にボルへス的な概念を見出し、記憶に留めておこうと思った。
社会状態とは、催眠状態(somnambulisme)と同じく、夢の一形式に過ぎない。
タルドは、どこかでボルヘスが述べていた記述をしている。
ここで先に述べておくと、タルドの「模倣」は、ドゥルーズの「反復」へ、「類似」は「差異」へと受け継がれている。
タルドは厳密に「差異そのものとは何か?」「反復そのものとは何か?」といった、ドゥルーズ的な哲学的視座には立たない。
彼はあくまで、人類史が全て「模倣放射」の原理によって、絶えずコピーペーストを繰り返してきたことを力説するのである。
メディオスペースへのWebの代等や、思考回路のコピーペースト化、情報の断片化、砂漠化が叫ばれている現代世界にあって、タルドが再評価されているのも、「模倣」が「コピー」の概念にまで深化してしまっているためである。
タルドを読んでいて感じるのは、顔の無い白色のアンドロイドのような存在者に、データが書き込まれて歴史が展開されていく、といったイメージだ。
では、「模倣」の起源には何があるのか?
タルドはそれを原始未開部族の「インスピレーション」に認めるのだが、私がここで書いておきたいことは、むしろ「magnétiseur(催眠術師)」という彼の戦略素である。
ある原型Aから、数知れないコピーaが生産されるとせよ。
これは、実はある思想が世界中に伝播するプロセスである。
最初の発明者が、数々の踏襲者を生み出していく。
重要なのは、社会そのものはこの「催眠術師」(発明者)に気付いていない場合があるということである。
つまり、特定の思想体系ではなく、既にあるレディメイドな体系の「催眠作用」に、我々現代人がどれほど陥っているか、という命題である。
タルドはこれを、ズバ抜けて適切な表現で、「教条的な眠り」と述べている。
文明化されればされるほど、模倣的になればなるほど、自分が模倣していることを我々は忘れる。
催眠作用は連鎖していく。
催眠作用は、ひとに第一次的模倣→第二次的模倣→・・・といった放射線状の拡大を描かせる。
ここで述べておくと、タルドはフッサールと同じく、「原書→翻訳→翻訳の翻訳→」というプラトニックな思考回路に依拠しているという事実である。
これは、物事の起源に真理としての不動の第一動者を設定するキリスト教神学的なフレームと基本的に同一である。
そういった点で、これはプラトン的な「ミメーシス(模倣)」論ともいえるわけだが、しかし「催眠術師」の概念による当時の社会への警鐘は、現代にも適用されると考える。
社会とは模倣であり、模倣とは一種の催眠状態である。
あらゆる社会と文明の起源において最初に必ずあったのは、インスピレーションである。
我々は常に、模倣という現象に立ち戻らなくてはならない。
読者は、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』は御存知であろうか?
あの作品が常に重要な示唆に富んでいるのは、「情報はどこにでもあり、かつ、どこにもない」というポスト・ユビキタス社会の人間たちの悲哀を描いているからである。
おそらく、ガブリエル・タルドのこの著作は、Web3・0期になると、今よりも更に引用され始めるであろう。
というのは、ギブスンが描いたのも、やはり「情報」というコピーペースト化可能な「身体」から構成された、架空の画一的かつ均質な主体性だったからである。
タルドはギブスンの「ケイス」を、以下のように予言していた。
人間の有機体的欲求は画一的である。
人間の本性は根本的に単一である。
同一性とは、起源の原形質の無限の反復である。
したがって、我々が何かを書いたりしていて、「発明した」と感じるとき、それは常に「催眠術師」の視座に立てば、「再発明」に過ぎないということである。