ボルヘスの短編「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」についての考えが深まったので、ここでその成果を発表しておく。
周知のとおりこれは、メナールという架空の作者が、『ドン・キホーテ』という作品を発表したということに最大のメッセージがある。
この作品はセルバンテスの作品と完全に同一のテクストである。
にもかかわらず、ボルヘスはそれらを「差異」として扱う。
それはつまり、メナールが引用していないということである。
あるいは、「引用」という概念が一般的な見解よりも実はもっと奥深いということである。
ロラン・バルト、そしてジュリア・クリステヴァに学んだフランスの現代哲学者アントワーヌ・コンパニョンによれば、引用とは以下のような手続きを前提にする。
まず初めに、既に作られているものがある。
次に、主体がそれに触れて、何かを感じたものを外部へ召喚したいという衝動に駆られる。
そして、主体は「書く」のだが、この時、既に作られていたものをそっくり同一のまま「引用」すれば、確かに表面上は同一である。
けれど、実はここには盲点もある。
それをコンパニョンが図式化してくれている。
例にあげたセルバンテスをA1、メナールをA2、セルバンテスの「キホーテ」をT1、メナールの「キホーテ」をT2、としておく。
そして、「キホーテ」の文面をtとする。
また、A1、T1のカップリングをS1というシステムで表現する(S2も同様)。
この時、ボルヘスの作品で生起したのは、T1=T2(tの同一性)という現象である。
しかし、時代性が異なるA1=A2は成立しない、人物は別だからだ。
したがって、引用のシステムS1≠S2になる。
これがボルヘスがメナールを、新しい「キホーテ」の作者として再表象させた出来事の核心である。
要するに、メナールはセルバンテスの時代の「キホーテ」を、彼の時代の作品として発表したわけだ。
だから更新されているのである。
作品は社会、出版社、作者、読者までをも含みこむシステムであり、そうである以上、「キホーテ」の作者はたとえテクストが同一であろうとも、顔を変えて再出現し続ける。
これは、かなりはっきりした例である。
もう少し判り難い状況もある。
例えば、テクストが違うが、何か影響関係を感じる、というような作品における「引用」概念の持つ効果とは何であろうか。
ある作家志望者が、活躍している作家のある作品を読んで、影響を受けて、それにテーマも文体も似通った作品を仕上げたと仮定せよ。
この時、彼は「盗作」を恐れて、同一のテクストを絶対に用いない。
つまり、自分なりに異化する。
この場合、T1≠T2である。
よって、完全にS1≠S2が成立し、広義の「引用」の概念が顔を出すことはない。
しかし、「引用」という概念が持っている幅は広い。
コンパニョンは、「incitation(内部引用)」という新しい概念を提唱している。
これによると、全てのテクストは、原理的に内部引用によって成立する。
先に示した以下のプロセスをもう一度参考にしよう。
まず初めに、既に作られているものがある。
次に、主体がそれに触れて、何かを感じたものを外部へ召喚したいという衝動に駆られる。
そして主体は書く。
この時、たとえテクストが変化していても、それは既にあるものの影響下にある。
テクストが同一であろうがなかろうが、「内部引用」は生起するのだ。
それだけではない。
主体がこれまで読んできた作品、ひいては観てきた映画のワンシーン、今日のニュースや感じたことなど、全てが作用する。
それを「引用」という概念でまとめるのは少し暴力的かもしれない。
しかし、ともあれ、書いている時には「内部引用」的なことは起きる。
私も小説を書いているので理解し易いが、何か小説を書きたくなる時には、その前に何かを読み、そこで得られたイメージやコンセプトの影響を受けている場合が多い。
それが同一の文として登場しなくても、そこで感じたものや、あるいは綴られている言葉、フレーズなどに触発されることは多いにある。
けれど、これはテクスト間の問題であり、現実と対応していない。
例えば、今日働いて感じたこととか、今日のニュースだとか、そういうテクストとは関係のないシステムも、やはり私が書く時には微妙に作用するのだ。
内部引用は、だとすると、現実世界をもテクスト空間として還元しなければならないことになる。
しかし、これはユダヤ神秘主義にあるテクスト崇拝のようなものだ。
生きて働くこの世界と、本のような精神的世界は別である。
これをうまく時と場合と人物に応じて、区別できるのが社会人の条件だと私は確信している。
ともあれ、アリストテレスも『詩学』の中で、「あらゆる文学はミメーシス(模倣)である」という考えを定着させている。
コンパニョンも繰り返す。
「全ての文は、内部引用である」。
そして、私も書いておきたい。
「それはあくまでもテクストの話だ」。
コピーペーストが簡単になり、匿名性が常態化している現代のウェブ社会にあっては、むしろ「内部引用」性を意識して書いた作品の方が、原型との照合の楽しみも含めて読者に対し発信力を持つという見方もできる。
それは「自分の言葉で書く」ことの放棄ではない。
「自分の言葉」が哲学的に解体されていることを知った主体がたどる、新しい個別化の道なのだ。