大江健三郎の再生と治癒
われらの狂気を生き延びる道を教えよ (新潮文庫)
(1975/11)
大江 健三郎
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「話しかけてください、お父さん、
さもないと僕は、迷い子になってしまうでしょう」
大江健三郎の作風には、精神的な危機を「小説を創る」行為によって超克していくような美学が働いている。
これは「父よ、あなたはどこへ行くのか? 」からの引用だ。
最近、大江が出した『水死』にも、「こんなきれっぱしで、私は私自身の崩壊を支えてきた」という詩が、一つの「核」となって章のタイトルを飾っているが、この作家はこれほどの老齢になっても、やはりまだ自分自身の内的な冒険を続けているようだ。
そのひたむきな姿勢は美しいし、どこか滑稽ですらある。
私は十九歳から今まで、ずっと大江を繰り返し再読している。
徹底的に読み込もうとしていたのは十九歳、二十歳の頃だが、今でも机の上に置いていると「書く」時に何故か安心する。
前から思っていたのだが、大江の作風はやはり滑稽だ。
『水死』に、「死んだ犬を投げる」という言葉を引用して会話が展開されている箇所が存在するが、この引用部分一つとっても、注目するところが通常の感覚からズレている。
大江が「死んだ犬を投げる」という言葉をこの最新作でどのように捉えているのか深入りはしないが、私自身が今思うのは、これは危機的な状態にある人に捧げられた言葉だということだ。
前に朝日新聞で大江が掲載していた彼の「詩」は、衝撃的で今でも記憶している。
それは「路上で脱糞している乞食を見て嘔吐した朝のOLが、五分後にはすました顔で社会人の顔をまとう、その勇敢さ」のようなものを描いていた。
正直、この時点で着想が凄まじいではないか。
大江にはこのような特質が若い頃から存在する。
例えば『芽むしり仔撃ち』に、「猫の出産」について笑いあっている少年たちの会話がある。
そこに、「灰色の袋のようなものを僕が見ただけでも三個は産み落とした」というような表現があり、それを「物凄い」と評して、笑い合うわけである。
私はこのような大江の感覚の稀有さに惹かれるのだ。
大江には、「滑稽さ/グロテスクさ」に「癒し」を見出すという特異な資質がある。
確か『燃え上がる緑の木』の三部作の最後の巻で、ギー兄さんの美しい横顔を「それはグロテスクですらあった」と表現しているところがあったが、敬意を払い美しいとすら感じている対象に対して「それはグロテスクですらあった」といえる知的なセンスには、ただ脱帽する限りである。
重ねて繰り返しておきたいのは、大江が読者のために書くというよりは、むしろ自分の魂を救うために書いている側面が強いということである。
これが読者に逆説的な「救い」となる。
大江が書く行為によって自分の中の「崩壊の兆し」を見つけ、それを「光の網目」で編んでいく姿は、自分で自分を治癒できる大魔法使いの賢者を見ているようで、美しいというのが本当に適切なのである。
大江の本は、忙しい会社員やケータイで彼氏とのメールに夢中な女子高生には向かない。
大江の本は、本当に「世界を自分なりに素直に生きたい、もっと少しでも幸せになりたい」と願う人々のことを想定しているのはまず間違いなく、これはおそらく作者の切実な願いとも通じるのだろう。
私が大江を読むのは、大江健三郎という人間を愛しているからだ。
大江は普通の意味での作家ではないし、それは世界最高峰の栄誉に輝いたから特別だという意味でも毛頭ない。
大江は、おそらく、ずっと前から自分の「疾患/傷口」を担っている。
それを、大江という人間は大江という読者のために、「治癒」するのである。
大江は自分の「疾患/傷口」を「治癒」してきた、という点で初期から後期まで一貫している。
「父よ、あなたはどこへ行くのか?」の中には、「考えること」がいかに大切かを教えてくれる一文があり、光っている。
「ものを考えるとは、もの自体によって考えるのではなく、言葉によって考えることだ」。
大江は「疾患/傷口」のその深み、痛みを、「言葉」によって「思考する」ことで、「治癒」する人間である。
大江とは、そういう作家なのだ。
そして、私はそのようなことを貫きながら「書く」という行為を「勇敢に」敢行している彼を愛する。