J・G・バラードと子宮回帰

 



沈んだ世界 (創元SF文庫) 沈んだ世界 (創元SF文庫)
(1968/02)
J.G.バラード峰岸 久

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溺れた巨人 (創元SF文庫) 溺れた巨人 (創元SF文庫)
(2000)
J.G.バラード浅倉 久志

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私の父親は、「大」がつくほどのSFファンで、書斎にはクラーク、バラード、アシモフ、ディック・・・など錚々たるメンバーが並んでいた。
父親がとりわけスペース・オペラを愛している場合、その息子は彼からよく「宇宙」について、或いは「地球外の知的生命体」などについて熱心に語ってもらうものである。
実際、私の父親はSFや科学雑誌などから得た宇宙論の知識を膨大に持っている。

だが、息子が同じようにスペース・オペラのファンになるとは限らない。
実際、私は純文学第一主義的な側面があるし、SFはエンターテイメントだとある程度割り切っている。
バラード初期の傑作と称されるこの『沈んだ世界』を読んだのも、上記の理由から判るように、中学時代のことであった。
私は当時漫画を描くのが好きで(非常に少女漫画的なキャラクターしか描けなかったのだが)、舞台に「洪水後の世界」を選ぶことが多かった。
高校時代に、私はバラードを意識したつもりはないのだが、やはりかなり長いコミカルな「洪水後の世界」の少年漫画を描いた。
それら全ては現在どこにも存在しない――私は漫画を卒業しようと考えたのだ。

バラードに出会ったのが正確にいつ頃だったか、その記憶はかなり古びてしまっている。
私には退屈な授業の最中に、小さなメモノートに漫画のアイディアを記すという趣味があった。
それらのノートの最初のものに、おそらくバラードの『沈んだ世界』のあるページを貼り付けていた。
つまり、父の書斎から持ち出して、勝手に切り抜いてしまったわけだ。

バラードの『沈んだ世界』には、何か学生時代から自分の心象風景と密接に結合した独特な「癒し」があることは確かだ。
再読していて、新しい発見を幾つもすることができた。
基本的にはデジャ・ヴュを沢山感じたわけだが、バラードが何故わざわざ「都市を水没させた」のか――問題は彼のその精神分析学的な動機にあるように思われる。
私は、バラードが本作で「海」を「羊水」になぞらえている部分に注目した。
本作は周知のとおり、「温暖化して都市が水没した以後」の世界を描いている。
生態系は原始の密林へ遡行しつつある。
それに応じて、人間の神経細胞も新しい局面を迎えるであろう、と考えられ、実際に種的な意志によって人類は滅びへと向かう。
バラードは、間違いなく「ニューラルネットワーク」の生物学的な進化をテーマにしているのだ。
胎児は子宮の中で生物の進化史を反復するといわれている。
ミクロコスモスとしての「海」というコードがここに見える。

他方、環境世界もやはり地上を喪失して、「海」によってコード化されている。
すなわち、マクロコスモスにおいても「子宮」、「原始の海」といったイメージが連結される。
マクロコスモスが変化すれば、ミクロコスモスも当然内部システムを変化せざるをえない。
適応するのである。
バラードが本作において最も重要な「三章 新しい心理の方へ」で描いているのは上記のテーマである。
私はバラードがニューラルネットワークを非常に意識していたこと、そして彼が「海」を「子宮」に換言できる世界観、いうなれば神学的命題に取り組んでいたことを知った。
これは巨大な収穫だった。

私には、実は二歳の頃に水死しかけた記憶がある。
今、記憶といったが、実際に水中の光景を記憶しているのである。
水面から手だけ突き出して溺れていた私を片腕一本で(妹を抱いていたのだ)助け出したのは「母」だった。
この幼年時代の危機的な記憶は、直接私にとって「溺れる」という次元を信仰の発端にすることに成功している。
「溺れる」時、ひとは何かの奇蹟的な要因によって「救われる」のである。
「母」の手は神学的には聖母マリア様の手と同一であり、ここにおいて時間はその流れを喪失して「永遠」にまで到達する。

仮にあの池の中が、何らかの神秘的な女性の「子宮」であったとすれば、どうであろうか?
私は「水に浮かぶ」ことに非常に癒されるのだが、その理由はおそらく私自身が母親からこのエピソードを何度も教わってきたからだろう。
いわば、「刷り込み」である。
したがって、私が現在持っている「水中の怖ろしい光景」は、母親のパロールから私自身が記号的に構成した虚構的映像である可能性が極めて高い。

以上のことを看取した上で、私は神学的な命題に立ち戻る。
つまり、私はあの時確かに「溺れる」ことをしたが、その時の池とは、実際は「子宮」ではなかったのか、と。
洗礼を受ける時、「神の愛に沈む」という表現をする。
それは、洗礼が「水」で行われていたことを暗示させる。
私は洗礼を二歳の頃に、自分の生命を危うくさせるような状況下において、既に経験していた可能性が高い。
無論、それは「プレ洗礼」といったものであるが、私の意識の中では信仰のコードと一体化しているのである。

バラードを読んでいて私はその記憶を想起した。
『溺れた巨人』の中に収録されている「ジョコンダ」でも、バラードは「岩窟の聖母」(レオナルド)や、「カリュプソの洞窟」(ホメロス)といった「子宮」のテーマに言及している。
バラードは「海辺」や「海」を終末論的な雰囲気で描くことが多かったという。
私にはそれが、非常に感覚的な次元であるように思われる。
つまり、バラード自身も「水」に連関した「母親」との、或いは「姉」や「年上の女性」との記憶を持っていると想定している。
そうでなければ、これほど「終りの世界の海」に信仰的な癒しを感じる主人公は描けないだろう。
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