全ての文明にとって、唯一にして強大な原動力となるものは、宗教において他に無い。
女性による予言の方が男性のそれより古く、女性の心の方が宗教に忠実だという点で優れており、その信仰は不動である。
by バッハオーフェン
バッハオーフェンに対しては、ポスト・フェミニズムの見地から様々な批判が展開されている。
彼は大著『母権論』のアクチュアルな「序論」で、文化がアマゾン→ディオニュソス→デメテル→アポロンというプロセスを経てきたと、いわば「意味賦与」している。
彼が再評価しているのは、デメテルである。
デメテルとは何かといえば、「農耕文化に基づく、母性原理」のことである。
彼は、有史以来、「母性原理」を宿してきた文明を発掘している。
以下、彼が「序論」で取り上げている重要な基礎コンセプトをカテゴライズする。
○ギュナイケイア(女性的なもの)
ギュナイケイアというのは、デメテル的母性原理を持つリュキア文明の特質の核心である。
バッハオーフェンが女性的なものとしてあげているのは、
・エウセベイア・・・敬虔さ
・デイシダイモニアー・・・神霊への畏敬
・ソープロシュネー・・・節度
・エウノミアー・・・秩序
この四つである。
では、何故、彼はギュナイケイアを重視するのか?
これまで、思想はギリシアに端緒を持つと規定されてきた。
ギリシアというのは、バッハオーフェンが批判するには、父系列エコノミーである。
既にギリシア哲学の内部に、父権構造的な因子が無数に潜在しており、これは現代世界においては大いに注意されねばならない。
そこで、彼は「前ギリシア期」の諸文明に目を向けた。
そして、「前ギリシア期の文化の本質とは、デメテル信仰とその秘儀にある」という有名な学説を展開したのだ。
デメテルは「女性原理」、とりわけ「母性原理」のシンボルであり、彼曰く「宗教の本質」でもある。
○ヒエロパンティス(導師的な女性/巫女的存在者)
デメテルとは、いうなれば大地母神である。
バッハオーフェンは、女性支配を持つ古代文明においては、往々にして聖なる儀式においては、「少女のみ」が、その儀式を執り行った事実を紹介する。
この聖なる儀式において中心的役割を果たしていた少女たちを、バッハオーフェンは「ヒエロパンティス」と規定する。
○デメテル的母性法則
ギリシアの時代、すなわち哲学によって真理の捏造が始まり、権威的かつ父権的な意味賦与作用の時代(=アポロン)が開始し、前ギリシア期のデメテル的母性原理は封殺されてしまった。
しかし、バッハオーフェンは、あらゆる宗教/文明の本質を、「女性支配」と定義する。
つまり、これまでの世界史を導いてきた立役者は、女性たちだったのである。
これは世界史の書き換えを迫るものであり、現代思想においても彼の問いかけが衝撃性を有する最大の由縁である。
バッハオーフェンは、とりわけギリシア以前の「リュキア/ロクロイ・エピゼピュリオイ」文明の「母権制文明」を再評価する。
そして、彼のメッセージを看取すると、現代思想は、未だに父系列エコノミーに支配されている点で、アポロン的かつ、ファルス中心主義的であり、これをディコンストラクトする必要性があるわけである。
この考えをそのまま現代世界に踏襲すれば、「ポスト・リュキア文明」なる理念まで登場してしまう結果となるが、これについては我々は批判的にならねばならない。
バッハオーフェン批判については、これより先で展開する。
○デメテル的母権社会の諸要素
政治/法システムにまで浸透し、女性的な秩序が保持されていたデメテル的母権文明には、幾つかの重要なキーポイントが存在する。
・ウーニラテラーレース・・・「母からのみ生まれた者」を意味する。
・アパトレス・・・「父なしの者」を意味する。
・セルトル・・・「種を蒔く者」を意味する。
以上の特徴は、デメテル的母権文明を生きた「子供たち」に与えられていた理念だという。
これらの文明においては、母性とは、農耕文化における「穀物の穂や種子の豊かな収穫」と結合していた。
そこから大地母神への、生活世界と密接に結びついた「信仰」の原形態が生起したのである。
バッハオーフェンは文明の本質を宗教だと認めているが、宗教の本質こそが実はデメテルであり、すなわち「女性原理」なのである。
○イリガライ/コーネル的な見地からの、バッハオーフェン批判
一人の女性はけして、一つの容量のうちに閉じ込められることはない。
by イリガライ
さて、バッハオーフェンはこのように、女性を大胆にも「母性原理」という概念でひとくくりにしてしまったわけだが、これには無論、女性側からの強い批判が生起した。
というのは、「女性とは~である」という、この「である」こそが、バッハオーフェンの男性的な「意味賦与作用」すなわち、父権的ロゴス中心主義に他ならないからである。
イリガライは、バッハオーフェンが文明の本質を「女性性」に帰属させ、宗教を「女性原理」化することに対して、上記のように批判するであろう。
現代アメリカのフェミニズム研究において、ジュディス・バトラーと双璧を成していると思われるドゥルシラ・コーネルによれば、バッハオーフェンの「母性中心主義」は、その二項対立の反対側に位置する「父性中心主義」と、思考回路としては本質において同一であると批判されるであろう。
コーネルのいうfemaleness(女性性)とは、常に意味の領土性から逃走するmargin(欄外)なのであり、デリダの絵画論から彼女が引用している概念で表現すれば、まさしくparergonality(パレルゴナリティー/余白性)なのである。
すなわち、「である」「でなければならない」という、意味の領土性を、displace(位置ずらし)させることでしか、「女性性」というものは把捉し得ないものだというのである。
女性性というのは、したがって、現代のフェミニズムからしていえば、まさしく「一つの領土性/意味に帰属されるものではない」というべきであろう。
このような見地に立つと、バッハオーフェンは、まさに、一人の男性が、初恋の女性に母親の面影を見出すような、精神分析学的にいうところのprojective identification(投影的同一化)という「魔手」に陥っているのである。
○ヴァレリア・バッハーフェンとの「(Fort-da)いない、いない、ばあ」について
人間の文化が向上していく源の全ては、母性にある。
by バッハオーフェン
バッハオーフェンというドイツの名高い社会学者は、「母性原理」「父性原理」、「アマゾン」「デメテル」、「ディオニュソス」「アポロン」といった、さながらニーチェの退化的な思考フレームの病魔に襲われているかのように、しきりと二項対立式図式を登場させている。
彼によれば、文明を導くのは、「おんな」である。
もう少し判り易くいえば、「おかあさん」である。
だが、彼の最大の誤謬は、全ての女性原理を、「おかあさん」に帰属させてしまっている点である。
これは、「おかあさん」になれない女性、そもそも「おかあさん」になることに関心のない、現代的で知性的な女性知識人たちにとっては、いわば言葉の権力である。
バッハオーフェンは、以下のようにも「おかあさん」への熱烈なラヴコールを贈っている。
女性支配の時代は、歴史のPoesie(詩歌)である。
これは、いわば「おかあさん」への恋を謳歌したポエムである。
彼によれば、歴史の創出自体が、そもそも詩歌であり、神話である。
この発想は、極めてハイデガー的で危険である。
<母の愛>は、暴力に満ちた生のさ中にあって、愛と協調と平和の神的原理として作用したのである。
バッハオーフェンにとって、文明そのものが彼自身の個人史の投影として規定されているわけである。
これこそが、実は女性のための学問であるフェミニズムに対する野蛮な挑発に他ならない。
しかし、ここで私自身の素直な印象を記しておこう。
私にとって、母の存在は、バッハオーフェンと同じように、非常に大きい。
私は母の愛に包み込まれて育ってきたといっても過言ではない。
だが、これはあくまで私の個人史であり、それを人類全体にまで敷衍することは、危うい。
バッハオーフェンには、「子を生みたくても生めなかった女性」や、「結婚したくてもできなかった女性」、更には「そもそも異性愛中心的な社会に関心のない女性」といった視座が欠落している。
彼は、何でも「おかあさん」「おかあさん!」である。
ちなみに、『母権論』も、彼の母親に捧げられていることは象徴的である。
○グレミウム・マートリス(母のふところ)に対する中立的視座の必要性
バッハオーフェンは、デメテル的な母性原理を重視し、それを「グレミウム・マートリス」という概念で表現した。
これについては、聖母マリア信仰とも通じる側面があるので、おそらくカトリックの女性信徒からは、寛容な視座で迎えられると考える。
が、フェミニズム神学の見地からいえば、これは批判されるべきものである。
というのは、繰り返すが、女性の役割を「母親」に限定すること自体が、「意味賦与作用」という父の法だからである。
世界には、繰り返すが、生みたくても生めない女性や、同性愛に希望を見出す女性知識人たちが沢山いる。
そういう女性たちに、「母性原理」と叫ぶこと自体が、実は厳格で閉鎖的な父の法以外の何であろうか?
要するに、バッハオーフェンは、男性の幼児期の欲望を知るうえで重要な示唆を与えはするものの、フェミニズム的な見地からは、問題点を多く含んだ存在者なのである。
彼の意見をそのまま看取して、ポスト母権論などという言葉を使っている若者もWeb上にはいるのだが、彼はフェミニズムを学ばねばならない。
「女性とは~である」とか、「こういう女性だけが、特に美しい」などと勝手に意味賦与するのは自由だが、それでどれだけ多くの女性が傷付いているのか、少しは考えてみるべきである。
つまり、バッハオーフェンは、その閉鎖性、反フェミニズム的な理論という点で、アクチュアルなわけである。