ノルベルト・ボルツのメディア論
 

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス) グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)
(1999/12)
ノルベルト ボルツ

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「ハイパーメディアの知のデザインの叙述形式は再帰的である」 by ボルツ

ノルベルト・ボルツはドイツ出身の、現代メディア論の指導者の一人である。
彼が極めて衝撃的な、面白いことを最終章で述べているので、紹介しておきたい。

ボルツは、テッド・ネルソンが開発した「オンライン世界図書館」(Xanadu-Paradigma/ザナドゥ・パラダイム)というソフトウェアと、その未来形式について論じている。
そこでボルツは、

この図書館においては、全ての記録がもう一つの現実として遍在し、広い範囲に分布する。



と述べている。
そこでは、書物は一つ一つ、データとしてアドレスを与えられて管理される。
海賊版やコピーは、システム自身が削除するのだ。

興味深いのは、ボルツが「オンライン世界図書館」の特徴の核心を、「リゾーム」だと規定している点である。
このニューラルネットワークは、巨大な「円環」を描くという。
ボルツはそれを、リゾーム状の円環の集合体として、Hypertorus(ハイパートラス)と呼称する。
このことから、彼は以下のように述べるわけだ。

ハイパーメディアの知のデザインの叙述形式は再帰的である。



ボルツのいう、このハイパートラスとしてのオンライン世界図書館は、まさにボルヘスの「バベルの図書館」の実現形式である。
我々は、現在、Web2・0という「ノード(接続中継地点)」に立っているのだろう。
ボルツは、現代のWeb社会の人間を、以下のように規定している。

人間というのは、今日では道具の使用者ではなく、連結し合うMedienverbund(メディア複合体)の中の一つのスイッチに過ぎない。



更に、彼は「グーグル八分」を予言するかのような、決定的に重大なディスクールをも発信している。

重要な情報か、ジャンク情報かを決定するのは誰か?



ボルツは、サイバースペースでは、「作者のいないテクスト」が書記素の存在論的基礎になると考えている。
Webの中では、「書かれしものは残る」という原則は通用しない。
どこかに保存しておかなければ、テクストは動画的に流れ去ってしまうのである。
テクスト、つまり文字圏が、ボルツのいうdie Schrift-Bild-Welt(文字画像世界)へとシフトしたのだ。
文字は、「読まれる」というよりも、むしろ「見られる」へと変化したのである。
テクストそのものが映像圏(ヴィデオスペース)と化したことを、ボルツは巧みな表現で、

我々はイコンに帰る



と表現している。

テッド・ネルソンは、タルムードを「ハイパーテクスト」として把捉していたという。
ボルツは、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』を、ハイパーテクスト形式で本格的に書かれた最初の(やがては古典的となるであろう)哲学書として評価する。
ハイパーテクスト以前に、ハイパーテクスト的な創作理論を実践しようとしたジョイスは、ボルツによって「かわいそうなジョイス」と面白おかしく祭られている。

要するに、書物は「本」という物質的な媒体から解放されたのだ。
書物は、映像となってWeb圏へ移動した。
これは書物の根本的な変革であり、ボルツはそれをdie Buch-Ontologie(書物存在論)の転回と呼んでいる。

このような、今後のWeb社会のニューロマンサー的な世界観が、解り易く楽しげに語られている本である。
「Web2・0」や、「ユビキタス」、「集合知」、「電子図書館」や、今後の思想の進展プロセスについて考えたい人には、かなり有益な素材を沢山提供してくれるだろう。
今の私にとって、メディア論の旗手として重要視しているのは、ニクラス・ルーマン、レジス・ドブレ、そしてノルベルト・ボルツである。
今後の現代文学には、間違いなく「Web」が素材として関与(或いは進化したケータイetc)するはずであり、当然、技術の進化と共に、我々が直面する社会問題なども変化していく。
私が『ニューロマンサー』や、これらのメディア論の本を読んでいて感じるのは、実は「世界がどんどんヨーロッパ中世にまで戻っている」というような、極めて謎めいた感覚である。
中世というより、「新しいバロック時代」というべきだろうか。
折りしも、あの頃の哲学者や神学者は、「物質にも霊魂は宿るか?」とか、「人間は神が操作する自動機械なのか?」といった、非常に『ニューロマンサー』的な命題を熱心に議論していた。
Webの出現によって、人類の思想は、再び円環的にバロック期へシフトしたのではなかろうか?
晩期ドゥルーズも、「現代は、ネオ・バロキズムの世紀である」とすら述べていたことは、予言的である。


「現実とは、プレパラートとして体験される。」 by ボルツ

 



現実世界は、ボルツが述べているほどには未だ仮想化されてなどいない。
だが、「仮想化される」という、この不可思議な現象に対して、おそらく我々は既に多くの題材に接しているはずだ。
例えば、レミュエル・ガリヴァーの旅した浮島ラピュタは、現実世界を寓意的に仮想化した二次的現実世界として把捉することができる。
事実、スウィフトは当時の社会、文化の風刺としてあの作品を書いたのである。

「仮想化」について、我々が重要視すべきなのは晩期ウィトゲンシュタインの「私の手は何故あるのか?」という命題である。
ウィトゲンシュタインは、死ぬまで『確実性の問題』を書き連ねたのだが、そこで彼は明らかに「確実性」ではなく、「仮想性」へと向っている。
彼が希求していたのは、我々が我々のこの当然持っている「手」の存在を疑える、その基盤になるものとは何であるのか?だった。
仮に彼が現代のシミュレーショナルな世界(例えば、リアリティーのあるWeb上のオンラインゲームetc)に対峙していれば、彼はおそらくもう少し緩やかに、かつ不安に慄くことなく「仮想性」を問題視できただろう。
それに較べて、ボルツはWeb2・0的な命題に既に触れることのできる時代に属しているので、彼よりも、いうなれば「現実性」のさ中に立てるわけである。

 

「私に両手があるということを、今の今疑うとしたらどうだろう。
何故それは私にとって、まったく想像のほかのことなのだろう。
両手の存在を疑うとしたら、私はそれ以外の何を信じるというのか。
私にはこの疑いに場所を与えるような体系の持ち合わせがないのである」 by ウィトゲンシュタイン



 

私は、「仮想性」の問題は虚無的であると考えている。
ある朝起きて、昨日までの全ての記憶が幻に過ぎなかった、と知らされることを研究することは幸福であろうか?
しかし、これは断言せねばならないが、我々は何らかの形式で、常に既に仮想化された世界を生きている。
例えば、私はカトリック教会で洗礼を受けた信徒であるが、ウィトゲンシュタインは、「イエスには母親しか存在しない」という命題を信仰する我々も、やはり「仮想性」のさ中に立っていると糾弾している。
ここで重大なのは、彼が修道院に入ることを考えたほど、いわば敬虔なカトリック信徒であったという事実である。(ウィトゲンシュタインの父はプロテスタント系のユダヤ人だったが、母親はカトリックで、彼も幼児洗礼を受けた)

カトリックの哲学者が、いわばその「信仰」にメスを入れる時、私は常に不安になり、慄く。
しかし、確かに「信じる」ということは、「知る」ということである。
換言すれば、「知る」ことは、所詮「信じる」ことに過ぎない。
私が私の右手の存在を「知る」ことができるのは、ただそれを「信じる」ことができるからに過ぎない。
仮にその「信じる」ことの基盤が崩壊すれば、我々は先の信念を取り消さねばならなくなるだろう。
ウィトゲンシュタインは間接的に、「信仰」の問題を解体しようとしているのだが、その矛先があまりにも鋭く、しかも「神とは仮想化された観念に過ぎない」と直接的には明言しない分だけ、懊悩も激しかったように感じられる。

以下に引用するのは、CNET Japanで佐々木俊尚氏が公開(2008/08/18 11:14 )していた記事からの重要なテクストである。

「コミュニケーションのサービス上に『現在、このサイトには五人のユーザーがいます』と表示されても、その人たちの存在感を得ることができない。IDにしろ名前にしろ、感情のない記号以上の感覚は得られない。そこにもしアバターがあったならば、そこにもう少し個性がつけられるのかもしれないと思う」  by メルティングドッツ/浅枝大志社長



マルティングドッツというベンチャー企業は、仮想空間サービス「Second Life(セカンドライフ)」の支援コンサルタントの先駆けらしいが、このテクストはその社長が佐々木氏に語ったものである。

「現在、このサイトには五人のユーザーがいます」というのは、「現在、ここに五人の人間が<いる>」ことを意味しない。
Web上では、オントロギーは成立しない。
にも関わらず、それを( )に入れようとしているのが、Web2・0の未来構想といっても良いかもしれない。
すなわち、晩期ウィトゲンシュタインの「私には本当に手があるのか?」の問いに対して、Webは「あるようにも、ないようにも、貴方の好きなようにさせてあげましょう」という答えを提示しようとしているわけである。

「現在、この都市には誰も存在しません」というのは、その都市が何らかの事態により、無人化していることを示唆している。
だが、Web上で、「このサイトに誰もいない」などということが果たして成立するのだろうか?
どんな廃墟化したサイトですら、Webのシステム自体は観察しているのではないか。
いわば、管理下に置いているのではないか。

或いは、ユーザーは廃墟に即座にアクセスすることができる。
また、プログラムを操作すれば、「現在、このサイトには誰もいません」という表示を、「50人のユーザーが存在しています」と偽装することも可能であろう。

ウィトゲンシュタインが予言した通り、我々は「確実性の問題」と再び対峙しているようだ。
彼も、そしてボルツもなのだが、「身体性」の概念の復権を主張している。
だが、身体がある、という知覚は、身体の存在に依存しない。
現象学的に表現すれば、我々は世界事象を遮断した以後も、純粋意識を絶対的残余として保持している。
つまり、身体性は、身体がある、という純粋意識に依存して初めて成立するのである。

平野啓一郎は、J・L・ボルヘスに関する講演で、「顔」について考察を促している。
彼は、Webにおける人間の身体のあり方を、「匿顔性」という概念で把捉する。
ボルヘスのテクストを読めば解るが、彼は固有のパーソナリティを極力抹消しようとしている。
にもかかわらず、岩波文庫の『伝奇集』の表紙が、不思議にも「ボルヘスの顔」であることに、平野は鋭い分析の気配を見出している。
これはパラドキシカルなテーマである。
「顔」を消すことが、その消すという行為において、個別化されるわけだ。
仮に現代人に顔があるとすれば、それは「匿顔化」し、「匿名化」された存在者としての顔なのである。
それは、人間の存在形式そのものではないだろうか。
ガブリエル・タルドは、社会を形成するのは、常に人間の「模倣」であり、それは伝染的に拡大するものであると規定している。
これは、今後のWeb未来世界の予測図として有効である。
すなわち、あらゆるパーソナリティの均質性、画一性が、逆説的に「顔」という、この時代にあった人間の特質を現出させるのだ。
我々の顔は、喪われているどころか、むしろ、露見されつつあるのだ。



「現実というものは健康に良くない。
・・・我々が生き延びるための第一の条件は、
現実と直接の関わりを持つ必要が無い、ということである。」
      by ボルツ



私は朝日新聞の切り抜きをしているのだが、この8月に入り、ある数字に、考えるべき命題の可能性を見出した。
ロシアとグルジアの軍事衝突で、我々は死者の数が少なくとも600名に達している、という報道に接している。
この「600」という数字に対して、我々がそれを「死者数」として認識する時、そこに一体どれほどの現実性があるというのだろうか。
我々は、グルジア人の少年少女が、難民キャンプで不安げな面持ちをしつつ、記者の取材を眺めている写真を知っている。
彼らは、メディアを媒介にして、「ある」のである。

昨日、スペインでは飛行機事故が起きた。
死者数は今朝の朝日新聞で、「少なくとも90名」と報告されたが、夕刊では搭乗者数のほぼ全員の死者数に膨れ上がっていた。
人間の死を単純に記号的に、数字に還元する時、我々は往々にして抵抗感を抱くものである。
彼らには遺族がおり、その遺族には友人らがおり、すなわち死者を中心に複数の他者のネットワークが存在している。
一人の人間の死は、世界全体に確実な影響を及ぼすものなのである。
だが、我々は、情報として単純に「死」を受け取った場合、何か匿名化された、嘔吐的な感覚に支配されるのを感じる。

「仮想現実は、一方で、灰色の散文の世界から我々を解放する。
他方で、それは様々な可能性の地平が特定されないことによって我々を脅かす。」



ボルツは、リアルをハイデガーが用いた名高い表現を引用して、「灰色の散文の世界」と呼んでいる。
我々がカトリック教会の信徒であり、そこでミサ聖祭に与る、ということは、一体どういうことなのか?
それは、灰色の散文の世界から解放する、仮想現実なのか。
キリスト教という宗教システムは、「現実世界」を超越した、仮想現実の世界像を賦与する点で、一種の「ゲーム」である。

「私は、行こうと思えば劇場や映画館に行くことができる。
そう意識するだけで十分なのだ。」



ボルツは「意識するだけで」というが、これはいうまでもなく、フッサールを看取した表現である。
つまり、「私が映画館へ行った」という事実性には、何の意味も無い。
ただ、私がそこへ行ったという「確実性」が、意識に与えられれば良いのである。

ボルツが述べていることは、確かに怖ろしく虚無的であり、かつ瀆神的ですらある。
だが、彼が述べていることが、我々の時代では、最早事実性を持って急迫しつつあることは、認めねばならないのだ。

彼は「仮想性」について考察を促す一方で、我々に「ローカルな共同体」の可能性を示唆する。
一人の人間が属する生活世界は、それがどれほど複数のグループを架け橋するものであっても、おそらく基本的には二つである。
つまり、「ホーム」と、「ホーム以外の場」である。
Webにおいても、ユーザーのアクセスする環境は、実はそれほど複数ではない。
多くのユーザーは、自分が参加している、ごく一部のサイトやHPやブログを定期的に閲覧したり、書き込みを入れたりすることで、Webに参画していると考えている。
しかし、一切は「ローカルエリア」からの報告に過ぎない。

生活世界に類似して、我々のWeb内部の環境世界も、やはり「ホーム」と「ホーム以外の場」に限定される。
「ホーム以外の場」は、「ホーム」とリンクしているが、けしてWeb全土にまで繋がっているわけではない。
Webというネットワークは、さながら脳内の神経組織のように、全的に部分と連動しているようにも見えるが、実際は、「孤島化」していることが多々あるのである。

ブランショは、「何ものにも属していない」人間たちが、そのコミュニティの最果てで属することになるコミュニティを、優れた表現で「明かしえぬ共同体」と規定した。
自分はいかなる共同体とも無縁であり、「ホーム」も、「ホーム以外の場」も存在しない――そう主張する時、彼らは「明かしえぬ共同体」のメンバーの一人なのである。
明かしえぬ共同体とは、端的に領土性からの逃走、離散、ディアスポラを意味する。
すなわち、線である。

ブランショのこのコミュニティ理論を看取すれば、「孤独者」はこの世界に誰一人存在しないという帰結にまで達する。
「私には誰も友人がいない。居場所もない。寂しい」と人がいう時、彼らはけして共同体に属していないわけではない。
同じく、ある領土から排斥された、明かしえぬネットワークによって結合した者たちの、匿名化されたコミュニティが存在するからである。
仮に現実世界に居場所を見出せないのであれば、私は、仮想世界に「明かしえぬ共同体」を見出すことをすべきである、と主張したい。
事実、Web上には、「顔」の秘匿された不特定多数の「明かしえぬ隣人たち」が存在している。
存在している、というよりも、正確には、「画像化されて浮遊している」というべきか。
しかし、いずれにせよ、「顔」の奪取、「名」の散逸、「コミュニティ」からの離脱を、掬い上げるスペースとして、すなわち「明かしえぬ共同体」の存在を赦す空間として、サイバースペースの可能性が開けているのもまた事実なのである。
例えば、ある少年が学校という現実世界のあるエリアで、ひどい苛めに遭遇し、出口のない暗闇の迷宮で懊悩している時、私は、一人のカトリックとして、「逃れよ。君の仮想教会の奥へ」とメッセージを送ろうと考える。

仮想教会という表現は、しかしトートロジーである。
何故なら、ボルツのいうように、仮にキリスト教がそもそもセンスメーキングされたシステムであるとすれば、信徒とはその「ゲーム」に参与している一人の「夢見るユーザー」に過ぎないからである。
しかし、これこそが、逆説的に仮想性の現実性に対する優位を保証するのである。
現実世界の全ての事象には、それほどの「意味」など無い。
何故なら、その現実世界そのものが、一つのセンスメーキングされた仮想世界だからである。
ここで、ボルツのいう「ローカルな共同体」の概念が我々に急迫する。
ローカルである、ということは、現代において必要なのである。
そのローカルなエリアに、我々が地盤を持つことができるのであれば。

「仮想現実の探検の成果は、貴重な身体の発見になるだろう」