煉獄についての覚書

Tant qvoit de pecheours el monde qui qvoient eslongnie la grace de Nostre Seigneur , que bien covenoit que Dex leur monstrat un abrecoer par ou il alassent en paradis , et leur donast un travail qui fust qussiut comme feus purgatoires devant la mort.



 

この魔法のようなテクストは、煉獄論を知る上での核心である。
典拠は12世紀に記されたといわれている古フランス語訳の『Li Dialoge Gregoire lo Pape(教皇グレゴリウスの対話)』である。
これを翻訳すると、以下になる。
これは我々カトリックの若者にとって、極めて記憶に値するテクストである。

 

「主イエス・キリストの恩寵を遠ざけていた罪人がこの世には、かくも多かったので、神が天国に到る正しい道を彼らに示したまい、死を前にして浄罪の火となるような一つの試練を彼らに与えたまうのは適当なことであった」



この「浄罪の火となるような一つの試練」こそが、かの「煉獄」である。

キリスト教神学史上、最初に「煉獄」がヴァチカンで公式に認定されたのは、1274年の第二回リヨン公会議であるとされているが、中世学の世界的な権威ル・ゴフはインノケンティウス四世が既にシャトールーのオド枢機卿に宛てた手紙の中で、「煉獄」を教義に取り込もうとしている様子を報告している。

これより以前にも、「地獄」「天国」という二文法思考に「媒介項」を導入しようとする動向は見られた。
例えば、ヘールズのアレクサンデル(1185?~1245)はその『ペトルス・ロンバルドゥスの命題集に関する注解』の中で、以下のように語っている。

 

「illud vitantes seu evolantes pauci.」

(煉獄の火を避けたり逃れたりすることのできるひとは数少ない」



「煉獄」という、天国でも地獄でもない「魂の状態」(ここは空間でも、亜‐空間でもない)を最初に発明したのは、3世紀のアレキサンドリアのクレメンスとオリゲネスであるとされている。
彼らに拠ると、「義人」は煉獄の火をそのまま「通過」するのだという。
しかし、「軽い罪人」(つまり小罪を犯した人たち)は、そこに幾らか「滞留」し、完全に浄化されてから「天国」へ向かう。
これと同じ原理で、「大罪者」は「長期滞留」するのだという。

4世紀に登場したポワティエのヒラリウスによると、「非キリスト教徒や無信仰者は地獄へ堕ちる」のだという。
同じ4世紀に活躍したアンブロシウスは、「われわれは信仰によって救われる」と、パウロの信仰義認説を反復している。

煉獄とは、いわば非信徒でありつつも、小さな罪、ないし大きな罪を犯してしまった者のために用意された宗教的プログラムであると規定可能である。
聖ヒエロニムスは、このプログラムの最適化について、

 

「無信仰者の苦しみは永遠につづくが、キリスト教徒は浄罪の火で浄められるので、主も穏便で寛大なものになる」



と語っている。

ちなみに、「煉獄の火」は皮膚感覚的な痛覚にどれほど訴えるかについて、そもそも煉獄は「魂の状態」であるので、通常の意味での「熱い苦しみ」は無いと考えられる。
ラクタンティウスは4世紀に『神学教程』の中で、「義人は炎の熱さを感じない」と断言している。
これは「通過」するからである。

しかし、「炎の熱さ」を感じないのが「義人」であるのは判明したが、そうではない人間も感じないかどうかについては更なる探求が必要だ。
すなわち、「煉獄における火傷性」の概念の浮上である。

煉獄で我々は果たして「火傷」するであろうか?
もしも、火傷が身体に傷を与える、あの痛ましい刻印を示すのであれば、煉獄にはそのようなレヴェルでの火傷は存在しないであろう。
煉獄での火傷とは、いわば地上で罪を犯した分が、煉獄で傷となって自分に出現するのを、自分自身で「癒す/治す」行為ではないのか?
自分で治すといったが、煉獄での医者とはやはりイエスである。
したがって、一般的なカトリックの信徒で、罪を罪と認めて悔い改める敬虔さを忘れない者であるならば、彼らは煉獄でそれほど苦しむことがないであろう。

聖トマス、マイスター・エックハルトの師であるアルベルトゥス・マグヌスによると、煉獄の存在を否定すれば「異端」になる。
しかし、彼はこうもいっている。

 

「神は、背反する者以外は誰も断罪しない」



彼の弟子の一人である、ストラスブールのフーゴは、更にこの楽観的な見解を敷衍させるだろう。

 

「煉獄とは、希望である」



煉獄論の論客の中で、最も記憶に値する特異な神学者が存在する。
それはオリゲネスである。
彼はほとんど衝撃的ともいえる煉獄論を展開している。

 

「根本的に矯正不能な罪人など存在しない」

「地獄は暫定的である」



地獄が暫定的である、というこの彼の確信にはかなりの熱意が感じられる。
オリゲネスにとっては、異端審問にかけられて火炙りになった者も、大量殺戮を政治的に実現させた者も、一度も悔い改めることなく姦淫を繰り返した者も、全員が例外なく、いずれは「天国」へと達する。
オリゲネスは後世になって異端視されたわけだが、彼は「信徒/非信徒」という差異化の原理に人一倍敏感であったように思われる。
キリスト教徒だけが天国へ行き、そうではない者は地獄へ堕ちるという発想は宗教的に異端であると我々21世紀の青年は断言すべきである。
重要なのは、「他なる思想、宗教、文化を有する他者への顧慮」である。
これを敏感に意識すれば、異教徒が地獄へ堕ちるなどとは断じていえない。
オリゲネスもそれを察していたに相違ない。

しかし彼は、地獄にすらいずれ天国からの救いが訪れるというのであるから、これは「責任論」へと転化しもする命題である。
オリゲネスの地獄論は、地獄に「穴」が空いているようなものである。
これは「責任」の問題と密接に関与している。
娘を殺害された遺族と、殺した犯罪者が共に同じ「天国」へ向かうなどという発想は、裕福な家庭で恵まれた生涯を送った神学者だけに赦された悪しきブルジョワ的神学であるに過ぎない。

地上で罪を犯せば、それだけの「火」で焼かれる、と私は考えている。
ハイデガーは「言葉の罪」を犯したわけだから、煉獄にいるのは確実である。
しかし、ハイデガーはカトリック神学にも多大な影響を与えているので、その功績は批判的に組み込んでやらねばならないだろう。

オリゲネスの煉獄=地獄論は、生きとし生ける者全員に天国を約束するイノセンスな神の言葉から到来しているが、それは同時に悪魔の誘いでもある。
罪を犯せば、繰り返すが「火」で「責任」を負わねばならない。
だからこそ「赦し」が到来するのである。
もしも「責任」や「謝罪」がない場合、その時、その者は既に地上で裁かれているだろう。
煉獄論というのは、結局は地上での「交友関係論」である。
交友関係において、どのような働きをしたかによって、煉獄での「火」が決まる。
我々は死後まで、全て管理されているとも考えることができる。
しかし、これは本質的なことであるが、聖書にはいかなる「煉獄」についての指摘も存在しない。
神学者たちは煉獄論の起源をパウロのディスクールに求めているが、パウロはアレゴリーとして「火」という表現を用いている可能性もある。