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滴り落ちる時計たちの波紋 (2004/06/29) 平野 啓一郎 商品詳細を見る |
平野啓一郎のJ・L・ボルヘス論について
平野啓一郎がボルヘスの「バベルの図書館」について、非常に面白いテクストを残している。
本書の最後の掌編「バベルのコンピューター」に、いわば「バベルの図書館」論という形式で、ボルヘスに対する反論が綴られているのである。
平野は以下のようにまとめている。
「〈図書館〉は、真ん中に〈換気孔〉が開いた六角形のフロアを上下に不定数積み重ねた構造となっており、各々の階の2辺を除いた4辺の壁には、同じ体裁の5段の書棚が設置されていいるという。そこに納められている本は32冊で、やはりすべて同じ体裁であり、各々が410ペイジ、各ペイジは40行で、1行約80字の黒い活字から成っている。正書法上の記号の数は25個で、ピリオド、コンマ、単語と単語との間の1マス分の空白(これも記号の一つとして数える)、アルファベット22字である。すべて小文字で、アラビア数字は含まれていない。そして、「広大な図書館に同じ本は2冊ない。」これが、非常に重要な前提となっている。」(p278)
これを読んで、少しギクリとしないだろうか?
邦訳に慣れ親しんだボルヘジアンならば、このように見事に整理されると、「まさかあの命題を否定するつもりではないか?」と不安になり始めるはずだ。
だが、平野啓一郎という作家は、それを大胆にも平然とするわけだ。
以下を見よ。
この分析の手段は、平野の極めて独創的なメスの切れ味を感じさせて、興味深い。
彼は一流のボルヘス学者といっていいだろう。
「もし、仮に、個々の本に於いて可能な25個の記号の組み合わせがすべて試みられ、且つ、〈広大な図書館に同じ本は2冊ない〉のであるならば、〈図書館〉はいかに無限に近いと想像されようと有限である。」〈p279〉
そう、彼はボルヘスが「無限である」として描いたあのバベルの図書館が、厳密には「有限である」ことを証明しようと計画していたのだ。
平野は続ける。
「その計算は極簡単である。ピリオド、コンマ、空白、アルファベットの計25個の記号の、1ペイジ=80字×40行=3,200字での組み合わせの総数は、25の3,200乗である。更に、1冊が410ペイジからなるのであるから、それらのペイジの組み合わせの総数は、25の3,200乗の更に410乗、つまり、25の1、312、000乗である。これが、〈バベルの図書館〉の蔵書総数であり、序に計算するならば、書棚1段には32冊の本が収められ、それらが各壁に5段、1つの階に4箇所設置されているのであるから、1階あたりの蔵書数は、32冊×5段×4箇所=640冊、図書館は25の1,312,000乗÷640階あるということになる。」〈p279~280〉
整理すると、バベルの図書館の蔵書総数は、25の1、312、000乗冊である。
バベルの図書館の1階あたりの蔵書数は、32冊×5段×4箇所=640冊である。
バベルの図書館は何階まであるかというと、は25の1,312,000乗÷640階である。
要するに、ボルヘスが美しく気高く「無限である」と断言していることはミステークで、厳密に彼が設定したことを筋道たてれば「有限である」ということだと平野は華麗に証明する。
これは、しかしショッキングではないだろうか。
今まで私はこういう計算ができるということに恥ずかしいことだが気付かなかった。
もしも平野が読みながらそれを頭の中で計算していたとすれば、彼にとってボルヘスは詩人には見えないかもしれない。
しかし、平野の功績は偉大であり、これを日本のボルヘジアンたちに教えたことは実に大きい。
しかし平野は更にメスを入れる。
以下である。
「もしボルヘスが、〈図書館〉を、無限数のペイジからなる一冊の順序通りに並べられた分冊であると考えていたならば、なるほどそれは〈無限であり周期的である〉。」〈p281〉
「しかしこの仮定は、前の〈広大な図書館に同じ本は2冊ない〉という前提と矛盾する。蔵書がただ〈一冊の本〉の分冊である時、そのうちのとある1巻が別の1巻と一字一句変わらぬ可能性はある。何故ならば、それらは互いに或る〈一冊の本〉の中の部分であるからである。」〈p281〉
確かに、よく考えてみれば、別に難しいことではない。
というのは、図書館の全てのページが「無限であり周期的である」とすれば、必ずいつかは同じページが再び顔を出すはずだからである。
にもかかわらず、ボルヘスは前提として「同じ本は2冊ない」と規定している。
したがって矛盾である。
この「同じ本は2冊ない」というのは、私も前にここで書いたが、ライプニッツの「不可弁別者同一の原則」を看取していると思われる。
要するに、「この世界に同じ葉っぱは二枚もない」。
全て差異を持つ、というわけだ。
その差異は、物理的〈空間/時間〉なレヴェルから既に頷ける。
たとえ同じページであっても、書かれた年代が異なれば、別の本である。
おそらく、平野は「周期的である」という表現を、ストア派のアポカタスタシス〈全面的反復〉であると誤解しているのではないか?
何故なら、ライプニッツの先述した定理に従えば、「図書館が無限であり周期的である」ことと、「同じ本は2冊ない」という命題は、実は同じ命題の別表現に過ぎないからである。
平野はボルヘスがこの上も無く熱心なライプニッツ学者であったということを忘れているのではないか?
ちなみに、平野は「ページ」を図書館という紙媒体からWebへとシフトさせているが、実はWeb上でも、同じページは二つとして存在しないのである。
それはエレーナ・エスポーシトが「仮想隅有性」という概念でハイパーテクスト論として述べている。
ハイパーテクストを読む者は、彼らがどのリンク先へジャンプするかに応じて、同一のページであっても、全く別の情報として読まれることがありうる。
「『バベルの図書館』が曖昧さを残しているのはこの点であり、私はその論理的な整合性を証明することが出来ない。」〈p282〉
そこで平野は、ボルヘスのミステークを克服するために、それを現代版として蘇生させる。
それが「バベルのコンピューター」という設定なのである。
「コンピューターは、そのために、あらゆる〈書かれない言葉〉を救済し、記録する。」〈p285〉
どういうことか?
平野は、
「実在するあらゆる〈書物〉が、書くという行為の結果であるという事実は、今日に至るまでただの一度も例外を知らない。そして、その書くという行為が、限られた者にだけ許された〈文字〉という特権的な道具によるものだとするならば、その結果もまた、当然に排他性を帯びずにはおかないはずである。」〈p284〉
と、そのように思考する。
つまり、彼はボルヘスが「エクリチュール中心主義」に陥っていることを見抜き、書き言葉にはならなかった有史以来の数知れない音声言語、「喪われたパロールたち」の可能性に目を向ける。それはボルヘスの時代のテクノロジーでは考えられない発想であり、すなわち、「コンピューター」が人間の音声言語を余すところなく拾う、という設定がこうして描き出されるわけである。
ボルヘスは〈バベルの図書館〉という存在それ自体を、「神」の単一性、無限といった神学的な概念と交換できることを示唆していた。
平野も無論、それに気付いている。
そこで彼はボルヘスの「カトリック性」〈ちなみにボルヘスは『永遠の歴史』で三位一体論を徹底的に批判しているのだが〉について言及し、「神なき時代」の痕跡化した神の概念として、コンピューターという設定を登場させる。無論、それがSFによって使い古されているということまでをも、彼は作品で書いている。
この平野啓一郎の短編には、文字通り、ほとんど「隙」がない。
武士でいえば、剣豪である。
ボルヘスの「無限への憧憬」を数学的に「有限であらざるをえない」と糾弾し、しかもコンピューターとして「バベルの図書館」を再構築してみた場合、それはSF化せざるをえない、ということまでをも書いている。
ボルヘスが現代に生きていれば、Webを思考したであろう、ということの一つの証明である。
だが、あまりにも「隙」が無さすぎて、とっつきがたいという面もある。
平野の分析的なメスの速さは、『ブエノスアイレスの熱狂』を孤独に書いていた若き日のボルヘスにとっては、さながら「機械化した人形」のように映るだろう。
それが平野の魅力でもあるのだろうが、少なくとも、こうして現代において、ホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家が、Webと結合する可能性は、示唆されたわけである。
その功績は大きいといえる。
結論として、私が思うのは、書物の数が無限であるか有限であるか、という問いがボルヘスのメッセージだったのではなく、「本」自体が常に姿を変える無限の存在であることではなかったか、ということである。
平野のメスさばきは見事であるが、彼は先述したように、「周期的」という表現をストア派の「アポカタスタシス」と思い込んでいるのではないか?
そうでないと、あの二つの命題が矛盾する、という問い自体が成立しない。
しかし、本一冊の中に、無限の本が秘められているとすればどうだろうか?
つまり、一冊の本には、単一性とは裏腹に、数多性に帰属される多様な「読まれ方」があるとすれば?
そうすれば、ボルヘスのバベルの図書館に存在すればいい本の数は、たったの一冊でいいということになる。
ボルヘスの美しいメッセージは、きっとそうだったに相違ない。
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あなたが、いなかった、あなた (2007/01/30) 平野 啓一郎 商品詳細を見る |
「やがて光源のない澄んだ乱反射の表で…『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵」について
「砂」という概念が登場する。
「砂」は、人間が年を重ねるに連れて失っていく、というよりも、世界に戻していく、人間存在の構成要素として描かれている。
雰囲気は、穏やかで、静謐で、現代文明の孤独を――冒頭に登場する死んだような地下鉄も象徴的だ――メロディーにしているかのようだ。
平野啓一郎は、純文学というカテゴリーに、このような一見、SF的な要素を介在させている。
クローチェによれば、「文学にはそもそもジャンルなど存在しない」。
この言葉を私が知ったのは実は平野啓一郎も研究しているであろう、J・L・ボルヘスのテクストからだったが、そのボルヘス晩年の短編集の表題も、『砂の本』だった。
思うが、現代文学にカフカが設定されている限り、つまり、「変身」という概念が描かれている限り、我々の暮らす二十一世紀の文学においては、もしかすると、「SF的な要素が砂として現実世界に入り込んでいる」のかもしれない。
例えば、これは平野啓一郎も特に注目して、最近では『Web進化論』という素晴らしい本を(このブログでも感想記事を緻密に書いているけれども)出版された梅田望夫氏との対談集も出ているのだけれど、「Web」というテーマの可能性だ。
ハンナ・アーレントが「Web」の概念を先取りしていた、というような記事を先日、朝日新聞の社説で読んだのも記憶に新しいのではなかろうか?
因みに、その紹介者は、平野啓一郎その人である。
私がこの掌編を読んで考えるのは、この作品の下のパラグラフで最初に流れる『溺れた巨人』の作者が、J・G・バラードであるということだ。
平野啓一郎が「SFと純文学の境界線の無効化」という一つの主題を持っていることの反映かもしれない。
どのように考えても、「人が飛び降り自殺して、周辺に衝突から砂が大量に飛び散り、その飛び散った砂がWeb上の闇ルートで取引される…」という設定は、非純文学的である。
だが、作者がそもそもクローチェの言説を当然のものとして受け入れていれば、これはそういうことなのだ。
この作品が持っている静かな意味は計り知れないほど大きいだろう。
それは、『滴り落ちる時計たちの波紋』の終章で平野がボルヘスの「バベルの図書館」をWebに発展させ、そしてそれが「SF的な映画」として描かれていたことを鑑みても、いよいよ興味深い。
要するに、私が何故平野啓一郎という作家にこれほど惹かれるのか、というその理由の端緒が、やはりここに現前しているのだ。
つまり、厳密な意味で「非日常」なのである。
人が生活することで砂を喪失していく、砂をこぼしていく、サラサラサラサラ…と流れるように、現代都市(砂漠)に身体を返していく、という発想は、設定として純粋に見れば、バラードの『結晶世界』と合通じるものがあるのではなかろうか?
平野が立つ位置は、限りなく「純文学」に近い。
けれども、よく観察して彼のこの掌編で描かれた世界を見渡せば、「非現実的な世界」なのである。
こういう微妙な位相座標に巧くWebや砂という概念を取り入れる彼のセンスは素晴らしいものがある。
「現代性」を保ちつつ、わずかに「SF的」、「幻想的」、であるということは、どこかボルヘスの「トレーン」や、「アヴェロエスの探求」といった、作者自身が登場するアルゼンチンを舞台にした現代小説にも通じる面がある。
そういった点でも、平野啓一郎は、現代の純文学において「ポスト・ボルヘス」的な位置を持つ特異な作家であるといって良い。
彼の作品を既に何冊か日本語で読め、考察することのできる貴重な時代に属する私たちは、今一度、「文学にはジャンルは存在しない」といったクローチェ、ボルヘスの意見に、耳を澄ましてみるべきではなかろうか。