私は、現代のカトリック信徒の課題は、いかにしてキリスト教の「父性構造」をディコンストラクトし、それを「女性原理」へと繋げるかにかかっていると確信している。
その上で、大切なことは、男性が書いた本ではなく、女性が書いた本に積極的に参画することであり、埋もれた逸材を発掘し、蘇生させることである。
ここで、私は信徒として、中世に活躍した女性の神学者、シスターたちのディスクールを改めて振り返ろうと思う。
まず、ハデウェイヒは、『幻視』の中で、キリスト教を「樹木」としてイメージし、その本質を直観している。
マージェリー・ケンプは、心の病を癒す真の信仰の光として、「キリストの乳房」という表現を登場させた。
「キリストの乳房」という概念は、実は12世紀のキリスト教徒たちにとって、共通の信仰のモデルであり、その背景としてあるのは、「キリスト教の女性化」である。
したがって、今後我々が読解すべきであるのも、この時代の女性神学的な著作である。
また、ノリッジのジュリアンは、幻視の核心にあるイメージとして、「聖母マリア」を把捉している。
だが、こうしたカトリックの女性たちの素晴らしい本の中で、最も「女性原理」を輝かしく放っているのは、いうまでもなく、マクデブルクのメヒティルトと、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンに他ならない。
メヒティルトの『神性の流れる光』のキーポイントを復習しておこう。
あの本の核心となる概念は、「聖‐授乳」である。
この天上的なほど甘美な概念において、「乳」は、常に聖母マリアから到来する。
「乳」とは、信徒への信仰の恵みであり、生きる糧である。
メヒティルトも、やはりイエス・キリストに近付くために、幻視において「聖母マリア」を媒介にしているのであり、それはこの時代の女性たちに共通している特徴である。
特に、メヒティルトは「母性原理」という点で、他の女性より突出しており、カトリック教会のみならず、ポスト・フェミニズム的な見地からも、再考の余地があるように考える。
ヒルデガルトにおいては、まさにキリスト教の「女性的側面」の体系化に成功した最初の重要例であるといって良いだろう。
彼女は、この時代の女性たちが控えめに「聖母マリア」や「キリストの乳房」といった表現で自身の女性的な信仰の美しさを語っていた頃、「子宮」「女性の創造主」「神の女性性」「母なる教会」・・・といった、強力に「女性原理」に立つ概念によって、見事に父権構造を女性化した。
ヒルデガルトはまた、非常に高貴な性格の女性神学者であり、おそらくは女性が聖職者にはなれないという正統派の伝統的規律にも、内心では憤慨していたように感じられる。
いずれにせよ、この時代のキリスト教は、高度に「女性的」であり、したがってこれまで秘められていたキリスト教の本質を明るみに出していた稀有な、そして麗しい時代であった。
現在も私はヒルデガルトの研究を独自に続けているが、ここでは、ひとたび、ヒルデガルトよりも少しだけ年下の、ある重要なキリスト教歴史神学者を紹介しておこうと思う。
彼も近年再評価が目覚しいが、地位としては、彼は正統派の修道院長であった。
ヒルデガルトが1098年生まれで、彼は1135年生まれなので、時代的には重なっている。
名前は、フィオーレのヨアキムである。
再評価において重要なことは、彼が打ち出したモデルを、我々の時代の「女性原理」に即して再構築するということである。
これは、ヨアキムがその『形象の書』でイメージした名高い「Fides Catholica(カトリック信仰)」と呼ばれるものである。
三位一体とは何か?それを信徒ではない人々に優しく説明してあげる場面において、このモデル図は最高度の解り易い。
まず、左の大円と右上の円は、Mater(母)である。
右の中央の円はfilius(子)であり、最後の円はspiritus sanctus(聖霊)である。
ここで前提として述べておくべきことは、ヨアキムのモデル図では、Mater(母)がPater(父)という、父権構造に支配された旧型のモデルになってしまっているということである。
すなわち、「父と子と聖霊のみなによって」という、カトリックなら誰もが毎日祈る時に唱える聖三位一体を、ポスト・ヒルデガルト期に属する我々が、「母」へと更新したわけである。
強調しておくが、キリスト教に内在するあらゆる父性構造を摘出し、女性原理において更新しない限り、我々の時代の男女共同参画的なカトリック信仰の未来は構築しえないと考える。
さて、図を見れば解るように、「子なるキリスト」と「聖霊」は、共に「母=父」の大円から発出している。
つまり、キリストも、母なる神も、聖霊も、互いに同じものを本質として持ち、別々のモードである、ということである。
「母」と「子」(ヨアキムは父性的に父と子と表現するが)は円が互いに密接に結びついている。
対して、「聖霊」は少し双方から離れた位置にある。
「聖霊」は現代教会においても働いているものであり、母と子の一体関係の時代の後に現代が属していることを意味している。
さて、このようなモデル図の、それぞれ三つの円を、今度は横に寝かせてあげると、どうなるであろうか?
以下のヨアキム式のモデル図が現出する。
こういう「形象」により、視覚的にキリスト教の本質を掴み取っていくのは、ヨアキムの天才的な才能であった。
まず、左のEveは、無論「イヴ」を意味している。
創世記では、「アダムの創造」がイヴのそれに先立つが、それは正統派の意味賦与作用によって「~である」と規定された権力に過ぎず、ナグ・ハマディ文書には、幾つも「イヴの創造」にこそ力点を持たせるテクストが無数に存在している。
世界の原初に、イヴが到来する。
イヴは、無論、Materとしての神が創造した、最初の人間であり、起源の女性である。
二つの円が接している辺りに記されたV.T/N.Tは、それぞれ「旧約」と「新約」を意味する。
三つの円は、左から右に歴史神学的な流れを表現している。
新約時代、つまり、聖霊時代の最果てにあるのは、ヨアキムが記したfinis munde(世界の終り)である。
ヨアキムがこのように、一つの直線的なモデルとして歴史を把捉したことで、必然的に線分の終始点が「終末」を意味することになってしまっている。
このヨアキムの歴史神学の流れの簡易モデル図から解ることは、現代が「聖霊の時代」であるということである。
そして、「聖霊の時代」の次には円がないように、「終り」がある、とヨアキムは信じていた。
それは「審判」の概念と結合する。
が、これは悲嘆的な神学に過ぎず、信仰に亀裂を与えるものであるので、我々は回避する。
重要なのは、ヒルデガルトが世界を「子宮」という球形モデルで把捉したように、宇宙は調和を維持しつつ甘美な循環を繰り返す、ということである。
これを絵にすると、ヨアキム式の単線回路ではなく、必然的にマトリックス状のニューラルネットワークとなる。
私がヒルデガルトに着目する最大の理由は、彼女が何らかの形式で、既に「Webのハイパーリンク」的な世界構造を感じ取っていたからに他ならない。
しかし、ヨアキムのこのモデルは、彼が「イメージの視覚化」を重視し、聖なるものを積極的にビジョンとして把捉したことの代表例として、再評価されるべきである。
※アジョルナメント・・・カトリックの近代化=改革、時代への適応を意味する。