フェミニズムとカトリック教会の教えの接点を探る
ヒルデガルトは、現代のカトリック教会とフェミニズムの相互のより良い未来形式を考える点で、極めて重要である。
キリスト教は、父性的な宗教ではない。
そもそも、「キリスト教は宗教ではない」。(ボンヘッファー)
キリスト教の、最も伝統のある、最高度に洗練された美しい教え、それがローマ・カトリック教会である。
カトリックとは何であろうか?
無論、洗礼志願者には、教会が無料で青色の綺麗なミニブックをプレゼントすることになっている。
つまり、「洗礼を受ける準備をするために、これからカトリックの要理を学びたいです」と、神父様なり、修道女様なりに告げれば、必ず担当の方がつくのである。
私の場合は、ある一人の修道女様に大変お世話になり、一緒に京都の修道院に出向いたりしたり、御誕生日の贈り物をプレゼントしたりもした。
カトリックの教えは、突き詰めれば、以下の三つにまとめられる。
つまり、「隣人愛」「赦し」「復活」である。
ボンヘッファーが「キリスト教は宗教ではない」と述べたのは、先の二つの点が、既に脱宗教化されつつあるからである。
小学校の国語の先生でも、「隣人愛」を教えることはできるし、「赦す」ことの大切さを聞かせることはできるのだ。
つまり、「隣人愛」と「赦し」という点で、キリスト教はむしろ固有名を喪失し、普遍化されているのである。
だとすれば、残された三つ目の「復活」にこそ、現代のカトリック教会の教えの本質――いわば、無宗教と差異が生起する地点――があると考える。
確かに、「復活」、つまり御受難に向われた主イエズス様が、三日後に死者の中から復活された、という「事実」――これを信じられないひとは、信徒ではないのである。
だが、今回、私が書きたいことは、実は「復活」ではない。
そうではなく、「キリスト教の女性的性格」なのである。
キリスト教は、何故「女性的」なのか?
逆ではないのか?
何故なら、福音書を書いたのは、おそらく全員が男性である。
共観福音書、及びヨハネのそれぞれは、一人ではなく各「グループ」が書き上げた、と考える説もあるが、聖書が「女性」について、「男性」よりも劣位の意味賦与をしている点があるのは避けられない事実である。
更に、十字架の祈りにおいても、「父と、子と、聖霊のみなによって」とある。
「父」とは神であり、「子」とはナザレのイエスであり、聖霊とはその第三の様態である。
これらは三つが同じものであり、したがって「磔刑」を受けたのは一人の人間であるだけでなく、神御自身なのである。
では、何故「母と、子と、聖霊のみなによって」とは祈られないのであろうか?
神は男性なのか?
神は女性なのか?
実は、神が男性であるなどという記述は聖書にはどこにもない。
神は男性でも女性でもなく、むしろ性差を超越されておられるのである。
だとすれば、神を「父性」と規定することは本質的に不可能なのである。
しかし、往々にして、初代の教父たちは、神を父性と結び付け、創世記のエピソードに因んで、女性を男性の付属的存在者、従属的な存在者として規定してきた。
「誘惑」や「罪」の起源が女性と結び付けられ、男性は逆に神の「ロゴス」や「理性」と結び付けられた。
女性は「感覚的」であるがゆえに、気分に流されやすく、理性からは遠い、つまり神のロゴスからは隔たっている、とみなされてきたのである。
これは、フェミニズム的な見地から見れば、大いなる誤謬ということができるであろう。
というのは、どういう性質が「女性」であるか、どういう性格が「男性」であるのか、といった事柄は、文化/社会が作り上げる装置だからである。
「我々は女性には生まれない。女性になるのだ」。(ボーヴォワール)
ジュディス・バトラーの言葉を借りれば、
「セックス(生物学的性差)は、常に既にジャンダーである」からだ。
セックスというのは、実は「意味」なのである。
ジャンダーは、「意味」の工場である。
つまり、社会規範や文化の価値規範が変革を来せば、当然ジャンダーも変革されるわけだ。
すると、セックスも変革を来す。
ジャンダーがセックスに意味を与えるのであり、セックス(私は女として生まれたから女らしく生きるべきだ、などという言説は生物学的決定論である)とは二次的な文化の生産物に過ぎないのである。
だとすれば、教会が女性を「家庭の善き母」に縛り付けること自体、既にジャンダー・アイデンティティの権力だと規定できる。
このように、まず神が性差を超越し、女性が男性の劣位的な存在者ではない、と改めて述べておく必要がある。
むしろ、イヴ原則に従えば、男性こそが女性の二次的形式なのである。
胎発生時の全ての胎児は、初めに女性なのである。
しかし、未だに我々の現代社会では、細胞的なレヴェルで、「女性」を排他的に扱う領域が存在する。
内閣総理大臣が男性であるのも、女性議員の数が少ないのも、企業で女性が事務員としての仕事を与えられ、男性との競合的な企業発展へと向えないのも、全ては未だに「フェミニズム」(現代はフェミニズムの論客自身が内的批判を展開してもいるので、ポスト・フェミニズムの時代とも称されているようだ)のことを知らない男性が圧倒的多数を占めていることに由来する。
そもそも、何故「女性司祭」が存在しないのか?
何故、修道女だけが存在し、彼女たちは聖堂の深奥の説教台で信徒に講話を展開できないのか?
何故、教会は「神父」がミサを司り、「修道女」がミサを切り盛りできないのか?
このように、現代の教会でも、性差を意識した隠されたる「不平等」が平然と存在しているのである。
このような女性性への、なかなか浮上しにくい領域にメスを入れるのが現代のフェミニズムであり、そして、近年急速に再評価が高まっているのが、中世における最高のキリスト教女性神学者であり、幻視者でもあった、聖ヒルデガルト(ヒルデガルト・フォン・ビンゲン)に他ならない。
彼女はフェミニズム的な見地をカトリックの教えと照合させ、その未来を思考する上でこの上なく重要な示唆を与えてくれる。
それでは、以下、聖ヒルデガルトが時の教皇を感動させたといわれる、名高い言説の中枢項目を展開する。
○ creatrix(クレアトリックス/女性の創造主)
ヒルデガルトは、神の本質を、宇宙を包み込む子宮として把捉した。
これは神に「母性」的な側面を見出す概念であり、これまで追いやられてきたキリスト教神学内における「女性性」を快復させる戦略素である。
別の表現では、彼女はこれをmateria creaturae(創造の母体)を規定している。
この創造の母体こそが、「聖愛」である。
○ Charitas―Maria―Ecclesia(女性的な三位一体)
「The Three Graces」 by RAFFAELLO and CRANACH
ヒルデガルトは、三人の神聖な女性を幻視した。
一人目は、カリタス(聖愛)である。
二人目は、マリア(神の母)である。
三人目は、エクレシア(教会)である。
カトリック教会は、いわばこの三人の女性たちの温かい胸元で安らうことのできる領域である。
それだけでなく、ヒルデガルトにとって、この女性による、女性だけの三位一体こそが、キリスト教の隠されたる本質であった。
三人の女性に囲まれた信徒たちは――つまり全ては女性から始まるのだということ――ヒルデガルトの幻視に来歴がある。
彼女はこれらの三人の母親のビジョンを実際に見たのであった。
○ 世界の起源としてのmateria
ヒルデガルトにとって、世界の起源とは、常に既にマテリア(母体)である。
Materiaは、mater(母)/matrix(子宮)へ分解できる概念であり、要するに先述した「クレアトリックス」が存在するのである。
ここで重要なのは、キリスト教を、つまりナザレのイエスを、ヒルデガルトが「女性性」の概念に帰属させて把捉している点である。
ナザレのイエスの生物学的性差は「男性」であったが、そのセックスは、当時の社会/文化のジャンダー・アイデンティティの虚構物に過ぎない。
すなわち、ナザレのイエスは、その発言、その行いだけを純粋に見ると、別に男性でなくともかまわないのである。
かくして、神のロゴスは性別を超越する。
ヒルデガルトは、ナザレのイエスを女性だったと確定するのではなく、彼が、すなわち神が、「女性性」を本質として持っていることを解明しているのである。
これは従来のカトリックの教えの起源に踏み込む革新的な箇所であり、極めて重要である。
○ フィロソフィア(哲学/intellectus quarensfidem(知を求める信))という女性
ヒルデガルトにとっては、「哲学」さえもが女性として把捉されている。
哲学、つまりフィロソフィアとは、カリタス(聖愛)へと到るまでに必要な道であり、通過点である。
哲学は完成形態ではなく、彼女はキリストまでのプロセスなのである。
○ Mater Ecclesia(マーテル・エクレシア/母なる教会)
キプリアヌスは、「教会を母に持たなければ、神を父に持つことはできない」と明言している。
反フェミニズム的な側面がある聖アウグスティヌスも、やはり「マリア」をヒルデガルトと同じようにマーテル・エクレシアとして規定している。
先述した、ヒルデガルト流の聖愛を核にした三位一体関係からいえば、マリアの本質とはカリタス(聖愛)であり、カリタスの本質こそがエクレシア(教会)なのである。
これら三人の「女性」は、実際にビジョンを持ってヒルデガルトの意識に到来し、やがて書き物として後世に伝えられるに到った。
つまり、「マリア―カリタス―エクレシア」とは、フェミニズム神学における基礎コンセプトであるだけでなく、キリスト教に内在するファロゴセントリズム(男根ロゴス中心主義)を脱構築するために必要な、地下水脈なのである。
「洗礼」は、教会という女性が志願者に与える最高の母性的行為として規定された。
ヒルデガルトにとって、このような理想的な教会こそが、primitiva Ecclesia(原初の教会)であり、この教会という女性は、永遠なるViriginitas(処女性)である。
マリア、エクレシア、カリタスという三人の女性神学的の中枢的存在は、三者全員が「処女性」を有する、気高く純潔において一貫している点で共通している。
ヒルデガルトは、「処女性」を、最も天国に近い状態であるとして、vita angelica(天使的生)と規定している。
○ Motherhood(母性)
世界の起源に存在するのは、エクレシアの子宮である。
それは、ヒルデガルトにとって、femina forma(原初的な女の形)としてイメージされた。
ナザレのイエスは男性であるが、御子のdivinitas(神性)は、間違いなくmotherhood(母性)と不可分に結合しているものなのである。
換言すれば、神とは、spiritual motherhood(霊的母性)そのものである。
神は、子宮だけでなく、breast(乳房)をも有するとヒルデガルトは考えた。
我々カトリックの信徒は、神の聖なる乳の恵みを受けて、毎日を送っているのである。
全ての人間は、それを知らないだけであり、実際は、全人類に神の聖なる乳の恵みが及んでいる。
ヒルデガルト研究者のバーバラ・ニューマン女史は、「母の愛の乳は、エクスタシーの魅了する葡萄酒となる」とすら述べている。
つまり、神とは母性であり、母性の本質とは聖なる愛であり、聖なる愛とは、恵みの乳なのである。
したがって、Mater Ecclesia(母なる教会)も、virgo Ecclesia(処女なる教会)も、同じものである。
いわば、我々二十一世紀の人間は、信徒であるかないかに関わらず、全員が、マリア、エクレシア、カリタスという三人の永遠の処女なる美しく気高いdomina(貴婦人)の乳房から流れる、恵みの甘美な乳を与えられ、その三人の胸の谷間の中で生活しているのである。
このように、ヒルデガルトの功績は、従来の男性的/父性的だったキリスト教神学を、根本的にfeminization(女性化)させた点で、天才的であった。
しかも、彼女は時の教皇を、その幻視のビジョンにおいて感激させ、教皇直々に「貴女の霊的な教えを後世に伝えるように」と命をすら受けているのである。
現代のローマ・カトリック教会は、聖ヒルデガルトの存在を重視してもいる。
それは、ミレニアム期に美しく活動された教皇ヨハネ・パウロ二世様が、熱心なマリア信仰の持ち主で、フェミニズムと神学の未来形に夢を馳せていたことからも伺える。
ヒルデガルトの教えは、かくしてtheology of the feminine(女性的なるものの神学)と規定されるのである。
彼女が快復させたのは、不当に扱われていたthe feminine(女性的なるもの)に他ならない。
○ the feminine divine(神の女性的側面/女性の神的側面)
上述してまとめてきたように、ヒルデガルトの教えは、救いそのものである。
それは、カトリックの世界を、厳格で、束縛的な父性的「掟」の世界に過ぎないと規定する従来の一般的通念を根本的に破壊する。
むしろ、カトリックとは、「柔らかい」のである。
カトリックの本質とは、マリア様の聖なる授乳の絵にあるように、本質的に母性的な恵みであり、ヒルデガルトはそれを田園的、かつ情熱的に描き出した。
聖ベルナールによると、「祈りとは、孤独のうちで行うエクレシアへのkissである」。
イザヤ書60章16節には、「あなたは国々の乳に養われ、王たちを養う乳房に養われる」と記されている。
これも、神が、原理的に三人の女性の聖なる乳であることの証左に他ならない。
また、これは近年のフェミニズム神学からもその核心として重視されている箇所だが、ホセア書11章の新共同訳による「誤訳」の問題がある。
その3節で、ヤハウェは「わたしなのだ、エフライムに、彼の腕を支えて、歩くことを教えたのは」と語ったことにされているが、ヘブライ語原文では、この「歩くことを教えた」の箇所は、正確に「授乳する」「乳を与えた」を意味する。
また、これは驚愕すべき事実であるが、実は同じホセア書11章9節に、ヤハウェが「わたしは神であって、人ではない」と告げている箇所があるが、この「人」の原語は、なんと「男性」なのである。
すなわち、鑑みて訳し直すと、「わたしは神であって、男性ではない」ということになる。
また、同じく8節には、「わたしは憐れみと共に熱くなった」と神ご自身が語られているが、この「憐れみ」のヘブライ語原語は、vehem(胎)であり、その複数形がvehamimi(憐れみ)になるのである。
決定的なのは、11節である。
ここでは、「わたしは彼らをその家々に住まわせる」と神がおっしゃられているが、この「家」の原意は、「母の家」である。
すなわち、ホセア書11章とは、ヒルデガルトの女性的な神学の証左となる最も重要な箇所であり、the feminine divine(神の女性的側面/女性の神的側面)の本質を見事に表現した有名な箇所である。
このように、ヒルデガルトは、女性性が有する癒し、救い、優しさ、柔らかさ、無邪気さ、無垢さ、気高さ、純潔さを賛美する。
それは、神学というよりも、むしろ「信仰」そのもの、「祈り」そのものである。
ヒルデガルトは以下のようにいう。
もし教会の乳房が乳を与えなければ、キリストの四肢(信徒たち)は全身が患うことになろう。
最初に神が「光あれ」とおっしゃって、光が現れた時、創造の手段とmateria(母体)は、<愛>だった。あらゆる被造物は、彼女<愛>を通じて創られたのである。
処女(マリア)は、御自分の上にかがんで温められる聖霊の温もりによって、御子を生まれた。雌鳥の温もりがなければ雛鳥は卵から孵らないように、マリアも聖霊の温もりがなければ御子を生まれることはなかった。
洗礼とは、エクレシアの最高の母性的行為である。
ヒルデガルト再考―Bernard Silvestrisの神の女性性「Noys」との連関について―
「世界のmateriaは、神の御意志の内に存在した。
というのは、御業を達成するために神の御意志が啓示された時、世界のmateriaはまさに神が願われるがままに、御意志から暗く形がない球として発出したからである」
by ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
「彼女(キリストの肢体、教会)は、永遠にその無傷なる処女性のうちに、すなわちカトリックの信仰のうちにとどまっている」
各々の有限的基体は、<何かの中にある存在>として(als In-etwas-sein)規定できる。