遊牧論のための覚書、ドゥルーズからハイデッガーへ
 



n次元の海辺  

ドゥルーズの『千のプラトー』を久しぶりに再読している。

ドゥルーズにとって、「キリスト教神学」とか、「マルクス主義」などの学問領域は、全て一つひとつの「海辺」であって、互いに連結可能である。

ドゥルーズは「存立平面」という表現を使うのだが、海辺として考えた方がイメージしやすい。
つまり、互いに異なる領土を持つ位相座標の異なる海辺Aと海辺Bは、何か共通の連結糸によって繋ぎ合わせることができる、という発想だ。

テリトリーを変換するわけである。
例えば、朝から晩までひたすらハイデガーの本を読んでいる人がいる。
彼は神経質なので、遊びとして、たとえ休息であれ、メロドラマを観ることなどはしない。
だが、ドゥルーズならば、「あえて観る」のである。
しかも、ハイデガーの哲学の概念を駆使して、そのメロドラマを徹底的に解体するわけだ。

このとき、ハイデガーの思想は、「ハイデガー機械」というマシーンを形成する。
続いて、そのメロドラマの主役とか、展開とか、面白い台詞とか、途中のコマーシャルたちは、全て群化して、「メロドラマ機械」を形成する。
この相互に異なる二つのマシーンを、歯車を見つけて連結させる、これがドゥルーズのいう「脱領土化」の核心である。

もう一つ、面白いのは、ドゥルーズが「子供になれ、少女になれ」といっている概念だ。
生成変化である。
ただし、これは自己同一化とか、感情移入ではない。
分子状の生成変化である。
この辺りの概念は入り組んでいるのだが、これはニューラルネットワークのシナプス単位まで次元をミクロ化して思考しなければならない。
ドゥルーズは、「われわれの内部に分子状の女性を生産し、分子状女性を創造することが問題なのだ」と断言している。
分子状であるということは、極めて小さなレヴェルにまで及んだ、構造変化ということである。
ある細胞レヴェルの構造体Aを、別の構造体Bへ領土化してあげる、という発想が根底にある。

「少女になる」ということは、これまで文学では男性中心主義的に書かれてきた側面が多かったからだ。
「少女視点で物語を書く」のではなく、「少女に、なる」ことが重要だとドゥルーズは力説する。
同じ思考回路で、「犬に、なる」「樹木に、なる」「太陽に、なる」「午後四時に、なる」といったことが可能になる、と彼は説明している。

名高い「器官なき身体/CsO」とは、つまりdevenir(なる)ということである。

「なる」ということは、「有る」ということではない。
「有る」の主体は自己であって、それは不動で静止していて、ツリー的にしか発展しなかった。
だが、ドゥルーズの「なる」=「生成論」は、ハイデガーの「sein(ある)」=「存在論」の発展形式である。
主体は存在しないのである。
存在するのは、流動的に内部に外的対象を吸収して、新しい海辺を目指す、ノマドロジックなマシーンの群である。

主体は常に逃走線を描く。

もう一つ、面白いのは、ドゥルーズの「」論だ。
ドゥルーズは、手とか足、おへそ、更にはスコップや赤ペンや時計までもが、「顔貌化」すると明言している。
顔は、顔貌性抽象機械から生まれる。

だから、頭部にのみ顔がある、という従来の思考フレームは遮断される。

同時に、顔は風景でもある。
風景には顔があるのだ。

この主題は、無論体系的には書かれていないので、非常に解り辛い面もある。
けれども、ある思想的海辺を、別の波打ち際へとシフトさせる思考フレームとして、ドゥルーズ&ガタリの編み出したこれらの操作子は、今後も応用していこう。

ところで、ドゥルーズはGoogleについても言及している、ドゥルーズ学者たちは気付いているだろうか?以下だ。

「Googleが持つ商業的な性格はしばしば指摘されてきたが、僧院や寺院都市が作るネットワークのように、Googleとはあらゆるタイプの点―回路の組み合わせであり、水平な線の上で対位法をなす。」



他にもある。

「Googleの一つ一つが中央権力を形成するが、それは極化作用と中間からなる中央権力であり、不可欠な調整のための中央権力である。」



ドゥルーズのGoogle論は明らかにニューラルネットワーク論、神経組織論である。

「Googleとは横断的存立性の現象であり、ネットワークなのである。」

「系統流、つまり様々な流れを、Googleは、水平線上のあちらこちらにいきわたらせる。」



私は今、ドゥルーズの都市=神経回路のモデル図を、Google=神経回路に変換しただけに過ぎない。
しかし、意味が何と通じてしまう、これはマジックではないが、マルクスの処女論考『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』でも、幾つかGoogle論、というよりもWeb論が見出せる。
読み替え」が可能であることは、そのテクストがまだ完全にディコンストラクトされていないことの証明である。



「Mandragora」


リゾームは従来の植物イメージとは完全に異質である。
リゾームは自ら触手を伸ばして対象を内部に吸収する。
その度ごとにリゾームは成長し、別の大地へ歩行し、新たな対象を探索する。
これは内在平面の脱領土化→再領土化のプロセスと類似している。
リゾームの原型はマンドラゴラの神話的形態にも見出すことが可能であろう。

 


この絵図は、ドゥルーズの思考フレームを具現化している。
根茎(リゾーム)の拡大のようにあらゆる多様体を連結させる触手を持つ。
そして内臓を持たない器官なき身体として、あらゆる多数の異領域を横断する遊牧機械となっていく・・・。
ドゥルーズとは、哲学を脱領土化する逃走的マンドラゴラである。




「Webdeleuze Accueil」

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差異と反復 差異と反復
ジル ドゥルーズ (1992/11)
河出書房新社

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★引用

祝祭というものには、「再開不可能」なものを反復するという明白なパラドックス以外のいかなるパラドックスもない。一回目に、二回目、三回目を加算するというのではなく、第一回目を「n」乗するのだ。このような<力=累乗(ピュイサンス)の関係=比(ラポール)>のもとで、反復は、内化されることによって転倒させられるのである。(p20)(



あるいはまた、モネの最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復するのである。(p20)



要するに、反復は、その本質からして象徴的なのであって、象徴(サンボル)、見せかけ(シミュラクル)[幻想(ファンタスム)/フロイト、幻像(ファンタスム)/プラトン]は、反復そのものの文字である。象徴のレヴェルと偽装とによって、差異は反復のなかに含まれている。(p42)



反復の真の基体[真に反復されるもの]は、仮面である。(p42)



なるほど、いずれの形式においても、反復とは、概念なき差異のことである。(p50)



ひとは、同時に二回反復するものだ。ただし、それは同じ反復ではない。一回は、横の次元において、機械的かつ物理的に反復し、もう一回は、深さにおいて、見せかけ(シミュラクル)によって、象徴的に反復する。(p430)






無人島 1953-1968 無人島 1953-1968
ジル・ドゥルーズ (2003/08/26)
河出書房新社

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私が最も好きなドゥルーズの小論「無人島の原因と理由」が収録されている珠玉の思考集成である。
この「無人島の原因と理由」を読んでいるとき、私はドゥルーズが無人島でこれ書いているようなイメージに襲われた。
おそらく今も、可能的無人島(ライプニッツ)で、可能的ドゥルーズが新しく再創造された「無人島の原因と理由」を書いていることだろう。


★引用

したがって、昔の探検家たちに親しいあの問題、「無人島にはどんな生き物が棲んでいるのか」には、ひとつの回答しかないことになる。そこに棲むものは、すでに人間である。が、並みの人間ではない。絶対的に分離され、絶対的に創造的な人間だ。(「無人島の原因と理由」p16)



第二の瞬間は、第一の瞬間の後に続くものではない。第二の瞬間は、他の諸瞬間がみずからの循環を完成させた時にやって来る第一の瞬間の再出現なのだ。第二の起源は、第一の起源より本質的なものになる。(p21)



ノアの箱舟は、地上の唯一の地点、水没していない、円形の聖なる場所に停止し、そこから世界は再開される。それは、島であり山であり、同時に二つのものでもある。島は海に浸かった山になり、山はまだ乾いている島になる。ここには、再創造のなかで捉えられた最初の創造がある。(p21)



再開の理想のうちには、開始そのものに先立つ何かがある。開始を深くするために、開始をやり直し、それを時間のなかへと押しやる必要がある。無人島とは、この太古からのもの、あるいはこの最も深いものの質料である。(p22)



「千のプラトー 英訳 」

A Thousand Plateaus (Continuum Impacts) A Thousand Plateaus (Continuum Impacts)
Gilles Deleuze、Felix Guattari 他 (2004/10/14)
Continuum International Publishing Group Ltd.

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「差異と反復 英訳」

Difference and Repetition (Continuum Impacts) Difference and Repetition (Continuum Impacts)
Gilles Deleuze (2004/11/18)
Continuum International Publishing Group Ltd.

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「ニーチェと哲学 英訳」

Nietzsche and Philosophy (Impacts) Nietzsche and Philosophy (Impacts)
Gilles Deleuze (2006/03/23)
Continuum International Publishing Group Ltd.

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哲学とは何か 哲学とは何か
ジル ドゥルーズ、フェリックス ガタリ 他 (1997/10)
河出書房新社

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ドゥルーズ+ガタリ(以下D+G)は哲学を概念創造であると規定する。
置換すると、内在平面の創建である。
以下に内在平面のモデル図を示す。



A=主体の内在平面/プラトーである。
プラトーは常に領土化されている。
したがって区域的であり、平面には限界点がある。(a´~a´´´)

この段階では未だ哲学は開始していない。
概念を創造するためには、異平面の発見が必要である。
B、C=異平面とせよ。
これらは未領土化常態のプラトーである。

内在平面Aのリゾーム(伸縮自在な根茎a´~a´´´)を使ってb、c点に連結させる。
この時、平面B及びCの位相座標に応じてAそのものの中心点が脱中心化される。
脱中心化の原理はリゾーム運動にあり、そのプロセスは異平面への連結である。
これによって既成のA平面が非A化する。
この一連のプロセスを脱領土化という。
Aが非A化したので領土は更新されたが、A+B+Cを跨ぐ三平面において再び領土を形成することになる。
したがって再領土化している。
これを再び異平面D、Eへ脱領土化するために新たにリゾーム運動を再開する必要がある。

以上が、著者のいう哲学の原理である。

ひとは、思考するときには必ず、他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させる。(p63)



上記のモデル図の原理を把握すれば、「獣に生成する」「粒子に生成する」といったことの概念的意味内容が認識できるだろう。
獣とは前領土的なプラトーである。
『千のプラトー』を再読すれば、「道徳の系譜学」(ニーチェ)に対して彼らがなぜ「道徳の地質学」と表現したかの真意が掴めるはずだ。
彼らは現代哲学の概念創造のために非哲学から思考フレームを獲得する。
その哲学的運動がリゾーム運動である。


D+Gの思考フレームはNeuron的である。
本書の後半で積極的にニューラルネットワークのモデルが哲学空間へ導入されていることを鑑みれば、彼らの思考フレームがNeuronにまで到達していたことが判明するだろう。
この鋭意は現代フランスを代表する哲学者カトリーヌ・マラブー女史に継承されている。(参照『わたしたちの脳をどうするか』)




ドゥルーズ横断 / 宇野 邦一

ドゥルーズ横断
ISBN:9784309241524 (4309241522)
382p 22×16cm
河出書房新社 (1994-09-30出版)

・宇野 邦一【編】
[A5 判] NDC分類:135.5 販売価:3,873(税込) (本体価:3,689)


内外の精鉛を結集した実践的なドゥルーズ読解のための決定版、ドゥルーズの思考を横断し、その思考とともに世界を横断する。

ペリクレスとヴェルディ―フランソワ・シャトレの哲学
『千のプラトー』について
「言語の存在論的基礎」について
操り人形の声―ドゥルーズ・ガタリの明るさと暗さ
造成居住区の午後へ
感覚のブロック
一九六九年出会う―ドゥルーズの文学論をめぐって
子供の情景―痛み・これ・リトルネロ
見えないもののエコロジー〔ほか〕



丹生谷貴志「造成居住区の午後へ」を読む




「人間は不在である、そしてしかし、その時、風景の中にすべてがある。
“L’homme absent mais tout entier dans le paysage.”  (p98)




知覚主体は世界を自分の知覚の組織において捉えなおすものである以上に、或いは以前に、あらかじめ(誰のものでもない)知覚として与えられた世界の中に巻き込まれ、その不思議な「無人性」の中に巻き込まれ、その「無人の知覚」の結果として自らを与えられることになるのである。(p102)



われわれが孤独である時、我々は一人になるのではなく、誰でもないものとなり、誰でもないものの「知覚対象」へと広がり、そこにおいて雪崩れ、拡散し、誰であってもよい誰か、言い換えれば、無数の誰かであるような誰かとなるだろう。 「全ては風景の中にある」。(p102)




 「風景は見る」、誰でもよい誰か、誰でもない誰かそのものとしての風景が現存し、見る、知覚する……。 (p102)




「私たち」は「風景」であり、「風景」の知覚そのものであり、その無限にあり得る「知覚する風景」の内包の無限にあり得る結果としての同じものであるだろう。(p103)



ここで問題となっているのは「人間」的秩序と「自然」的秩序とが出会い、出会うことによって互いの秩序の緊密性を失い雪崩れる「中間地帯」なのである。(p103)




…すべてはおそらくあの造成居住区の午後に認められる。世界は「人間」を必要としていないという単純な事実が、さしあたり人間にしか与えられていない境界線の場所に現われ、その時逆に、その境界線=風景そのものが、あらゆる組織―秩序が綻び去り「混沌」である風景=知覚対象そのものが、「世界」を結果として要請し「人間」を要請することが認められる。(p117)



「人間は不在だ、そしてしかし、その時、すべては風景の中にある」。おそらくは「無人」の場所へと赴き、絶えず赴き続け、そこに滞留し続けることが肝要なのだ。造成居住区の午後、或いは列車の窓の外に一瞬現われる「無人」の場所、或いは「無人の部屋」……その広大に看過された場所に滞在し続けること。なぜならそれこどが長い間にわたって我々が怯えにおいて抑圧し、隠蔽し、汚辱の中に遺棄し続けてきたものたちの場所であるだろうからであり、或いは端的に唯物論的所与としての奇妙な処刑場であると同時に「生」の場所に他ならないからである。」(『哲学とは何か』)(p116)





ドゥルーズ―存在の喧騒 ドゥルーズ―存在の喧騒
アラン バディウ (1998/02)
河出書房新社

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ドゥルーズ―存在の喧騒
[原書名:DELEUZE〈Badiou, Alain〉 ]
ISBN:9784309242033 (4309242030)
163p 19cm(B6)
河出書房新社 (1998-02-25出版)

バディウ,アラン【著】〈Badiou,Alain〉・鈴木 創士【訳】
[B6 判] NDC分類:135.5 販売価:2,520(税込) (本体価:2,400)



とても遠くから!とても近くから!
どのドゥルーズなのか?
「存在」の一義性と名前の多数性
方法
潜在的なもの
時間と真理
永却回帰と偶然
外と襞
ある特異性




  存在論的遊牧  

ドゥルーズの最初期の盟友にして後輩、アラン・バディウは本書前半で、彼の哲学が実は存在論であったことを告げる。
ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」以来、西洋哲学のテーマとなってきた「一(I’Un)」――「多(le multiple)」の圏内において、ドゥルーズが提示したのは「存在論的ノマディズム」であったと規定する。
バディウのディスクールに依拠すると、スコトゥスの「存在の一義性」とは数的次元には還元不能な概念であり、実質的には存在論的同一を意味する。
「存在」の一義性と、諸存在の多義性という双方を孕んだ概念を、スコトゥスは提示したとする。
その上で、ハイデガー存在論は、あくまで「存在論的差異」に拘泥している点で、「存在論的定住」(ノモス)であると規定される。
他方で、ドゥルーズは、ハイデガー的な定住志向から解放する概念として、「リゾーム」「器官なき身体」「遊牧機械」といったコンセプトを提示したが、実はこれらは「存在論的遊牧」(ノマディズム)という一なる存在論的概念の多様な変奏だというわけである。
ドゥルーズにおいては、「存在の一義性」=「諸存在の多義性」に依拠して、いわば同じ一つの存在論が名前を変えて生産されているのである。
つまり、ドゥルーズの豊饒な概念は、ハイデガー哲学の根本的問いである「有への問い」へと収斂するとバディウは述べている。