レジス・ドゥブレのメディオロジー
 
メディオロジー宣言 (レジス・ドブレ著作選) メディオロジー宣言 (レジス・ドブレ著作選)
(1999/10)
レジス ドブレ西垣 通

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メディオロジー入門―「伝達作用」の諸相 (レジス・ドブレ著作選) メディオロジー入門―「伝達作用」の諸相 (レジス・ドブレ著作選)
(2000/03)
レジス ドブレ西垣 通

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レジス・ドブレ著作選 (3)  一般メディオロジー講義 レジス・ドブレ著作選 (3) 一般メディオロジー講義
(2001/03)
レジス・ドブレ西垣 通

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「 公式サイト Bienvenue sur le site de Régis Debray 





メディア圏について

レジス・ドブレの提唱している「メディオロジー」に注目している。
著作集は今後も読み進める予定だが、何故私が彼に関心を持ったのかを記しておく。
まず、ドブレには明瞭な「思想体系」がないからだ。
いわば、彼の思想は逃走線(ドゥルーズ&ガタリ)であり、完全な遊牧型の利便的ツールである。
更に、面白いことに、彼がカトリック教会について積極的に言及していることもあげられる。

ドブレのメディオロジーであるが、これは実はドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』で述べていたリゾーム論、或いはノマドロジーと「同じ」である。
ただ、問題意識がより鋭敏化されているので、ポスト・ドゥルーズ時代の思想家と規定できるだろう。

肝心のドブレの理論だが、解り易いように上にモデル図を作成しておいた。
A~Eは、「領土」を示している。
これらの領土を繋ぐ線が引かれていると思うのだが、これが「ネットワーク」である。
例えば、A=ユダヤ教とすれば、Bはポスト・ユダヤたるキリスト教、といった具合で代入する意味内容は「思想体系」を持っていれば何でも良い。
従来の学者ならば、この領土に自分の研究領域を見出して、この領土の「内部」を深化していくのだが、ドブレはむしろ「線」に着目する。
つまり、ある領土が、別の領土に影響を与えるに際して、どのように何が「伝達(トランスミッション)」されたのか、それを探る。

例えば、聖パウロはキリスト教を布教したが、彼は徒歩ないし航海でこれを伝達したわけだ。
伝達手段はパウロのパロール(発話)であり、原始的である。
フロイトの場合は、自身の学説を伝達するに際して、機関紙を発行したり協会を設立したり、講演会を開いたりと、やはり「伝達作用」に重要性を見出している。

ドブレが何をいいたいかというと、それはマルクスの『資本論』が20世紀を席巻したのは、それが「印刷」されたからである。
つまり、出版社のマーケティングがマルクスをマルクス足らしめたのだ。
例えば、グーテンベルクの印刷術が無ければ、ルターの宗教改革は存在しなかったといわれている。
ルターの本は「印刷」された――すなわち、ある思想がトランスミッションされる過程で重要な役割を果たすのは、上記のモデル図で示した「ネットワーク」のテクノロジー、つまり「メディウム(媒介項)」なのである。

ナザレのイエスの教えが2000年間も存続できたのは、聖パウロが熱心に情報を伝達したことに依存する。
つまり、情報が発信者から受信者に伝達される過程で、重要視されがちな「情報」よりも、ドブレはその伝達を可能にした「技術」にこそ目を向けるのだ。
彼に思想が無いのはそのためであり、いうなればあってはならないのである。
ドブレの視座は思想→思想の、この双方を繋ぐ「→」や「←」といったネットワークであり、交通網なのだ。

ちなみに、非常に面白いのが、「一神教」がこのネットワークそのものに存在する、という命題である。
一神教とは砂漠という気候・風土から生み出された宗教システムであり、「定住」型の生活体系からは生起しない。
モーゼの「出エジプト」も、この経路に位置する。
この経路そのものが彼らの脱出の道程である。
ドブレがネットワークの経路に一神教の起源を見出すのは極めてユニークで、鮮烈な発想であり、これは「面白さ」という点で(つまりキリスト教のメディオロジー的な分析)、かなり高いと感じている。



文字圏は宗教改革を引寄せた。
映像圏は、一つの聖なる使徒の教会を再び引寄せている。

    by  ドブレ



ドブレという現代フランスの戦闘的なメディア学者は、現代のメディア論の基礎コンセプトを、革命的なスローガンで短く表現するのが天才的に巧みである。
一番哄笑を誘うのは、「ハリウッドはビザンチンで生まれた」という彼のこの上なく重要で謎めいたテクストだ。

何故、ハリウッドがビザンチンで生まれたのだろうか?
ビザンチンは、「イコン(聖像)」の発祥地である。
他方、ハリウッドは、「ビジュアル」の発信基地である。
つまり、「視覚的信仰の再編成」という点で、双方は同じく「ビデオスフェール(映像圏)」なのだ。

ドブレは我々と同じく、キリスト教徒であるが、彼は「カトリック」の特質について、メディオロジックに以下のように規定している。

カトリック性とは、生まれながらのオーディオビジュアルである。



このブログのリンク先の先頭に存在する「カトリック中央協議会」というサイトは、ヴァチカンと直通している日本のカトリックサイトの総本山である。
Web化されたカトリックの領土性は、このように一人の些細な信徒のリンク先にも明確に現前している。
カトリックがフランスにおいて、メディアへあまりにも露出し過ぎていると批判されたことがあったらしい。
ドブレはその事実に着目している。
そもそも、カトリックそれ自身が、メディアだったのではないか?と。

彼の論理は単純明快だ。
それは以下のようなテクストが散見されることからしても明らかである。

カトリックの聖人には、神的な部分が全く無い。
それは聖霊の模範的なメディウムなのである。



メディウムとは何かについては、既に前回に少し紹介したが、改めてまとめておこう。
メディウムとは、ある領土と領土を繋ぐ逃走線、媒介項、橋渡しのことである。
例えば、

「甘い香水の香り」→「女性が傍にいるだろう」

上記の簡易化されたテクスト・モデルにおいて、「香り」とは情報を意味している。
「女性が傍にいるだろう」とは、パースの名高い記号学的な三項関係で表現すれば、「解釈項」であり、これは心的要素に依存する。
ともあれ、ある一人の人物Aが、そのように解釈したと仮定する。
この時、メディオロジー的に何が起きているかというと、それは発信者の「不在」という出来事である。
「甘い香水の香り」という情報が、彼に到達するためには、情報の発信者が何らかの形式で存在しなければならない。
この場合、それを「明かしえぬ女性」と呼称しよう。
さて、我々が彼女を、「ウォーリーを探せ!」のように、雑踏の中から見つけ出す必要性があるであろうか?
ドブレは、そこにいたはずの「明かしえぬ女性」を意図的に捨象して、「香り」すなわち情報に着目する。
この時、

(明かしえぬ女性)→「甘い香水の香り」→「女性が傍らにいるだろう」

という先のプロセスにおいて、「香り」とは媒介項、すなわち「メディウム」に他ならない。

ドブレが着目するのは「メディウム」のみである。
つまり、ある情報が流通する上でのその経路/ネットワークにのみ視座を設置する。
そして、彼は「メディウムはやがて消滅する」と断言するのだが、これは批判せねばならない。
何故、メディウムが消えるのであろうか?
各々の人間の心の中では、たとえ「明かしえぬ女性」が見えなくとも、「香り」はあったと意識されている。
その場合、「香り」があるのであり、「女性」が存在するのではない。
もしかすると、化粧品店の事故で、香水ケースが破砕して内部の液体が溢れ出たのかもしれない。
すなわち、「解釈項」によって、情報の発信者は「変容」するのである。

ドブレが「メディウムは消去していく」ことを暗示させているが、これは事実としては誤解を招く。
何故なら、ある作家が本以外の場所で発言した内容を、我々は彼がそれを「本で述べていた情報」とは解釈できないからである。
もし仮に、メディウムが消滅するのであれば、彼がどこで何をいったか、つまりどのメディアに依存して発言していたのか、そのメディアの媒体が全て( )に入れられることになる。
これは、情報元の非公開であって、半ば悪質で問題的である。

例えば、かなり厳格な文体で哲学書を執筆していたフッサールが、路上でぶつかってきた少年に対して、「こら!もっと前を向いて歩け!」と叱咤したとせよ。
あの時代に携帯電話の録画機能は存在しないが、仮に同じような出来事が現代に生起した場合、それは、「本」と「本以外」の場所での同一人物の発信した情報から、情報元の媒体を棄却するということを意味する。
すなわち、ウィキペディアなどで彼の履歴が編集される場合、彼が発信した情報として、厳格な文章の隣に、「こら!」などと、突然映像記録ないし、会話文が侵入することは常に可能なのである。
情報元の非公開が招く危険性を、ドブレは視野に入れていたであろうか?
仮に入れていたのなら、何故「メディウムは姿を隠す」と述べることが可能なのか?

メディウムのみに着目することは、本質を見失うだろう。
例えば、ドブレは更に平然と以下のようなテクストを、おそらく知的な微笑を浮かべながら書いていた。

宗教改革も、グーテンベルクの印刷術が存在しなければ革命にはなっていなかった。



そこで、彼はグーテンベルクこそがルターの先駆者だ、などと断言するのだ。
だが、これも何かがおかしいし、社会学的なバックボーンが完全に捨象されてしまっている。
あの当時の社会が、宗教改革を希求していたのであって、活版印刷はたんにその上でのイデオロギー流布に貢献しただけに過ぎない。
しかし、ドブレはあくまで「思想は流通システムに依存する」と述べている。
これは、思想という意味の領土性ではなく、その流通を可能にするメディアに着目する視座であり、だからこそメディオロジーなのだが、私は何かが欠損しているような気がしてならない。
非常に不安定であり、マクロな視点でメディア全体を眺められるような理論とは到底いえないのではないか。

また、ドブレが以下のような神秘的で、文学的にしか解釈できないような発言を残していることも学問的には批判されるべきかもしれない。

環境に智恵があるように、媒体にも精神が宿る。

人間は自分が作る道具/技術によって、作られる。



ドブレにとっては、homo ex machina(機械より出づる人)は、machina ex homine(人より出づる機械)と、等式で結ばれているのである。
このメディオロジー的等式は、SF的だ、と批判されかねない。
だが、21世紀のメディア論が、このようなことを平然といって実際に学界で評価されている以上、我々はこれをSFとは、最早みなせないのである。
SF嫌いの読者には少々申し訳ないが、やがて人間が機械から生まれるという事態を、今日のメディア論は可能的であるとして予測している。

書物がオンライン世界図書館のようなエリアで、デジタル化される場合、それは「めくる本」ではなく、「みる本」である以上、画像と同一である。
それをドブレが見事に以下のように表現している。

書籍という建造物は、TV画面の液晶と共に液状化してしまったのだ。



書籍の画像化を、Webの海を浮遊するという意味で「液状化」と表現したドブレは優れて詩的である。
或いは、我々のこのコピーペースト的な思考そのものが、既に「ゲル化」しているのかもしれない。
いずれにせよ、Webのイメージはサラサラした海というよりも、現代は未だ「ゲル」に近い気がする。
もっと社会にWebという機能が、それこそ「脳の延長」のように浸透しなければ、純粋な海には達しないであろう。