マルケス 『わが悲しき娼婦たちの思い出』
わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004)) わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004))
(2006/09/28)
ガブリエル・ガルシア=マルケス

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『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読み終わった。
これも『愛その他の悪霊について』と同じく中篇で、ストーリーも回想が入るものの基本的には直線的に進むので読み易い。

私はこれを読んでいる間、実に様々なことを感じた。
その一つ一つを全てここで書くことはできないが、文体は上質で格調高かった。
遊郭にブラームスのメロディーが流れる描写があるが、この作品の雰囲気をうまく表現している場面だろう。

特にキャラクターとして魅力的だったのはローサ・カバルカスという名の遊郭の女主人である。
彼女は七〇歳くらいの老婆だが、主人公である九〇歳のベテラン記者と昔馴染みの仲で、計算高く狡賢いが情に厚いというギャップを持っている。

主人公の男は五〇代までに五一四人の女を抱くほどの女好きだが、非常にセンチメンタルで嫉妬深く、またその老婆と同じように涙脆い。
この作品で彼は二種類の涙を流している。
一つ目は、九〇歳の誕生日の贈り物である、デルガディーナこと、本作のヒロインである一四歳の少女に対する熱烈かつ一方的な片想いによる涙。
二つ目は、もうすぐ死期を迎えることを察知し、まるで見慣れた世界の一つ一つの光景が崩壊を来たしていくかのように感じられる焦燥、不安、戦慄による涙。
本書はこの二つの涙、すなわち、愛と官能の涙と、死と苦悩の涙から成立している、やはり「一つの愛の形式」を描いた物語である。
残念ながら、デルガディーナは主人公を愛してなどいない。
彼女にとっては一人の上客なのである。
しかし、主人公には妻も子もいないがゆえに、彼女を孫のように、あるいは失った本物の純愛を取り戻せる最後の希望の光のように象徴化していく。

主人公は、彼女を(デルガディーナという名前は源氏名に過ぎないが)理想化し、その幼い女神の眼差しを「眠っている姿」に見出すが、起きている時にはただ、下町で暮らす貧しい少女の姿があるのみで、ここには理想と現実の明白な壁が聳えている。
壁は他にもある。
例えば、主人公は「年は取るものではなく、感じるものである」という信念を持ち、肉体は老いても魂は瑞々しくあるままだと考え、生きているが、実際の彼はやはり第三者がどれほど御世辞をいようが、ただの「老いぼれ」に過ぎないのだ。

彼が何故、「妻」という一人の女性ではなく、「娼婦」という不特定多数の女性と婚姻したのか、その決定的な要因となるエピソードがラストで語られるが、これは見落としてしまいかねないほど短く語られるので注意が必要だ。
彼は一二歳の時、父の仕事の関係で遊郭を階下に持つ建物に来てしまったのだが、そこで偶然一人の男勝りな娼婦に犯されてしまうのだ。
彼女は片目の娼婦で、その遊郭での女王であり、名をカストリーナといったらしい。
死期を悟る今、彼はカストリーナの姿を探しているかのようだ。
私が思うに、彼が「娼婦」たちに自分の運命の拠り所を感じるようになった最大の来歴は、このカストリーナである。

彼には結婚寸前まで仲を深めていたヒメーナ・オルティスという女性がいた。
しかし、その前夜に彼はやはり遊郭のような場所のパーティーで、娼婦たちと「婚約」するという擬似的な悪戯をしてしまう。
これは要するに、最初から本気でオルティスと結ばれるつもりがなかったということを示す事件であるが、面白いことに、彼は自分の内面を、自分がしでかした行為によって後から意味付けるのである。
行為が内面の具現化であるとみるならば、彼は最初から独身を貫くつもりだったのだろう。
すなわち、彼は結婚を忌避したのであり、老年の孤独を承知で、自ら一夜限りの愛欲の世界に突き進んだのだ。
それを今になって悲嘆する老人の姿は人間的、あまりに人間的に哀愁を誘うほどである。

デルガディーナという少女に対する一方的な主人公の愛には、このような来歴があるわけである。
そして、私はデルガディーナの着飾った姿(作中でそれをマルケスは、まるで売春婦のようだ! と表現しているが)を見て嫉妬による狂乱を起こす主人公を見て、どことなく、「娼婦」に恋を寄せる世の男たちの苦悩を感じ取った。
例えば、自分の馴染みになった娼婦が、違う時間帯に行くと、別の客の前で自分の時よりも良い衣装をまとった仕事をしているのである。
こういう実にありふれた光景に対し、我々男性は「所詮、一夜の相手に過ぎない」と割り切ることもできようが、もし彼女が我々の真実の愛の対象であるとすれば、おそらくマルケスが描いたような狂乱を起こすのではないだろうか。
彼は主人公の姿を借りて、その部屋にある置物全てを破壊した。

私が興味を寄せるのは、娼婦側の恋愛観である。
馴染みの娼婦(今は既に美しい老い方をした老婦人になっているが)は、客である平凡な男と結婚する。
引退である。
美貌を備えた娼婦は、やはり接客するその客の中から自分の精神的な支えとなる人物を欲するのである。
私はここに、何故か奇妙な憤慨を覚えるのだ。
娼婦の仕事を、「ただの仕事」と割り切って、オンとオフを巧く区別化している女性であれば、そしてプライベートで会う男性は別にいるのだとすれば私は半ば安心する。
だが、もしも娼婦が客に恋人を見出そうとしているとすれば、そこには擬似恋愛的な様々なドラマが生まれてしまうことになる。
仕事ではないのだ。
それは最早、数知れない愛の饗宴である。

こうした娼婦の情を知る男の一人でもある主人公は、しかし睦まじい夫婦関係を築くこともなかった。
だが、これは現実的にいって、遊郭に通う男性が、自分のアピールを受け入れてくれるようになる娼婦を求めているということでもある。
いうまでもないが、このような感覚が働いていることを私は読んでいて感じたのだ。

だが、ここで私は個人的な体験として一つだけ書いておくことができるだろう。
これは私の独断によるので、あっさり聞き流しても良いだろう。
私は風俗雑誌をこれまで二年間、客に売ることを仕事の一貫としてこなしてきたが、その中でどの男性客を捕まえても、正直にいって、外見的に見劣りのする貧相な肉体労働者系の男性が圧倒的多数を極めていた。
本書の主人公は、自ら己を醜いと表現している小男である。

もしも煌びやかな格好で、自ら「私は夜を羽ばたく蝶である」と心の中で宣言しているような女性がいたとして、私には彼女の客の顔がイメージされてしまうのである。
はっきりいうが、遊郭に通う男性の圧倒的多数は、現実的な視点からいうと、ぱっとしない、さえない貧相な男たちである。
無論、娼婦は仕事上、彼らに対して好意を寄せるが、それを「愛の絆」と錯覚するような体制そのものに、私は「虚無」を抱くのだ。
主人公にも、このような偽善的とも取れる愛の寄せ方が見て取れる。

この作品は美しい文章で翻訳されているが、今の日本に置き換えると、いっきに幻滅してしまう物語である。
やはり私には、男性も女性も自分に「自信」を持ち、その「自信」に惹かれ合うというような恋愛のスタイルが合っていると思われる。
だから、これは作品としては素晴らしいが、私の人生訓に与えるものは、懸念材料でしかなりえないだろう。