ハイデッガーの存在論と、ドゥルーズの差異論についての考察が飛躍的に深まったので、ここでその成果をまとめておきたい。
今回、私はピーター・ホルワードの革新的なドゥルーズ論、『ドゥルーズと創造の哲学』を読んだ。
これは、カトリックとしてこれまでキリスト教神学における「創造」論に対して、関心を寄せてきた私にとって、文字通り「革命的」な本だった。
そして、現在も私はこれを読んでいる、読まねばならない。
本書の著者は、ドゥルーズを「存在論」的な見地から描出しているが、その系譜として、スピノザ、ベルクソン以外に、ジョン・スコトゥス・エリウゲナをあげている。
これに私は新鮮な悦びを抱いた。
ドゥルーズと神学――これほど魅惑的なテーマがあるだろうか?
これから私は、ホルワードのドゥルーズ論の圧倒的な革新性と跳躍力を受けて、新しい「存在論」についてのイデーンの原案を書いておきたいと思う。
以下が、それである。
まず、「差異」とは何か?
「差異」は、例えば、林檎と梨の違いである。
これは目に見えるので極めて判り易い。
遠くから、かなり離れて見ると、もしかすると同じ果物に見えるかもしれない。
けれど、林檎と梨には「差異」がある。
こういう基本的な思考のスタート地点を設定しておこう。
「差異」というのは、ある物と、ある物があって、初めて成立する。
いうなれば、この場合の差異は、対象間の視覚的映像に依存している。
しかし、「差異」それ自体は見えていない。
この「自体」性こそ、私が西洋の哲学らしさを感じるところのものであると同時に、大いなるプラトニズムの呪縛でもある。
ドゥルーズは、「差異」そのもの、「純粋差異」とは何かを考察のテーマにした。
物と、物には差異がある。
こうした差異が生まれる前を、どんどん遡行していけば、究極的には物が無い起源の状態、無にまで遡れる。
「差異」が生まれる源には、この無がある。
世界が今のように多様的に存在している以上、我々は確かに「差異」の様々なモデルを見出せる。
サンクスとサークルKの差異。
私と貴方の差異。
バイクと車の差異。
クローン羊と、元の羊の差異。
このように、世界は「差異」の爆発的な加速性として、連続している。
世界の展開というのは、「差異」の連続性である。
しかし、始原に遡行すれば、いわば原子と原子の差異が生み出される物理学的なレヴェルにまで戻っていく。
そして、まだ「時間」と「空間」が展開されていない、宇宙の起源においては、ただ「差異化」をもたらすエネルギーだけがマグマのように渦巻いていただけで、対象は存在していない。
始原は、このように、「差異」ではなく、「同一性」なのだ。
すなわち、「差異」というのは、結局、「一性」の展開なのである。
一性、すなわち、世界の始原は、差異化をもたらす無限の力を潜在している。
この時の、究極的な「差異ゼロ」の状態=「爆発的な差異化のエネルギーを秘めた無」の状態は、キリスト教神学における創造論の「神」そのもの、に等しい。
この「純粋差異」とは、神学的には「神」である。
すなわち、「神」とは、「差異化」であり、そのための「エネルギーそのもの」(ドゥルーズはこれを「強度」と呼ぶ)である。
神は、自己を展開していくプロセスとして、自身を無限に差異化していく。
ホルワードは、ここに「創造論」を結び付けて考えている。
神は、世界を創造した、と認識するのが神学である。
創造論の前提として、神は創造主である。
しかし、神は「差異化」そのものなのだから、この場合、神の創造とは、差異化を意味する。
聖トマス・アクィナスは、神の属性として、「存在」をあげている。
この「存在」それ自体は、神である。
つまり、「存在」とは、結局、「差異化」であり、「創造」なのである。
もう一度、まとめながらホルワードのドゥルーズ「創造論」を要約すると、以下のようになる。
すなわち、神は、世界を創造したが、それは神という存在そのものにおける、差異化である。
存在の差異化の果てしない流れこそが、神であり、この次元において、つまり神においては、神の「一性」も、「多性」も、同一なのである。
この思考、すなわち、「多元論」と「一元論」は、本質的に同一であるという考えは、ボルヘスの神秘主義と通低している。
また、これはドゥルーズのスピノザ理解と一致する、とホルワードは述べている。
元々、ドゥルーズを文化的な境界線の「横断的思考」としてのみ解釈するような、ポスト・モダン思想家たちの戦略に対して、私はどこか物足りなさを感じていた。
そして、ドゥルーズの直弟子であるアラン・バティウのドゥルーズ論を読んで、ドゥルーズの「処女作」が、ハイデガーの「処女作」と、同じ人物をテーマに選択しているという事実を知った。
そう、「存在の一義性」の思想で知られる、神学者ドゥンス・スコトゥスである。
ドゥルーズをハイデッガーの存在論から解釈してみる、という試みの重要性は、近年においていっそう高まっていると思われる。
ドゥルーズは、「遊牧機械」や、「リゾーム」、「逃走線」などといった、はっきりとイメージ可能なコンセプトを駆使して思考したが、これらは、全てスコトゥスの「一義性」の裏をかく、「存在の多義性」の展開であったと解釈することができるだろう。
そうなると、ハイデッガーの「存在論」は、その内実を展開すれば、ドゥルーズの「遊牧論」になる、ということであり、これは同じ一枚のコインの、表と裏に他ならない。
全ての秘密は、スコトゥスにこそある。
彼の「存在の一義性」を、創造論的に考えると、これは宇宙の始原の無であり、これこそが「一性」=「一義性」に他ならないが、「差異化」による世界の展開は、神の「多義性」である。
流れをまとめると、以下になる。
純粋差異(存在の多様化を秘めたエネルギー)=神そのもの=一義性
↓
差異化(存在の多様化、神の創造)=神そのもの=多義性
つまり、ハイデッガーが、「存在」に死ぬまでこだわったその執着心を、ドゥルーズが全て開闢し、バラまいた、という表現がここで通用する。
しかし、二人は同じ神の別の側面を語っているのである。
それが、「一義性」と「多義性」である。
そして、神において、この二つは同一なのである。
ただ、「一義性」は、物理的には宇宙の開闢のその瞬間ということである。
我々の世界は、それが中世であれ、今であれ、人間のいない白亜紀であれ、原始の海の時代であれ、全て、「存在の多義性」の時代である。
このように、神においては、「一義性」とは、「多義性」の収斂するポイントであり、「多義性」とは、「一義性」に帰属される概念なのである。
世界とは、こうして考えると、神の差異化である。
神=存在=創造の力は、自己を展開する過程で、その必然に従って必ず差異化する。
神の創造とは、差異化であり、よって、存在とは、差異化なのである。
そして、時間というのは、差異化の連続性、すなわち、差異の反復なのである。